⑤たとえば、剣と祈り
「……それにしてもすごい人」
翌日、トリーに付き添って式典の会場にやって来たアリスは、思わずそう呟いた。楕円形の舞台を挟んで反対側の席にいる人々などは遠すぎて顔立ちなどは判別できず、指先ほどの小さな無数の点が蠢いているようだった。会場は天井部分の無い開放的な造りのため、雲一つない晴天が広がっているのがよく見える。
事前の説明によると、観客席は場所によって区分けがされているらしい。トリーには上流階級向けの特別区画の隅に席が用意されていた。荷物など置くためか、ありがたい事に三人で四つ確保されている。この辺りは座る人の量が適度に調整されているようだ。馬車のルートも、停める場所も細かく指定されていたので、今のところは混雑に巻き込まれずに過ごせている。
アリスは厨房から預かった、主人と付き添い二人分のバスケットを隣の席に乗せ、自分の座席に腰を下ろした。トリーを挟んで反対側に腰を下ろしたのは、レスターがエスコート役に寄越したカークである。
「ねえ、もし試合で優勝したら、国王陛下からお褒めのお言葉と、お金や土地に爵位までもらえるって、本当の話なのかしら?」
「……そんな大層なものがこの程度でもらえたら、誰も苦労はしておりません。話が少々、大きくなってしまっているんですよ」
貴族の子弟といえど、爵位や財産を継ぐ事ができるのは長子のみと決められている。そのため次男以下は将来のため早いうちに養子や軍に入隊するか、良い結婚相手を探すのに奔走しなければならない。もしくは紹介先された先で使用人として仕え、後ろ盾を得て独立をする場合が多い。
「なんだ、そうなの」
受付で配布されていた分厚い冊子を広げながら、トリーがカークに話を振っている。昔と変わらず真面目な厳しい方だが、トリーはよく懐いていた。
アリスは日傘をそんなトリーに差しながら、あちこちで人々が社交に励んでいるのを見学した。いずれは主人も、このような場に出るようになるだろう。同年代や少し上くらいの少女達が初々しい雰囲気で佇んでいる。手元にはない色合いのドレスや帽子の飾りなど、今後の参考になりそうな情報を集める事にした。
「あ、お兄様が来た」
ご令嬢達の服装の他に、彼らが引き連れている護衛や使用人達の振る舞いも一緒に観察していると、入り口から見知った貴族青年が顔を覗かせた。隣でもトリーが小さく反応した。
見るからに怜悧な貴公子然としたレスターは、特別席の隅の方に固まっている、自分の妹と二人の世話係を見つけてまとめて軽く手を振った。仕事優先、と命じられているアリスはカークと一緒に気おくれしつつも、立って黙礼のみを返す。続いてやって来たレスターの従僕達も、本家のお嬢様一行に簡単な挨拶をして主人に続いた。
国内屈指の大貴族の若き当主の登場に周囲は騒がしくなり、我先にとレスターに挨拶をしに集まって行った。侯爵はあの佇まいとは裏腹に、人付き合い自体は全く苦痛でないタイプである。遠出も好きで、従僕達を引き連れてよく出歩いている。
「お兄様はご友人が多くて大変ね」
「トリー様ももう少ししたら、あのように外出されるんですよ」
とにかく楽しい一日にしなければ、とアリスはトリーを将来のための情報収集に誘った。主人も今のところは体調に問題はなさそうで、あれは可愛い、などと気に入ったドレスを幾つか挙げてくる。それを心の中に書き留めておいて、次の仕立屋が来るタイミングで相談する事になった。
その後、式典は定刻通りに進行した。黙祷や国王陛下や偉い方々のありがたいお話を拝聴する。それが終わればいよいよ、エディの出番が近づいて来た。
「エディ君、よりによって一番最初ですって。お兄様に頼んで、試合順を動かしてもらえなかったのかしら? なんだか私までお腹痛くなってきちゃった」
主人のお腹の具合の申告に二人の付き添いはつい動きが止まったものの、言い方からしてどうやら冗談の範疇らしい。アリスからバスケットをもらって、のんきにお菓子の品定めを始めた。
「……あいつの考えている事はよくわからないので。相手は優勝候補筆頭ですよ、軍幹部の甥だか何かで」
しかし、カークの言い方では、まるでわざわざ一番最初にしてもらったかのようにも聞こえる。そんな会話をしているうちにも、最初の試合が始まろうとしていた。わっと上がった歓声と共に、試合相手の優勝候補が自信満々と言った様子で姿を現した。それにやや遅れたエディの登場に、見物していた三人は顔を見合わせる羽目になった。
一体何を考えているのか、貴族の秘密の舞踏会で使われていそうな目を隠す赤い仮面と、マントをはためかせての堂々とした出で立ちである。
「……どうしてエディ君はあんな面白い恰好なの」
「さあ……? なんにせよ、陛下の目の前でよくやるものですよ」
「……」
一瞬替え玉を疑ったが、残念ながら少々奇抜な恰好をしようとも、髪の色や体格からして間違いなくエディである。対戦相手や観客達は完全に面食らって、何とも言えない空気が会場に漂っている。本人はその妙な空気の歓迎を気にした様子もなくしっかりとした足取りだ。緊張や恥ずかしい等の文字は彼には存在していないのかもしれない。
アリスだけは、あの格好がおそらく、今も興行の度に足を運ぶあのサーカスの手品師を真似た物である事を一応推測できた。大会の規定は服装に関して特に触れていないので、子供の頃に同じ人を見て感動した身としては、納得のいく出で立ちではある。
ただ五万人も観ている人がいるのに、アリスにしかわからない話を持ち出してどうするのだ、とは思ったが。
少し離れた席にいるレスターに、アリスは目をやった。主人は主人で、春の暖かな日差しがあまり似合わない、いつも通りの表情を崩さなかった。周りの上流階級の人々からの、一体あれは何なのだという表情や目線も気にかけず、静かに舞台へ視線を送っている。そんな悠然とした様子とは対照的に、アリスはどうか幼馴染が大きい怪我をしないで試合を終わらせるのを願うしかない。エディや同僚の女使用人達に手品を見せるのですら、アリスは実際にやる前にとても緊張している。日傘の柄を持っているだけの手のひらが汗で滑ってしまいそうである。
当の同期はマントも目元の仮面もそのまま。右手のやや細身の剣だけでなく、左手にも逆手に短剣を構えた。その恰好のまま大勢の観客を前に、剣を構えて開始の旗が上がるのを待つエディは、レスターと同じくらい落ち着き払っているように見えた。
「……はじめ!」
開始と同時の一撃を、エディは後ろに下がってやり過ごす。優勝候補と目されるだけの激しい攻撃に防戦一方かと思われたが二撃、三撃目をいなしてエディが反撃に転じた。短剣を盾代わりに間合いを詰めて剣を振るう。立ち位置が目まぐるしく入れ替わり、激しい剣戟の音が響く。
あ、と思った時にはエディが相手の剣を叩き落とし、決着がついていた。そこまで、と上がった旗と共に大きな歓声が上がる。
「……この後は侯爵家代表のエディ君が優勝候補なのかしら。何だかとっても良い気分ね」
アリスは安堵のため息をついた。面白かった、と横の主人は笑顔で付き添いの二人にもお菓子を渡してくる。まだまだ試合は残っているとはいえ、程よい甘さが身体に優しい。
「……相手が動いた瞬間に手のうちを見極めて、自分も動いて反撃しています。あいつは相当、目が良いんでしょうね」
カークが二人に試合展開を解説してくれたが、半分もわからないまま相槌を打つ羽目になった。初戦の興奮が冷め切らないうちにも試合は次々と行われていく。一巡して再びエディが出て来たのはかなり時間が経った後となったが、その時には最初の登場時の微妙な空気とは打って変わって、今度は地鳴りに似た大歓声が巻き起こった。
どうやら大半の人々は、優勝候補を下したわかりやすい謎の仮面姿を贔屓する事に決めたらしい。応援対象が勝利をおさめるという爽快感を優先したようだ。アリスもエディ以外の誰が勝ち残ったかについては、体格や名前に特徴のある数人だけなので、あまり人の事は言えない。
そしてエディはその期待に応え、二試合目も鮮やかに勝利を勝ち取って見せた。彼の本職は護衛なので、主人が万が一の事態に陥れば、命がけで守り抜く事を必要とされている。子供の頃から剣の練習に励み、休日は軍の訓練に参加してはぐったりしていたのをよく覚えている。
しかし、ここまで強いとは思っていなかった。試合の度にエディ、エディと彼の名前が大合唱の様に鳴り響く。良家の子息揃いとはいえ、どこかの領地から応援団が大量に押し寄せて会場が二分されるわけではない。すり鉢状の会場での声援は、まるで圧し掛かる重さが実際にあるような錯覚を起こす程に膨れ上がっていた。
相手にしてみれば、場の大半の人間に敗北を望まれるという辛い状況に開始前から追い込まれている。この場に一人も味方がいないような焦りと心細い感覚を味わったに違いない。どこまでエディが計算していたのか判然としないが、とにかく一試合目で覚えてもらった彼の作戦勝ちだった。
そうやって文字通り場の主役を勝ち取って、エディは見事に名誉ある地位を射止めたのだった。
そして夕刻、闘技場は昼間とは正反対の静寂に包まれている。本来の主な目的である慰霊祭が日没と共に始まった。
朝から雲一つない晴天だった王都の闘技場は、現在は美しい夕映えを望んでいる。出席した高位貴族達や神殿関係者、一般市民は一様に、祈りを捧げるための小さな燭台を手にした。ここに入りきらず、建物の外やそれぞれの住む場所で過ごしている人々も、同じ日の夕暮れに祈りを捧げている。今日が年に一度の慰霊の日である事は、広く習慣となって久しい。
かつて天上の神々より、地上に蔓延した穢れを払うための特別な火が、最も勇敢な戦士に与えられた。そんな神話の一場面を模した儀式が、闘技場の中心で行われている。その役を射止めたエディが、ようやく仮面を外して登場した。火のついた松明を受け取り、それを恭しく国王へと捧げた。短い時間で打ち合わせをきちんと行ったようで、迷いのない動作だった。
三人は他の見物客と同じように、一連の流れを見守っている。トリーもエディの試合だけしっかり応援して後は休む、という観戦で体力の消耗を抑え、最後までちゃんと見届けた。侯爵家令嬢としてはエディの優勝に並ぶ喜ばしい成果である。これを機に、少しずつ外へ出る機会も増えるに違いない。
アリスの視界は夕闇に点在する無数の燭台の光をとらえ、開放された空をじっと見つめた。その時に、まだ流行病が村を襲う前、父と母とやり取りした記憶がよみがえった。
あの日は雨上がりの夕方だった。少し蒸し暑い空気の中、庭先のあちこち水たまりができていた。一足先に外へ出た両親が、娘を急かすように呼んでいる。アリスを、父親のしっかりとした腕が抱き上げた。視界が広がって、子供の背丈よりずっと遠くが見えるようになった。
いつまでも可愛い娘でありますように。心の美しいままでいてくれますように。横の母親が空にかざした手の平で髪を、頬を撫でるのがくすぐったくて、アリスは父親に抱えられたまま身を捩って笑い声をあげた。娘の髪が父親の首筋を同じように撫でたようで、家族三人でしばらく賑やかな一時を過ごした。
決して忘れていたわけではない。両親の声も手の感触もありありと思い出せる。ただもう戻っては来ないから、どうしようもなく切なくなるのがわかり切っていたから、頭の隅の方へ追いやってあっただけの事だ。アリスは軽く目元を擦ってから視線を舞台へ戻す。祈りを捧げている横の主人はおそらく、気が付かないフリをしてくれていた。
昨日は一緒に地図を眺めたエディは、舞台の隅へと移動していた。とりあえず役目は終わったようで顔はこちらを向いていたが、距離は随分と遠い。
どうせ会場にいる誰も気が付かないだろう、とアリスは本日の主役に小さく手を振った。エディもきっと遠くてわからないと高を括っていた。しかし彼は小さく、けれどはっきりと手の平で返事を寄越した。