⑥たとえば、評価と見直し 1
「お帰りなさいませ、お嬢様! ところで、エディが優勝したってのは本当なんですかね? あちこちで噂になっておりますけど」
「……うん? ええ、エディは勇敢に闘ったわ」
帰り道の馬車の中で寝ていたトリーは、出迎えた使用人達に半ば寝ぼけつつも結果を口にした。早く休ませるべき、とアリスは留守番組に目配せしつつ寝室へ誘導した。うるさくない程度に階下で彼らが歓声を上げているのが聞こえて来る。
「終わってみればあっと言う間だったね、アリス。……楽しかったなあ」
「ええ、今日は良い日になりましたね」
湯浴みは明日がいい、との了解を得て着替えだけ済ませ、横になった彼女の髪を簡単にまとめた。嬉しそうな顔で寝付いた主人を確認して玄関ホールへ戻ると、昼間に顔を合わせたレスターの護衛達が数人、ちょうど屋敷へ戻って来たところだった。しかしその中にエディや主人の姿はない。アリスは、彼らの話に耳を澄ませた。
「レスター様は?」
「閣下が神殿と王城の奥まで入れる貴重な機会を逃すはずがないだろう? そこで式典の続きがあるみたいで、喜んでエディの付き添いに行ったよ。明日の夜の晩餐会だか会食だかが終わって、……戻るのは明後日になるかもしれん」
流石に護衛全員を引き連れる許可は下りなかったようで、ちょうど半分は帰還と待機命令が出されたらしい。可能なら昼前くらいで交代してくるよ、と相談する声が聞こえて来る。そういった経緯で、屋敷の中はそわそわと落ち着かない空気のまま、主人と従僕の帰りを待ち侘びる事になった。
実際に観戦したアリスとカークは、食事時を中心にあれこれと他の使用人達から質問攻めにあった。しかし、カークの方はそんなのは本人に聞けとばかりに食事を終えると早々にどこかへ雲隠れしてしまった。付き合い悪いぞ、と茶化す声も意に介さず、さっさと行ってしまう。最近何やら悩んでいるらしい、と誰かがとりなす声がした。
仕方がないのでアリスが、彼の腕は確かで護衛としてレスターに重用されるのも頷ける結果だった、ととりあえずは好意的に説明しておく。もちろん、仮面とマントを身につけて登場するくだりは好評で、何度も同じ話をせがまれる事となった。
外へ出る用事のある使用人は出先で色々と問い質されるようで、苦笑いしながら肩を竦めた。子供の頃から世話になっている、使用人の中では最年長の御者のロバートがよろよろしながら、食堂で夕食をとっていたアリスの向かいに腰かけた。
「俺に聞かれても困るんだよな……。気さくな従僕の一人だとしか答えられん。アリス、あちこちで綺麗な姉ちゃんが張り切っているからな、気をつけろよ」
「おじいちゃんお疲れ様。羽目を外し過ぎないように、レスター様がちゃんと見張ってるって」
さすがに主人が真横にいるのだから、エディも仕事中と同じように振る舞うのは当たり前だろう。ロバートはあんなに小さかったエディがなあ、としんみりしている涙もろいご老体とやり取りしつつ、なかなか帰って来ない同期に思いを馳せた。今頃は王城で晩餐会とやらが開かれているはずだ。着飾った貴人、貴婦人たちに囲まれても、あの闘技場での活躍を見る限り、エディは堂々としているに違いない。
一緒に食事に行く事になっている件も脳裏をよぎったが、この騒ぎで忘れ去られる可能性もあるので、胸の内にとりあえずしまっておくことにした。
「旦那様のご帰還だ。みんな、とりあえず仕事は置いておいて集まってくれ。何やらおっしゃりたい事があるらしい」
主人一行が屋敷に戻って来たのはあくる日の朝で、ちょうど食事を終えた使用人達はそれぞれの持ち場へ向かった後だったが、年齢も役割も分け隔てなく全員が玄関ホールに呼び出された。今日はトリーの世話は他の侍女が担当している。力仕事の洗濯場へ助っ人に入る事にしたアリスも、他の女性達と共に始めたばかりの仕事を一時中断した。
「……さて、今回の式典での、エディの活躍は私から述べるまでもないことだろう。まだ聞き足りないという者は本人から直接尋ねるといい。なかなか面白い見世物だった」
従者達と共に帰還し、屋敷中の使用人を残らず呼び出したレスターは、エディにねぎらいの言葉を淡々と述べた。当の主役はいくつもの称賛や好奇の視線を浴び、やや居心地の悪そうな困った顔で視線を泳がせている。
「さて、この屋敷の主人が、他所に比べて口うるさい事は自覚しているが、諸君ら使用人の真面目な仕事ぶりには常に感謝している。というわけで、私が顔を把握している者達については、……今月の給金をお楽しみに。使用人のエディが頑張ったご褒美として」
まさかエディ以外までお褒めの言葉をもらえるとは思っておらず、誰もが目を丸くして嬉しそうに主人の言葉に耳を傾けた。そして最後の、極めて珍しい笑みと共に付け足された文言には、誰もが驚きと共に目を瞠る。話は以上でお終い、とレスターはその場を後にした。
「……なんか、もらっちゃっていいんですかね? そりゃあもちろん、仕事は日頃よりまじめに取り組んでいるのは事実ですけど」
「……まあ、農民漁師だって豊作豊漁の年はあるし、たまにはいいんじゃないか。よし、とりあえずエディ、万歳!」
残された使用人達は年長者の理屈に各自納得したらしい。せっかく主人が上機嫌なのだから、もらえるものはもらっておくべきである。それからエディにお祝いの言葉を送るとともに、背中をばしばしと叩いて手荒い祝福を始めた。アリスは他の女性使用人達と喜びを分かち合いつつ、頃合いを見計らって持ち場へと戻った。
「よしアリス、今日はよろしくね! 頼りにしてるよ」
「はい、お任せください!」
仕事が再開され、アリスは洗いあがった物を片端から籠へ放り込んで外へ出る。よく晴れた空模様の下、干すためのロープを引っ張って来て準備していると出入り口が開いた。
「大丈夫? 届く? トリー様の当番じゃないなら休めばいいのに」
「……みんなで頑張って早く終わらせた方が何事も平和じゃない。そういうのって大切でしょ」
大変だね、と少しばかり疲れて眠そうなエディがやってきて、アリスが手を伸ばすより先にロープを取って、いとも簡単に張り巡らせる。こういう時は、単純に背の高さがうらやましい。
それにしてもあれだけの仕事をやり終えて、アリスとしては何だかいつも以上に気後れしてしまうのに、エディはいつも通りの優しい男である。
「それでその、……おかえり。何かすごかったね、上手く言えないんだけど。王宮は楽しかった?」
「ご飯が美味しかったよ。料理長に自慢してやろうと思ってさ。で、ご飯食べに行く話、さっき店主さんに連絡とれたから、今日の夕方ね」
「……休まなくて平気なの?」
「三日くらいお休みもらえたんだ。しばらくゆっくりするさ」
エディは他の女性達が応援に来る前にささっと姿を消した。今日は助っ人がいると誰かが吹聴したようで、普段は洗わない物まで集めているらしい。次々と衣類が持ち込まれ、洗濯場と外を何往復もしなければならなかった。
少々疲れて、干してあるシーツの間に隠れて足を止めていると、ふと名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。視線の先ではトリーが部屋から顔を出して手を振っていて、青い空と相まって一枚の絵のような光景である。一礼して仕事を頑張っているアピールをしつつ、アリスは結局夕方まで走り回っていた。
夕方になってようやく洗濯から解放されたアリスはエディとの約束通り、一着しかない外出用のお洒落な服に着替えて、出入り口にやって来た。日が長くなってきているので、太陽は街の向こうへ姿を消しても、まだ十分明るかった。
いつもは侍女服と寝間着を交互に着る生活を送っている。仕事の際の背筋が自然と伸びるような感覚も悪くないが、自分の好きな色の服を選ぶのも純粋に楽しい気分になる。領地から持って来た鞄に、念のために入れておいたのはラベンダー色を淡くしたようなワンピースで、襟ぐりの形もきれいで気に入っていた。庶民らしく、丈はふくらはぎまでである。髪飾りも出して鏡の前で念入りに確認した。これで、一日中走り回っていた女だとは思うまい。
「お待たせ」
「お疲れ様。大変だったみたいだね」
アリスとは対照的にどうやら一日ゆっくり過ごしたらしい、こざっぱりとした格好のエディと共に、使用人用の出入り口から通りへ出た。どっちへ行くの、と聞くと答えの代わりに腕が差し出された。ぽかんとしていると、外へ行くんだからと諭すような言い方である。
「……腕を組んで?」
「女性を食事に誘ったので、一応はエスコートさせていただきたいんですが。カークさんだってトリー様にやっているじゃん」
「まあ、確かに……。いやでもあれは」
「そう固い事を言わずに」
あの人達はちゃんとした階級だから、という明確な線引きがあるが結局言い包められて、エディによって自然と腕を組んだまま歩く羽目になった。この振る舞いは、こちらを動揺させる作戦に違いないと解釈して、何でもない風を装う事にした。
最初は明らかにぎこちない足取りだったが、通りを幾つか過ぎれば慣れて来る。
大きな橋の架かった川までやってくると、路上で楽器を演奏している一団などがいて賑やかになって来た。彼らは足元に逆さにした帽子を置いてチップを集めているらしい。夕暮れに向かって、テンポの速い曲を高らかに演奏した。太鼓が編成に入っているので、随分と賑やかである。
別の場所では剣の模擬試合をやっているらしく、二人組の男性が練習剣と思われるものを手に向かい合っている。そのうちの一人が目元を隠す仮面を身に着けていた。アリスは思わず、横のエディの顔を窺ったが、彼は渋い表情を浮かべている。
「……一躍、有名人じゃあありませんか」
「……その話は後にしよう」
たまにはからかってやろうかと思いつつも、しかしこの人通りの中で彼が本当に先日の仮面の騎士だと判明すると面倒な事態になりかねないので、二人は何食わぬ顔で通り過ぎた。
「手品師は近くにいないのかな」
「たまに見るけど、今日はいなさそうだね。こういうのは曜日で決まっているらしいよ」
路上で見世物をするタイプの奇術師は、大抵が怪しげな恰好とテーブルと椅子を設置し、道行く人が足を止めるのを待っている。エディによると、この近辺で見世物出し物を行う管理組合がちゃんといるらしく、事前に届け出と審査が必要なのだそうだ。
間が空いてしまうと妙な空気がアリスの中に漂うので、目についた建物を指さしてはエディに聞いてみた。時計塔、軍の関連施設、どこぞの資産家の持ち物、と返答が寄越される。レスターと共に王都で過ごす事も多いため、街並みに詳しいようだ。
「この間の試合会場も、なんだか昔からあるみたいに馴染んでいるね」
「……確かに。造り始めたのが結構前だからかな」
遠くのあの花かごのような建物も、夕焼けの街並みに溶け込んで建っている。人通りの多い場所へと向かっていくが、エディがあの仮面の剣士だったと見破る人は幸いな事に最後まで出くわさなかった。
それを自分だけが知っている、というのは大事なものを独り占めしているという妙な高揚感がある。だから、剣で戦っているところは格好良かったと素直に伝えられたら良いのに、とアリスは思った。