8 小さき死の使い
翌日の昼過ぎ、空良と管地は新橋四丁目の柳通りを歩いていた。公園の近くを曲がり、カフェが併設されている書店の前を通りかかると、店頭に飾られている七夕用の笹を見て管地が足を止めた。
「そういや今日は七夕か」
空良も足を止め、輪飾りや吹き流しの下がった笹を見上げる。入口のカウンターに立つスタッフが、カラフルな短冊を見せてにこやかに声を掛けた。
「よかったら短冊に願いごと書いていって下さいねー」
へえ、と管地が下がっているピンクの短冊を眺める。『彼に告白されますように』とか、『彼にずっとカワイイって思われますように』とか、『ずーっと二人がラブラブでいられますように』だのに目を通した管地は、俺も書くわ、とスタッフからペンを受け取った。
管地の手元を空良が覗き込む。淡い紫色の短冊には、『来年の七夕も、プレジデンシャルスイートルームで甘くとろけるような夜を過ごせますように』と書いてあった。
「管地って去年、どこか泊まりに行った?」
「行ってねえよ。お前も適当なこと書いとけ。こいつらに負けるな」
こいつら、と管地が笹に結んであるピンクやクリーム色の短冊を指す。青い短冊を受け取った空良は少し考えると、マジックペンでさらさらと願いごとを書いて笹の葉に吊した。さて行くか、と管地は書店を出て、すぐ隣にある喫茶店へ向かう。
「今日は打ち合わせだけだが、依頼人の前で堂々とアクビするなよ?」
「……しないよ」
根拠なく言い切った空良が管地のあとに続く。入れ違いにやってきた金髪に眼鏡の男も、飾られた笹と短冊に目を留めているようだった。
管地と空良が喫茶店に入ると、依頼主であるスーツ姿の中年男がコーヒーを飲みながら待っていた。管地は挨拶を済ませて本題に入り、眠気の兆候が見える空良を肘でつつきながら話を聞く。依頼の内容は、会社の創立記念に制作したという油絵の修正だった。
男が見せた写真には問題の油絵が額縁ごと映っていて、七人の男女が庭園らしき景色を背に、集合写真のような構図で立っている。
「この男の右にいる女性を消して欲しいのです」
依頼主の男が写真の中央を指差す。神経質そうな細めの男と、朗らかそうな太めの男のあいだに、黒髪の女性が描かれていた。
「当時の功労者ではあるんですが、現在はライバル会社に引き抜かれて……まあ、裏切り者とまでは言いませんが、あからさまに塗りつぶすのも品がないので」
この絵の作者は? と管地が問うと、昨年亡くなりまして、とおしぼりで首筋を拭きながら依頼主が答える。今までそのまま会社に飾っていたが、改築が決まったタイミングで密かに修正することにしたらしい。
作業の方向性が決まり、見積もりとスケジュールの調整に入る頃、普段から眠そうな顔がさらに危うくなった空良を見かねて、管地が指示をする。
「空良、しばらく別行動だ。あとでそこの公園で待ち合わせな」
わかった、と肯いた空良は喫茶店を出ると、大きくあくびをして歩き出した。
書店の入口では、笹に吊されたカラフルな短冊を間能が眺めていた。すでに幸せそうな願いが書かれている短冊のなか、ある青い短冊に書かれた願いが異彩を放っている。
『いちばん高いところか、遠いところへいきたい』
意識高い系だな、と間能は金髪頭を掻きながら店の奥へと進み、適当に棚を眺めながらふと呟いた。
「いと高きところに栄光が、ってのもあったな」
なんだったかな、と思い当たるジャンルの棚を眺め、聖書について書かれた本を取り、ページをめくる。ああ、と間能はふっと眉を上げて笑った。
「ルカの福音書、か」
ふとした疑問の答えを与えられた間能は、手にした本の値段を確認してレジに向かう。本に限らず、ちょっとした縁や相性の良さのようなものを間能は大切にしていた。
併設されているカフェで買った本を読み、コーヒーを飲みながら考える。
あの壁画を見た伊原は、何も話さなくなった。こっちは伊原に有利な動きしかできないと腹を見せているのに、あの礼拝堂に関しては語りたくないらしい。
ドラッグの密売ルートを巡り不自然な動きがあったのは三年ほど前だという。鯨井組が仕切っていた市場に新興組織の槙野組がこぢんまりと参入し、しばらくして鯨井組の流すドラッグの量が大幅に減った。鯨井はドラッグから一時手を引き、槙野組はルートを拡大していった。
二年前に消えたのは、そこに投入されるはずの主力商品だった。関わった人間が消え、何者の仕業なのかもわからないまま、その商品がルートを外れて大量にバラ撒かれている。槙野組や末端の売人達にもその正体がわからない。
間能は鯨井組の関与を疑っていた。当時の槙野組にルートを奪われ、表立った動きを見せずに手を引いたままでいるが、鯨井の勢力が衰えているわけではない。
そんなトラブルに巻き込まれて辟易している伊原が、その関わりを示唆する『壁画』について重要な部分を語ろうとしない。槙野組が消して回り、伊原が黙ったところを見ると、『壁画』は全くのファンタジーではないようだ。
そろそろ出るか、と間能は本を閉じてコーヒーを飲み干した。店を出ると、車を止めたパーキングへ向かう。
聖フィーナ伊原記念病院として存在していた頃の『礼拝堂』。十字架を背景に立つ白衣の伊原。その足元に倒れている男達、その腕にある特徴的な模様が、当時の取引現場にいた人物であることを示している。
秋山達が厄介がるのは当然だった。転がっている男達が誰なのか、特定可能なレベルで描かれている。現実に起きた事件と一致していること、秋山が動かしたヤマであることが明白になる。では、伊原はどう関わっている?
今の伊原をつついても得られるものはない。北条を連れ、伊原自身が動いているふしもある。いつまでもこっちは蚊帳の外だ。今は伊原に付きまとうよりも、壁画とその作者を探すのが先だ。本人に聞くのが一番早い。
伊原にしか見えない白衣の女性と、その足下に転がるくすんだ緑色の男達。左の壁にはたおやかな女性の胸像、右の壁には庭園の絵。頭上に掲げられたキリスト像と、その上で鳥と天使が舞う青い天井。……それが今、路地裏を歩いている間能の目の前に現れた。
なんの冗談だ? と立ち止まった間能がぽかんと口を開けて立ち止まる。中学生くらいの背格好をした少年が、目の前のシャッターに黙々と、しかし手早く絵を描いている。
日中はシャッターが下りている裏通りとはいえ、新橋のど真ん中で人通りがないわけではない。しかし少年は過ぎていくサラリーマンには目もくれず、絵の具のチューブや細筆、布の切れ端などを駆使して荘厳な絵を一気に描き上げていく。
通り過ぎず、背後に立っている人間の気配に、少年がびくりと動きを止めて振り向いた。間能が肩をすくめて笑いかける。
「大丈夫なのか、こんなところに描いて」
「…………潰れて、取り壊しの決まった店だって」
警戒を解いた少年が、シャッターの隅を指差す。そこには、オーナー直筆と思われる、閉店のお知らせや感謝の言葉らしきものが黒いマジックペンで延々と綴られていた。中盤からは誰に向けられたメッセージなのか文体が変わり、『もういやだ』『死んでやる』などと書き殴られている。あーなるほど、と苦笑する間能に少年が言った。
「人の迷惑になるところには描いてない、と思う」
みたいだな、と間能は都会の無関心のようなものに感謝しながらシャッターに近付く。なに? と面倒なものを見るような目をする少年に、間能は作業の続きを促した。
「まあ気になさらず。絵の上手な子供は嫌いじゃないんだ」
「子供じゃないよ。……仕事もしてる」
「働いてるのか。やっぱり絵で?」
「……いろいろ。今日は邪魔な女の人を消す仕事」
なんだそれ、と間能がぼそりと呟く。少年は背を向けたまま、青く塗られた高い位置に羽ばたく鳥を描きながら言った。
「なんか裏切り者みたいに言ってた。前も、人の顔を別人みたいにしたり、水に沈んでる男の人を完全に消したりした」
そうか、と複雑な表情で肯いた間能は、気を取り直して壁画を眺めた。薄暗い礼拝堂やそこに転がるくすんだ緑の男達、色あせたキリスト像などの暗めの彩色が済むと、天使や白衣に差す淡い影を重ねていく。全体の色調と、少年の手にある色を見比べて聞いた。
「赤が少ないな。絵の具はこれだけなのか」
「赤はあんまり使わない」
へえ、と間能は腕組みをして周囲を見る。今、槙野組に見つかる可能性は低いだろう。少しばかり話し込む時間はありそうだ。
「で、その絵は『キリストの復活』みたいなものか? 構図が似てる」
「知らないけど、そうなのか」
少年は少し感心したように言いながら左右の壁にある額縁に細かな陰影をつける。その手際の良さに舌を巻きながら間能が説明した。
「布をまとったキリストが石の棺の上に立ち、十字や十字の旗を手にする。足元に倒れて眠っているのは四人のローマ兵。ただ、棺の上に立つのがキリストなら、まとう布の色は赤やピンクになるはずだ」
間能が先刻仕入れた知識を話すと、ふうん、と少年が肯く。間能は少年を観察しつつも核心に触れないまま話を続けた。
「それと似た構図に、『墓所を訪れる三人のマリア達』がある。棺のそばにいたのは白い衣をまとった天使で、このときすでにキリストは去っていた、っていうシーンの絵だ」
「白い服は天使なのか」
どこか面倒臭そうに空良が呟く。いや、と間能は片目を閉じながら言った。
「マルコによる福音書では天使とは記されてなくて、墓所には白い衣の若者がいたとある。これが天使になったのは、その後書かれたマタイによる福音書からで、四人のローマ兵の存在もこのとき追加された。美しい宗教画が生まれたのも、あとから話を盛った結果だな。そして天使には翼を描き足すお約束が生まれた」
「……お約束って、頭の輪っかとか、マリアのユリとか?」
「それだ。何事にも『お約束』はあるんだが、聖書の絵は、持ち物や服、ポーズで人物を特定できるように描くのがお約束なんだ。全裸の男女にリンゴとイチジクでアダムとエバ、三日月に乗った少女は聖母マリア。虹に乗ってるヒゲのロン毛はイエス・キリスト。舌を出した白髪の爺さんはアインシュタイン、金髪美女の口元にホクロが一つあればマリリンモンロー」
「……それ聖書じゃないよ」
中心に立つ白衣の女性に、少年がほくろを二つ描き足す。
「同じだろう? 逆にどれだけ似てなかろうが、その『お約束』があれば概ねオーケーだ。画家はそれぞれ、心に描く聖母を形にした。妻や恋人、身近な人物をモデルにして、それにユリを持たせたり青いマントを着せた」
「詳しいんだな」
「仕事で西洋の骨董を扱ったこともあってね。この手の話ができると有利なのさ」
へえ、と手を止めた少年と目が合うと、間能は先刻買った本を見せながら笑った。
「なんてな。仕事の参考資料として斜め読みしただけなんだが、ポイントを抑えておけばこんな風に買いかぶられて役に立つのさ」
ばつが悪そうな間能の言葉に構わず、少年は本の裏表紙にある、頭に光輪を持つ二人が抱き合う絵を見た。
「こっちのは服が違う」
「……これはマリアの親、アンナとヨアキムだ」
間能が眼鏡を押さえて裏表紙を確かめると、本の中身に目を通しながら説明した。
「子孫を残すことが神への義務だったころ、子供のできなかったこの老夫婦は、散々悪口言われたあげく、神と和解するために断食したり、子供は神に捧げますと誓ったりして、やっとマリアを授かった」
「ケンカしてたのか、神様と」
「かもしれない。身に覚えがなくとも、相手が勝手に怒ってたりするのはよくある話だ。何が悪いのかわかりませんが、もっといい子になるので許してください、と、とりあえず神に謝った二人はマリアを授かり、三歳のマリアを神殿に奉献した」
適当に要約しながら間能が語る。ふうん、と少年は壁画全体のコントラストや色調を整えると、最後に天使の輪を仕上げながら尋ねた。
「どうして本当にあるみたいに頭の輪を描くのかな」
「あるかどうかも怪しいモノを、リアルに描くから神秘的なのさ。頭の輪っかも天国も、神の姿ですら記号みたいなものだ。例えば、聖人はほとんどが拷問に遭い殉教している。絵画では、どんな道具でどんな拷問を受けているかという記号で、そこに描かれた聖人が誰なのかわかる」
間能がいくつかの聖人の絵を見せる。その手には金色の羽根のようなものがあった。
「天使の羽根?」
「いや、これはシュロの葉だよ。これを持つ人物のほとんどは殉教してる。歯を抜かれて死んだ聖アポロニアは、シュロの葉と自分の歯が挟まったヤットコを持ってるし、信仰のために目をえぐり取った聖ルチアは、シュロの葉とえぐられた眼球を持ってたりする」
明らかに嫌そうな顔をする少年を見て、間能はにやりと笑った。
「彼らは平気なんだ。殉教者は死を恐れず、むしろ進んで拷問を受けた。痛みよりも神を感じる喜びに満たされて、恍惚の表情をしている絵や彫刻が多い」
平気なのか、と少年は絵の具のチューブをポケットに入れ、ぼんやりと天使を見つめた。天使の手には、赤いリンゴが後から描き足されている。
普通は死ぬから真似するなよ、と一応注意すると、間能も天使の手にある赤いリンゴを指差して聞いた。
「赤はあんまり使わないのなら、この赤は特別なのか?」
「……それは、友達がつけた目印」
四谷のある洋菓子店では、学生鞄を提げた少女がガラスケースの前で目を輝かせていた。
小さな店内の壁際には、七夕らしく星形のクッキーや流れ星を形どったパイが並び、窓際には金銀の包装紙が巻かれたマドレーヌやフィナンシェが積まれている。ガラスケースには涼しげな空色のゼリーや、星形のトッピングが付いたシュークリームもあった。しかし今、少女が心奪われているのは、その隅にある宝石箱のような一画だった。
「ど、れ、に、しようかな」
ガラスケースの隅には、赤や淡い緑、黄色やピンク色をした半透明の愛らしい飴菓子が標本のように整然と並んでいた。色違いのボンボンを密かに指差しながら、少女は小声で歌うように続けた。
「……マ、マ、の、言うとおり」
「素敵だね、ママと食べるの?」
聞こえてしまった男性店員が少女に声を掛ける。少女は照れながらもにっこりと笑い、いくつかのボンボンを注文した。そしたらオマケ、と店員が片目をつむって淡いピンクのボンボンを少女の口元に近付けた。わあい、と嬉しそうに少女がボンボンを味わいながら目を見開く。
「おいしい! 青いのじゃなくて、ちゃんと赤くて甘いリンゴの香り!」
「わかる? 嬉しいなあ。そしたらもう一つ入れておくから、ママにもあげてね」
店員は嬉しそうにピンク色のボンボンを小さな紙箱に追加する。うふふ、と少女は目を細めながら店員に頭を下げた。
「ありがとうございます、母とは仲良しなんです」
会計を済ませて店を出た少女は、鞄と洋菓子店の袋を提げたまま、四谷付近をのんびり歩いていた。車通りの多い道路を避けて裏道に入り、坂道を上ったところにある病院の前を通りかかる。なにげなく眺めた駐車場の奥に、柊セレモニーの車が見えた。
「……ハヅキはミルク味とリンゴ味、どっちが好きかな?」
手にしている袋にふと目をやる。見知らぬ病院だし、車の主が誰なのかもわからない。でも今日は、リンゴのボンボンのおかげですっかりいい気分になってしまった。こういうときは、少しくらい積極的に動いてもいい。より高くて遠いところへ行った方が勝ちだ。
少女は白い施設に入ると、きれいな黒髪の女性を探しながら廊下を歩く。待合のベンチでは、若い母親が幼い子供にパックのジュースを飲ませようと苦戦していた。子供は意に沿わないのか、パックを投げ出しぐずり始める。
「泣かないの。ママの言うことちゃんと聞こうね」
とっさに駆け寄った少女は鞄からティッシュペーパーを取り出し、こぼれたジュースを始末する母親に渡しながら子供に話しかけた。隣にいた年配の女性が少し遅れて気付き、あらあら元気ねー、とバッグから同じくティッシュペーパーを出して渡した。若い母親が恐縮しながら急いで床のジュースを拭く。
「全然大人しくしてくれなくて、……お騒がせしてすみません」
いいのよ、と太った年配の女性が子供に向けて変顔をしながら明るく笑った。
「子供がおとなしくて動かなかったら病気よ。親の思い通りにはならないし、なっちゃダメなの。……みんなそうだもんね?」
ふと同意を求められて、少女がにっこりと笑い返す。じゃあね、と子供に手を振ると、少女は早足でその場を去った。
「ああいうの大っ嫌い」
廊下を抜けて病院の外に出ると、少女は駐車場へ向かい、先刻見かけた柊セレモニーの車に近付いた。持ち主が戻ったのか、中に人の気配がある。
しかし、車内にいたのは見知らぬ男性だった。なーんだ、と少女は勝手にぷくっと頬を膨らませると、気を取り直して再び道を歩き出す。車を見かけたのは、悪い印じゃない。
蝉の鳴く木の下を歩き、散歩している子犬に笑いかける。夏らしい短めズボンを穿いた若い男の脇を抜けた瞬間、少女はふと動きを止め、すんと鼻を鳴らした。振り向いて男の動きをじっと目で追う。
男が路地裏へ曲がると、少女は迷子を見つけたような顔で男に近付いた。
「この匂い、知ってる」
ん、と気付いた男が眉を上げて振り返る。少女は後ろ手に鞄と袋を提げたまま、さらに近付いた。
「目が開いて、なんでもわかるようになる。痛いのも怖いのも消えて、ほかの命を取り込まなくても平気になる。生きている罪悪感から解放される」
「何言ってんの?」
「知ってる? 神様や天使に見守られている者は、目をえぐられても、内臓を引きずり出されても痛みはないんだって。不公平でしょ」
顔を顰めて歩き去ろうとする男の前に回り込んだ少女は、目を細めて続ける。
「人は、選べるんだって。生き方も死に方も。聖なるものにすべてを捧げるのも、俗なるものに身をゆだねるのも」
「……頭、おかしいの?」
顔を背けようとする男に、くふっ、と吹き出した少女は挑むような目をして言った。
「そっちの頭はおかしくないの? それとも、まともだから薬がいるの?」
少女の見開いた目がじっと男を捉える。えっ、と内側を見透かされた男の動きが止まる。少女は鞄を持ったまま、にっと口の端を上げて両腕を広げた。
「こっちが金貨、こっちはリンゴ。罪がないのはどっちでしょう」
「……なんだ、それ」
気圧されたような顔色の男が、少女の何もない指先を見る。
「グリムの童話を知らないの? 思慮分別ある長老が、人を殺した子供に問うの。金貨を取れば子供は死刑、リンゴを取れば罪はなし。ど、ち、ら、に、するのかな?」
歌うように言いながら、少女は足元に荷物を置き、スカートのポケットを探った。握りしめた両手を差し出し、強い瞳で男の目を見る。
「本当はどっちも同じだけど、どっちも取った子供はどうなるの?」
少女は花のような笑顔で両手を開く。手には、金色のスプーンと銀色のアルミパックの錠剤があった。男の耳に甘やかな少女の声が響く。
「ハッピーになれる」
『伊原地所』が管理している四谷の立体駐車場を視察した北条と伊原は、大通りを外れ裏道を抜けようとしていた。メルセデスの後部座席で、ふと伊原が目を細めた。
「止めて」
北条は速やかに車を寄せて停止する。伊原は少し離れた場所にある雑居ビルを指差した。近くには黒いセダンが二台止まっている。
「槙野組の車よ」
不吉なものを見たように伊原が息をつく。どこからか紫の上着を着た細い目の男が現れ、左側のセダンに向かって合図した。北条も角形眼鏡を押さえて男を見る。
「あれは秋山の部下の花井。車の中にいるのが秋山でしょうね」
さらにその部下らしき二人が、短いズボンを穿いた若い男を引きずるように運び、右の車に乗せた。一見、酔い潰れた人物を介抱しているようにも見えるが、男はぐったりしたままぴくりとも動かない。
もうダメだな、と大雑把に結論づけた伊原が腕を組むと、北条も小さく肩をすくめた。花井は左側の車に頭を下げて、動かない男を乗せた車を出した。花井達の車が遠ざかると、もう一台の黒いセダンから茶色いスーツ姿の男が姿を見せた。少し長めの髪をかき上げて忌々しげに煙草を咥えると、車内に向かって何事か話している。
「あの髪が長めで真ん中分けの男が秋山」
興味のない芸人コンビを説明するような伊原の声に、北条は眼鏡を押さえながら微かに笑った。本質的なところはわからないが、伊原が好まなそうなタイプだ。
秋山がドアを閉めて煙草に火をつけると、その反対側から細身でサラリーマン風の男が車から降りた。神経質そうな表情で話しながら、秋山と奥の路地へと歩いていく。
「……あれは」
ユズハラ、と北条が男を凝視する。
「知ってる顔か?」
「三年前に起きた不祥事を発端として、最終的にクラオホールディングスが吸収合併する形で消滅した、ウシタ製薬の元社員、譲原という男です」
「つまりはあなたと同じ、ということ?」
「いえ、譲原はその後しばらく、クラオに籍を置いていました」
遠くの男を目で追いながら、北条が他人事のように言った。吸収合併の話が出る前に、北条はウシタ製薬を辞めている。
なるほど、と伊原は運転席の脇に顔を出し、秋山達と北条の顔を交互に見て言った。
「元、同僚か。あなたの顔色からすると、彼は奴らのお仲間になったということね」
「……会社の不祥事に彼が関わっていたわけではありませんが、前の職場がクラオに吸収合併されると決まってから、譲原は何度か私を誘ってきました。思うところがあったので、奴の話に乗りませんでしたが」
後に伊原の部下になることを選んだ北条が、ボスを見て笑った。
「譲原は以前から『適当に混ぜたハーブや、学生でも作れるような安っぽい合成モノとは違う、価値あるものが作れる』と吹いていました。危ない冗談を言う男だと思っていたら、本気だったようです」
「つまり彼は、奴らと関わるべくして関わっているというわけね」
伊原は車を降り、つかつかと秋山達のいる方向へと歩いていく。北条は車をパーキングに入れ、伊原のあとを追った。レンガ色の雑居ビルを過ぎると、細まった路地の奥で男の声が聞こえる。
「……そもそも、ティッシュ配るようなノリで気軽に売ってるのはどこのバカだ?」
日当たりの悪い路地の隅で、煙草を咥えた秋山が忌々しげに煙を吐く。その隣で細身の男が黙ったまま考え込んでいる。
「金を取らないのなら、チャリティかしらね、秋山さん」
ご機嫌よう、と二人の前に伊原が立った。伊原先生、と秋山は驚きながらも煙草を踏み消す。似顔絵はないのね、と周辺の壁を見回す伊原に、北条が地面を見ながら言った。
「先日の錠剤と同じものを使用した痕跡があります。パッケージされているなら、出所もわかりそうなものですが」
MDMAの仲間ですかね、と北条が落ちているプラスチック包装シートを拾い上げると、秋山の隣で細身の男が目を見開く。そのようだな、と伊原は低い声を出した。
「ヤク中達に喜んでもらうための新作だ。そうでしょう、薬屋さん?」
決まりが悪そうに髪をかき上げる秋山に構わず、伊原は譲原を見ながら続けた。
「摂取した患者をわざわざ回収するくらいなら、なぜ出所や制作者が特定されかねない形で新作をリリースしたのかを聞いてみたかったの」
「……こんな、過剰摂取を想定していたわけでは」
「時間の問題だったんですよ、伊原先生」
譲原を遮った秋山が一歩踏み出して続けた。
「何事もなく予定通りにことが運べば、事情も違っていたはずなんですよ。詳しくは話せませんが、あれは、ある企業が導入する予定の、新型の設備に仕様を合わせて造ったモノです。稼働が始まったところで陰から流す予定が、金も商品も突然消えてパアになった。おまけに当の企業は導入する設備を変更して、計画そのものもオシャカですよ」
恨みがましい目をする秋山に、伊原は遮るように片手を上げて言った。
「取引に不向きな場所を提供したことにおいて、私にも責任の一端はあるかもしれない。だがそちらの予定通りにことが進まないのは私のせいではないし、私はあなた方の楽しいパーティを潰したりもしていない。そこはおわかりかしら?」
「ウチだって、あのくだらない落書きを真に受けちゃいませんよ。元より先生がどうこうしたとは思ってないです。ただ我々が探している人物が、先生のお知り合いである可能性は大きいと思っているんです」
顔を覗き込んでくる秋山に、伊原は目の焦点を合わせずに言った。
「悪気のあるなしに関わらず、そちらがそう考えざるを得ないことは理解している」
「それは恐縮です。こちらは悪気も落書きも関係なく、二年前の四人はあの場所で死んだものだと確信しているんです。俺はこの耳で聞いているんですよ、先生」
「枕元に立った死人が私の名前を言ったのかしら? 死人の始末なら、そちらの方が手際がいい。私にはそんな体力もない」
「かわりに、先生には優秀な助手がいらっしゃる。……ああ、そちらの眼鏡のかたとはまた別ですよ。力仕事は不慣れなタイプに見える」
北条を横目に秋山が笑う。伊原は腕を組み、不快そうな声を出した。
「簡潔に話してもらえるかしら」
「あまり伊原先生に怖い話は聞かせたくなかったんですが、……部下の、死ぬ間際の声を電話で聞いているんですよ。誰の仕業かはわからずじまいですが、殺されたのは確かです。だが現場には、殺しどころか取引の痕跡もない。死体くらいはあるはずです。先生が応急手当だか救急処置だかをしてくれたのでなければ、ですが」
「薄情な話で申し訳ないが、そんな患者はいなかった。一応腐っても病院だ、私も含めて圧倒的に女が多い。敷地の隅で潰れかけた、化け物屋敷みたいな場所に近付くスタッフはもちろんのこと、物騒な男が四人も雁首揃えてるところに乱入できるスタッフなどいない。私も含めてね」
からかうような目をして伊原が秋山を見る。北条と譲原が無言で見守るなか、秋山は困ったように肩をすくめた。
「それを言われると返す言葉もありませんが、先生がか弱いからこそ、サポートする有能な部下がいるはずです。ウチにも紹介していただければ色々と捗るんですが」
「私が紹介できるのは、有能なよその医者とウチの駐車場くらいなのよ秋山さん。盗難車隠しだろうがガサ対策だろうが、車を預かるぶんには口も出さないし情報も漏らさない。だが取引だの賭場だのに会場を提供することは、今後もない」
冷ややかに告げた伊原はあたりを見回し、ふと目を細めた。汚れた壁に、小さな円を描いたような赤い色が付着している。
伊原はゆっくりと目を逸らし、考えるような顔をしてから秋山に言った。
「元医者としては、死体がなければ死んだという診断は下せない。生きている可能性は? 彼ら四人が芝居を打っていた可能性は? 四人を殺って金と薬を持ち逃げした奴がいる、そう思わせたい奴があの絵を描いた可能性は?」
「ないとは言いませんよ。ですが、どうにも腑に落ちないところがあるんです。あの日、俺の部下は死ぬ間際、女にやられたと言っていました。それがどうにも芝居らしくない。その辺の話と、あの絵の真ん中にいる先生を、結びつけて考えるのも仕方ないでしょう?」
顔を歪ませる秋山に、それは仕方がないな、と諦めたように伊原は背を向けた。秋山がふと呼び止める。
「一つ質問が。先生は、鯨井や、……関東剛光会系の葬式に出ることはありますか?」
「鯨井組どころか、槙野組の法事や結婚式にも出席する気はないわよ」
だから私を呼ばないでね、と伊原は北条を連れてその場をあとにした。
夏空がやわらかな夕刻の色へと変わりかけた頃、空良は管地の指示通りに、桜田公園でぼんやりと空を眺めていた。花壇の縁に腰掛けてペットボトルの水を飲み、ついでに買ったパンを取り出す。するとどこからか鳩が現れ、羽音を立てながら空良の隣に堂々と降り立った。びくりとした空良が鳩と対峙する。
「ごきげんよう空良くん」
プレッシャーに敗北した空良が鳩にパンを分け与えていると、飛田も白い袋を提げて、手を振りながら近付いてきた。察しのいい鳩たちが続々と増えてくる。
「トビタさん。……こんなとこで、どうしたの」
「どっちかというと、こっちがそれを聞こうと思っていたんですが」
飛田は空良の隣に座り、先日はどうも、と袋からポップコーンを取り出した。すかさず鳩達が飛田を包囲する。そのまま二人がのんびり話していると、さらにどこからか同じ顔の美女二人が空良の前に現れ、驚いた声を出した。
「ちょっと空良くん、どうしたのこれ」
「これはこれは、よくぞいらっしゃいました」
現れたあいなとあいみに、鳩まみれの飛田が空良よりも早く反応する。あいな達の言う『これ』が鳩のことだと理解した空良は、食べかけのパンを見せた。
「パン食べてたら寄って来た」
「そういう意味では、私もあいなさん達も鳩ですな。空良くんのおじいさんと一緒で」
ポップコーンを口に入れて飛田が肯くと、あいなが鳩で近付けないまま言った。
「よくわかんないけど、ひとまとめにしないでよー」
「っていうか、空良くんのおじいさんって鳩なの?」
あいみも近付けないまま首をかしげる。左肩に鳩を乗せ、空良が思い出すように言った。
「鳩に生まれ変わって空を飛びたいって言ってた。ぼくが小さかったころの話だけど」
そういうことなんだー、とあいみが肯き、今より小さかったんだー、とあいなが微笑む。遠巻きに盛り上がる美女二人に、鳩に埋もれかけた飛田が提案した。
「あのせっかくですから、男女四人であちらのハイセンスなカフェにでも行きませんか? 向こうの喫茶店はダサくてイケてないおっさんがいたりするので、そっちじゃない方へ」
向こう、と飛田が声をひそめつつ、書店のすぐ隣にある喫茶店を指差す。あいみはその指先を見ながら楽しそうな声を出した。
「えー、おじさんご馳走してくれるの?」
「飛田です。我が財布我が物と思わず、ご下命いかにても果すべし」
「すごーい、おじさん超太っ腹ー!」
「やだー、おじさんめっちゃ紳士!」
「……おい、どうしてそうなった」
飛田が指差す先には、喫茶店から出てきた管地が立っていた。