5 芝公園での葬儀
四日の朝、三田方面へ向かっている緑のボルボの中で、空良があくびをしながら聞いた。
「今日はどこ塗るの」
「ホルトゥス・コンクルススの塀を塗るのさ」
なにそれ、と空良が眠そうな目で運転席を見る。管地は六本木を抜けながら言った。
「神の愛に守られた『閉ざされた庭園』さ」
ふーん、と理解するのを諦めてぼんやりと外を見る空良に、管地が笑いながら続けた。
「旧約聖書に『花嫁よ、あなたは何もかも美しい』みたいなのが延々と続く一節があって、妹だか花嫁だかを、ハトだのヤギだのヒツジだのに例えながら誉めまくる甘い詩なんだが、その中の『わが花嫁は、閉ざされた園、封じられた泉』って部分が聖母マリアと関連付けられて宗教画にもなってる。要は外界から塀で隔てられた庭園だ」
「庭園の絵なら、たぶんぼくも知ってる」
へえ、と管地は意外そうな声を出して交差点を左折する。麻布を過ぎ、入り組んだ道を進むと、とある施設の前で車を停めた。空良が微妙な顔をして聞く。
「それがここ?」
「おうよ。外界から、神の愛で守られるべき庭園の壁だ」
「庭園じゃなくて、保育園の壁だよ、ここ」
空良が責めるような目で管地を見る。目の前にある施設は、バラやユリが咲き誇る庭園ではなく、子供達が元気に駆け回る保育園だった。
車を降りた管地は、空良を連れて施設に入ると担当者を訪ね、一通りの挨拶を済ませた。職員に案内された作業現場で空良が目を見開く。
「プールだ」
それは、背の高くない空良から見ても浅くて小さな、幼児用のプールだった。まだ水は張られておらず、水色の床の隅では木の葉がかさかさと震えている。
深緑色のプールサイドを外界から隔てているのは、焦げ茶色の塀だった。ナチュラルな色使いのはずが地味過ぎてしまって、と困ったように肩をすくめて職員が戻っていく。
管地は設計図らしき紙をひらひらさせて言った。
「最近は色々大変なんだ。あーんなちっちゃい子供が水浴びするのにも盗撮対策しなきゃならんらしくて、あとから塀を足したそうだ。そんなわけで我々の作業は、このプールを囲う壁の塗装だ。大まかな図案はこの通り決まってるが、ラブリーでプリティーな仕事が要求される。心して作業に掛かろう」
焦げ茶色の塀に囲まれた空間が、パステルカラーに生まれ変わったのは昼過ぎだった。ミントグリーンやベビーピンク、クリームイエローに彩られた塀。そのあちらこちらには、ウサギやクジラ、花や星達が笑っている。
管地は塗料の乾き具合を確認すると、道具の片付けを空良に任せてプールサイド周辺の清掃を始めた。まとめた荷物を持ち上げた空良が尋ねる。
「……そっちまで掃除するの?」
「どこだって一緒さ。作業現場はできるだけ完璧に掃除するんだ。すると依頼主は、俺の作品が存在するせいで空間が輝いているように感じ、自分の選択や審美眼は正しかったと納得する。その空間は少なくとも二、三日くらいは美しさが保たれ、周辺に見苦しい物が置かれることはない。つまり俺の作品がその空間を支配するための魔法さ」
「そうならなかったら?」
「あっという間にあれこれと周りに物が増えて、最悪の場合は作品が撤去されて空間から追いやられる。つまりは俺の絵が負けたってことだな」
そう言って管地は手を動かし、落ち葉やゴミを拾い集める。空良がまとめた荷物を車に積み込みプールへ戻ると、管地は園長らしき年配の婦人に、作業が完了したことや塗料の乾き具合を説明していた。
その後、応接室で書類の処理を済ませた管地と空良が廊下に出ると、水色のスモックを着た園児達が集まって手を振っていた。照れながら空良が手を振り返すと、はいみんな、せーの! と園児達の後ろで若い先生が明るい声を出した。それ以上の明るい声と音量で子供達が叫ぶ。
「ペンキやさん、ありがとう!」
ペンキ屋じゃないんだけどな、と呟きつつも、またなー、と管地が子供達に手を振る。まあ、と脇にいた園長先生が焦った声を出す。
「そうなんですか? 失礼しました」
管地は、んん、と喉の調子を整え、口調を変えて園長先生に告げた。
「いえいえ、もちろんこのような心の洗われるような作業にも喜びを感じますが、本業は絵画や彫刻、レリーフなどを主に製作しています」
「はあ」
ピンとこない様子の園長先生に、管地は目の前にある階段を手のひらで示した。
「例えばこの階段。何もなければ、踊り場を通るたびに目に止まってしまうのは、窓から見える電柱です。ですが、あの壁に明るく穏やかなモチーフのアートがあったとしたら、どうでしょう? あなたと子供達がこの場所を通る時間がどれだけ楽しいものになるか、興味はありますか?」
保育園をあとにした緑のボルボは、麻布を抜けて日比谷通りに出た。よっしゃよっしゃ、と管地は満足げな様子で芝公園方面へ向かう。
「ダメ元で言ってみたが、次のビジネスに繋がりそうだ。ありがたや」
「なんかすごいね」
「まあな。絵を売るのは画廊の仕事かもしれんが、口がうまけりゃ画家も仕事が捗るのさ」
芝公園沿いを走り、増上寺を過ぎたところでウインカーを出す。港区役所前を左折してホテル前の駐車場に車を入れると、どこいくの、と空良が不安そうに聞いた。
「お前も降りろ。いつもの『日々の糧』だ」
ああパン屋か、と空良が車を降りる。車をロックした管地は、ホテルの反対方向にある緑に囲まれたベーカリーレストランへ向かい、洒落た店内を覗き込んだ。
「混んでるな、パンだけ買ってくるか」
じゃあここで待ってる、と雰囲気と客の多さに気後れした空良が、店から離れたところで待機する。木々のあいだに見える東京タワーをぼんやり眺めていると、待たせたな、と白い袋を提げて管地が戻ってきた。その先に見える移動式カフェの看板を管地が指差す。
「よし、向こうのカラフルな店で一息入れるか」
カラフル? と空良が目をやると、少し先のスペースに、カフェ仕様の茶色いスバルのサンバーが駐まっていた。近くにはカラフルなパラソルと白い椅子が見える。
管地はサンバーに近付き、サンバイザーをつけた若い店員に声をかけて椅子に座った。いらっしゃいませー、と店員が持ってきたメニューを空良に見せる。
「レインボー? ブルーハワイ……つぶつぶグレープ……あずき白玉?」
鮮やかな写真つきのメニューを難解そうに読み上げると、かき氷専門の店であることに気付いた空良が考え込む。
「車のクーラント液みたいだ。……体に悪くないの」
「良くはないかもしれんが、食わないからって寿命が延びるわけでもない。好きなの食え。腹壊したらそのとき考えろ」
そうか、と空良は再びメニューを眺め、意を決した表情で店員にオーダーを伝えた。
「ミルクハワイフラッペ。ソフトクリームつき」
練乳もお付けしますか、という店員に、空良が大きく肯いてみせる。宇治金時を頼んだ管地が会計を済ませると、店員が青と緑の雪玉のようなかき氷を持ってくる。
んじゃお疲れ、と管地がプラスチックのスプーンで宇治金時をつつき始めると、空良は管地の宇治金時を眺めて聞いた。
「管地、練乳とかソフトクリームは?」
「俺はいい。お前って、牛乳とかソフトクリーム好きだな」
「……牛乳とかは、何か混ざれば色とか味でわかるから」
だから卵も嫌いじゃない、と空良はプール色の氷をざくざくと混ぜながら食べ始める。カラフルなパラソルの下で、管地ものんびりと氷をつついて言った。
「向こうは忙しそうだな」
空良が管地の視線を追う。通りの向こう側では、近くで大きめの葬儀があったらしく、葬儀社のスタッフがばたばたと礼服の集団をマイクロバスに誘導していた。
そんな光景に気を取られ、空良も管地も後方から歩いてくるスーツ姿の男に気が付かなかった。やあ! と片手を上げて空良と管地の間に堂々と座ったのは、色白で栗色の髪をした大柄な男だった。うわっ、と空良が椅子の上から跳ねるように飛びすさり、安藤か、と管地が顔を上げた。
「まったくお前は。なんだよいきなり」
「いやあ、そろそろかなと思って」
「何がだよ。風呂の湯加減か」
管地が尻餅をついている空良を起こそうとすると、空良は黙ったまま自力で立ち上がり、安藤を睨んだ。安藤は構わず上機嫌で空良に笑いかける。
「まあ色々とね。なあ空良? 少し背が伸びたんじゃないか?」
「……べつに」
噛み付きそうな顔で睨みながら空良が答える。ふふ、と安藤は楽しそうな声を出した。
「そうか、まあいい。僕は十六から二十歳にかけて二十センチ伸びた。これからだ」
異常体質なんじゃないか、と頬杖をつく管地の隣で、空良がスプーンをノミを持つ形に握り直す。まあまあ、と安藤は店員が持ってきたメニューを受け取りながら言った。
「ヒートアップしたのならクールダウンするといい。イライラにはカルシウムだっけ? なんだ、もうミルクはかかってるのか」
空良のミルクハワイフラッペを覗き込んだ安藤が自社製品の抗菌ウエットティッシュで手を拭いていると、ショートカットで同じ顔をした二人の女性が近付いてきた。
「ちょっとー安藤?」
「安藤ばっかりなに食べてるのー?」
まだ食べてませんよー? と安藤が顔を上げる。インパクトのある二人に空良が呆然としていると、僕の仕事仲間です、と安藤が二人を示した。シーシェルピンクのブラウスを着てミルキーピンクの唇をした女性が、グレーのスカートから長い足をすっと伸ばしてポーズを取りながら言った。
「みんなに夢を分け与える天使、あいな」
「みんなの夢を詰め込んだ天使、あいみ」
白いスカートにアプリコットオレンジのブラウスを着た女性が、大きな胸を反らしつつ、ベビーピンクの唇で言う。ぽかんとしている空良の横で、安藤があいなとあいみに管地を紹介する。
「あいなさんとあいみさんは初めてですよね。彼がスガチ、菅地能海。看板屋っぽい仕事が多いですけど、絵のみならず造形の才能にも秀でている僕の友人で、アーティストです。少し変わり種の作業や、訳あり仕事などを引き受けてもらっています」
どうも、と管地が無難に挨拶をする。お噂はかねがね、とお互いに言い合うと、そしてこちらが、と安藤が空良を手で示した。無表情のまま黙っている空良に代わって、管地が仕方なく紹介する。
「こっちは世間知らずのソラ。持病はコミュ障です。よろしくね!」
「きゃーん、よろしく空良くーん」
「空良くんの病気なら治したげるー」
カワイイー、とあいなが空良の頭を撫でると、あいみが後ろから空良の首に抱きついた。押しつけられた胸に空良が顔を顰める。
「でも、上手に話せないとかってわかるー」
「私も引っ込み思案で人見知りしちゃうー」
ねー、とあいなとあいみが空良をこねこねといじり回す。管地が呆れた顔で呟いた。
「んな気質で務まるお仕事かよ。本物ナメんなって話だよな、空良」
挨拶くらいできる、と空良がフラッペの上のソフトクリームを食べる。挨拶しかできんだろうが、と管地が溶けかけた宇治金時をすする。空良は少し考えてから言い返した。
「……挨拶のあと天気の話する意味がわからない」
「出会い頭にスプラッタな話されても困るだろうが。天気の話には『少なくともボクはそういうタイプじゃありません』って伝える意味があるのさ」
「……すごくめんどい」
「そう言うな、デキる大人のちょっと高度なアイサツだ。いちいち和歌読んでた大昔より楽なもんさ。冬の初まりなら『肌寒くなりましたね』、月の夜なら『月がきれいですね』だ。機会があったらやってみろ」
あったらする、と不服そうな顔で空良が肯く。その横であいなとあいみがトロピカルなドリンクを注文し、安藤がレインボー練乳ソフトフラッペをオーダーした。ほどなくしてやってきた色見本のようなかき氷を食べる安藤に、管地が呆れ顔で尋ねる。
「どうしてこんなところにいるんだ?」
「今日の仕事現場が麻布って話聞いてたから、昼はそこのベーカリーレストランだろうと覗いてみたらいなかった。ハズしたかなあと思って、なんとなく近くのカラフルな場所を覗いてみたら君達がいた」
そりゃ要領のいいことで、と管地がため息をつく。七色のシロップがかかったかき氷を安藤がさくさくと食べる。それを引き気味に見ている空良に、管地が笑った。
「カラフルなのはいいコトだぜ? お前も時々女の絵描いてるみたいだが、赤が足りない」
「……見たのか?」
「寝床に放ってあったのが見えたんだよ。オカンじゃねえんだ、わざわざお前が隠してるエロ本なんか漁らねえよ」
「そんなのないけど」
あいなとあいみの視線を浴びつつ空良が言った。私のフローズンピーチ飲むー? だの、私のオレンジマンゴーひと口あげるー、だのとドリンクを勧めてくる二人を見ながら呟く。
「安藤の仲間は、みんな背が高いのか」
「え、そんなことないよー? 私達がちょっと完璧なだけ」
「空良くんも牛乳飲んだら? 私達みたいになれるかもー」
オレンジマンゴーのグラスを置き、あいみが空良の顔を覗き込む。牛乳は飲んでる、とあいなよりも若干大きいあいみの胸を見ながら言った。
「……どこに効くかわからないから」
液状になったフラッペを完食した空良が、ぼんやりと日比谷通りに視線を向けた。安藤もレインボー練乳ソフトフラッペを完食し、通りの向こうを眺めながら長い足を組む。
「向こうは黒い服の人達ばかりですね」
ありゃ葬式だっつの、と管地が口を挟む。その黒い集まりのそばで細やかに動いている、黒スーツの女性を空良は目で追っていた。
「どうした空良、知り合いか?」
礼服の集団がいなくなると、黒スーツの女性も葬儀会場らしき施設の中へ入った。その裏手側では業者らしき作業着姿の大男が、トラックに荷物を運び込んでいる。左手からはヤクザ風の若い男が三人、右手からはジャケット姿の小男が歩いてくるのが見えた。
「…………たぶん友達」
「友達いたのか?!」
どれだ? と管地が通りの向こうを凝視する。空良の視線の先には、赤い電柱のような物体を軽々とトラックに積み込んでいる作業着の男と、遠ざかっていくヤクザ風の三人組、少し離れたところに停車した白黒の警察車両が見えた。
パトカーから降りた警官二人は、去っていく三人を追わずに、先刻からうろついているジャケット姿の初老の小男に声をかけた。怪しい人ね、と呟くあいなに、そうですね、と安藤も肯く。空良は珍しい虫を見つけたような声を出した。
「……トビタさんだ」
そこで行われている葬儀は、ひとかどの人物のものらしく、それなりに規模の大きいものだった。しめやかな雰囲気に水を差さぬよう気を遣った警察官達は、会場から少し離れたところでジャケット姿の男に声をかけた。
「こんにちはー、すみません、今日はお休みですか?」
「あらっ、私ですか?」
茶色のジャケットを着た小男が、驚いたように周囲を見回す。はいそうなんですー、と警察官が近付きながら丁寧に続けた。
「びっくりさせちゃってすみません、最近色々あるので回ってるんですが、いつもこの辺お散歩されてるんですか?」
「いえ、普段はインドアで手芸などをたしなんで過ごすコトが多いです」
男は目をぱちぱちさせながら神妙な顔で答え、二人の警察官も神妙な顔で肯いた。その背後では、紫の上着を羽織ったヤクザ風の男が、物々しい様子で黒いセダンに乗り込み、遠ざかっていく。さらに施設の裏手側では、帽子を被った作業着の大男が、赤い円柱状の荷物を抱え、葬儀にふさわしくない色を会場の正面側に見せぬよう、速やかに車に積み込み、すでに積まれている二本の赤い円柱と合わせてバンドで固定した。
そんな周辺の動きに構わず、警官二人は目の前の男をじっと観察しながら尋ねる。
「なるほど。今日はこれから予定があるんですか?」
「えっ、これってまさか……予定がなければ、私、誘われちゃったりするんですか?」
違いますよー、と笑顔を崩さずに警察官は仕事を続ける。
「ちなみに真夏でも長袖は良く着られるんですか」
「ええまあ、ファッションにはそれなりにこだわりが」
「すみません、ちょっと上着脱いでもらってもよろしいですか」
「やだそんなー、今日のはお見せできるようなものじゃないですよ。これがブリオーニのジャケットに見えますか?」
いえそういう話ではないですけど、と適当に返しながら、もう一人の警察官が男の腕の注射痕や刺青の有無をさらっとチェックする。犯罪用ツールを隠し持っている感触もなく、お似合いですねぇ、と上着を返した。
「あなたがたはひょっとして、ミラノから来たおしゃれ泥棒ですか?」
「いえ、見ての通り警察です」
あ、やっぱりそうなんですかー、と小男が肯く。警察官はやんわりと所持品や身分証の提示を求め、男は抵抗することもなく、しかし面倒なやり取りの末にそれに応じた。裏手では赤い円柱を積み込んだ大男の作業員が助手席に乗り込み、運転席の金髪に眼鏡をかけた男がトラックを発進させる。
飛田さんね、と確認した身分証を返した警察官は、飛田の持っていた小さな紙バッグに目をやりながら言った。
「ご協力ありがとうございます。最近はこの辺でも不審者が多く出るので、気をつけてくださいね。あとすみませんが、ちょっとそちらの荷物を見せてもらっても?」
「え、別にこれは……違うですよ?」
飛田が恥じらうように顔を赤らめる。別段怪しいところもないショップの紙バッグから出てきたのは、紙バッグと同じデザインをした四本の細長い袋だった。アルミを使用した遮光性の袋で、振るとかさかさと乾いた音がする。
「スウィートロマンス……ファーストキス……セクシー……ピンクガーデン?」
警察官が袋に書かれたロマンチックな文字を読み上げる。やめてー、と飛田が恥じらうように両手で頬を押さえた。
「それは、たまたまちょっと魅惑的な冒険心が疼いてしまって、いつもはスタンダードな銘柄を好むのですが、今回チョイスしたのは」
「お茶ですよ。茶葉の専門店で買える正式なラインナップです」
飛田の言葉を遮り、陽気な男の声が説明する。職務質問に割り込んで来たのは、色白で栗色の髪をしたスーツ姿の男だった。
空良が日比谷通りを越えて近付くと、飛田は二人の警察官と話しながら上着を脱いだり財布を見せたりしていた。付いてきた安藤も興味深げに三人のやりとりを眺めている。
怪しさを感じつつも問題点が見つからない警察官の関心が飛田の手荷物に向けられると、お茶ですよ、と安藤が脇から口を挟み、身分を明かした。
「そんなわけで、中身はフレーバーティですから怪しくありませんよ。僕が保証します」
「失礼しました。荷物より挙動が不審だったのでつい」
ナチュラルに本音を吐く警察官に、わかりますわかります、と安藤も明るく肯く。
「この人は僕の友達の友達です。な、空良」
「トビタさんは、病院でも花柄のカップとかクッキーの缶とかを枕元に置いてたし、包帯で人形作ったりしてヘンだけど、危ない人じゃないよ」
たどたどしい空良の説明に、そうなのかー、と笑顔で肯いた警察官は、どちらかというと安藤に頭を下げ、空良に手を振りつつ去っていった。飛田が拝むように安藤を見る。
「困っていたところを助けて頂いて、本当にありがとうございました。あの警官が色々と質問してくるもので」
「いえいえ、これで職質しない警察なんて頼りになりませんから!」
僕が助けたのは困ってた警察の人ですし、という安藤に、なんとお優しい、と飛田が感動したように深々と頭を下げた。
「見ず知らずの私に差し伸べてくださる温かな手、世の中捨てたものではないと痛感した次第でございます。ぜひこのお礼をさせて頂きたいと思っているのですが」
はははは、と冗談として聞き流す安藤に、おい安藤、と管地が訝しげに飛田を見ながら忠告する。
「こんなのをいちいち相手にしてんじゃねえぞ? こいつの言ってることは、俺んとこにしょっちゅう来る詐欺メールと同じ文面だ」
なんですかこの人、と飛田は管地を邪魔そうな目で見ると、いやあソラくん、と空良に駆け寄り笑顔を見せた。
「お久しぶりです。まさかこんな形で再会できるとは」
「トビタさん、本当に東京で暮らしてたんだ」
「はははもちろん。森の奥に住む妖怪にでも見えますか」
まあね、と肯いた空良の背後から、空良くーん、とあいなが抱きつく。おお、と飛田が目を見開いた。
「なんという運命のいたずら。ひょっとして今までの私の人生は、あなたに出会うための大いなる遠回りだったのかもしれません」
そう言って飛田は跪き、空良に抱きついているあいなの右手をとった。その隣に現れたあいみに、顔を上げた飛田がさらにぱっちりと目を見開く。
「運命の人が……ふたり?」
なんでこんなの助けたんだよ、と管地が責めるように安藤をつつく。僕が助けたかったのは警察ですよ、と弁明する安藤の横で空良が説明した。
「トビタさんは、ぼくが入院してたとき同じ病室だった人」
「そう、私と空良くんは二年前、かけがえのない友人としてひとときを過ごしたのです」
ほう、と管地が意外そうな顔をする。空良は否定も肯定もせずに尋ねた。
「トビタさん、なんで警察の人に捕まってたの」
「まだ捕まってはないですよ。ただ、小坂さんに似た人を見かけたのでこう、さりげなく眺めようとしてたら、なぜか警察の人が声をかけてきたんです」
警察が正しいな、と管地が腕を組む。コサカ? と空良は一瞬考えてから言った。
「……あれ、やっぱりハヅキだったんだ」
さっき見た、と空良は会場の裏手を指差し、黒スーツの女性が忙しそうにしていたのを報告する。葬儀会社にお務めなんですよね、と飛田も相槌を打ち、考えるような顔をしていた安藤が空良に笑いかけた。
「君は結構友達が多いんだな、空良」
「ハヅキは、入院してたときの友達」
へー、と管地が遠くを見る。人影は見えないが、会場施設の裏手には『柊セレモニー』の名前が入った車が止まっていた。
「指が、取れてしまった……」
控えめなクラシック音楽が流れる会場で、人々が故人略歴を兼ねたスピーチに聞き入るなか、小坂葉月は取れてしまった経絡人形の指先を握りしめていた。
今回は葬儀といっても、近親者のみで火葬を済ませたあとの追悼の場として企画された『お別れの会』だった。会場の一角には、聴診器や白衣など、医師だった故人を偲ぶ思い出の品々が展示されている。
『先生は西洋医学にとどまらず、東洋医学の知恵と技術に大きな関心を寄せ……』
スピーチをしていた男性がちらりとその一角に目をやる。個人が愛用していた椅子や机、眼鏡や時計、何かの大会で優勝したらしいトロフィー。これらはしばらくこのままだが、骨格標本や筋肉解剖模型などは、献花が終了して会食の準備に入るタイミングで速やかに撤収した。故人のエピソードを語る男性が、机に置かれた古いほうろうの洗面器とリンゴを示しながら続ける。
『また先生は、浮きもの通しという、器一杯張った水にリンゴを浮かべ、水をこぼさずリンゴに鍼を打つという非常に難しい技術も……』
撤収後でよかった、と葉月は会場の裏側へと回り、展示物を確認する。内蔵模型の隣で故人の白衣を着せられた経絡人形の前に立ち、ごめんね、と指の取れたその手に触れた。
展示品の眼鏡や時計などは遺族が引き取るが、一部の古い模型や白衣などは、イベント終了後に柊セレモニーが処分することになっている。体中にツボの位置が記されている、この経絡人形もその一つだった。
あとで廃棄するとはいえ、取れた指と本体を別にしておくのも気が引けた。自分とそう変わらない背丈の古い経絡人形を前に、葉月はスーツのポケットから絆創膏を取り出し、応急処置、と指を本体と繋いだ。いまいち繋ぎが弱いかな、と追加の絆創膏を取り出した拍子に、ポケットから銀色の円い小物が転がり落ちる。
それは、蓋のある方位磁石だった。本来は出先で北枕を確認するために持っているものだが、最近は、蓋の裏側にある鏡で顔や身なりを確認するくらいしか使うことがない。
ちょっと持っててね、と葉月は方位磁石を経絡人形が着ている白衣のポケットに入れ、人形の指を絆創膏で手早く補強した。ふと腕時計に目を落とし、行かなきゃ、と時間を確認しながら慌てて会場へ戻る。
腕時計を袖で隠し、表情を引き締め、背筋を伸ばして持ち場へ立つ。白と黒以外の色や、癖のあるデザイン、インパクトある小物を、葉月は徹底して避けていた。葬儀スタッフの個性は悲しみの席でノイズになる。不要なときは存在感を消し、必要なときに遺族に手を貸せるよう気遣うのが自分の仕事だった。
友人代表による写真パネルの紹介が終わり、懇談、会食のあいだに返礼品の準備を整える。梱包材や空箱を抱えて裏側へ向かい、愛着が沸きつつある白衣の人形に目をやろうとした葉月は、足を止めて目を見開いた。
「……あれ?」
ほかの模型や標本はそのままなのに、白衣を着た経絡人形だけが消えていた。
赤い円柱を載せたトラックが日比谷公園を過ぎて晴海通りに入ると、今どこですか、とボスから連絡が入った。仲通りを左折し、ラジオ放送局の近くに車を停めると、運転席の金髪男が左耳に装着しているイヤホンマイクで居場所を報告する。
「丸の内です。正確に言うと、有楽町一丁目のとあるラジオ放送局近くに車を停めてます」
『……丸の内警察署の裏じゃないですか』
わざとですね間能、とため息をつく富仲に、まあまあ、と間能が尋ねる。
「それにしても、芝公園からC1乗っちゃマズかったんですか?」
『はいダメです。今日は丸の内を抜けて、呉服橋から江戸橋を抜けて六号向島線ルートで川口線に入ってください』
「さっきパトカーいましたけど、スルーでしたよ」
間能は警察署の裏手を確認しながら小堀を促し、車を降りる。小堀は荷台に回り込み、三本の赤い円柱を固定していたバンドを外した。ダミーであるロール状の赤いパンチカーペットを二本とも脇に押しやり、先刻積み込んだ中身入りのロールを広げる。
『目を逸らせばロックされますよ。いつでもどこでも、ポリスを見たらスマイルです』
「いつでも俺はスマイルですよ。それよりこの荷物、このまま先方に渡した方が面白いんじゃないですか? クレオパトラよろしく」
『絨毯から出てくるのが絶世の美女ならアリかもしれませんが、中身は全裸の耳なし芳一みたいな人形ですよ? 富仲商会のセンスが疑われるのでナシです』
一応白衣は着てるんですけど、と話す間能のそばで、カーペットに巻かれていた人形を小堀が梱包用緩衝材で手早く包む。白衣を着て絆創膏を貼られている古い経絡人形は厳重に梱包され、その上からブルーシートが掛けられた。
では、と作業を終えた小堀が荷台からどすんと降りると、歩道にいた少女がその振動でびくりと立ち止まった。体格の違いにお互いが感心しているところに、スマイルスマイル、と間能が小堀の背中を叩き、トラックに乗り込む。
「それじゃそろそろ出ます。四○二号線から大手町を右折ですね?」
『はい、外堀通りから呉服橋でC1に入ってください。あとは六号線を抜けて小菅から川口線ルートです。余裕はあるはずですから、配達時間は正確に。指定された時間を厳守していればギフトセットの賞味期限が切れることもなく、時限爆弾も爆発しません』
「あー、そんな荷物あったんですか」
『ありません。ありませんよ? 運び屋の荷物が爆発するなんて、リュック・ベッソンの映画の中だけで十分です。日本は平和なんですから』
またまたご冗談を、と間能がエンジンを掛け、小堀が周囲を確認して合図する。車を発進させながら、間能は思い出したように言った。
「あ、平和といえば、槙野組がまたボランティア活動してましたよ。秋山の部下でしたが、こんな禁断のニュートラルコーナーみたいな場所にまで出張してるんですね」
『……そんな禁断のエリアでヤバいボディが出たのなら、異例の事態ですよ。怒らせちゃいけない相手を怒らせることになりますから、関係者は青い顔して走り回ってるはずです。なんにせよ、妙なことに巻き込まれないよう注意してください』
取り締まりも最近厳しいですから、と心配する富仲に、了解です、と間能がのんびりと答える。金髪と大男と経絡人形を乗せたトラックは丸の内を抜け、埼玉北部へ向かった。
空良達は飛田と別れ、再び芝公園へと歩いていた。先刻訪れたベーカリーレストランの前に差し掛かると、管地がふと立ち止まり、ちょっと電話するわ、と携帯電話を取り出す。安藤も立ち止まると、日焼けした空良の脚を眺めて笑った。
「筋肉ついたな、空良」
黙ったまま空良はじろりと睨む。安藤は構わず続けた。
「絵の方も上達してるじゃないか! だがシンガポールあたりじゃ鞭打ちの刑だぞ?」
空良が不快そうに顔を顰める。なーんじゃそりゃ、と管地は怪訝そうな顔を向けながら電話を耳に押し当てた。
「ばあちゃん? もしもし俺、俺だけどさ、……いや携帯番号は変えてねえから!」
ベーカリーレストランを覗きながら話す管地の横で、なになに? とあいなとあいみも店内を覗いた。管地が電話を切り、ちょっとマドレーヌ買ってくる、と店に入っていくと、安藤があいなとあいみに言った。
「あいなさんあいみさん、僕達にも買ってきてくれませんか?」
「いいけど、安藤は行かないのー?」
待ってますよ、と安藤が手を振り、りょうかーい、とあいなとあいみが管地を追う。
空良は横目で安藤を睨みながら言った。
「……行けばよかったのに」
「そう言うな」
安藤は愉快そうに笑うと、空良の正面に立って続けた。
「ところで、絵の技術が上達しているのは素晴らしいが、あまりにも衝撃的なモチーフは観客を選ぶんじゃないか?」
「……気付いてたのか」
「そりゃあ、僕の会社の目と鼻の先にあればね」
「一応、描いても大丈夫そうな場所を選んでる」
空良がふてくされたように顔を背ける。はは、と安藤は笑いながら身を屈めた。
「君を責める気はないよ、空良」
「……ぼくは話してない。誰にも」
「ああ。でも描かずにはいられなかった。だろう?」
安藤は空良に視線を合わせ、明るい声で続けた。
「そもそも、僕らが交わした約束には無理がある。君がどれほど無口のコミュ障だろうが、絶対に秘密を守るなんてことは不可能だからさ。責めるために来たんじゃないよ。ただ、どういう意味なのかと思ってさ」
「……お前と『死の使い』が、なかったことにしても、ぼくは覚えてる。そういう意味」
それだけ言うと空良は視線を逸らした。そうか、と安藤が顔を上げると、紙袋を提げた管地達が店から出てくるところだった。
「絵の意味は理解した。では、その絵が消されていることには気付いているな?」
空良は戸惑うような目をしたあと、小さく肯く。安藤は目を細め、低い声で言った。
「君が作品に込めたささやかな思いは、関係者に思いのほかダイレクトに伝わってるようだ。少し自重した方がいい」