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6 葉月のコンパス

 翌日の早朝、カラスの集まる新橋四丁目では、自重しない空良が『絵を描いても大丈夫そうな場所』を探し歩いていた。

 朝は、薄い緑のイメージだ。夜のあいだにゆっくりと沈殿する、穏やかで青みがかった緑。その穏やかさは朝の光にかき回され、ついには気配も消えてなくなる。それが消える前の時間は、少しやさしい。

 そんな空気を感じながら路地に入り、廃屋のガレージや壊れかかったブロック塀を観察しつつ空良が芝公園方面へ歩いていると、ふと真後ろから、やわらかい女の声がした。

「空良くん?」

 びくりと肩をこわばらせ、空良の動きが止まる。三秒ほどしてからゆっくり振り向くと、オリーブグリーンのワンピースを着た女性が、長い髪を揺らしながら空良を見ていた。

「……ハヅキ」

「やっぱり空良くんだった。……久しぶりだね、元気? ちゃんと眠れてる?」

 葉月は嬉しそうに微笑むと、少しだけ体を屈めて空良を見る。右手にはコンビニエンスストアの白い袋があった。だいじょうぶ、と答える空良に葉月が肯く。

「日焼けしたね。なんだか少し、男の人っぽくなったみたい。ごはんは食べてる?」

 ごはん、と聞かれて考え込む空良を、葉月が穏やかな目をして待つ。二年前も葉月は、空良が言葉を詰まらせても、優しく続きを待っていた。病室にいた子供はみんな、葉月のそんなところが好きだった。

「パンはよく食べてる。……前も同じこと葉月に聞かれたよ」

「うん、眠ることと食べることは大事だから。私も、ちゃんとご飯を食べて眠れるようにって、会社の近くに住んでるの」

 ふうん、と空良は半袖の葉月を見た。入院していた二年前は、黒っぽいスーツの上に、白衣を着ていた姿しか見たことがない。昨日見かけた葉月も黒のスーツだった。

 当時はずっと大人に見えていたのに、夏らしい木綿のワンピースを着ている今の葉月は、よりやわらかで少女的で、少しだけ近い存在のように感じる。

「家、近いんだ」

「うん。家が近ければすぐ帰れるし、怖い目にも遭いにくいと思って」

「怖い目?」

 空良がぴくりと眉を寄せる。でも平気だよ、と葉月は焦ったように手をひらひらさせた。

「たまーにだけど、車の中から男の人に道を聞かれて、車に乗って教えてって言われたり、警察ですって名乗る男の人に、車に乗るように指示されたりしたことがあって」

「それ、危ないやつだよ」

 どちらかというと子供をさらう手口に空良が困惑する。うーん、と他人事のように首をかしげて葉月が続けた。

「最近多いのかな。空き巣も多いみたいだよ。うちも一度入られたの」

「……泥棒、入られたのか?」

 顔色を変えて聞く空良に、うふふ、と葉月が笑いながら答える。

「被害は部屋に置きっぱなしにしてた食パンだけ。近所の猫ちゃんが窓から入ってきてたみたい。うちって、鳥とか猫とかが遊びにきちゃうの」

「でも、警察呼んだのか」

「ううん。お巡りさん呼ぶのもちょっと怖いし。パンだし」

「……葉月って、少しまぬけかも」

 あ、わかる? と恥ずかしそうに肩をすくめた葉月は、ところで何してたの? と話題を変えた。空良が少し考えて答える。

「……散歩。葉月は?」

「朝ごはん……だったけど、私も散歩に変更しようかな。あっちの公園とかどう?」

 葉月は近くに見える公園を指差し、白い袋を提げて歩き出した。夏らしくなってきたね、と季節の挨拶を振られた空良は、肌寒くなってきましたねだの、月がきれいですねだのという管地オススメの挨拶を思い出す。

「肌が……キレイだよね」

「え……そうかな? 素顔じゃ歩けないからホッペは厚塗りだよ?」

 唐突な話題に戸惑いつつも、照れたように葉月が下を向く。そうなのか、と空良が歩くペースを落とすと、葉月は少しだけ声を落として言った。

「今でも自分にお化粧するのは下手だし、赤を使うのもまだ苦手なの」

「……わかる」

 空良が真面目な表情で肯く。葉月は、空良が入院していた病棟に度々訪れていた葬儀業者だった。主な用向きは遺体処置ツールの納入や、その処置に関する情報交換だったが、入院している子供達と顔を合わせる機会の多い葉月は、それを隠すために病棟では白衣を着ていた。それでも一部の患者に知られることになり、空良もその一人だった。

「そういえば昨日、葉月を見たよ。昨日も死んだ人に化粧したの?」

「え……あ、昨日は違うよ。普通に……普通でもないかな、お別れ会があったんだけどね」

「あそこが葉月の会社?」

「ううん、柊セレモニーは南麻布だからちょっと離れてるの。私の部屋はこの近くだけどね。……あれ、あんまりうちと会社って近くないかな?」

 あれあれ? と葉月が首をかしげる。シャッターの下りている薬局や歯医者を通り過ぎ、公園に到着した。何か飲もうよ、と葉月が自動販売機にコインを入れて空良を促す。

 じゃあ水、とミネラルウォーターを選んだ空良に、ベンチを確保した葉月が白い袋からいくつものパンを取り出して見せた。練乳ミルクコッペに発酵バタークリームフランス、チーズクリームパン、タマゴロールと朝食にしては偏りのあるラインナップに、葉月が耳を赤くしながら恥ずかしそうに言った。

「一緒に食べよう? 朝ごはんのつもりだったけど、つい気になるパンを買っちゃったの。だから空良くんに会えてよかった。……食べられないもの多いんだった?」

「……これは嫌いじゃないから」

 そう言って空良が練乳ミルクコッペを手にすると、葉月はほっとしたように発酵バタークリームフランスの袋を開けた。

「よかった、私もこういうの好きなの」

 せっかくだから半分こしよう、と葉月が自分のパンをぐぐっと力を入れて千切り、歪な形になったそれを空良の千切ったコッペパンと交換する。水で喉を潤したあと、甘いパンを咀嚼しながら空良が言った。

「でも葉月って、やっぱりちょっとまぬけかも」

「……だよね。実は結構、そんな感じなの。昨日も自分で信じられないドジっていうか、ヘンなミスして磁石をなくしちゃった」

「磁石って、葉月の持ってたやつ? 銀色の時計みたいな」

 空良が口をもぐもぐさせながら聞くと、よく覚えてるね、と葉月が目を見開いた。

「そう、あの蓋つきのコンパスなんだけど、指の取れた経絡人形に預かってもらったら、人形ごといなくなっちゃった」

 葉月がしょんぼりと肩を落とす。しばらく葉月の言葉を反芻していた空良は、ここは聞き返してもいいところだと判断して口を開いた。

「…………なにそれ」




 日が高くなった頃、聖フィーナ伊原記念館では、デスクワークを適当に片付けて白衣を脱いだ伊原が、ダークレッドのメルセデスの後部座席に乗り込んでいた。

「とりあえず、六本木でいいですか」

 運転席の北条がエンジンを掛けると、お願い、と伊原がシートにもたれて外を眺める。北条は間能が置いていった紙片を胸ポケットから出し、ひらひらと振った。

「ここにある絵が、まだ槙野組に消されてなければいいですが」

「そこまで情報収集力と機動力のあるチームでないことを祈るわ」

 新しい絵なんでしょう? と伊原が北条の手にある紙片をちらりと見る。間能は今朝、槙野組が消して回っているという『壁画』の場所を教えるために再び聖フィーナ伊原記念館を訪れ、『最新版』のありかを記したメモを置いていった。

「間能という男も、館長に懐いているようですね」

「彼は鯨井組を警戒していて、できれば有利に立ち回れる材料が欲しい。私は槙野組との繋がりを疎んでいる。間能は自分からお尋ね者の身を晒してきて、私がそれを切らないと賭けた。自分から裸でサメのプールの前に立って見せたのよ。『突き落とすのは自由ですが、俺と組む方がハッピーになれますよ』って」

「……ハッピーになれそうですか」

「どうかしら。これ以上物騒な話に関わる気はないけど、面倒なゴミが処分できるなら、少しは快適になるんじゃないの? できるなら、だけど」

 槙野組の秋山は、伊原にとって不快な存在だ。二年前の取引が潰れてからは、共犯者のような態度で絡んでくるようになった。今はそれを突っぱねられるほど、彼らと無関係を主張できる状況ではない。それを変える可能性があるのなら、間能を蹴る理由はなかった。

 取引を潰した人物が何者だろうと、槙野組や秋山がどうなろうと知ったことではない。だが、取引の場所を提供していたことと、当時の詳細な情報を得ている可能性があること、金と商品の持ち逃げに関わることが可能な人物であったことで、秋山は伊原との繋がりを手放す気配はなかった。

「館長が動かせないことを、あの男が動かせるとは思えませんが」

「まあね。売り込みに来たからには、どうにかする気はあるんでしょ。私は何も言わない。私の知っていることを秋山達に教える義理はないし、余計なことを間能に話す気もない。その上で私にも効くクスリを持ってこれるのなら、ハッピーになれるかもね」

 期待してない風に伊原が小さく笑う。乃木坂から外苑東通りへ入り、ミッドタウンの手前で右折しながら北条も口の端を上げた。

「ストレスや鬱で薬物を求める人間も増えましたね」

「ヤクや鬱の薬より、死を手に入れる方がはるかにたやすい。だからこの国では二十分に一人が自殺する」

「館長に効く薬が来なくても、死なないでくださいよ」

 大学の脇を抜け、北条がミラー越しに伊原をちらりと見る。そこまで期待してないわよ、と伊原は腕を組んで外を睨んだ。

 懸念があるとすれば、二年前の取引現場を思わせる『絵』のようなものが、今になって街の所々に現れていることだった。秋山からは壁の落書きとしか聞いておらず、それほど取り合うこともなかったが、間能の話を聞いてそうもいかなくなった。妙な感じがする。

北条は六本木トンネル下の駐車場に入り、車を停めた。ダークレッドのメルセデスから伊原が降り立ち、道路を渡った先のガード下で落書きだらけの壁を見る。

「これか」

スプレーで雑に重ねられたマークや図形の飛び交うコンクリートの壁に、陰影に富んだ緻密な空間が開けていた。静謐さを感じさせる古い礼拝堂。描かれた額の中にいる聖女と、楽園のように実り豊かな庭園の絵。上部に配置された十字架と、それよりも高く青い場所にある、天井画の鳥や天使。冷ややかな触感を思わせる汚れた床板には、眠っているのか死んでいるのかわからない四人の男が横たわっている。

十字架の下、聖女と楽園の絵のあいだで、棺のようにも見える白い聖卓に寄りかかるように立っている、白い服の人物。

 中心にいる冷たい表情の人物は、伊原そのものだった。




 その頃、赤坂のオフィスビルでは、イベントの打ち合わせを会場側スタッフと済ませた安藤が、あいなとあいみの三人でミーティングを行っていた。

「続いてイベントの概要ですが、テーマは……」

「もう大体わかったから、その辺でいいよ安藤ぅ」

 大きな角型テーブルに頬杖をつき、あいなが責めるような目をすると、あいみも組んだ腕に胸をのせて言った。

「安藤だってアドリブとノリで、結局いつも自分のしたいようにしてるじゃない」

「飽きてきたのはわかりますが、もう少し我慢してくださいねー。これ終わったら昨日のメンバーでランチですから」

「あ、昨日のって空良くん?」

「はい。彼らも今日は近くで仕事です。そこのユークロニアホテルのカフェで待ってると思いますよ」

 顔を上げたあいなとあいみに、安藤が窓の外を手で示す。三人がいるオフィスビルには有名なホテルが併設されていて、高層階にあるレストランや日本料理店とは別に、気軽に立ち寄れるベーカリーカフェが一階にあった。


 ユークロニアホテルの一階にあるユークロニア・カフェは、広いテラスにパンの香りが漂う、深い青を基調としたインテリアのベーカリーカフェだった。

 テラス席に座った管地はのんびりとメニューを眺め、店員にオーダーする。

「チキンカレーとアイスティ」

 それ食べるの、とチーズパンとバナナパフェを注文した空良が不思議そうな顔をする。コットンパンツにデッキシューズを履いた管地は足を組みながら、深い青のクッションが置かれた焦げ茶のソファに寄りかかって言った。

「あったり前だ。人間用の食い物なら麻婆豆腐でもシェパーズパイでも食べるさ」

「じゃあ、なんでいつもパンばっかり食べてるの」

「米を研ぎたくない」

なんで、と首をかしげる空良の手を管地が掴み、絵の具が詰まった爪を見せる。

「ネイルに精出してるお姉ちゃん達と同じだよ。お前もこの爪で米研ぐ気になるか?」

 なるほど、と自分の指先を他人事のように見ながら空良が呟く。目の前の自分の指と、ふたまわり大きな管地の手に、パールベージュの爪が光る白い指が重ねられた。

「男二人でなにしてんのー?」

 突如現れたあいなとあいみが左右から空良の顔を覗き込み、空良が硬直する。あのなあ、とあいな達の手を振り払う管地に構わず、あいなとあいみが椅子に座った。二人の見分けがつかずにいる空良に、あいなが手を振った。

「私があいなだってば。わかんない?」

返す言葉も見つからないまま、空良が二人の違いを探す。違うところがあるとすれば、あいなよりもボリュームのあるあいみの胸くらいだった。視線に気付いたあいみが笑う。

「空良くん今、ヘンなこと考えなかった?」

「……名札があればいいのにと思った」

 空良は眠そうな目をして答えると、あいな達の顔をじっと見て付け加えた。

「でも、昨日と少し違う感じだ」

「わかる? 今日は控えめナチュラルメイクなの。彼が『そんながっつりメイクしなくてもカワイイ』って言うしー」

「でもそれはそれで、彼に『お前の素顔をほかの男に見られてるみたいでイヤ』みたいなコト言われたりするんだけどー」

「まあ、お二人とも彼氏いないんですけどね」

 あとから現れた安藤が、明るい笑顔で言った。


 安藤やあいな達もオーダーを済ませ、パンだのカレーだのローストビーフサラダだのを平らげたあと、ドリンクを追加しようと管地が店内を窺う。空良が立ち上がって聞いた。

「ぼくがいってこようか」

「余計なもの入れんなよ?」

 念を押す管地に、ここなら大丈夫、と空良が店内のカウンターを眺めて答える。余計なものってなに、と首をかしげるあいなに管地は腕を組んで答えた。

「前にスタバ入ったとき、俺のコーヒーフラペチーノに蜂蜜だのチョコだのシナモンだの全入れしてきたからな」

「……前の人がしてたから、そうするのかと思っただけ」

「そういう機転きかすのは焼香のときでいいぞ」

 じゃあ行ってこい、とメニューを指示して管地が促し、うん、と空良が店内へ向かう。マンゴージュースのストローに指を添えながらあいみが聞いた。

「そうやって空良くんこき使ってるの?」

「安藤が好きに使えって連れてきたんだよ」

 なあ、と管地が目配せする。はい、と安藤はコーヒーカップをソーサーに置き、小さく肩をすくめた。

「好きに使ってくれて構わない、と彼を菅地に紹介する際に言いました。青少年の健全な育成を妨げない範囲で、ともね」

「健全さで言うなら、俺のところへ連れてきたのは正解だ。そこいらじゅうに連れ回して体動かしてるからな。あいつもずいぶん話すようになった」

「基本インドア派でしたから、これからも色々と連れ出してあげてください。意外と彼も友人がいるようですから」

 ふふ、と上機嫌で安藤がコーヒーを飲む。ふーん、とラズベリージュースを飲んでいたあいなが周辺を眺めながら安藤に聞いた。

「でも、大丈夫なの? あの人ちょっとヘンだったじゃない?」

「昨日の飛田氏ですか?」

 カップを置いた安藤が足を組む。コンパクトミラーを手にしたあいみは口元を映しつつ、それとなく背後の様子をチェックしながら尋ねた。

「本部からの接近注意報とか、交流禁止令とか出てない?」

「本部のデータにも該当者はいませんでした。不審は不審でしたが、どういうジャンルの不審者なのかは僕にもわかりませんね」

 僕の友達じゃないですし、と安藤が管地の背後に笑いかける。すでに戻っていた空良が銀色の皿に載ったカプチーノを管地に渡しながら聞いた。

「安藤は、友達を会社に決められてるのか」

「まあね。関わりを持ってはいけない企業や、お近付きになっちゃいけない人物なんかの情報は、本部がじゃんじゃん追加してくる。背後にハンカチを落とされたような一方的な関わりでも、交流があったとされれば責任を取らなくてはならない。隙を作るなってことさ。人間関係も仕事もね。まあ、その二つは僕にとってほぼ同じものだ」

「そんななのに、自由じゃないのか。友達も仕事も」

「そうだよ。仕事そのものはこっちの裁量に任されてるけど、振る舞いなどは細々と指導されている。常に監視されていることを意識せよとか、時間の調整に睡眠を削るなとか、不機嫌になるなとか、人に損をさせるなとか、金払いを渋るなとか。全く異論はないから守っている」

 解せない顔をする空良に、安藤は膝の上で指を組んで続けた。

「そういう契約なんだよ。慈悲深きクラオ元会長は、僕を婚外子と認め、僕は彼を唯一の親と認める。その契約の元にクラオは僕を援助し、僕はクラオの同胞、いわば味方になる。クラオに不利益をもたらすものを敵と見なし、クラオから与えられる庇護に感謝しながら、クラオの利益のために動く。それが僕に求められた役割だ」

 すらすらと話す安藤を、空良が怪訝な顔で眺める。あのな、と管地は空良を座らせ、安藤を指差して言った。

「こいつのお父ちゃんの家は大企業の金持ちなんだが、こいつのお母ちゃんはそんなコトどうでもよかったらしくてな。結婚もせずこいつを生んで、その後もお父ちゃんと関わることなく亡くなったのさ。あとからお父ちゃんがこいつの存在を知って、クラオなんとかって自分の会社に入れたわけだ」

「息子っていうより親戚みたいな扱いだけどね」

「安藤がそもそも一族扱いされたがらないしね」

「十分ですよ。一族の権利やご利益に興味はないし、蔵尾だって、僕に大人しくしていて欲しいから優遇してくれてるだけです。そこでのし上がろうとも思わないし、本丸に居付こうとすれば、本家の人達も落ち着かない。何より、面倒じゃないですか? 僕はむしろ、蔵尾の権利や御利益なんかの話を僕に焚きつけてくる奴がいたら、警戒するよう本家に報告しているんです」

「今ならお前の方が友達多いぞ、空良」

 そう言って管地がカプチーノを飲むと、ですね、と安藤が肯く。

「加えて、言い寄ってくる女性は丁重に断った上で、本部に報告することになっています。まあ、あいなさんとあいみさんがいるので近付いてこないですけど!」

「私達が追っ払ってるみたいじゃない」

 あいなが肘をつきながら安藤を睨むと、あいみもテーブルに肘をついて言った。

「安藤って結構優遇されてるわよね」

「相続の際の取り決めですよ。かわりに、あとから余計な申し立てがあっても無効という一筆を取られています。アテにする気もないですし、むしろウザイような気もしますが、クラオとのなけなしの繋がりですからね」

 他人事のように言って安藤はコーヒーを飲み干した。遠慮がちに空良が尋ねる。

「そういうこと、言わなかったのか。安藤の……お母さんは」

「……母もさすがに、クラオなんとかって大きな会社の一番偉い人の隠し子だよー、とは言えなかったんじゃない? 僕のためにも」

「安藤のため?」

 空良が聞き返すと、ああ、と安藤は空になったカップを眺めながら続けた。

「面倒なことになると知っていたんだろう。母が亡くなり、父親が判明して、面倒の中に放り出された。望みも求めもしていないのに僕を担ぎ出し、僕を中心にして周囲が勝手に揉め出した。嵐を鎮めるためにも、適当な形に落ち着くしかなかったのさ」

「それでクラオの仲間になったのか」

「そのかわりに、出自や経緯もあまり口外しないこと、母との思い出もリセットすることを約束させられた。未来と、母の墓と引き換えに」

 そうなのか、と神妙な顔をする空良に、安藤は明るく言った。

「母の墓を立ててくれたことには感謝してますよ。公にされたくないのもわかりますしね。血族というにはあまりに見た目も違うし、あまり目立ってくれるな、ってことです」

「ムリだけどね」

「守れないよね」

「まあ、どうせどんなカッコしても目立ちますし!」

 はははは、と笑う声に周囲の人間が振り返る。こいつは、と管地がため息をついた。

「こうなれとは言わんが、空良にもちょっとくらい、こういうところがあればなあ」

 こういうとこって、と空良が嫌そうに安藤を見る。態度が大きいところ? とあいなが安藤を指差し、ヘラヘラしてるところ? とあいみが安藤を見る。えっ、と首をかしげる安藤をよそに、管地が白い歯を見せて答えた。

「お前ももう少し肝っ玉が太くなりゃ生きやすいぞ? こちとら空良がビビリなおかげで、ポップアップトースターも捨てちまったぜ。トーストが焼けるたびに寿命を縮められちゃかなわん」

「……ごめん」

「あ、いや気にすんな。かわりにいいパニーニメーカーを見つけたんだ。オーライだぜ?」

 管地が慌てて手を振ると、空良は真剣な顔で肯いた。

「管地はすごいよ。いつもそうやって仕事とかの話も丸めてたりする」

「丸めてねえよ、まとめてるんだ」

 残念そうに管地が息をつく。安藤は得意気に言った。

「どうだ空良、管地の凄さがわかってきただろう。絵を描くだけじゃギャラはもらえない。絵を売ってくれる画廊もいない。それでも管地はアーティストだ」

「口の達者な友人はいるからな。俺の絵の面倒を見てくれるのはいいが、こいつは妙な仕事ばっかり持ってくる」

「だが菅地は嫌な仕事なら受けない。つまり僕のコーディネートは的確ってことだろう?」

「安藤だって嫌な仕事はしないじゃない」

 あいみが横目で安藤を見ながら笑う。えー、と安藤は困ったように栗色の頭を掻いた。

「そんなことないですよ。嫌で面倒な仕事も否応なしに抱えてます。どこにブン投げようかと必死ですよ」

 やっぱり投げる気じゃない、とあいなも呆れ顔で安藤を見た。なんだかな、と冷めた目をする空良の肩を管地がぽんと叩いた。

「大事なコトだぞ空良。俺達は幸運なことに、多少は仕事を選べる。大金を積まれても、嫌だと思う仕事はやらなくていい。描いた絵が目の前から消えても、『お前の仕事』はお前自身に残る。嫌な気分になるために仕事をすることはないのさ」

「……それならなんで、安藤からくるヘンな仕事も受けてるんだ? 管地も何か、弱みを握られてるの?」

「ちげーよ、こいつとは色々あんだよ。それに俺は金がいるんだ。ばあちゃんのために」

 ああ、と思い出したように空良が肯く。おばあちゃん? とあいなとあいみが意外そうに管地を見た。

「田舎住みで、……つっても埼玉なんだが、家を離れたがらなくて、人を雇って面倒見てもらってんだ。掃除や庭の手入れとかな。食べ物も毎週宅配させてるけど、ばあちゃんが好きなアンパンは俺が送ってる」

「あ、昨日のマドレーヌもおばあちゃんのなんだ」

「お店にあんパンなかったもんね」

 おいしかったけどねー、と顔を見合わせるあいなとあいみに、管地はパン屋をたくさん知ってるから、と空良が少し誇らしげに言った。

「パン屋とは若い頃から縁があるからな。木炭デッサン消すのにパン使いまくるし、メシもパンしか食わなかったな」

「おばあちゃんと一緒に住んだりしないの?」

「んなことになったら、俺が発狂する。俺のアトリエが、パッチワークやちりめん細工の詰まった老人憩いの間になっちまうんだ。木彫りの熊やら赤ベコの隣に俺の作品が普通に並べられるんだぞ。勘弁してくれ」

「あ、一度はトライしてみたんだ」

 笑いを堪えているあいみに、おうよ、と管地はおどろおどろしい声で続けた。

「トイレにシップだの軟膏だの千羽鶴だのがじわじわ増えてきやがる。食いきれないほど買ってきた毛ガニが冷蔵庫に入ってたこともある。芽が出たネギやイモもそこらじゅうに置いて育て始めるし」

「管地、電話」

 空良が管地の腕をつつきながら着信中の携帯電話を差し出す。慌てて受け取った管地は、失礼、と電話に出た。

「ばあちゃん? あ、いや別に……うん、マドレーヌも悪くないだろ? ……え、仕事?」

 青くなっていく管地の顔を、空良が不思議そうに窺う。やりにくそうに話を続けながら管地は何度か肯き、わかった、と仕方なさそうにメモを取った。

「そっちには俺から確認の電話しとくから」

 じゃあ、と電話を切った管地は、ため息をつきながら空良に告げた。

「……ボランティアみたいな仕事が入った。つうか、入れられた」

「どこで」

「埼玉。ばあちゃん家の近くだ。たい焼き屋の塗りかえを勝手に引き受けちまった」

 それも明日な、と管地が脱力してソファに寄りかかる。ふははは、と安藤が足を組み替えながら愉快そうに言った。

「プロの管地にこんなことを頼めるのは、彼のお婆さまと僕くらいだ」




 赤坂へ移動した伊原と北条は、乃木坂トンネルに続くつづら折りの階段で、天使のいる壁を見ていた。赤いスプレーによる奇怪な文様、黒マジックで描かれた意味のない記号に埋もれかけた壁には、死んでいる男達を見下ろす伊原、その上から伊原を見下ろしている十字架にかけられた神の子、さらに高く、青い場所には天使が描かれていて、その手には赤いリンゴが描かれている。

「……二年前の光景よ。取引現場にいた四人の男が死に、金と商品が消えていたらしい」

 天使に伊原が触れる。リンゴはあとから描き足されたらしく、赤い塗料はまだ新しい。

「こっちが断れない話で、槙野組に取引の場所を提供しなければならなかったの。秋山は、ウチが所有する東品川の立体駐車場を使わせろと言ってきた」

「……彼らにとっては使い勝手の良い場所ですからね」

「だからといって取引に使わせるわけにもいかない。別件で警察が来ていることにして、かわりに、私が潰そうと思えば丸ごと潰せる場所を提供したの」

「それがこの礼拝堂ですか」

北条が眼鏡を押さえながら壁を凝視する。聖フィーナ伊原記念病院と呼ばれていた頃に、療養所的のような役割で存在していた第八病棟。別名伊原病棟と呼ばれたその敷地の隅に残されていた古い礼拝堂が、この光景の舞台らしい。

「私が管轄する敷地内のトラブルであることは確かで、無関係であることを証明するのは不可能。……隠蔽工作もしているしね」

 薄暗いコンクリートの壁を睨みながら伊原が腕を組む。諸々のしがらみにかこつけて、槙野組の秋山はことあるごとに伊原を利用していた。ガサ対策のための倉庫として使用する『駐車場』、伊原による急患の『往診』。その切り離しが困難であることを察した伊原は、自分そのものを病院から切り離すことを選んだ。

「なにかと貸しを作りたがる秋山に面倒事を逆手に取られて、私は病院と縁切りして病棟ごと店じまいよ。あとは二年前の犯人でもくれてやれば、奴とも距離も置けるかもだけど、そこまでは難しい」

「取引がこじれたとか、誰かが裏切ったとか、その手の話ではないんですね」

「どうかしらね。あそこに入ったのは四人だけ、死体になったのも四人。消えた薬は街に出回り、現場を見ないと描けない絵が今になって現れた。四人を殺して金と薬を持ち逃げした奴が悠長に壁画を描いてるとは思えないけど、私の顔のほくろの数まで知っている、もう一人がいたことになる」

 困った話だ、と伊原が壁の絵に目をやる。北条も絵の中の伊原を見て肯いた。

「そいつが館長の敵か味方か気になりますが、槙野組が総力で動けばじきわかるでしょう」 

「これだけ迷惑かけておいて味方もないわよ。槙野組が総出で犯人探しなんてこともない。秋山はこんなみっともない話を上に報告できないのよ」

「ですが今回は、額が違うでしょう」

「桁違いよ。それこそ、上が知っていたら今頃もっと騒ぎになってるし、秋山も無事ではいられない。だからこっちを巻き込んで必死になってるのよ」

 知ったことじゃないわ、と口元にある二つのほくろを歪ませて伊原が続けた。

「問題は、取引の場にいなかった私が、この絵の中心に立っていること」

「……それは」

 北条が口を開いたとき、ふいに頭上から若い男の声が聞こえた。伊原が顔を上げると、派手なピアスをした茶髪の男と、首や手首にアクセサリーを重ねづけしたニット帽の男が階段を降りてくるのが見えた。伊原と目が合った茶髪の男が舌打ちすると、ほか行くか、とニット帽の男も顔を背けてトンネルへ抜けようとする。

 伊原は若い男達を一瞥し、すん、と鼻を鳴らして考えるような顔をした。そのまま茶髪男の前に立ち、その目を覗き込む。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」

「へ? 青山墓地ならその先ですよオバさん」

「まだそっちには用がないわ。私が聞きたいのはね、あなた達がなけなしのお小遣いで買ってる駄菓子みたいな薬のことなんだけど」

 イミわかんねえし! と茶髪の男が鼻白んだように目を逸らす。伊原は回り込むように男の瞳孔を観察し、目を細めた。

「あなた瞳の動きが独特だし、息が臭いわ。この匂いは、食うも眠るも忘れるような薬をやってる奴に染みついた匂いよ」

「へえ? そういうジャンルで若者文化に参加する気なのオバさん?」

 茶髪の男がポケットに手を入れ、顎を突き出しながら笑う。それを諫めるようにニット帽の男がじゃらりとアクセサリーを鳴らしつつ口を挟んだ。

「バカ、失礼だからオバさんオバさん言うなよ。オバさんはオバさんでも、三十そこそこのキレイなオバさんじゃん」

「キレイでもオバサンだし、何かキメなきゃ相手が無理じゃん? だからオバさんもそういうの欲しいの? それでこんなトコに立ってんの?」

「どういうことかしら」

 興味深そうに伊原が一歩踏み出す。後方で北条が周囲を気にするような素振りを見せると、茶髪の男も人目がないのを確かめてにやりと笑った。

「オバさんフツーの白いのしか知らないっしょ? 今キテるのはコッチなんだけど、もう売り切れなんだよー」

 げははは、と男は空になった錠剤のパッケージを取り出してひらひらさせる。あら、と伊原がそれを摘まもうとすると、ざんねーん、と男がそれを後ろに放り投げた。

「俺ら薬屋じゃないんで、ココにいても何ももらえないよ? オバさん達は無理しないでスッポンドリンクとかで我慢してね」

じゃあねー、と手を振り去ろうとする男達に、伊原はもう一歩踏み出した。黙ったままピアス男の茶髪を素早く掴み、目の前の壁に叩き付ける。鼻を押さえて膝をつく男を離し、隣の男の腕を捻り上げ、壁際に押し付けた。じゃらじゃらとアクセサリーを鳴らしながら、ニット帽の男が怯えた声を出す。

「あの、マジすんません!」

「キレイな青だな」

 人が変わったような低く冷たい声を出しながら、伊原は男が首に下げている深い青色の石をつまみ上げた。

「……青は、ヤク中のイメージだ」

「はあ?」

「メタンフェタミンやADMAの簡易判定で見られるシモン反応を思い出す。こんなキレイな青が出たらアウトだ」

「ケーサツっすか!」

 ニット帽の男が顔色を変える。血まみれの鼻を押さえる茶髪男を横目に、伊原は男のネックレスを強く引きながら低く太い声で言った。

「いいから答えろ。お前達が売人じゃないのはわかっている。最近この辺で、新しい売人に会っているな?」

「いやいや、俺らも直接買ったわけじゃないんで、もらったヤツなんで!」

「出所は?」

「マジでわかんねーです。俺らにくれた奴も、ここでもらっただけだし、よそでもコレがあるところでもらったって話だし」

 コレ、と腕を掴まれたまま、男が顎でしゃくるように壁の絵を示す。伊原は男の腕に力を込めながら尋ねた。

「それで、誰から?」

「そいつもうラリってて、言ってることヤバくなってるんですけど、なんかこの絵見てたガキからもらったって」

 そう、と伊原がニット帽の男を解放し、もう血は止まってるわよ、と茶髪の男に告げる。二人の男は引きつったような顔をしてトンネルへと消えていった。

 北条が気遣うように目を向けると、伊原は投げ捨てられた空のパッケージを拾い上げ、三十か、と小さくため息をついた。

「……少し若く見られたみたいね」



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