③たとえば、二人の使用人 1
「もしコインが裏だったら、こっそり表に返してから見せる。アリスは簡単に言うけど、そんなに上手くいかないと思うな」
やわらかいソファに腰かけて、就寝前の御髪の手入れを受けている、侯爵家令嬢のトリーが口を開く。彼女の白い指先が、兄に借りたという少し難しい内容の本の半分辺りに栞を挟んだ。
あの初夏の昼下がりからは随分と時間が経っていて、彼女はもうすぐ十四になる。あれから色々あって、侯爵家では当主がレスターへと代替わりし、結婚して既に跡継ぎも授かっていた。
私的な変化としては、アリスは見習いからトリーの世話係に任命されている。一方のエディはレスターの従僕の一人としてあちこちに忙しく動き回る生活を送っていた。
今は領地のお屋敷ではなく、馬車で王都へとやって来ていた。長かった冬も終わり、現在は少し開けた窓から夜風が時折入り込む、過ごしやすい季節を迎えていた。窓の外、遠くの方は街の明かりがまだ煌々と灯っていても、この上級貴族達の屋敷が立ち並ぶ区画の中心までは、賑やかな喧騒も伝わってこない。寝室にはアリスの可愛らしい主人が時折、本のページをめくっていく音だけが響いている。
「もちろん、そうだと見破られないよう、たくさん練習しましたからね」
静かな部屋の中、アリスは手品のネタばらしをしながら、彼女の兄のレスターと同じ色をした綺麗な髪を緩く編んで、お気に入りの青いリボンで結んだ。最近の流行である、星や花の形に見える幾何学模様の刺繍が施されている。
「エディ君と一緒に?」
「そうですよ、この手品なら簡単だって」
「……ふーん」
仕事の途中なので淡々とした声の侍女に、主人はなんだか含みのある声を返した。探るような視線を感じるが、アリスは気が付かないフリを押し通した。なにせまだ仕事中である。
空中を舞っているコインの裏表を見極めて捉える、彼は簡単にやってのけたものの、アリスには百に届きそうな数を投げ上げてもできそうになかった。しかし私には無理、と白旗を上げるのだけは嫌だったので、アリスは必死で別の方法を考え出した。エディは投げ上げたコインを目で、アリスはつかまえた手の平の感触で見極めている。本来の仕掛けは後者のようで、表面の模様は見た目よりもザラザラしていて触るとすぐにどちらを向いているかわかるような造りになっていた。
「ねえ、ところで明日の天気はどうなのかしら」
トリーは借り物の本を傍の机の上に置いた。ゆっくりと両手を前に伸ばして、小さな欠伸をもらす。明日は大事な外出の予定があって、繊細な彼女は少々神経質になっているらしい。
「さきほど、見事な夕焼けでしたからね。晴天を期待して良いと思いますよ」
「……そう、それなら安心ね。明日はアリスも一緒でしょう?」
「ええ、そしてカークさんが護衛についてくれますからね。三人でのんびり観戦する予定ですよ」
侯爵家の令嬢は、外出時には欠かさない帽子も、若い娘には少々窮屈な首元をしたドレスも、今は身に着けていない。肌触りのいいゆったりとした寝間着に身を包んで、湯浴みを済ませてのんびりと趣味の読書を楽しんでいたところだ。
この主人は、身体があまり丈夫ではない。生まれて少しも経たない頃、彼女もまた流行病に侵されて、生死の境を彷徨う事となった。
その後遺症の痣が、うなじから背中、二の腕の辺りに薄くではあるが残っている。そのほかにも疲れやすく、痒くて眠れないと泣いて訴えて、宥めているうちに気が付いたら朝だった日も何度もあった。外出しても途中で気分が悪くなる事が多くて、大半を領地の屋敷で過ごしていた。対外的には本来の貴族令嬢とはそういうもの、で押し通している。それも、一時期に比べれば随分と回復していて、身体に合う薬も専任の薬師が調合するようになってからは楽に過ごせるようになって来ていた。
貴族令嬢としては、侯爵家とつながりの深い相手に嫁ぐ役割が求められている。しかし身体の事があるので、どうなるかはわからない。当主にのみに決定権があるのは、どこのご令嬢も同じ事だろう。
ただ、兄妹は仲が良く、王都にも近く交易も盛んで豊かな侯爵家は安泰だ。義理の姉となった現在の侯爵夫人とも良好な関係を保っている。政略上の相手を妻に迎えたレスターに死角はない。そんな酷い事にはならないだろう、とアリスはそこまで悲観的ではなかった。あれこれ騒ぎ立てて不安にさせる人間は、根本的にこの仕事には向いていない。
家庭教師の先生も貴族のご令嬢として申し分ないと手放しで称賛し、侯爵領へ嫁いで来たレスターの妻からも同様の評価を頂いている。自分のために用意された部屋にいる時くらい、好きに過ごす権利はあるだろうとアリスは勝手に思っている。
そんなトリーが王都にやって来ているのは、随分と久しぶりだった。明日はその流行病をはじめとする多くの凶事が立て続けに起き、そして収束してから毎年欠かさず行われている、国王主催の式典がある。それに参加したいと、珍しく前向きな発言をした。
世間では少なくない人が主人と同様の症状に悩まされていた。貴族達の間では、特に嫡出ではないのと同じくらいに忌避される傾向にある。侯爵領ではレスターがそういった人々の救済するための制度をいち早く成立させ、治療法や薬の開発にも盛んに投資が行われているが、他の地域ではそう簡単にはいかないようだった。
「さあお嬢様、そろそろお休みの時間ですよ。明日はお出かけしなければなりませんからね」
壁時計の針は、いつもの就寝時間よりは随分と早い。しかし、今日は大人しくベッドに入ってもらう必要があった。睡眠不足では、明日の不安要素が一つ増える事に繋がりかねない。幸いにも主人は横になると自然と眠くなるタイプなので、追い込みさえすればこちらが有利になる。
「まだ早いと思う。ねえ、コインを投げているところ、一度見せて」
「わかりました、では……三回連続で表を出したら、大人しくベッドへ入って目を閉じて下さると約束して下さい。私は細工ができないよう、ベッドの上に投げますから」
あくまでソファから座ったままの主人を前にアリスは少しばかり思案したものの、要求に応じる事にした。手の内はわかっているんだと言わんばかりに目を輝かせているこの状態では、下手な誤魔化しは逆効果にしかならないと判断した。コインを三回では八回に一度、傍から見ればさぞかし有利な条件に思えるだろう。
「でも、それだと」
さあさあ、とアリスはトリーを寝台へ追い立て、ポケットからコインを取り出した。見せかけとはいえアリスの手の平やコップの底を貫通したり、仕舞ったのとは別のポケットから顔を出したりするので、何度か工房へ持ち込んで鍍金をやり直してもらっている。実際の使用年数にはそぐわない綺麗な色の硬貨を手に、失礼します、とアリスはベッド脇の床に腰かけた。
一挙一動を見逃すまいとしている可愛いトリーを前に、アリスはあくまでいつも通りにコイントスをした。いつものように捕まえるのではなく、やわらかいシーツの上に少々間抜けな音を立てて落下する。それを、三回繰り返した。
「……あれ?」
「あら、ストレートで終わってしまいましたね。まあ、こういう日もありますよ、それでは」
さも偶然が重なったかのような台詞を口にして、アリスはコインを素早く回収し、手元のランプを消した。部屋に差し込むのは月明かりだけになって、敗北した主人はすごすごと、アリスが編んだ髪を踏まないようにしながら、枕を抱えるようにして横になった。
実際は再度鍍金を掛けてもらった際に、表と裏に全く同じ図柄が施されているコインを複数作ってもらっただけの話である。タネさえわかればなんだ、と落胆するに違いない。それを上手に、さも奇跡が起きているかのように錯覚させるのが、手品師の手腕というやつだ。
「……ねえ、あの花かごみたいな形の建物に、五万人も入れるなんて、どんな大きな場所なんだろう」
トリーがベッドに横になったまま、兄から本と一緒に差し入れされた花かごを指さした。目を閉じる、という約束なので、少々見当外れの方向が示されている。
明日、彼女も参加する流行病の慰霊のための式典は、郊外に完成したばかりの施設で行われる。国王陛下が若い頃に外遊先で目にした建物を参考にしたそうで、遠くから見ると確かに、かごのような形に見えるとエディが言っていた。
「領地の庭はともかく、お屋敷は全部入ってしまえるくらい広いそうですよ」
「全然、想像がつかない」
明日の式典は一日がかりで行われる。午前中は式の主役を決める前座の剣闘試合が開かれ、王立の士官学校の学生であるとか、各地の高位貴族の推薦を得た由緒正しい三十人くらいの若者が、しのぎを削る予定になっている。
「明日はしっかり応援しないとね、……アリスが」
「ええ、同期ですからね」
その由緒正しき若者たちの中にエディの名前がある事について、トリーはとても楽しみにしていた。侯爵家ともなれば誰かしら推薦しなければならないそうだが、レスターのお眼鏡にかなう若者は見つからなかったらしい。そこで、大抵の仕事は二つ返事で承諾する、使い勝手の良い男の出番となった。
アリスとしては最初から優勝者が決まっているに違いない、と邪推している。噂では爵位やら領地が与えられるそうだが、そんなものをおいそれとくれるわけがない。エディが剣の扱いを、レスターの護衛の仕事もあるので訓練を重ねているのは知っているが、できれば怪我なんてして欲しくはなかった。なるべく自然に聞こえるような返事をしたアリスに、つまんないの、とシーツの中から返事が飛んでくる。きっと中で口を尖らせているのだろう。
その後ものんびりとしたやり取りはしばらく続いたが、やがて声に眠気が混じり始めた。暑いか寒くないかだけ聞いた後、アリスは返事役に徹した。
義理とはいえ姉妹の間柄になった侯爵夫人から、評判の仕立屋とお菓子屋を教えてもらったので是非足を運びたい。料理長が厨房にたくさんの木苺を運び込ませているのを見た。夕食のデザートだと思ったのに出て来なかったのは残念。それから使用人の中では最年長者の御者のロバートがそろそろ故郷へ帰ると言っているが、同じ台詞を何年か前にも聞いたような気がする、など。
とりとめのない話がしばらく続いて、やがて寝息をたて始める。それが演技ではない事を確認するため、アリスは時計の針が数字一つ分動くのを待った。その間に頭の中は翌日の大まかな行程を確認していく。
いつも通りの時間に起床して、厨房にお願いしておいた昼食を確認する。トリーを起こして支度を手伝い、馬車に乗せて式典の会場へ向かう。
御者は王都の街を知り尽くした古株のロバートが来ると聞いていて、大事な主人をエスコートするのは当主からの信頼も厚いカークなので、特に心配はしていなかった。トリーの明日の体調と、それからエディが元気に役割を全うするのを祈るばかりである。
トリーが寝付いた事を確認してから、アリスは眠ったままの主人へ一礼してから部屋を辞した。