⑪第0話 上
「レスター様、一つ確認させて頂きたい事が」
レスターは自分の従者の声に、ちらりと壁時計に視線を走らせた。この時間になってもまだ執務室に留まっているカークは、普段であれば仕事に口を挟む事はしない。その彼がわざわざ話を切り出したからには、と頷いて従者の意見に耳を傾ける姿勢を示した。
「本当に、あの子供をここで働かせるお考えですか」
レスターは数日前、子供を拾った。一年で一番寒い季節の森の入り口、ちょうど今と同じくらいの時間帯だ。自分達が馬車で偶然通りかからなければ、子供は飢えと寒さで儚くなっていたはずである。
そのまま何も聞かずに適当な神殿に預かってもらえば終わる話だったが、レスターは幼い子供に対する仕打ちへの憤りもあって、エディという子供に保護者の所在を尋ねた。
「非嫡出なのはやはり大きいか?」
「なにも本邸に置く必要はないかと」
子供の話をそのまま信じるならどうやら彼は貴族のいわゆる庶子、非嫡出の身の上であるらしい。血統を重んじる上流階級どころか市井においても扱いは悪く、職業や結婚に難色を示されても仕方がないと認識されている。
自分の生家で預かる事も可能です、と補足するカークの意見は正しかった。子供を保護するところまでは何も文句は言わなかった彼は、主人とまだ幼い妹の身を案じてくれているのである。身元のよくわからない存在を屋敷の中に置いておきたくない、というのは一般的な感覚として理解できた。
「全く以てその通りだが、もう既に拾ってしまった者だ」
レスターはエディが親として挙げた先に、既に保護している事は伏せて問い合わせてみたが、そんな子供はいない、妙な言いがかりは止して欲しいと取りつく島もなかった。けれど遣いに出した者が気を利かせて周辺を色々と聞き回った結果、世の中の混乱に紛れて子供が一人いなくなっているのは事実のようだった。
仕方がないので、エディ少年には寝る場所と仕事を与えるからしっかり励むように指示を出した。ちょうど屋敷の家令が親戚の女の子を引き取るそうなので、二人まとめて見習い使用人として子供のうちから仕込んで優秀な配下にしてしまおうという試みである。一人より二人の方が励まし合って頑張ってくれるだろうという願望が込めてあった。
しかし、と納得がいかない様子のカークに、レスターは何代か前の国王の名前を持ち出した。歴代のうちで最も偉大な人物として名高いが、腹違いの兄弟との骨肉の争いの末に即位した血なまぐさい側面も持ち合わせている。神殿の教えの解釈を上手に利用し、非嫡出の者の権利を大きく制限した事で争いに決着をつけたのである。
「つまり、人が自分の都合で定めた決まり事に過ぎないわけだ」
いきなり何を言い出すのだ、と言わんばかりにカークは唖然としている。自分が今からしようとしている事が、いかに常識外れであるかをレスターも頭では理解しているつもりだった。
しかし、もしこの屋敷に居場所を作らなかった場合、あの子供はどこへ行く事になるのだろう。その事を考えると、レスター自身が大きな分かれ道の前に立たされているような気持ちになる。誰の庇護も受けられない子供が正直に生きる価値を見放し、嘘をつく行為に抵抗がなくなれば悪意を以て騙す事を覚えて、その先に待っているのは暗く、下へ下へと続く後戻りのできない道しかない。
「それに、トリーの事もある。『爾の出づるものは爾に反る』と昔からよく言われるだろう」
世の中は凶事続きで大荒れとなっていたのが、ようやく落ち着いて来たところである。レスターの幼い妹も高熱にうなされて生死の境を彷徨ったのを、懸命な治療で何とか持ち直してくれた。
「私が把握しているだけでも数件、貴族同士の婚姻に影響があった」
貴族階級というのは一定の許容範囲から逸脱する事を酷く嫌う傾向がある。領地や家の体面を保つためには必要な事だと理解はしている。しかし身の上や病気の罹患という自分に非がない事を正当な理由として突き付けられた時に、果たして冷静に受け入れられるかと問われれば自信はない。
「私の妹はいつか、誹りを受けるかもしれない」
「お嬢様はあの子供とは違います」
「人間を人間として扱わない、その点では同じだ。私が誰をどう扱うのか、それは妹の今後にも影響を及ぼすのだと思う」
カークが口を噤んだちょうどその時に、部屋の扉がノックもなしに開かれた。ぬいぐるみと絵本を抱きしめ、寝間着姿の妹が恨みがましい目をこちらに向けている。後ろには寝かしつけ係の女性使用人が、恐縮した様子で目を伏せたままだ。
「お兄様はいつになったら私と遊んでくれるのですか、ちゃんと朝に約束したのに」
「トリー、悪かったな。寝る前の絵本だけは読んでやるから」
どうやら話は聞こえていなかったようだ。レスターはノックを忘れないように、と注意しつつ小さな妹に謝罪をした。カークと話し込んでいる間に、約束した時間はとっくに過ぎてしまっている。
病み上がりの妹は、医者の先生からなかなか遊びに行ってもよろしい、という許可が下りないのですっかり退屈してしまっているのだ。
「お兄様は、王様もお妃様も魔法使いも悪い魔法使いも大人も子供も犬ちゃんも、みんな同じように読むからお話がよくわからなくなります」
トリーはあからさまに不満げで、要するに絵本の読み聞かせが下手くそだと言いたいらしい。レスターだって忙しい合間を縫って時間を作って一生懸命やっているのに、酷い言い草である。
「お嬢様、代わりに私が読みますから」
そこへカークが取り成すつもりのようで、兄妹に気を遣って立ち上がった。もうすぐお仕事が終わりますから、と小さな妹の前で膝をついた。お約束の事を存じ上げずに兄君様を引き止めて申し訳なかった、と目線を合わせながらの真摯な謝罪と説得に、トリーは納得した様子で絵本を手渡した。
「……カークだって王子様もお姫様も全部カークになるんじゃないのか?」
「カークは頑張って読んでくれます」
それはいいな、とこの生真面目なカークがどんな風に王子様やお姫様の台詞を読み上げるのかには興味が湧いた。面白がる気配を感じ取ったカークは一瞬渋い顔をしながらも、退室するべく妹をそっと抱き上げた。
「お兄様も早く来てくださいね」
閉まる前の扉の隙間からの念押しに了承の返事をしながら、レスターは執務机の引き出しから神殿に寄進を行う際の書類一式を取りだした。気前の良い金額のサインに同封するのは、保護した子供は本来ならば出生の後に然るべき期日までに届け出る書類が未提出になってしまっている、という旨の説明書きだ。必要事項を端的にまとめてもう一度自分の名前を保証人として添えてしまえば、この件に物申す行為は侯爵家を相手取るのと同義になる。
そんな子供はいない、とまで言い切ったエディの生家だが、後々になって主張を覆す事があるかもしれない。レスターもそんな場所にわざわざ返してやるつもりもないので、周到な根回しの準備に取り掛かった。神殿は真面目に生きている人間と寄進の話には弱いので、誰かが面白半分にエディの出生の記録の事を問い合わせたところで、レスターのお墨付きがあるのでそちらへお願いします、と突っぱねてくれるはずだ。
「……さて」
レスターは書類を封筒にまとめ、侯爵家の封蝋を施した。現在、侯爵邸の使用人はカークのような信頼できる家の出身か紹介、若しくは優れた技量を持つ者しか雇っていない。そこに幼い子供を二人も送り込むのだから、何人かに話を通しておかなくてはならない。カークも今夜は妹の乱入で引き下がったが、主人としてもう少し配慮しなければ納得しないだろう。
けれど、とレスターは仕事を切り上げる事にした。分かれ道のどちらに進むか決めただけ良しとするか、と妹の部屋に急ぐ事に決める。
どうか腐らずに頑張ってくれ、と家令のところに預けてあるエディ少年の事を思った。
嘘をつかない。仕事を率先して覚える姿勢を周囲に示す。それから同じく使用人見習いにアリスという女の子がいるので、優しくする。以上がエディがこの侯爵邸に見習い使用人として置いてくれる事になった令息との約束である。
一つ目の言いつけの理由としては、侯爵邸で働く使用人達の多くがそれなりの良家出身であり、ある程度の調査能力があるからだと言う。嘘つきは信用されないからな、とエディを拾ってくれた令息は言葉少なに説明して、残りの二つは言わなくてもわかるだろうとばかりに補足はなかった。
そんなわけでエディは毎日早起きをして、同じく使用人見習いとして屋敷に置かれる事になった女の子、アリスと行動を共にする事になった。朝一番にニワトリ小屋に産みたてのタマゴをもらいに行った後は、二人の親代わりとなった家令の執務室で、一般的な教養のお勉強である。午後は厨房や庭園へ、簡単で根気のいる作業を探しに行って割り振ってもらう毎日であった。
家令の執務室に運び込まれた小さな二脚の椅子と机の前で、アリスは小さな黒板の上に白墨で一生懸命、手計算している。彼女は大人しくて気の優しい女の子だったので、仲良くなるのに時間はかからなかった。たまにもらえるおやつを半分こにして仲良く食べるのが、楽しみの一つである。
アリスは小さくてもちゃんと女の子で、早起きしてもちゃんと髪の毛が丁寧に結んであって、今日はおさげが三つ編みにしてあって良く似合っていた。早起きするので手一杯のエディがたまに家令に寝癖が、と笑われるのとは雲泥の差だ。
隣でもくもくと練習をしている彼女の手が止まると、どこまで進んだ? と、囁くのがエディの仕事である。書類の山と格闘している大人の邪魔にならない小さな声で見習い仲間に助け舟を出しつつ、エディも読みなさいと指示された分厚い蔵書の一冊に目を通している。読み終わると家令が本の内容についてあれこれと質問や見解を尋ねるので、真剣に読み込んでいた。
アリスは両親が亡くなってしまって、縁戚者である家令の伝手でここで来たのだ。エディもどうやら似たような事情だと思われているらしく、令息の前で説明した出自の件を、しつこく詮索する人は誰もいなかった。だから嘘をつくな、という令息の言いつけを、今のところは破らずに済んでいた。
「二人共、そろそろ食堂も空いて来るだろうから、行っておいで」
後で食べるといいよ、と家令は執務机の引き出しに常備してあるお菓子を手渡してくれたので、お礼を言って昼食を食べに向かった。
エディとアリスはいつも固まって行動していた。家令のように優しい人が多いとはいえ、大人がほとんどの侯爵邸である。他に子供の使用人となると五つばかり離れていて、何よりその人は令息の側にいつも控えている上級使用人なので直接口をきいた事はない。
そんな経緯で、これから一緒に頑張ろうね、と初日に誓った見習い二人の結束は固かった。
「そうだ、アリス。誰か新しい人に会ったら、ちゃんと『家令さんの親戚で、その紹介で働かせてもらう事になりました』って言っている?」
「言っているよ、もちろん。わざわざエディが助言してくれたんだから」
これが明言できるだけで、相手が受ける印象が随分と変わる。あの人望の厚い家令の親戚だと認識してもらえれば、これから先も意地悪される可能性は低くなるはずだと、あまり意味のわかっていないアリスを辛抱強く説得してあった。
逆に自分が尋ねられた時はどうにかして切り抜ける必要があるので、そこだけは少しばかり頭が痛い。
「家令さんがね、エディは頭が良くって優秀な使用人になれそうだって、すごく褒めていたの」
アリスがとびきりのんきな笑顔でそんな話をするのを、そんな事ないよ、とエディは謙遜しておいた。早起きは大変で、家令が渡す本は難しい内容で、それに拾っておいてくれた令息に恩返しをしなければならない。
「アリスだって、毎朝早起きも髪の毛も可愛く結んであって、僕はすごいと思っているよ」
「お母さんが教えてくれてね、毎朝の習慣にしないと……忘れちゃうわけにもいかないから」
エディが何気なく振ったつもりの話題が、アリスの亡くなった両親に繋がってしまって少しひやりとしたけれど、彼女は相変わらずのんきに笑っている。平気なはずがないだろうに、大変だとか疲れた程度の愚痴は零しても、泣き言は聞いた事がない。
「エディ、難しい顔してどうかしたの?」
お腹が空いたから、と内心の複雑な気持ちをエディは誤魔化した。優しくしなさい、と令息の言いつけの一つはちゃんと守れているはずだ、と言い聞かせる。
早く食べに行こう、と三つ編みを跳ねさせながらアリスは先へ先へと急いだ。いつもは大体エディの後ろに半分隠れるようにしているのが、ご飯の前だけは話が別だった。その様子を内心で苦笑しながら追いかけた。