⑫第0話 下
「カークさん、お仕事お疲れ様です」
「……ああ」
食堂へ向かう途中で行き会った上級使用人でもある先輩に、二人は丁寧なあいさつをした。けれど向こうは何とも素っ気ない返事だった。
ここに配属されている使用人達は、代々侯爵家に仕える家柄やそれなりの良家出身である場合がほとんどである。カークはまだ少年といって差し支えない年頃だが、生家は侯爵家から重要な街の維持管理を任されている代表格だ。エディのように行く場所がなかったため、仕方なく置いてもらえた経緯とは違うのだ。
「お、なんだカークの返事は先輩の威厳かい? かっこいいじゃないか」
「ラックさんもお疲れ様です」
お疲れ、とカークとは対照的な朗らかな返事は庭師のラックである。彼はまだ二十代半ば程の若い青年なのに令息に腕を買われて働いている、ここでは珍しい経歴の持ち主だ。
ラックのところへ行くと、簡単だが根気の要るやりがいのある仕事を振ってもらえる。他には厨房の隅っこでひたすら芋洗いをしたり、使っていない食器をぴかぴかなるまで磨いたりするのが見習いである。
嫌そうな顔のカークはこれ以上からかわれたくないとばかりに、ラックにお疲れ様ですとだけ言ってさっさと一人で先に行った。残りの三人が厨房に入ると奥から、最後だから余らないように全部食べてくれ、と既に夕食の準備で忙しそうな音に紛れての声が飛んで来た。
要請を受けたラックがいっぱい食べな、とエディとアリスのお皿に山盛りにして、別の席に離れたカークにも分けに行った。その間に見習い二人はフォークとスプーンとパンのお皿を用意した。結構です、と遠慮している声が後ろで聞こえたが、成長期だろうと押し切ったらしい。庭師はすっかり空になった大皿を洗い場に片づけに行った。
「カークもこっち来たら? 一緒に食べようよ」
「遠慮します」
すぐ仕事に戻りますので、と一人離れて食べ始めたカークに、戻って来た庭師は肩を竦めている。同じテーブルに座った三人はいただきます、と食前のお祈りを捧げてからお皿に取り掛かった。
「……まかないでこんなに美味しいご飯が食べられると、感覚がおかしくなるね」
街の食堂では満足できなくなってしまった、とラックのしみじみとした呟きに、アリスが美味しいです、と幸せそうな顔で同意している。令息が直々に招いた凄腕の料理長監修のまかない料理に、見習い二人は食事の度にとても元気をもらっていた。今も、厨房の奥から美味しそうな音を立てるフライパンを手に料理長アンガスがやって来て、小さい者達のためにと焼いた卵をおまけしてくれた。ミルクやチーズと一緒になった卵はまるで輝いているかのようで、もちろん最高に美味しかった。
アンガスはそのまま、見習いを除けば使用人の中では最年少のカークにもたっぷりと卵を食べさせに行った。自分は小さくないと遠慮するカークと押し付けるアンガスの声がしばらく聞こえていた。
「……カークは恥ずかしがり屋の人見知りだからね、僕やアンガスさんがここへ来たばかりの時も、ずっとあんな感じだったから気にする事はないよ。そのうちに慣れてくるさ」
午後は草むしりを手伝う約束した後、ラックが見習い二人に向かってそんな事を言い出した。違います、とカークから即座に否定の返事が飛んで来たけれど、庭師は特に気にした様子はない。
エディは後ろからの棘のある視線を感じて、軽く身震いした。カークが気に入らないのはエディだけなのだ。彼はあの夜、拾ってくれた馬車に令息と一緒に乗っていたので、横でやり取りを聞いていたのである。しっかりとした身の上の人間が非嫡出の身の上の人間に抵抗があるのは当たり前で、侯爵家の本邸に置いてくれた令息の方が、少し変わっているのだとエディは思っていた。
それでも、森の奥を散々彷徨って疲れ果てたエディを、馬車から持って来た毛布でぐるぐる巻きにして、令息に近くの神殿まで運ぶために馬車に同乗させる許可を求めるカークの声を覚えていた。出自の秘密を大々的に暴露して攻撃する事はなく、この程度で済ませてくれているのだから、どう考えても居座る事になった自分が悪いのだと思う。そんなカークに何を言うべきなのか、エディはわからないままだった。
「我々みたいな人間、今まで本邸に採用された事がなかったからね」
事情を知らないであろうラックはまた微妙に的外れな事を口にして、エディはまた首を竦めた。我々、とそれまで黙って食事をしていたアリスが呟く。代々侯爵家に仕える使用人の家系、もしくは傘下の出身やその仲介ではない人間、と庭師が付け足した。
「良いところの子は、親から怪しい奴とは付き合うなって忠告されて育つから仕方がないね。カークの実家は保守的で有名だし」
「ラックさん、この際なのではっきりさせておきますが、私は……未熟な見習いが本邸に採用されているのが納得いかないだけですので」
食事を終えたらしいカークが、わざわざ庭師の前までやって来て宣言した。一触即発のように見えて、やはりエディの出自については口外しない辺り、彼は善良な人間なのだと認識させられる。エディはこちらを意地でも見ようとしない彼に謝るべきではないのかと口を開きかけたが、ラックの方が早かった。
「カークの言い分にも一理あるけど、レスター様の意向が最優先だからね。毎日仕事はないかって来てくれる見習いも、お嬢様のために毎朝早起きする誰かも、等しく優秀な使用人の素養を持ち合わせていると僕は思う。それは庭を預かる責任者として、ちゃんと見ているつもりだ」
最初は誰だって見習いだよ、とラックはあくまで年長者の穏やかな物言いに終始した。それを聞いたカークは怒りだすかと思いきや、しばらくじっと黙ったままだった。
エディの知らない話でもあるのか、そんな事はわかっています、と彼がようやく口を開いた時にはいくらか不機嫌な様子は柔らかくなっていた。それ以上は何も言わず、食器を片づけて食堂を出て行った。
「……主人と顔を突き合わせる職種は気疲れするから面倒見てやってくれって令息から頼まれているんだけど、なかなか難しいね」
カークを見送ってから、ラックはこちらに向かって片目を閉じて合図を寄越した。令息が屋敷の外の総責任者として指名したこの庭師は、全て把握した上で見習いや他の使用人にも気を配ってくれているらしい。
ありがとうございます、と呟いたエディは、隣のアリスがずっと黙っている事に気が付かなかった。
「エディ、エディったら。今日は早起きするって言ったでしょう」
うん、と頷きながらもまだ薄暗い中で着替えて顔を洗ってニワトリ小屋に行くのもなかなか大変な一日の始まりである。エディはアリスの声に応じながらもまだ眠たいまま、支度を整え使用人棟から外へ出た。
アリスは朝一番でも、髪の一部を編んで頭の後ろでリボンにまとめる難しそうな髪型を既に終えてあった。彼女に手を引かれて庭の小道を進みながら、いつもはエディの後ろをついて歩く彼女が、今日はやけに気合が入っているらしいと不思議に思った。季節の花がたくさん植えてある一画に通りがかった時、アリスが声を張り上げた。
「カークさん、おはようございます!」
びっくりして目が覚めたのはエディと、それから花壇の側にいたらしいカークである。彼は病気がちな屋敷の令嬢のために、毎朝一番綺麗に咲いたお花を、彼女の枕元にそっとしのばせてから、一日の仕事が始まるのだそうだ。昨日の食堂であの後、ラックがそんな風に教えてくれた。悪い奴じゃないから、お互い慣れるまでの辛抱だと二人を諭してくれたのだ。
「私のような未熟な人間、見習いが本邸に置いてもらえるのは、とても寛大な処置であると理解しています。私がエディみたいに頭がよくないし、まだまだ勉強しないといけない事がたくさんありますので」
カークはちらりとこちらに一瞬だけ目線を寄越したが、エディは肩を竦めるしかない。この大人しいアリスが、まさか上級使用人に向かって何か言い出すとは思わなかった。
昨日、最終的には見習いだから気に入らないというエディへの皮肉と気遣い交じりの台詞を、どうやらそのまま受け取ってしまったらしい。
はきはき喋るアリス、というのをエディは初めて見た。カークも勢いに押されているのか困っているのか歯切れの悪い返事でああそう、と小さく呟くのみである。
「お嬢様へのお心遣いを拝見して、このような気持ちを持つ事が第一なんだと学ばせて頂きました! 素晴らしいと思います! 私も必ずカークさんみたいな立派な使用人になって、お疲れ様を言い合うのが当面の目標です!」
エディはアリスの宣言を受けてようやく、自分がカークに向かって何を言うべきなのかを理解した。こちらに向けられた、奇異な者を見るかのような視線に負けずに声を張り上げた。
「同じくエディ、これから頑張ります!」
「……とにかく、レスター様のお心遣いに背く事がないようにしなさい」
一体何なんだ、と言わんばかりの視線と戸惑い気味の激励をもらって、二人はその場を辞してニワトリ小屋へ向かう。アリスはそれまでの毅然とした足取りが少し遅れて、エディと小さな声で名前を呼んだ。
「アリス、大丈夫?」
今頃緊張して来た、と言い出したアリスを心配して、エディもおろおろしつつ足を止めて彼女の手を取った。今朝はいつもより早起きしたので、落ち着くまで待っても厨房に卵を届ける時間は問題ないはずである。
庭師のラックが整備した庭の小道はまだ眠りの中にあるような、静かでひんやりとした空気に包まれていた。アリスはエディの手を握って、呼吸を整えながら俯いている。ようやく顔を上げた時、まるで泣くまいと耐えるかのように、何度も瞬きをした。
「……エディが前に私に、家令さんの親戚だって自己紹介した方が良いって言ってくれたでしょう。それって、私の事をたくさん考えて助言してくれたんだってわかったの。だから、優しくしてくれる人に甘えているだけなのって、いけない事だと思うから」
彼女はこちらをまっすぐに見つめながら、声を詰まらせた。
「お父さんもお母さんもいなくなって寂しいけど、……エディが一緒に頑張ろうって言ってくれて、まだ見習いだとか子供とか、もうそんな事は関係がないってわかったんだ。自分がちゃんとここで一人前として認められなきゃいけないんだって」
アリスは少し潤んだ瞳を手の甲で拭って、まっすぐな眼差しでこちらを見つめた。小さくて大人しいと思っていた彼女の中には、既に確固たる強い気持ちが生まれていたらしい。
優しくしなさいと令息が言ったのは、誰かに向けた行いや感情は必ず自分に戻って来るからなのだと、ようやく理解できた。
「私、あの時はただ何となくだったの。だからもう一度しっかり気持ちを込めて約束するから」
陽が昇って来る時間帯のようで、周囲は既に明るくなりつつあった。エディがいるのは真っ暗で寒い森の中ではない事を感じさせてくれるかのように、二人は自然と手を取り合ったままだった。
それは陽の光に手をかざして行う、優しい祈りにも似ていた。
「……一緒に頑張ろうね、エディ」
「それでね、神様はここにいるんだよ、エディ」
見習いの生活にもすっかり慣れた頃、アリスが得意満面で、先日購入したばかりの手品用品を掲げて見せた。少し前にサーカスが街へやって来て、二人も初めて受け取った給金を握り締めて観に行ったのである。
小さくて丸い硬貨には、一般に流通している物とは別の図案が彫られている。この昔の王様はたくさんいる異母兄弟達と、即位を巡って大変に苦労したそうだ。それで結婚という制度についてあれこれと厳しい規定を加えた。嫡出とそうでない者への明確な線引きによって、後者には常に冷ややかな眼差しが向けられている。神様が定めたのだ、という世の中の決まり事をちゃんとした資料で調べてみると、そんな一員であるエディですらなるほど、と一応納得する理由付けはされているのだった。
それでね、とアリスはいつもと同じくのんきな調子で話を続けてくれた。季節が移り変わって暑くなって来たからか、今日は髪の毛を後ろで簡単に一つに束ねている。それもよく似合っていた。
「神様はコインを投げる毎に、裏と表の数を平等にしなくちゃいけないからね。きっと忙しいんだよ」
なるほどそうかも、とエディは彼女の説に全面的に同意した。そんなのんきな神様なら、エディもこれからは真面目にお祈りする気になれそうだった。
お昼休憩中、使用人棟の裏に積み上げられている木箱の上で雑談しながら手品の練習をするのが二人の最近の日課である。コインの表ばかりを出すという手品だ。それ、とアリスが投げ上げた硬貨は彼女の手を逃れて、青々とした芝生の上をコロコロと転がった。
「ああー、神様が」
「神様、ごめんなさい」
エディは信仰の対象への、わざとではないがぞんざいな扱いに笑ってしまった。そんなに笑わないで、とまだ上手くコイン投げができないアリスが口を尖らせる。
「ごめん、おかしくて笑っているわけじゃないんだけど」
エディは座っていた木箱から立ち上がって、彼女の硬貨を追った。拾い上げて彼女に返しながら、毎日楽しくて充実しているからだと弁解を試みた。
「そうだね、毎日頑張っているからね」
働き始めた頃に比べて明るい時間が長くなった影響か早起きにも慣れ、最近はサーカス団で見た手品にすっかり夢中になり、何よりお互いの存在と立派な使用人になってみせるのだという気合が、見習いの結束とやる気を支えている。
午後も一緒に頑張ろう、と二人の声は示し合わせたみたいにぴったりで、それがまた嬉しくたまらなかった。だから自然と笑ってしまうのだとアリスも納得したらしく、仕事を探しに行く足取りは軽やかだった。
納得のいくまで厳しく鍛えてやってくれ、と令息がカークをエディの教育係に任命し、そしてアリスを妹君の臨時の遊び相手に指名するのは、もう少し先の話である。