②たとえば、二人の見習い 2
「だあれ?」
不思議そうな声は白い帽子の下から聞こえた。真新しい夏用の帽子には可愛らしい、淡い黄色と水色の花飾りがたくさんくっついている。
「……最近入った見習いですよ、どうかお気になさらず」
口を開いていいものか、とアリスとエディが迷っている間に、お目付け役のカークが素っ気なく言った。下がりなさい、とばかりに手の仕草が付け足される。侯爵家の跡継ぎであるレスターはこちらに興味がないらしく、読んでいる本から顔を上げてもいない。
使用人にも格というものがある。このカークの父親は侯爵から領内の三つの大きな街の維持管理を任されている立場にあった。そんな由緒正しき家の出身者とは違って、アリス達にまだ主人と直接言葉を交わす事は許されていない。
そういう時は失礼しました、と丁寧に頭を下げてその場を辞すか、向こうがいなくなるまでそのまま待てばいいとちゃんと教えられている。次からはちゃんと確認してから声を掛けようと反省しつつ、カークの指示通りに、じりじりと主人達の視界から消えようとした二人に、帽子の下からまた声がかけられた。
「待って、……こんなに小さいのに、もう働いているの? まだ子供じゃない」
「……トリー様よりは齢が上ですよ、小さいですが」
不思議そうな幼い令嬢の声に、努めて冷静なカークの声が重なる。待って、と言われたアリスとエディは足を止めざるをえない。そこへ、それまで沈黙していたもう一人が口を挟んだ。
「男の子がエディで、……酔っぱらったロバートがどこからか拾って来たんだ。アリスは家令の親戚にあたる。興行に来ていたサーカスを観に出掛けて以来、こっそり二人で手品の練習をしているそうだ」
読んでいた分厚い書物に集中したまま、レスターから見習い達の詳しい説明が飛んで来た。最近の二人の密かな楽しみについても言及されて、アリスは伏せたままの目を丸くする。末端下級使用人の正確な情報が次期当主から出て来た事に驚いて、二人は完全にその場を脱出するタイミングを逃しつつあった。
ちなみにレスターは下級使用人と言えども、管理者の家令からある程度の情報を把握している。まだ十五、六歳だが侯爵家の跡継ぎでもある彼はエディとは違い、一切の濁りのない淡い金色の髪の持ち主である。そして水色の目が、既に怜悧な高位貴族の風格を漂わせていた。
「手品ができるの? 見たい、見せて」
「見たって何の得にもなりません。そこの二人、いいから下がりなさい」
兄からの説明を聞いた令嬢のトリーは、この見習い達は芸ができるという点に興味を持ったらしい。一方のカークは引き続き、アリスとエディにこの場を離れるよう促した。
「待ってカーク、ダメ。わたしだって、サーカスを観に行きたかったの。言葉をしゃべる緑のオウムに会いたかった」
「……鶏小屋に似たような奴がたくさんいるではありませんか」
ニワトリじゃやだ、と帽子の下から令嬢が抗議している。アリスが彼女の友人であれば、件のサーカスの看板鳥がいかに賢く、団員とコントのようなやり取りを面白おかしく繰り広げられたかを説明するのだが、あいにくの身分である。頭を下げたままで立ちつくし、頭上のやり取りの行く末を案じる以外にできる事はない。
カークがトリーを慰めるフリをして気を引いている間に、エディがアリスの侍女服の背を引いた。今のうち、と言わんばかりの視線をこっそり交わした二人は今度こそ身を翻そうと試みるが、しかし今度は別の方向から思わぬ台詞が飛び出した。
「見せて。失敗しても笑ったりしないから、顔を上げなさい」
ぱたん、と声の主は本を閉じる。おそるおそる上げた視線の先ではっきり目が合うと、威圧されているわけでもないのに、自然と背筋を伸ばして従わなければならないという使命感に駆られた。
場の主導権を握ってしまったレスターに、トリー以外の三人の使用人達は口元を引き攣らせた。何故さっさと立ち去らなかった、と言わんばかりのカークからの視線を受け止めながら、アリスとエディは顔を見合わせる。
「……し、しばらくお待ちください」
とりあえず打ち合わせ、と二人はこの場を切り抜けるべくこそこそと算段を練るしかない。それを期待の眼差しで見つめるトリーが、急かすように手拍子を開始する。この兄妹は仲が良いようで、何を見せてくれるのかしら、とレスターに向かって楽しそうに話を振り始めた。
「どうしよう、これ失敗してもお屋敷から出ていけってならないよね?」
「笑わないとは仰っているけど」
機嫌を損ねた場合は、と主人の為人をまだよく知らない二人の相談は不安な方向へと突き進む。
「なんだ、手品って。いつからお前たちは奇術師になったんだ。見習いの使用人だろう」
「カークさん、失敗してクビになったらどうしたらいいんですか」
「真面目に仕事をしないからこういう事になる。いいからさっさと適当に誤魔化せ」
一応は心配しているらしい跡継ぎのお目付け役が、二人の間に首を突っ込んで急かした。しかし、あくまで休憩の時間に練習をしているのであって仕事は真面目にやっているのだと主張したかったが、後ろの方から聞こえる手拍子に遮られる。
「……エディ、もうやるしかないと思う」
「……でも、あの人は貴族の……」
「ご主人様で、そして私達は使用人でしょ」
命令に背く権限がないのは、どの使用人とて共通であると既に教えられている。不本意であれば、屋敷を去るしかない。主人達の空間に入り込んでしまったのは完全に自分達の非であるが、それは反省して二度とやらなければいい話だ。
アリスは服のポケットから、サーカスで買った手品用のコインを取り出した。ましてや自分達は見習いである。少し間があってから、何とも言えない顔をしているエディも諦めたのか、同じ小道具を手に取る。
「……紳士淑女の皆様、そして、お嬢様」
二人は横に並んで、三人の観客を前に決まり文句を口にした。ここは侯爵家の庭先、夏の初めの暑い日であったが、やるべき事は変わらない。付け足された一言は自分の事だ、とトリーが手を叩くのを止めて笑った。花飾りの帽子の下から、彼女の兄と同じ青い目が二人を見つめる。
「本日はお招きに預かりまして。ここへ足を運んでくださった全ての皆様に、よき夢がありますように」
アリスとエディは同じセリフを口にしつつ、鏡が間にあるかのように、動きを揃えて一礼した。頭の中では、舞台に立った赤い仮面の奇術師の堂々とした立ち振る舞いを追う。
「本日お目見えしますのは、このコインを使った手品でございます。表と裏は二つで一つ、上り坂を振り返れば下り坂、我々が未だに半人前、二人分でやっと一人前。切っても切り離せない関係と言えるでしょう」
余興として、あの奇術師は二人と握手した手の中から、白い鳩を呼び出して見せた。間近で聞いた羽ばたきの音と、一拍遅れて沸き上がった観客達の拍手と歓声は、どうしようもなく二人を高揚させた。
「二人でコインを十回ずつ、全て表で成功すれば二千と四十八に一度の奇跡でございます。それでは御覧あれ、せーの!」
ちょうどコインの表が上を向いた時に捕まえればいいよ、とエディはこの手品をさらっと説明した。しかしアリスの目はくるくる回っている物体として捉えられず、裏表を見極めるのは不可能だった。
一応は二人の秘密という態で始めた手品だったので、周りの大人に内容を相談はしていない。エディが明らかにおかしい事を言っていたのに、アリスはさっぱり気が付かなかったのである。
この時からもうずっと、エディは何でも簡単そうに言って、実際にできてしまう人間だった。アリスは反対にどうにかこうにか、置いて行かれないように知恵を絞る毎日だった。
そういうわけで同じ手品を二人は並んで、しかし別々の方法で行うという奇妙な舞台の開幕である。
この後、出し物が終わってレスターからの指摘が入ってようやくアリスは、エディの淡い緑の目が、他よりずっと素敵な性能を持っている事を知ったのだ。