⑩たとえば、二人の未来について
先に結論を口に出してしまえば、どうやら少しばかり動揺しているらしいエディを真っ向から見つめ返せる程度ではあるが、少しだけ楽になった。とは言ってもやはりアリスは何度も話に詰まり、あちらこちらに飛んで行ったが、それでも最後まで言う事ができた。
「一緒に働けて、すごく楽しかった。エディが気にかけてくれて、ご主人様にも恵まれて。こんなに幸せな使用人って、世界に私だけだと思う。あなたがあの日の舞台に立ってくれて、祈ってくれて嬉しかった。……すごくかっこよかった」
屋敷に来る前は、両親にくっついて甘えてばかりの子供だったように思う。それから働くようになって、二人の無償の愛情が無くなってようやくアリスは、その偉大さを思い知った。そして、もう伝える事が出来ないのも理解して、それを大人になった今も繰り返したくはなかった。
「エディがもし本当の家に帰るならって考えたら、寂しいの。喜ぶべき事だってわかっているのに、嫌な奴って自分でわかっていてもすごく悲しい。そうなったらもう、自分の気持ちを聞いてもらえる機会はないだろうから、ちゃんと伝えたかった」
言うべき事を口にして、アリスはすっきりした。手品が大成功して、最後までエディに仕掛けを見破られなかった時と同じくらいの爽快な気分である。
一方のエディの方は困ったような、落ち着かない様子でやけにまばたきが多い。目を閉じる度に視線は別の方向に泳いでいる。
「アリスは、僕の事が好きだったんだ」
さっきこちらがなかなか口に出す事ができずに逡巡していたのと同じくらい時間が経ってから、エディが囁いたので、そうだとゆっくり頷く。こちらの思いがどうやら伝わったようなので、困った顔で何やら言い淀んでいる相手を不思議に思った。エディは何でもそつなくこなしてしまうようなイメージが強い。
「……アリス、色々勘違いさせて申し訳ないんだけど」
言いたい事を言ってすっきりしたアリスを前に、エディはどこか恨めしそうな目線を向けて来る。
「僕は家に帰ったりはしない」
エディの発言で、そもそもの大前提がくつがえされたのでアリスは戸惑った。あのね、と話の切り出し方を考えているようなので、彼が先ほどそうしていてくれたように、彼の考えがまとまるまで黙って待っていた。彼は髪をくしゃっとやったりして悩んでいるようなのでコインでも投げたらどうか、と自分がよくやる方法を提案したが首を横に振られた。
「領地の屋敷に来ていたのは確かに僕の血縁上の父親だった。実は兄もいて、そっちは確かに貴族階級かもしれないけど、僕は違う。……半分だけの奴が一番嫌われるって、アリスもよく知っているだろ?」
「……それは非嫡出、という認識であっている?」
エディが初めて明かした自分の出自についての話を呑み込むのに、少しの時間が必要だった。正式な夫人の子供ではない人達の事を貶める言い方が山ほど作られているが、その類を好き好んで使う気にはなれなかった。そういう時はたくさん勉強して正式か難しい言葉を使うようにすれば、自然と嫌な言い方をする人を距離がとれる、と小さい時に親代わりに教えてもらった。
「うん、それであっている。母親がいた時はまだ良かったけど、いなくなってからは地獄だった。よりによって冬の一番寒い日に森に置き去りにされて、僕は最初からいなかった人間になったわけだ。災害とか流行病で、色々と混乱していた時期でもあったから」
アリスの知っている知識の中での両親、と目の前の彼が思い浮かべている存在は全く違うらしい。言うのも聞くのも憚られるような経緯を前にして、しかしエディは不敵に笑って見せた。
「でもね、確かに僕は生まれは自慢できないけど、育ちは人並み以上だって思っている。それにその森を必死で抜けた先がこの侯爵領だったし、運だってそこそこ。後はたまたま息抜きにロバートおじいちゃんに馬車を走らせていたレスター様が通りかかるのを待つだけさ」
自分の領地内を保護者のいない子供がウロウロしているのは許せないレスターは、小さなエディを自分の屋敷へ連れ帰って、管理責任者の家令に押し付けた。エディは自分が森で迷子になっていた経緯や父親の名前を嘘偽りなく述べたものの、問い合わせ先からはそんな子供はいない、という返事が来たらしい。
「……そういうわけだが、エディ、お前はどうする? 嘘をついているとは思っていないが」
エディはエディで、同期の女の子のアリスと一緒に働く生活が思いのほか楽しかったので、もうすっかりここに骨を埋めるつもりになっていた。自分が貴族の血を引いている事実は知っていたが、何一つ権利がない事も同時にわかっていたので、帰りたいとは微塵も考えなかった。
「普通の使用人はよほど仕事ができるか、信頼できる紹介先からしか雇っていないが」
一緒に主人の執務室へ呼び出された家令から、レスターは怒っているように見えても決してそうではないし、話せばわかってくれる良い主人だと教えられていたので、エディは深々と頭を下げる。主人の出した条件はどちらも、前者に限ってはまだエディにはないものだったが、ここで引くわけにはいかない。
自分の存在が侯爵家傘下の由緒ある家柄の者達からの、主人に対する信頼が揺らぎかねない事も何となくわかっているが、寒空の下に放り出されるのは二度と御免である。そのリスクに見合う対価を主人に支払う方が、ずっと素敵な解決策だと思うようになっていた。
「必ずレスター様のお役に立って見せます。ここに置いて下さい」
「……そこまで断言するなら置いてやるが、この屋敷の人間の全てに見られている事を忘れないように。たとえばこの二つのお菓子をどうするのか、そういう小さな事に綻びが出るんだ、油断しないように」
「はい、アリスとこっそり二人でいただきます」
よろしい、と言われたので、エディはお菓子を二つもらって退出した。これの購入先はどこか、とレスターが家令に話を振っているのが聞こえた。その家令から、一緒に仕事を教えてもらっているアリスという女の子は両親を亡くしているので優しくしなさい、とよくよく念押しされている。
使用人として生きていくにあたり、他の人には当たり前として存在している信用、という基本的な物の不足を埋めなければならない。けれど慈悲深い主人や尊敬する親代わり達がいれば、それを補うのは難しくないように思えて、アリスを探す足取りは軽かった。
「ほら、この間の試合で優勝した時に、本当は領地も爵位も賞金も出ないんだけど、すっかり噂になっていたから、僕を屋敷に迎える代わりに全部寄越せって、わざわざ押しかけて来てそういう話だった。領地を手放す事を検討するくらい、お金に困っているって知ったけど、自分だけで決めていい話じゃないと思って」
エディはレスターに付いて回る先の夜会等で、かつての血縁者を見かける事は何度かあったらしい。向こうも気がついている様子だったという。家令に相談してみると、自身や庭師の仕事仲間、料理長と懇意にしている取り扱う食材の商会等から現況を調査してくれていた。
「後はレスター様が前触れなく出て行って、前回の問い合わせの回答を持ち出した。迷惑料と僕を育てるのにかかったお金とか今後の損失として結構な額を即金で払えって叩き出して、この件は終わった」
疲れた、というよりはすっきりした、という息を吐いてエディは話を終えた。彼の家の事についてはあまり未練もないようで、先日レスターに子供みたいな注意をされた時の方が余程落ち込んでいるように見える。
「……教えてくれてありがとう。私もね、両親というのは寝る前に抱き締めて、髪にキスしてくれるみたいな人達の事を言うから、賢明だったと思う」
エディが素敵な二人だね、と同意したので、アリスはその通りだと嬉しくなった。彼の生まれた家は、沈みゆく泥船にしか思えなかった。エディはここにいた方がずっと幸せだろう、と何のためらいもなく思う。
「そう、僕も言いたかったんだけど、……この話はもっと重要な話とセットで聞いてもらわないといけないと思ってて。もっと色々と勉強して、いずれは領地を任されるくらい出世するつもりだから、安心して」
「……それは何の話?」
「結婚相手に選ぶ時の判断材料に、ぜひ。……重要だろ? そうじゃないと、僕は君に好きだって伝えるのも失礼だと思って。ご主人様を前にアリスとコインを投げた時に、この子しかいないって思ったんだ、世界で一番素敵だって」
いきなり話が飛んだのでアリスは動揺したが、エディはそれを見透かしたように僕はもう十八だ、と主張し始める。決めたタイミングはそこなの、と恥ずかしいのと呆れたので気が抜けて、アリスはソファの背もたれに身体を預けた。
エディは他にもたくさんある、と一から列挙しようとしてくれたが、あまりにも照れくさいので途中で止めさせる。その代わりに、アリスも一つの誓いを立てる事にした。
「……私が、エディを世界で一番幸せにしてみせるから。だから安心して」
自分が使用人に過ぎない身の上だろうと、彼に貴族の血が流れていようと、一緒に仕事を頑張って来た同期には違いない。アリスは姿勢を正し、決意を新たにした表情でエディを見上げ、彼もまたどこか熱意を持ってこちらを見つめ返した。
「じゃあ、抱き締めて髪にキスをする云々をやって」
「え、今?」
「そうじゃないと安心して眠れない」
「……」
図体は大きいくせに、小さい頃のベッドに入る前のトリーのような事を言い出した。まだ早い、そんな事ない、としばらく言い争った後で、かねてよりのルールに則ってコインを投げる事になった。お互い不正のないように、アリスが投げてソファに落とすという方法が採用される。結果は二人揃って神様、とエディは歓喜の声を、こちらはその正反対の声で同じ言葉が口をついて出た。
「あなたね、私が今、ありったけの勇気を使い果たして気持ちを打ち明けたっていうのに」
「……うん。幸せな気分にしてくれるんだろうなって」
いくら文句を並べ立てても、半分の確率に敗北したアリスに残された手段はもうなかった。エディのそれはそれは嬉しそうな顔を前に、これからは緊張してあたふたしている場合じゃないとか、積極的に主導権を奪いに行かなければ、と様々な決意が頭を過った。
「……その素敵な目を閉じなさい。これはお決まりの作法なの」
詳しいね、と茶化すエディの目を無理やり瞑らせた。素直にあっさり従った相手を前に、何か意地悪したい衝動に駆られる。しかしそれは手品ではなく悪質な嫌がらせだと自分に言い聞かせるのに相当の時間を要した。とりあえずやりやすいように、とアリスは少々勢い余りながらエディの頭を引き寄せたのでうっかり鎖骨にぶつけたりしたが、その点に関して特に苦情は来なかった。
「ねえ、まだ?」
「もうちょっとこうしていたい気分なの、我慢して」
その代わりの催促を一蹴して、抱き寄せたまま、指先でエディのやわらかい髪を撫でた。彼は一瞬身体を硬直させたが、大人しく待つ事に決めたようだ。
世界中の幸せな恋人たちはきっとこういう幸福を味わうのだろう。だからこれは決して意地悪で焦らしているわけではない、とアリスは自分に言い聞かせた。