はこになまえをとじこめた
名前を失ってしまうお話。
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001 名は体を表す
名は体を表す、という名前が物の性質を上手く表現している時に用いられる言葉がある。
「そら」は、空の広大で清々しい印象を良く表せている名称だ。「道路」は奇しくも英語で「ロード」。同じ物を指す言葉が、異なる言語で似た響きを持っている例だ。物体に命名する時、外見や質感に相応しい語感を与えるケースは非常に多い。これはブーバ/キキ効果と呼ばれる現象の影響が大きく、図形に抱く音象徴は、言語の壁を超え、共通する場合もあるダイレクトに効能や食感を名前に含む商品や、作品のジャンルをタイトルに含めるなど、一言でその商品や作品がどういう特色を持つのか、消費者や視聴者に伝えるネーミングは必須だ。
名前にはその物が内包する本質が凝縮されている。故に、名付けの際にしっくりくる、それに相応しい言葉を当て嵌めるのは必然と言える。
しかし、本質が名前に左右される場合もある。
人の名前は、親がそうなって欲しいと願って付けるものだ。優しい子になって欲しいと願われ、親切心を身に付けて育った者。華やかである事を願われ、お洒落を身に付けた者。名前に相応しい人間になろうとし、それが実現すれば、自分の名前を誇らしく思えるだろう。けれど、願いの通りにならない事もある。「速」という漢字を名に含んでいても、足が遅い者。賢く育って欲しいと願われても、勉学が不得手な者。
また、不適切な名前を与えられるケースもある。昨今では読み辛い当て字や、アニメキャラクターの引用など、子供が成長した時、改名したくなる様な名前も珍しくない。地域によっては、魔除けのために、あえて汚らわしい、忌避される名を付ける文化もある。印象の悪い名前は素直に名乗れないだろう。
雑草という名前の草はない。全ての草には名前がある。認識されている全ての物には名前がある。されど、役職や間柄によって、呼び方が変わる事はある。なんと呼ばれているかで、その人がどういう扱いを受けているのか、その当事者を詳しく知らない人でも分かる。
名前は、その人そのものである。
002 自分じゃない誰か
必要最低限の物しか置いていない、殺伐とした空間。目に痛い程壁が白い。怯えた蛙の様にパイプ椅子に座る私の前には、鋭い目付きの蛇が二人いる。向かって右側の男性は眼鏡を掛けた三十代半ば程で、左側の女性は吊り目で、四十代前半程。
「では次の質問です。趣味は何ですか?」
「はい。音楽を聴く事です。主にポップミュージックを……」
淡々とした男性の質問に、不安げに答える。
現在、私は皺一つないリクルートスーツを着用して、面接試験を受けている。ここは企業の所有する建物ではなく、会議室を多目的に貸出ししているビルの一室だ。
窓の向こうでは、木枯らしが溜息を吐く様に吹いている。
大学四年生の私は、進路を決めるために十社以上面接を受け、就活セミナーにも通っているのだが、なかなか内定は決まらない。卒業まで、半年を切っている、猶予はない。面接試験は何度やっても慣れない。言ってしまえば、人と話すだけなのに、必要以上に怯えてしまう。さっさと終わらせてしまいたいというモチベーションだけが先走っていて、具体的な目標やビジョンを持ち合わせていないせいかもしれない。内定は、ゴールではなく、社会人としてのスタートだと、分かってはいるが、面接試験よりも高い壁はない様に思えてしまう。
不合格通知を受け取る度に、酷く気分が落ち込んでしまう。社会に必要とされていないのだと言われている気がしてしまう。我が社には不必要だと言われているのには違わない。それが連続すれば、社会のどこにも居場所がないのだと錯覚してしまうのだ。
見渡す限り、先の見えない暗闇が広がっていて、足元は、立ち止まれば沈んでしまう沼で、もがき続けなければいけなくて。僅かに光が射す方を目指して、辿り着いたら安息があると思いたいけれど、その先に待つのは会社員としての労働、次の暗闇。
「何がしたい人なのか分かりませんねえ」
ひとしきり質問を終えてから、男性面接官が呟いた。もう一人の女性面接官の方は、数度腕時計を確認している。手応えのないまま切り上げられては不本意だ。
「な、何でもやります!」
「それは何も出来ない人が言う事なんですよね」
食い下がろうとした私を、女性面接官が一蹴した。
「なんだか、自分に自信がない様に見えますね。あなたにしか出来ない事はないんですか?」
「え? 私にしか、出来ない事?」
そんな事、ある訳ない。学校では散々団体行動と協調性を強いられてきて、群れから逸れない様に、個性を出さない様に、周りと同じ色になる様に、目立たない様に生きてきたのに。いつどこで自分にしか出来ない事など身に付けて来いというのだ。社会に出るために必要なものは、教わっていない。まるで練習と本番で違う事をさせられているみたいだ。代替可能な存在に仕立てておきながら、どうしてオンリーワンを求めるのだろう。
「まあまあ、若者虐めても仕方ないでしょう」
「それもそうですね。では面接を終えたいと思います。何か質問はありますか?」
数刻前まで私を値踏みしていた二人は、あからさまに見切りを付けた口調でそう告げた。結果通知を待つまでもなく、今回はご縁がなかったと書かれる事が予想出来る。
「……いえ、特にありません」
「そうですか。お疲れ様でした。結果は後日お送りします」
「はい……。本日は、ありがとうございました」
力なく立ち上がりながら、どうしてこんな思いをしなければいけないのだろうと、心の中で吐き捨てた。徒労感を覚える事なく、自分が進むべき道を見つけられる人と、私は何が違うのだろう。生まれた環境が違ったら、別の境遇に置かれていたら、私の人生は上手くいっていたはずなのに。いっそ自分じゃない誰かに生まれ変わってしまいたい。現実逃避にしかならない事を考えながら、退室しようとドアを開け――
「おまえ、なまえ、いらないのか?」
「え?」
背後から幼く甲高い声が聞こえた。さっきまで聞いていた面接官の声ではなく、聞き覚えがない声色だった。振り返って見てみると、そこには奇妙な存在がいた。
それは、純白の衣を纏い、真っ白な仮面を被っていて、絵本に出てくる妖精の様に見えた。大きさは子猫程で、ふわふわと宙に浮いている。仄かに光を放っていて、コンピューターグラフィックか何かかと思う程、現実感がなかった。
「な、何これ?」
「どうしました? まだ何か?」
突如現れた謎の存在に戸惑う私を、面接官の二人は訝しげに見ていた。妖精の様な存在は、私と面接官の間で浮遊している。「え? え?」と妖精を指差してみるけれど、首を傾げるばかりなので、面接官には見えていない様だ。幻覚を見るなんて、私の頭はおかしくなってしまったのだろうか。
もう手遅れだろうけれど、面接官に不信感を抱かれる前に、後退りしながら退室しようとした。その時、妖精が両手を合わせる様な動きを見せた。パタンと何かが閉じる音が聞こえたかと思うと、脱力感が全身を襲った。
「おまえ、なまえ、もらうぞ」
妖精がそう言い放った瞬間、全身の筋肉が急停止し、糸が切れた人形の様に、私の身体は床に崩れ落ちた。体中から汗が滲み出す。
「な、大丈夫ですか■■さん!?」
困惑しながら体を確認してみるけれど、異常があったのは一瞬だけで、立ち上がってみると、体は正常に動いた。周りを確認すると、先ほどまで見ていたものが嘘だったかの様に、妖精は跡形もなく姿を消していた。
「す、すみません。大丈夫です。失礼しました」
この期に及んで体裁を取り繕いながら、ドアノブに手をかけ――
「……今、なんておっしゃいました?」
「はい? なんですか■■さん」
「いえ、なんでもありません。失礼しました」
ドアを開け、脱兎の如く部屋を飛び出た私は、トイレに駆け込み、洗面台に向かう。汗で前髪が額に張り付き、唇が震えているのが鏡に映っている。
面接官は、きっと私の名前を呼んでいた。けれど、私の鼓膜が捉えたのは、人の口から発せられたとは思えない、耳障りなノイズだった。
自分の名前を口に出そうとしてみるけれど、声にならない。思い出す事さえ叶わない。
妖精は言っていた。「なまえ、もらうぞ」と。
「まさか……」
取り乱しつつ、財布から、免許証を取り出して確認する。住所の上、生年月日の左の項目、氏名の欄は、インクの染みの様な汚れで見えなくなっていた。指で拭ってみるけれど、消えそうにない。
口に出す事も、見る事も、思い出す事さえ出来ない。俄かには信じがたいけれど、妖精の言っている事は本当だった。私は名前を奪われ、失っていた。
003 人殺しの娘
幽霊や宇宙人の様なオカルトの存在は信じていない。宗教にも関心がないので、神がいるとは思っていない。だから、昨日の出来事に折り合いを付けるならば、やはり幻覚と幻聴だったという事になる。自分に言い聞かせる様に、体調が悪かったのだと割り切って、私は今日も面接に挑む。予定が入っている以上、キャンセルはあり得ない。のっぴきならない事態でもない限り、立ち止まる事は許されない。一日でも早く、就職活動から解放されるために。
今日面接試験を受けるのは、イベントの運営を行う会社だ。主に備品の手配や宣伝、告知を行っているらしい。ビル街の一角に事務所を構えている。案内された待合室には、私以外にも数人の志望者が待機していた。壁には、この会社が仕事に携わってきたイベントの宣伝ポスターが貼ってある。
志望者は皆一様に肩を強張らせ、堅苦しい表情で、自分の順番を待っている。緊張してしまうのも仕方がない、自分の価値を試される場所なのだから。
日本では面接形式の試験が定着している。はたして、数十分の質疑応答で、その人の事がどれだけ分かるだろうか。初対面の人間と円滑にコミュニケーションをとる能力は、社会人に不可欠だけれど、それが全てだとは言えない。口下手でも、人一倍仕事を熟す者もいれば、表向きは明るくとも、人には言えない側面を抱えた者もいるだろう。いざ採用し、働き始め、蓋を開けてみたら問題を抱えている人材だった、という事も珍しくないはずだ。
実技を優先する職種も勿論ある。ただ、そういうタイプの仕事は、最初からその職種を目指している人の為にあるものなので、資格や特技を持ち合わせていない私は、選択肢に入れていない。得意な事があるのが有利なのは重々承知しているが、生半可な特技なんて、自分よりも得意な誰かを見て心が折れてしまうものだ。
そう考えると、面接試験は手軽な手段ではあるのだろう。しかし今の私には、普段よりも障害が多い。未だに、自分の名前を思い出せていない。他ならぬ自分自身の名前なのに、遠い昔に関わりがあったけれど、最近はめっきり会っていない知り合いの様に、忘却の彼方にある。
「次、■■さん」
一晩明けて元通りになる事を期待していたのだが、免許証に印字されているはずの自分の字は、塗りつぶされていて見えないままだった。
「■■さん?」
口に出そうと思っても、声にはならない。まだ呼ばれていないので、確認は出来ていないけれど――
「■■さん? 順番ですよ?」
目の前に、女性社員が立っていて、私の顔を覗き込んでいた。
「へ!? あ、すみません! 今行きます!」
どうやら呼ばれていたらしい。周りの志望者達が苦笑いする。早くも失態を晒してしまった。
顔を紅潮させながら、面接室に移動した。今日の面接官は、三十代前半の男性が三人。毛先を遊ばせた髪型は、模範的な社会人とは言い難いが、三人とも充実感を持っている様に見える。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。では、初めにお名前をお願いします」
最大の難関が、最初に訪れ、私は言葉に詰まった。
学校のテストでは、解答欄を埋める事が出来ても、名前を書き忘れれば零点になる。いくら勉強が得意でも、自分の名前も覚えていない人には点数を与えられないという事だろうか。
「……どうしました?」
一番簡単な質問に、なかなか答えない私を見かねて、面接官の一人が口を開いた。
「すみません、緊張していまして」
「ははは、弊社はアットホームな職場を目指していますので、是非リラックスして下さい。楽しく働く事が出来れば、それが一番ですからね」
「ありがとうございます」
「では続けましょうか、■■さん」
事前に郵送していた履歴書に目を通して、私のであろう名前を呼ぶ。面接官の優しさに救われ、なんとか誤魔化せたが、出だしで躓いた事で、その後の質問にも満足に答える事が出来なかった。
面接を終え、退室する頃には、汗をかきすぎて、シャツが背中に張り付いていた。
一言で言えば、散々だった。面接官は優しかったので、しどろもどろの私にも呆れずに付き合ってくれたのだけれど、いくら優しくとも採用にはしてくれないだろう。
呼ばれても気付かず、名乗れず、文字も見えない。これは看過出来る状態ではない。どうにかなるかと思ったけれど、どうにもならなかった。病院で診てもらおう。耳と目、それから念のために精神科も。このままでは就職活動どころではない。
翌日の午前、住んでいる家から徒歩で行ける場所にある耳鼻科で診察を受けたけれど、聴力に異常はなかった。自分が呼ばれている事は、周りの反応で把握した。看護師が誰かを呼んだ時、立ち上がる人がいれば自分ではなく、誰も動かなければ、自分が呼ばれている、という具合だ。
その日の午後、色覚検査などもしたけれど、視力も色覚も正常だった。
土日を挟んで月曜日。単位の心配をする必要はないので、大学には行かず、住んでいる家から電車で三駅移動し、ビル内に診療所がある精神科を訪れた。
担当医には、自分の名前が見えない事、聞こえない事、口に出せない事、思い出せない事を伝えた。妖精の様な幻覚を見た事は言えなかった。見たのはあの一度きりで、医者に話す内容として適切か判断し兼ねた。そして何より、この年齢でメルヘンチックな事を考えていると思われたくなかったからだ。トラウマになりかねない恐ろしい物を見た、という方がまだ話しやすかった様に思う。
全てを詳らかにしなかったせいか、結局「まあ、ストレスでしょうね」と、ありきたりな言葉で片付けられてしまった。ストレスは万病の元だけれど、集団の中で生きている限り、ストレスを回避する事なんて、なかなか出来ない。人里を離れ、仙人の様にひっそりと暮らすしかない。そして、働いてお金を稼がなければ生活出来ない私には、無縁の生き方だ。
気休め程度に、精神安定剤を処方された。ないよりは良いかもしれないけれど、根本的な解決にはなりそうにない
肩を落として、帰りの電車に乗る。こういう時、腹を割って話せる友人でもいれば良いのだけど、私のアドレス帳には、親戚以外登録されていない。かといって、就職活動には連絡先が必須なので、所持しない訳にもいかない。
時間帯としては、まだ帰宅ラッシュ前のはずなのだが、今日は車内が普段よりも混んでいる。私は運良く客席に座る事が出来た。帰宅部であろう男子高校生。欠伸を噛み殺すサラリーマン。仲睦まじく会話するカップル。各々が各々の目的地に向かって体を揺られている。
「なんでこんな混んでんの?」
私の目の前で、吊り革を握って立っている二十代前半の男性が、友人と思わしき隣の男性に尋ねる。
「バス事故あったらしい。そんでダイヤ乱れてるから、電車に人流れてんでしょ」
「また? ここらへん、前もバス事故あったじゃん?」
「前、ってもう何年か前だけどな。それにあの事故よりは流石にマシだよ。人死んでねーから」
彼らの会話に、ぴくり、と体が揺れた。
「ああ、あの子供殺した――
反射的に、手で耳を塞いだ。目を閉じて、入って来る情報をシャットアウトする。
バスでも、帰宅する事は出来た。駅から自宅付近まで通っているバスはある。電車を選んだのは、バス事故を知っていたらではなく、常にバスを避けていたから。バスに乗ると、あの事を思い出してしまうから。
私の父はバスの運転士だった。私は一人っ子で、家庭は円満だった。職場での人付き合いやご近所付き合い、金銭面での悩みもなく、父が休みの日は、車で遊びに連れて行ってくれる事もあった。友達にも恵まれ、学校生活も充実していた。
日常が瓦解したのは、私が高校一年生の頃だった。その日、父はいつも通り出勤した。思い返してみても、変わった様子は何もなかった。運が悪かったとしか言いようがない。父が運転するバスは、客を乗せ、山の近くを走行中、タイミング悪く落石に襲われ、横転した。車体はガードレールを超え、林の中に投げ出され、バスは激しい衝撃を受けた。生存者はいなかった。運転士、私の父を含めた、十人の乗客は全員死亡した。この事件は、ニュースとして取り上げられ、全国で報道された。前触れもなく一家の大黒柱を失った我が家を、深い悲しみが襲った。しかし、悲劇はそこで終わりではなかった。
遺族の母親が、ニュースの取材を受けた。女性は、終始ヒステリック気味だった。彼女の息子は、小学校低学年で、祖母に会うために、初めて一人で遠出したらしい。女性は叫んだ。
「私の子供を返して!」「返して!」「返してよ、この人殺し!」
その矛先は、運転手である私の父に向いていた。客観的に見れば、父に悪意がなかった事が分かるだろう。父だって、どうにかして事故を避けたかったはずだ。自分だけ助かろうとしているならばいざ知らず、父だって亡くなってしまった。けれど、遺族の女性は我が子を失ったショックで、昏迷していた。父に全責任を擦り付けていた。追い打ちをかけたのは、コメンテーターだった。
「せめて子供だけでも助けられなかったんですかねえ」
その言葉は、視聴者の同情を煽った。スタジオに、父を庇う者はいなかった。一方的に父は悪人に仕立て上げられた。そして、その印象は全国に伝播した。
バス会社が遺族に慰謝料を払う事で、遺族とのわだかまりは解決した。しかし、二次被害は納まらなかった。私達親子を見る周りの目が変わった。
今まで友好的だったご近所さんは、あからさまに私達を避ける様になった。見知らぬ人からの電話が鳴りやまなくなった。ただでさえ、愛する夫を失って、傷心していた母は、耐えきれず、心労で倒れてしまった。
私の学校生活も豹変した。学校にいる間、私は常に冷たい視線を浴びていた。クラスメイトから、或いは、知らない生徒から。騒動が起き始めた当初、友人は私を庇おうとしてくれていた。けれど、父への誹謗中傷が肥大化し、私へのあたりが強くなるにつれ、露骨に避けられるか、無視される様になった。私と一緒にいると、同じ扱いを受けるかもしれないから、巻き込まれるかもしれないから、と思ったのだろう。私がいない間に、ロッカーに入っているノートや教科書に罵詈雑言が書き殴られた。ジャージや上履きを傷付けられたり、どこかに隠された事もあった。表向きは、私はただのひとりぼっちで、教師には虐められている様には見えていなかっただろうけれど、見えないところで、私は陰湿な嫌がらせを受けていた。だから、私は不登校気味になった。居心地が悪いところに、わざわざ行きたくはない。嫌な事を思い出して、悪夢を見る夜もあった。勉強はどうにかなったけれど、なるべく遅めに登校し、休み時間は人気のない場所に逃げ、放課後すぐに帰宅する生活を送った。
母が入院し、住人が私だけになった家は引き払った。収入もないので、母方の姉、私にとっての叔母夫婦の住むアパートでお世話になる事になったけれど、歓迎はされなかった。叔父は公務員なので、住人が増える事で家計が圧迫される心配はなかった。やはり、人の目を気にしての事だろうと思う。「目立つ事だけはしないでくれ」と何度も釘を刺された。しかし、本音は受け入れる事そのものに抵抗があったのだろう、顔を合わせる度に「さっさと出て行ってくれ」という空気をひしひしと感じていた。なので、私は息を殺しながら廊下を歩き、タイミングを外して食事をいただき、慣れないベッドで眠れぬ夜を過ごした。安息出来る場所はなかった。唯一優しく接してくれた従姉には、八つ当たりしてしまった。同情されるのが、惨めに思えてしまった。その時の自分には、温もりが却って辛かった。
大学に進学したのは、三年生に進学しても、現状が変わらなかったから。事件のほとぼりが冷めるのを待ちたかったから。人殺しの娘の烙印を押されたまま、就職出来るとは思えなかった。四年の猶予があれば、下火になると思いたかった。辛うじて勉学だけは継続していたので、学力に不安はなかったが、叔母夫婦に学費を負担してもらうのは忍びなかった。なので、出来る限り他の部分で出費しない様、必要最低限の物だけを買う生活を送った。同世代の女子が色気づく中、化粧やお洒落は殆ど出来なかった。大学では、ひっそりと過ごした。それでも、どこからか情報を得て、私に気付き、遠巻きに見る人もいた。害される事がないだけ高校の時よりは良かったけれど、レールから外れた人間に居場所はないのだと、痛切に感じた。極端に言えば、宿無しの人間に、社会復帰のチャンスはない様に、レッテルを貼られた人間は、群れから逸れ、二度と戻る事は出来ないのかもしれない。
何の悩みもなく、楽しそうに生きている人間が羨ましい。どうして私はそうなれなかったのだろう。自分の現状に不満が積み重なる度に、親から与えられた名前が呪いの様に重みを増してきた。名前を隠してしまえば、こんな気持ちを味あわずに済むのかと考えてはいたけれど、失う事になるとは思ってもいなかった。
004 名もなき子供
病院で診てもらっても、なんの手掛かりも得られず、このままでは就職活動を再開出来ない。帰る気分にもなれなかった私は、逃げる事にした。現実逃避だ。足を向けたのは、マンションの裏手にある山だ。ハイキングコースとして整備してあり、山中に四阿が設置されている。朝から学校に通いたくない気分だった時、ここで時間を潰す事が多々あった。誰の目にもつかない、誰にも咎められない、唯一心が休まる場所だった。
森の中に一歩足を踏み入れると、乾いた音がした。足元には、落ち葉のカーテンが敷き詰められている。見上げると、木々は赤や黄色に色付いて、葉の隙間からは木漏れ日が射している。人のいない秋の森は幻想的で、絵になるが、私は景色を楽しむためでも、写真を撮りに来た訳でもない。
四阿を目指して山道を歩いていると、見慣れない異物が目に入って足を止めた。
「バス……?」
驚きのあまり、思わず口に出してしまった。自然に囲まれた風景の中に、突如現れた人工物は、廃バスだった。塗装は全体的に剥がれていて、残っている部分も褪せて元の色が判別出来ない。所々苔が生えていたり、蔦が這っていて、老朽化している事が誰の目にも明らかだ。不法投棄なのだろう、車体に印字されているはずの社名はスプレーで塗り潰されている。前方に回って見てみると、ナンバープレートが外されていた。ここからでは車内の様子は見えないが、窓は罅が入っていたり、割れていたりする。
いつからここにあるのだろうか。少なくとも二、三年は経っていそうな廃れ具合だが、前回私が通った時には、ここには何もなかった。少なくとも、私は気付かなかった。廃車が放棄されているという噂も聞いた事がない。
普段、バスを利用しない様に避けているのに、どうして私の目に入るところに現れるのだろう。父の事を、存在を否定された日々を、呪われた名前を思い出せと暗に言われている様な気がしてくる。
自意識過剰だろうと、気分を改め、本来の目的である四阿を目指して歩き始めようとしたのだが、その瞬間「ガタン」と耳障りな物音がした。振り返ると、運転席側のドアが外れて倒れていた。
「え……」
前触れなく、唐突に壊れたので、動転してしまった。誰かが触った訳でも、何かがぶつかった訳でも、地震などの天災が起きた訳でもないのに、どうして今壊れたのだろう。単なる老朽化だろうか。怪奇現象と捉えてしまうのは、怯え過ぎだろうか。困惑で疑問ばかりが頭を占める。
「……えちゃん」
「え?」
車内から、人の声が聞こえた。奥の方にいるらしく、なんと言っているのかまでは聞き取れない。自治体や警察が、放置車を回収するために検分に来ているのだとしたら、不審者扱いされ、痛くない腹を探られるのは望ましくない。いや、車内にいるのが本当に不審者だった場合の方が物騒だ。どちらにしても、いち早くこの場を離れなければ。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん」
「お姉ちゃん? 私?」
聞こえてくる声は、助けを呼ぶ子供の様に聞こえた。もし、子供が迷い込んで、何かしらのトラブルに巻き込まれ、車外に出られなくなっているのだとしたら、見過ごすわけにもいかない。私の些細なこだわりよりも、人命の方が優先される。
ドアが外れた部分から、恐る恐る乗車してみる。視界に入る限りは、荒れている様子はない。運転席のシートが捲れているくらいだ。更に踏み込むと、車内の全貌が見えたけれど、その光景に違和感を覚えた。
客席に、糸が縺れた熊のぬいぐるみが凭れ掛かっている。それだけではない。優先席には絵本や車の玩具、トランプカードが散らばっている。壁に掛かっている時計は、針が動いていない。まるで、子供部屋の様だが、人の匂いは残っていない。子供が遊んでいる光景を想像すると、微笑ましいはずなのに、そうではない場合だったらと思うと、不気味で、鳥肌が立つ。
帰ってしまおうかと逡巡しかけた時、奥の席に悠然と座っている人物が視界に入った。私を呼んでいたであろう声の主は、中性的な顔立ちの子供だった。
灰色の毛髪を小洒落たショートボブにしている。上着の袖が、指先まで隠す程長いのに対し、二分丈程しかないショートパンツを履き、太腿を露わにしている。口元を悪戯に歪めていて、瞳の奥には底知れぬ漆黒が潜んでいる。街中を歩いていても違和感のない、ソフィスティケートなコーディネートで纏めてはいるが、どこか浮世離れした印象を受ける。
「やあ、来たんだね」
子供が私と目を合わせ、口を開く。声変わり前の、男女の差別がつかない声音だった。見たところ、怪我をしている様にも、困っている様にも見えないけれど。
「大丈夫? 閉じ込められちゃったの? 助けが必要? それとも、遊んでいただけ?」
からかわれてしまったのだろうか。笑い話で済むのなら、それに越した事はない。ここを秘密基地にして遊んでいるのなら、子供の遊び場所を奪ってしまって申し訳ないけれど、危険がないとはいえないので、やんわりと撤退を勧めよう。
「お姉ちゃんは、今名前がないんでしょ?」
「な!?」
他者が知っているはずのない事を言われ、動揺を隠せなかった。今、私が名前を失っている事を把握する手がかりが、先ほどのやりとりの間にあったとは思えない。目の前にいる子供の顔を改めてまじまじと見る。見覚えはない。知り合いの子供、という線も考え辛い。一方的に知られている事はあっても、名前を失っているなんて突拍子もない話は、誰にもしていない、医者にすら。だから伝わりようがないはずだ。
「どうして、君はそれを知っているの?」
不用心にも、私はストレートにそう尋ねてしまった。今目の前にいるのが、ただの子供ではない事を認めなければ、辻褄が合わないとしか思えなかった。車内に導かれたのも、偶然ではないのだろう。
「ボクは、自分から妖精に名前を売り渡したんだ」
にやにやと軽薄な笑みを浮かべながら、子供は言った。他の人には戯言にしか聞こえない様な事を。
「君は、いや、君も、あの妖精を見たの?」
先程から、疑問形ばかりだけれど、混乱するのも仕方ない状況だ。もし妖精を見たのが私だけではないとしたら、幻覚ではなかった事になると言えるかもしれない。
「うん、白々しい程白い妖精でしょ?」
表現はともかく、カラー情報と、名前を切り取る不可思議な存在という事は一致している。けれど、私と違う点もある。
「でも、君は、自分から名前を――
「そうだよ。捨てたんだ」
口元を長い袖で隠しながら、食い気味に答えられた。
「どうして、そんな事を……」
「名前がなければ、人と出会う事がなくなる。人と出会わなければ、物語にならない。物語から除外される事は、楽なんだ」
「楽……」
「人から嫌な感情を向けられる事がなくなるんだ。怒りや嫉妬、疑惑とか諦め、そういうものの矛先が自分に向かなくなる。それだけじゃない。人と関わる必要がなくなる。人間関係は、いつの時代も人を煩わせるものだけれど、そんな面倒事から解放される。重圧を背負う必要もない。世間に追いつこうと、もがく必要もなくなる。心をすり減らしてまで、人と競う事なんてないんだ。自分のペースでいれば良い。歳を数える事に意味がなくなるから、老いる事もない」
袖に隠された腕を伸ばしながら、悠々と語る様子は、成功者の余裕にも似たおおらかさが内包されていた。少なくとも、好奇心で廃バスを遊び場にしている子供には見えない。
「なんだか、素敵な生き方だね」
「違うよ」
仙人の様な存在だとも解釈出来る生き様に、憧れかけた時、何故か首を振って否定されてしまった。
「え?」
「ボクは生きてはいないんだ。死んだ訳でもない。幽霊でもない。何にもなれない。だから、ボクみたいになっちゃダメだよ」
そう言った子供の顔は、おどけて微笑んでいるのに、どこか悲しげに見えた。
その後の事は記憶が曖昧模糊としていて、よく覚えていない。最後の言葉の意味について、そして、どうすれば名前を取り戻せるのか、詳しく聞きたかったのだけれど、煙に巻かれて、いつの間にか別れていた。子供がその後どうしたのかも分からない。朦朧とした頭で家に帰り、気が付いたら陽が落ちていて、自分の体は、与えられた部屋の中にあった。なんだか、狐に化かされた気分だ。
叔父さんと叔母さんがお風呂からあがったのを確認し、私も入浴しようと脱衣所に入った時、名も知らぬ子供が言った言葉の意味を知った。
鏡に映る自分に向かって「お前は誰だ」と問い続けると、正気を失う、という都市伝説があると云う。真偽は分からないけれど、鏡に映る自分を見て、私は正気を失いそうになっていた。
テレビ番組で見る、個人情報を守るためにかけられるモザイクが、鏡に映る自分の顔にかかっていた。鏡に触れて、指で拭いてみるものの、汚れではなかったので、変化はない。顔を動かして、モザイクを外してみようと試みるも、モザイクはしっかり顔に追いつく。手で自分の顔に触れるが、感触に異変はなかった。冷や汗をかいている様な気はするが、自分が今どんな表情をしているのか分からない。そうしているうちに、私は私自身の顔を忘却してしまいそうな恐怖感を覚え、鏡から目を逸らして、その場に蹲った。
もう動かないバスに乗った子供は、名前を捨てれば、傷付く事がなくなると言った。それは同時に、喜びや楽しさを感じる事もなくなるという意味だ。誰にも見向きされない人間は、誰の特別にもなれない。人と関わらなければ、誰だっていい通行人でしかなくなる。
これは、モザイクは、きっと警告だ。名前を取り戻さなければ自我を失う。誰でもなくなる。生と死の境がなくなる。
このままじゃ駄目だ。危機感を持って、名前を取り戻さなくてはいけない。
005 私の知らない私
朝、目が覚めてからいの一番に鏡を確認してみると、モザイクは消えていて、自分の顔と向き合う事が出来た。名前と違って、継続的なものではなかった様だ。だからといって、安心は出来ない。いつまたモザイクが戻って、今度は消えなくなってしまったらと思うとぞっとする。
日中家にはいられない。いてもやる事がなく、主婦の叔母に煙たがられるからだ。学校には用事がなく、人目につきたくないので、時間を潰す場所には適さない。履歴書さえ書けないので、就職活動は出来ない。無駄遣いは極力したくないので、飲食店にも入らない様にしている。名前を失ってから受けた面接も、案の定不合格だった。病院はこれ以上行っても無意味だろう。
焦燥感に駆られ、行く当てもないのに、私はマンションを出た。もう一度、山の中の廃バスを確認してみようか。もし、昨日の子供がいたら、話を聞いてみよう。何か教えてくれるかもしれない。
淡い期待を込めて、歩き出そうとしたところ、視線の先に、見覚えのある人影を発見したので、踵を返そうとしたけれど、間に合わなかった。
「おねいたん!」
小さな女の子が、短い足でぱたぱたと駆け寄って来て、私の服の袖を掴んだ。何が楽しいのか、満面の笑みを浮かべ、笑窪を作る彼女は、私にとっては従姪にあたる。等親的には叔母の私を、彼女は舌足らずな口でお姉ちゃんと呼んでくれている。年齢は五歳。目がクリッとしていて、ブラウンの髪を、派手な色のシュシュで括ってサイドテールにしている。体を動かす事が好きな様で、会う度に走り回っている印象がある。
「おはよーございまー!」
美名ちゃんは、幼稚園でそうする様に、元気の良い挨拶をする。
「美名、勝手に走って行っちゃダメっていつも言ってるでしょ」
「……おはようございます」
「あ、おはよう。ひさしぶりだね」
少し遅れて私の前にやって来たのは、私の袖を掴む子供、美名ちゃんの母親の雛さん。五歳上の従姉だ。垂れ目で、ブラウンの髪に緩やかなパーマをかけている。美人ではないけれど、明るく朗らかで、誰にでも笑顔で接するので、悪い印象を持つ人はいない。捻くれた私を除いて。
「大丈夫? 顔色悪くない? 就職活動で忙しいのは分かるけど、自分を大切にしてね?」
雛さんは、事ある度に私に優しくしてくれる。私にはそれが、余裕のある人間に見下されていると感じてしまっていて、一方的に苦手にしていたので、あまり会いたくなかった。なので、もし鉢合わせしても、何かと理由をつけてその場から離れていたのだけれど、流石に純真無垢な子供は無下に出来ないので、こういう場合は捕まってしまう。
雛さんは、保育士になるために専門学校に通っていた。けれど、就職活動を始めた直後に、付き合っていた同い年の恋人の間に子供を授かったので、入籍し、主婦として子育てに専念した。
二十一歳という若さで子供を産むという事について、眉を顰める者もいるだろう。法律で結婚を認められてはいるものの、育児能力はまだ充分ではない事が多い。しかし、雛さんは不順異性交遊に浸る様な女性ではない事を周囲は知っていたので、家族や友人はおめでたい事として受け入れた。
実家を出て、電気工事士として働く夫と愛娘との始めており、今日の様に、頻繁に孫の顔を見せに帰省している。
子供には美名と書いて「みな」と読む名前を与えた。良い名前だと思う。
今なら分かる、私は雛さんが羨ましかったんだ。親が健在で、仲も悪くなく、女性としての幸せを掴んだ彼女に嫉妬していた。だから、彼女の優しさを受け入れられなかったんだ。唯一、私に冷たい視線を向けず、笑いかけてくれたのに、気付かない様に鬱屈していた。
「あ、そうだ。頼みたい事があるの」
右手で娘の左手を握りながら、雛さんが不意に言った。
「はい、何でしょう」
左手に持っていた紙袋から、煌びやかなおもちゃを取り出した。日曜朝に放送している、女児向け魔法少女アニメの作中に出てくるアイテムを模した物だ。
「ほら、ハコちゃん器用だから、時計の修理とかしてもらってたでしょ? 美名のおもちゃが壊れちゃったから、直してもらえないかなって。あ、美名、勝手に離れちゃダメって言ってるでしょ」
雛さんの言葉を聞いて、熱心に機械弄りをしていた時期があった事を思い出した。けれど、それは中学生の時であって、それ以降は――
「え、今なんて?」
重要な事を聞き逃すところだった。
「ん? 美名のおもちゃを直してもらいたいなって。音が出なくなっちゃって――
「そ、そうじゃなくて。私の事」
「ハコちゃん?」
名前、ではなく渾名だけれど、確かに聞こえた。ちゃんと私を呼んでいるって分かった。不覚にも、泣きそうになってしまいそうだった。ようやく光明が見えた瞬間だった。
「……分かりました、雛さん。時間はかかるかもしれないですけど、やってみます」
お礼を言うべきところだけれど、素直じゃない私は、紙袋を受け取ってそう言った。
「ありがとう。でも、私の事は昔みたいにお姉ちゃんって呼んでくれた方が嬉しいな」
子持ちのいい年齢なのに、何を言っているのだろうこの人は。昔って、もう十年近く前の話だ。子ども扱いされた事で、せっかく変わりそうだった印象が覆った。
受け取ったおもちゃを試しに触ってみると、感度の悪いラジオの様に、途切れ途切れに音が流れた。
「そういえば、ハコちゃん最近はオルゴール触ってないの?」
「オルゴール?」
音の出るおもちゃで思い出した雛さんだったけれど、私はその言葉で自分自身の記憶の蓋を開けられた。雛さんの方が、私の事を知っているのではないだろうか。
雛さんと美名ちゃんに会っただけで日が暮れてしまったけれど、名前に関する手掛かりを得られたので、前進出来たと思う。
自室に戻り、電灯のスイッチを入れる。幾らかは見慣れた、まだ自分の物にしきれていない、空っぽの部屋だ。余計な物は殆ど置いていない。壁に掛けているスーツと、カラーボックス内の教材。私服は最低限の量。極力整理整頓を心がけているので、モデルルームの様に、生活感がない。
そんな私の部屋だけれど、窓際にぽつんと置かれた手作りのオルゴールだけが、私物と呼べる物かもしれなかった。木製の外枠を撫でてみる。紙やすりで削られた、滑らかな表面。色褪せてはいるものの、汚れてはいない。開いてみると、発条仕掛けの機構が顔を覗かせる。螺子を巻いて、手を離すと、悠然と、懐かしいメロディが流れた。ドーナツの穴を、心の穴に例えた曲だ。久しぶりに聴くその音によって、童心が蘇った。
このオルゴールは、市販のキットを購入し、小学校の自由研究で作った物だ。当時は、それ以外にも、機械を弄るのが好きだった。使わなくなったラジオや電卓などを解体して観察したり、雛さんに頼まれて時計を直した事もあった。それを特技だと、胸を張って言えなくなったのは、自分よりも得意な人がいる事を知ったから。自分が特別優れている訳ではなく、ちょっと齧った程度でしかない事を自覚してしまったから。それでも熱意を持って、自分のやっている事を貫ける人が本物になれるんだろうけれど、父の事もあって、いつの間にか機械弄りも、オルゴールも、冷めてしまって、忘れてしまっていた。思い出した今でも、この程度じゃ仕事にならないだろうと思ってしまうのは、名前を失って、自信がないからだろうか、そう信じたい。
006 夢の残骸
電車を乗り継いで一時間強、駅員が一人だけの駅を降り、廃れた商店街を抜ける。山の麓には畑が広がっていて、土と肥料の匂いに、思わず顔を顰めた。長閑と言えば聞こえは良いけれど、商売に向いた場所には見えない。今日の目的地は、こんな辺鄙な場所に建つ木造の洋館だ。父が健在だった頃に連れてきてもらった記憶がある。入り口の横に掲げてある木製の看板には「奏薫堂」と店名が表記されている。
ドアを開くと、来客を知らせるベルがカランと鳴った。高い天井にはシーリングファンが回っていて、店内は広々とした印象を受けるが、客足がないため、その広さが却ってうら寂しい。棚に陳列されているのは、宝石箱の様な物や、蓄音機を模した物、外枠が硝子で出来ていて、中の機構が見える物など、様々なデザインのオルゴール。そう、ここはオルゴール屋だ。
並んでいるオルゴールの一つを手に取り、螺子を回してみる。粉雪の様に儚い旋律が空中に舞って、床に溶けていく。金属製の歯から流れるのは、優しく琴線に触れる音色だ。
小学校の自由研究でオルゴールを作ったのは、ここに来た影響だ。来店は、その時以来なので、十数年振りだ。それだけの年月が経っているので、変化があった。当時店長を務めていた女性がいない。それどころか、店員が見当たらない。見渡す限り目に入るのは、併設されたカフェのカウンターに立つ男性だけ。あの人に話を聞いてみよう。
最低限埃を拭き取られている程度のオルゴールの商品棚に対し、カフェスペースは頻繁に手が加えられている様に見える。椅子や装飾品はアンティークで統一されていて、レトロな雰囲気を醸し出している。イーゼルタイプのブラックボードにはメニューが書いてあり、日替わりで書き換えられているものもある様だ。目を惹かれたのは、土日限定の特製カレーだ。他にフードメニューはないので、根強い人気があるのかもしれない。
「いらっしゃい」
男性に声をかけられる。マスターという言葉が似合う、渋い声だ。見た目は五十代後半程だけれど、白髪交じりの頭髪がしっかりと残っている。皺が刻まれた顔には、柔らかさの中に哀愁が湛えられている。身長は私と同じくらいで、痩せ型。ブラウスの上にカマーベストを着用し、蝶ネクタイを締めている。
「ブレンドをお願いします」
カウンター席に座りながら、注文を告げる。テーブル席は、四人掛けが一卓だけある。
マスターが、注文を受けてから、ミルを回して豆を挽き始める。芳しい香りが鼻腔を擽り、落ち着きを与えてくれる。
「あの、前に店長をしていらした女性は、今はどこにいらっしゃるんですか?」
ドリップ中のコーヒーがカップに満ちるのを待つ間に、疑問を投げかけてみる。
「妻は数年前に亡くなりました」
マスターは、特に悲観な雰囲気も出さずに、淡々と答えた。そうか、奥さんだったのか。
「それは、お悔やみ申し上げます」
「いえ、元々病弱だったもので、長くはないと覚悟しておりましたから。こちらブレンドです、ごゆっくりお召し上がりください」
湯気が立ったカップが目の前に差し出される。
「ありがとうございます」
息を吹いて、少し冷ましてから、ブラックのままいただく。苦味は本来、毒だと判断され、幼少期のうちは拒絶してしまうものだが、大人になるにつれ、ストレスを感じるとともに、苦い飲食物に魅力を感じ始めるのだそうだ。きっと、苦味は人生に深みを与えてくれる。
「今はお一人で経営なさってるんですか?」
見る限り、他に店員の姿はない。カフェだけならともかく、オルゴール店のスペースまでは、なかなか手が回らないだろう。
「ええ、そうなんですよ。なにぶん、私にオルゴールの知識がないもので」
「そうなんですか?」
「ええ、妻がオルゴールの店を、私がカフェ経営をするのが夢で、互いの夢を叶える形で始めたのがこの店なんです」
「……素敵ですね」
と、口では言ってみたけれど、穿った見方をすれば、主亡き今、手入れされないオルゴールは、夢の残骸と言えなくもなかった。
ドアが開いて、カランとベルが鳴る。
「おっす、古渕さん」
入店したのは、如何にも農家らしい、土に汚れた服を着た四十代後半程の男性だった。少なくとも、瀟洒なオルゴール館の雰囲気には似つかわしくはないけれど。
「珍しいですね、野上さんが土日以外にいらっしゃるのは」
話し慣れている様子なので、常連らしい。土日に来るという事は、カレー目当てに来ているのだろう。コーヒーを飲んでいるよりは、カレーを頬張っている様子の方が安易に想像出来てしまう。
「そっちこそ、珍しいじゃねぇか。俺ら以外に客がいるの。いや、なに、ちょっとこれ直して欲しくてさ。音出なくなっちゃって。十年前にここで買ったヤツなんだけどさ」
野上さんと呼ばれた男性は、私の隣に立って、カウンターにオルゴールを置いた。ついさっきまで農作業をしていたのだろうか、泥の匂いが、僅かに漂ってきた。
紳士的な喋り方のマスターと、ぶっきらぼうな口調の農家さんが会話しているのは、不釣合いで、少し面白い光景だ。
「申し訳ないですけれど、私は直せないです」
「そっかぁ、とりあえず置いてくな」
ご近所さんだという事は、オルゴール店の店長が亡くなっている事を知っているはずだから、駄目で元々だったのだろう。それでも捨てずにいるのは、それなりに思い入れがあるのかもしれない。
「店員でも募集してみたら良いんじゃねえか? 一人じゃ何かと大変だろ?」
「そうしたいところなんですけれどねえ。立地的になかなか難しいかと思います」
「ここらへんジジババしかいねえからなあ。お嬢ちゃんは? 大学生くらいに見えっけど。就活中だったりしないか?」
「はひっ?」
不意に声をかけられ、泡を食ってしまった。
確かに私はちょうど喉から手が出る程職を欲している。これは絶好の機会だ。人よりは多少オルゴールについて詳しい。きっとこのマスターなら、温かく迎えてくれるだろうし、ご近所さんとも上手く付き合える気がする。けれど、今のままでは、それは叶わない。
「いえ、私は間に合っています……」
愛想笑いで、嘘を吐いて、チャンスを不意にしてしまった。名前を失っている現状では、この人達の厚意には応えられない。
「そっかぁ、残念だな。誰か良いヤツいたら紹介してくれな」
「まるで野上さんが店長みたいですね」
「あはは……」
本当に、温かい人達だ。居場所がない私でも、ここでなら安らげる。だからこそ、心苦しい。
007 美しい名前
名前を取り戻す手がかりが見付かれば、という思いで訪れたオルゴール館だったけれど、焦燥感ばかりが募って、これといった進展はなかった。これからどうしようか、前回は行けなかった裏山の廃バスに向かってみようか、と帰り道を歩いていた時だった。
陽が暮れかけ、影が差すマンションの前に、雛さんの姿を見つけた。ご近所の婦人と井戸端会議で盛り上がっている様子だった。
「美名ちゃん大きくなったわねえ。うちの娘が小さかった時の服あげようか? もう着れないし、売るのもどうかなあって思ってたのよ」
「あら、本当ですか? 助かります」
美名ちゃんは、雛さんに手を握られていたけれど、退屈そうに足をぷらぷら揺らしていた。近付くと、私に気付き、顔を綻ばせた。
「おねいたん!」
美名ちゃんが私を呼び、雛さんも私に気付く。婦人は私の顔を見るなり、眉を顰めたけれど、すぐに雛さんに向き直って、見て見ぬ振りをした。
「ハコちゃん、こんにちは。おもちゃ、直してくれた?」
「こんにちは。あ、いえ、まだですけど、すぐに直ります」
雛さんが手を離し、美名ちゃんが私に駆け寄ったので、私は美名ちゃんの相手をする事にした。美名ちゃんは、私の父親の事を知らない。それだけじゃなく、この世界に満ちている悪意や恐怖の殆どをまだ知らない。だから子供は無垢で、純粋で、尊い存在なのだろう。
美名ちゃんは、じっとしているのが苦手で、走るのが好きな、活発な子供だ。目を離すと、どこかに行ってしまう。雛さんも手を焼いている事を、私は知っていたはずなのに、失念していた。
何がきっかけだったのかは分からない。私としていたアルプス一万尺に飽きたのかもしれないし、道路の向こうに野良猫を見つけたのかもしれない。美名ちゃんが唐突に、車道に向かって、走り出した。表通りに面しているこの場所は、車の通りが少なくない。無闇に飛び出せば危険だ。現に、十メートル先に、走行中のバスが見えた。美名ちゃんに気付いた運転士が青褪め、急ブレーキをかけるが、間に合いそうな距離ではない。感覚が鋭くなって、目に入る物が、スローモーションの様に緩慢になる。手を伸ばしても届かないので、私は地面を蹴った。そこで雛さんが現状に気付くも、距離が開いているので、彼女が間に合う事はない。路上に乗り出して、美名ちゃんを抱きかかえる。目の前まで迫るバスに、息もつけない。私は走り出した勢いのまま転がり、何とか美名ちゃんをバスから守ろうとする。そこで私の視界は暗転する。
気が付くと、私の身体は歩道に仰向けで転がっていた。
呻きながら、顔を上げる。傍らに、美名ちゃんが横たわっている。気を失ってはいるものの、怪我をしている様子はない。立ち上がろうとしたけれど、体が思う様に動かない。鼓動がやたらと高鳴っていて、全身が脈打っている様な感覚だ。痛みはないけれど、体のどこかを強く打ちつけたため、麻痺している様だ。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。誰かが呼んだ様だ。どうやら私は救急車が必要な様態らしい。
このまま、私は死んでしまうのだろうか。私を撥ねた、いや、私が飛び込んだ車は、奇しくもバスだった。子供を殺したバス運転手の娘が、子供をバスから救えば美談になるだろうか。朦朧とした意識の中で思い浮かぶのは、愚かで浅はかな考えだった。「もう、これでいい」なんて思ってしまえば、死神に自ら手を差し出す様なものだ。そんな意識を改めてくれたのは、遠巻きに野次馬が群がる中、大粒の涙を流しながら、必死に口を動かしている雛さんの存在だった。耳に異常をきたしているのか、聞こえる音が水中にいる時の様にくぐもっているけれど、きっと私を呼んでくれているのだ。私を心配してくれているのは、誰の目にも明らかだ。こんな状況じゃなくても、雛さんは私を見てくれていた。だから、名前を失っている時でも、渾名が聞こえたんだと、今なら分かる。呼んでくれているのに、名前が聞こえないのは、嫌だ。
見渡す限り、真っ暗闇が広がっている。一切の光が閉ざされていて、上も下もない、まるで星のない宇宙空間の様な光景だ。そこに私は、生まれたままの姿で漂っている。衣服を着用していなくても、寒さは感じない。風や音はない。ここは、夢の中だろうか? いや、朧げに覚えている。私は事故に遭った。じゃあ、ここは死後の世界だろうか? 天国や地獄にしては殺風景だ。どちらかというと、私自身の精神世界、意識の中の様な気がする。
そんな私の中にしか存在しない世界に、私以外の姿があるのを遠くに認めた。泳ぐ様にして近づいてみる。見覚えのある木箱に腰をかけているのは、真っ白い妖精だった。私から名前を奪った妖精。けれど今は、必然性があって私は名前を取り零したのだと分かる。私は自分の名前を恨んで、呪って、目を背けて、捨ててしまいたいと願っていた。妖精は私の願いを叶えたに過ぎない。妖精を責めるのはお門違いだ。身から出た錆なのだから。だから、私は、請わなければいけない。願わなければいけない。希わなければいけない。
「どうか、私の名前を返してください。もう捨ててしまいたいなんて思いません。情けない自分に嫌気が差しても向き合います。人に後ろ指差されても受け止めます。だから、私が名乗るべき、人に呼ばれるべき名前を、返してください。それは私の物です、他の誰でもない、私自身です」
神に懺悔する様に、声を震わせながら、縋る気持ちで懇願した。妖精は頷く動作を見せてから、木箱から降りて、どこへともなく消え去った。
妖精が姿を消してから、私は木箱を見つめ直した。子供の頃に作ったオルゴールに似ているけれど、それより二回り以上大きい。いつからから、私は箱の中に想いを押し殺し、閉じ込めていた。
箱に手をかけ、蓋を開ける――
008 Call me
喜んでいるのか、悲しんでいるのか判別出来ない、産声の様な声が聞こえた気がして、目覚めると、見覚えのない真っ白な天井が目に入った。
「おかーしゃん! おねいたん起きたよ!」
横を向くと、美名ちゃんがいた。遅れて、自分の身体がベッドに横たわっている事に気づいた。
そうか、事故に遭って、入院する事になったのか。腕を見ると、点滴に繋がれていた。
「ハコちゃん! ぐすっ、うう……。ハコちゃん!」
正面に、雛さんがいた。泣き腫らした事が一目で分かる赤い目で、今も嗚咽交じりに私を呼んで、シーツを掴んでいる。
雛さんを落ち着かせてから、看護師を呼んで貰い、症状を確認しながら話を聞いた。雛さんがあまりにも大袈裟に泣くものだから、命の危機にあったのかと思いきや、頭を軽くぶつけた程度だったらしい。目立った外傷や、後遺症も残らないそうだ。美名ちゃんに至っては、無傷で済んでいる。私が意識を失っている間に、雛さんに叱られた様で「ごめんなさい」と謝られたけれど、自分が何について謝罪しているのか、正確には理解していない様だった。
美名ちゃんを轢きかけたバスはダイヤを乱し、運転士は軽度の業務上過失損害を言い渡されたものの、処罰は軽度で済んだらしい。
だからといって、何も起きなかった訳ではない。私は雛さんに言わなければいけない事がある。面と向かって言うのは気恥ずかしいので、雛さんがお見舞いの林檎の皮を剥いている時に、ぼそっと「ありがとう、姉さん」と呟いた。
「お礼を言うのはこっちだよ――って今姉さんって呼んでくれた?」
雛さんが果物ナイフを持つ手を止めてこっちを見たので、私は顔を逸らした。
「ねえ、ハコちゃん。もう一回言ってよー」
確かに私は美名ちゃんの命を救ったので、私が命の恩人という事になるのだろうけれど、雛さんのおかげで私は自分の名前を取り戻せた。それを雛さんは知らないので、誤魔化して言ったつもりだったものの、思った以上にお姉さん呼びに食いつかれてしまった。
念のため検査を受けはしたけれど、私は程なくして退院する事が出来た。
秋風は寂寥としていて、立ち止まると、訳もなく感傷に浸ってしまいたくなる。或いは、今立つ場所がそう思わせるのかもしれない。無事に退院した私は、以前住んでいた町の外れに佇む墓地に訪れていた。
夥しい数の墓石の一つに、父が眠っている。墓参りに来たのは、納骨以来だ。その後すぐに騒動があり、私自身の父への印象も変わってしまったため、足を運べずにいた。
墓前で膝をついて、花立に花束を挿し、目を閉じて、手を合わせる。
「お父さん、長い間会いに来なくてごめんね。もうお父さんの事隠すの、やめるから。他の人になんて言われようと、お父さんが悪くないの、知ってるから」
永い眠りにつく父に、これからは前を向いて歩く決意を告げた。帰り際、心なしか、墓石に刻まれた父の名が、陽光に反射して輝いた様に見えた。
父の墓参りに行ったその日のうちに、そこからそう遠くない位置に建つ総合病院を訪れた。私がお世話になったところとは、別の病院だ。入院棟の一角、四人部屋の窓側のベッドで、私の母親が横たわっている。意識はある様だけれど、瞳は虚ろで、あらぬ方を見つめている。看護師の話によると、話しかけても反応せず、譫言をぼやいている事が多いらしい。
「お母さん、私だよ」
母の頭部の側に腰をかけ、話しかけてみるけれど、視線を合わせてはくれない。医師に聞いていたので、分かってはいたけれど、母の容態は治る見込みがないそうだ。私も頻繁にお見舞いには来られない。父に宣言した事と同じ事を言おうと、口を開きかけた時だった。
「名前は、お前の名前はね」
「お母さん……?」
「大切な物を、大事に、大事にしまっておける、宝箱の様に、人の想い……や、思い出を、大切に、出来る人間になって欲しくて、名付けたんだよ。名前をね」
たどたどしく語られた私の名前の由来に、思わず目頭が熱くなった。正気を失っても、私の存在が母の中に色濃く残っていた事が嬉しかった。
「ありがとう、お母さん。私、お母さんとお父さんの願いに相応しい人間になってみせるよ」
細い手を握り、決意を告げる。軽く握り返してくれたのは、ただの反射だったのかもしれないけれど、私に微笑みを与えるには、それだけで充分だった。
その後、私に助言を与えてくれた、名もなき子供に会いに行こうと、裏山に上ってみたけれど、廃バスは跡形もなく消えていた。タイヤ痕さえ見当たらない。結局、あの子供も妖精と同じく、幻覚だったのかもしれない。けれど、それでも構わない。名前を奪われるまでもなく、何者にもなれなくなりかけていた私に、自分を見つめ直す機会を与えてくれたのは、妖精と子供だったのだから。あのままでは、名前を奪われるまでもなく、誰にも必要とされない、誰の特別にもなれない存在になるところだった。
逃げ場を必要としなくなった私は、もう四阿を訪れる事もないだろう。
「こんにちは」
「おや、おなたは、以前いらっしゃったお嬢さん。いらっしゃい」
リクルートスーツを身に纏って、再びオルゴール館を訪れた。若い女性が一人で来店するのがよほど珍しいのか、顔を覚えて貰っていた様だ。けれど、今日は客として来た訳ではない。
「前回来た時、常連さんが持って来た、壊れたオルゴールってまだありますか?」
「ええ、ありますけれど」
話が見えず、マスターは困惑している。
「ちょっと、見せていただけますか?」
「ええ、どうぞ」
私のお願い通り、マスターはカウンターの後ろの棚から、オルゴールを取り出して私の目の前に置いてくれる。
私は持参したドライバーなどの道具を広げる。それを見たマスターが、数度瞬きをした。
「直すのですか?」
「はい、少々お待ちください」
言いながら、私は既に解体作業にとりかかっていた。腕が落ちていない事は、美名ちゃんのおもちゃを直して証明済みだ。見たところ、コームという部分が何かの拍子に歪んでしまっていた様だった。油を注しつつ、丁寧に修正する。音が正常になる事を確認してから部品を組み立て直す。一連の様子を、マスターは感心しながら眺めていた。
「終わりました」
直し終えた野上さんのオルゴールをマスターに返す。正常に流れた曲は、三十年前に流行したウェディングソングだった。
「見事なものですね」
「あの、マスター……古渕さん、聞いていただきたいお話があります。あまり面白いものではないんですけれど……」
オルゴールに精通している店員を欲していたので、技術がある事を認めて貰えば、雇ってくれるとは思う。けれど、それでは名前がないままと変わらない。
「私の父は、数年前に事故を起こしたバス運転士です。子供を巻き込んだ事で有名になりました。人殺しと呼ばれる風評被害は私達家族まで及び、私は日陰を歩く日々を過ごしました。そのせいで、私の就職活動は散々でした」
マスターの前に履歴書を提示し、姿勢を正す。
「身の上を隠したままでは、フェアではないと思ったので、ありのままをお話させていただきました。こんな私ですが、どうかここで雇っていただけないでしょうか。ここで働いてみたいんです」
お涙ちょうだいの同情を狙っている訳ではない。それどころか、もしマスターが私の父に悪印象を持っていた場合の事を思うと、一種の賭けともいえた。けれどマスターは深く頷きながら話を聞いてくれていた。
「正直に話していただき、ありがとうございます。お辛い目に遭ってきたんですね。うちでよろしければ、是非よろしくお願いします。ただし、お給金は決して良いとは言えませんけれど」
温かいマスターの言葉に、流れそうになった涙をぐっと堪えた。
「本当に、ありがとうございます。精一杯働かせていただきます」
誇張ではなく、本当に救われる思いだった。ようやく居場所が出来たのだという安息感から、気が抜けてしまって、独り言を呟いてしまった。
「あとは家かなあ」
今お世話になっている叔母夫婦の家からは、時間がかかるため、通勤は厳しい。かといって、最寄りの駅周辺にアパートは見当たらなかった。なので、沿線で物件を探して、電車通勤だろうか。と、帰ってから考えれば良い事を口走ってしまった私に対し、マスターは「もし良かったら、我が家の空き部屋を御貸ししましょうか?」と、身に余る言葉をかけてくれた。
「い、良いんですか? そんな、至れり尽くせり……」
「いえいえ、大袈裟ですよ。むしろ、若い女性が住むのはあまりお勧め出来ない場所なので、他に良いところが見付からなかった時の妥協案ですけれどね」
確かに、私と同世代の女性は、服屋も飲食店も、古びたものしか周囲にはない、こんな田舎で暮らすのは物足りないかもしれない。けれど、私にとっては、居候になっている家から抜け出せるだけで、充分贅沢だった。まあ、居候からまた居候になっていて、自立出来ていない様にも見えるけれど。
条件が良くなくとも、私の事を必要としてくれる人がいて、特技を活かせる仕事がある。今までの生活を変えてくれるささやかな希望が生まれた。これだけで、頑張れる理由になる。
来春から、木と鉄とコーヒーの匂いがする、ここが私の職場だ。
「では、これからよろしくお願いしますね、園田小箱さん」
「はいっ!」
人に必要とされて呼ばれる事で、名前は誇らしく聞こえる。これからは、名前に恥じない生き方をしたい。
余談ですが、執筆中はamazarashiの「名前」やTHE BACK HORNの「美しい名前」を聴いていました。