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3 聖フィーナ伊原記念館

 朝の光に、清潔で清廉な白い壁が輝いている。

 その大きさと際立つ白さで、遠くからでも人目に止まるのは一番町にある伊原記念病院で、そこから少し離れた四番町の外れに『聖フィーナ伊原記念館』はあった。

 二年前に経営者である院長が代わり、『聖フィーナ伊原記念病院』は『伊原記念病院』として大きく一新した。その際、飛び地に存在していた古い病棟と、利用者がなく廃れていた礼拝堂は土地ごと譲渡され、現在『聖フィーナ伊原記念館』として、引退した前院長が所有している。

 新しくそれなりの規模を持つ伊原記念病院と、二階建ての古い療養病棟をそのまま使用する聖フィーナ伊原記念館とはすでに関わりはなく、共通しているのは白い外壁くらいだった。中庭などを含めると敷地はそう狭くないが、資料館として公開しているのは施設の一部のみで、少しばかりの骨董品や美術品が、エントランスから受付窓口にかけて適当に展示されている。

 骨董品といっても、爪や関節のくぼみまでも美しく華奢に彫られた木製の義手だったり、内蔵までも愛らしく精巧に作られた小型の人体模型、エレガントなデザインの尿道拡張器など、すべて医療に関連したものだった。壁面には、日本画の技法で描かれた淡い色使いの人体解剖図や、どこか和を感じさせる筆づかいの病変部の絵が展示されている。

 趣味が良いかといえばそうでないものが多いなか、設立の際は仮にも聖女の名を掲げ、一応キリスト教系の医療機関であった名残で、まっとうな絵画も存在している。

 名高い画家のものではないが、穏やかな表情の聖母マリアと幼子イエスの『聖母子』や、十字架を手にして石棺に座るキリストの『復活』、大勢の人間や天使に囲まれたキリストが虹の上に座っている『最後の審判』などの、聖書や宗教画の決まりごとに準じたもので、神の愛による恍惚が耐えがたい苦痛を凌駕したという『聖テレサ』、子供や若者を蘇らせた『聖ゼノビウス』など、聖人を描いたものも館長室に続く奥の廊下に並んでいる。


 どうもー、と適当な挨拶で受付を通り、初老の小男は着ていた麻のジャケットを脱いで小脇に抱えた。西洋の拷問用具にも似たアンティークの分娩椅子を横目に廊下の奥へ進み、突き当たりの扉の前で鼻の下の髭をさっと撫で、おはようございまーす、と館長室の扉を開ける。そこは元・聖フィーナ伊原記念病院の前院長である、伊原館長の執務室だった。

 朝一番の訪問者を迎えたのは、デスクの前に立っているチャコールグレーのスーツを着た角形眼鏡の男と、その向かいの椅子でコーヒーを飲んでいる白衣の女性だった。二人は表情のないまま来訪者に目をやり、角形眼鏡が小さく息をついた。

 トビタさん、と白衣の女性が仕方なくカップを置いて立ち上がる。タイトスカートから伸びている足には程よく筋肉があり、グラマラスな体つきでありながら引き締まっている。顔の輪郭もシャープで年齢はわかりにくいが、成熟した部類に入るこの女性が、館長である伊原だった。

「お早いのね。まだ蝉も鳴いてないのに」

腕組みした伊原が冷ややかに男の頭を一瞬見る。蝉よりエネルギッシュな初老の小男、飛田は勧められる前から隅の丸椅子にちょこんと腰掛けた。

「それこそ七月に入ってまだ二日ですよ、蝉もまだウォーミングアップ中です」

 ああそう、とうんざりした表情で飛田の正面に座った伊原は、豊かにうねるブラウンの髪を束ねた。どうぞ、と角形眼鏡の男、北条も表情を消し、飛田の頭を見ないようにしてコーヒーを勧める。この施設は資料館の運営だけではなく、伊原が所有する土地の管理も兼ねているので、数名の事務員が常駐するほか、伊原の部下である北条が秘書的な役割を担っていた。

 いつもすいませんねー、とコーヒーを啜る飛田に、その頭はなんなの、と伊原が尋ねる。鼻の下にささやかな髭をたくわえ、夏らしく麻のジャケットを抱えた初老の小男の頭には、草花で適当に編まれた冠が載っていた。

「いえもう、こうでもしてないと頭が変になりそうなんです」

「あらそう。変になったからそうしてるのかと思ったわ」

「いえいえ、私なんかまだまだ。これはそうならないために思いついた熱中症対策です。頭はクールでナチュラル、さらに使用しているハーブはミントとゼラニウム。これで虫が寄ってこないと聞いたもので」

「なんでもいいけど、対策できてるのなら問題ないし、頭ならそれ以上どうにかなる前に病院に行ってくれないかしら」

「そう言わずに、この翼のもげたエンジェルに愛の手を差し伸べてくれないでしょうか」

 飛田はくるりと椅子を回転させると、シャツを捲り上げて背中を見せた。そこには軽い擦過傷らしき患部に、応急処置として施したと思われる梱包用フィルムが貼り付いている。

 まったくもう、と立ち上がった伊原が手指から腕を洗浄し、手袋をつけた手で飛田の背中に触れる。気休めに生理食塩水で流しながらフィルムを取り去り、患部に残っている汚れを指で落とすと、ぎゃん、と飛田が大袈裟に体を震わせた。伊原は構わず処置を続ける。

「炎症も感染兆候もなし。こんなの普通にシャワー浴びれば十分よ」

「そんな先生、もちょっと優しくお願いしますよ。男はみんな傷を負った戦士ですよ?」

「悪いけど、私はあなたのマドンナでもなければ、もう医者でもないの」

 そんなことないですよ、と振り向く飛田を伊原は片手で押さえつけ、ちょっと黙ってて、とシート状の被覆材を貼り付ける。暴れたり聞き分けのない患者に慣れている伊原には、飛田の一人や二人に臆することはない。むしろ優しく振る舞うことの方が面倒だった。

「そんな、片手で私をどうこうしないで」

「患者の一人や二人、片手で押さえられなくてどうするの。筋力なら負けないわよ」

 はい終了、と伊原がぱっと手を離す。飛田はよろけながらもシャツを直し、コーヒーの残りを啜りながら言った。

「参りました。私など、先日鯨井組から買い取った額縁が重くて重くて。あとで見たら、ちょっとした長物が裏に」

「あのね飛田さん」

 飛田の言葉を遮った伊原が冷たく射るような視線を向けて続けた。

「あんまり物騒な噂話を、私の耳に入れてくれないで」

「たまたまです、たまたま。私も仕事ですから。古き良きものなどをお持ちの際はぜひ、伊原先生もご利用頂ければ幸いです」

 そう言って飛田は治療費らしき白い封筒をすっと伊原の机に滑らせ、よかったらこれもどうぞ、と頭に載っていた草花の冠を北条に渡した。伺うようにボスの顔を見る北条に、あとで捨てておいて、と伊原が目配せする。

「医者を客にしてるうちは安泰だけど、医者の客になったら面倒よ。もう私も、最先端の医療機器なんて使い方を知らないんだから、何かあったらまともな医者に診てもらって」

「そんな、私にとって先生ほど頼りになるお医者様はいませんよ?」

 立ち上がって麻のジャケットを羽織る飛田に、伊原が足を組み替えながら息をつく。

「でもここ、病院じゃないですから。お大事に」

「はい、ありがとうございました! また来ます」

「だから来るなって言ってるのよ」

 あー疲れる、と飛田の帰っていったドアを眺め、伊原は再び手を洗う。北条はハーブの冠と飛田のカップを片付けながら同情するように言った。

「彼、頻繁に顔を出しますね。無駄に」

「懐かれちゃったのよ」

 仏心を出したのが仇になったわ、と伊原は冷めたコーヒーを飲み干し、鏡を出して口紅を直す。その口元には、小さな双子のようなほくろがあった。

二人が気を取り直したところに内線が鳴り、電話を取った北条が受付へ向かった。しばらくして戻った北条は館長室の扉を半分ほど開け、館長、と伊原に声をかける。

「間能という男が訪ねてきています。『伊原先生』のお知り合いだそうですが」

「マノウ? そんな知り合いいたかしら」

 細い顎に指を当てながら伊原が考える。どことなく妙な様子の北条が扉の外をちらりと見ると、隙間から赤いバラの花束がにゅっと現れ、それを手にした金髪で銀縁眼鏡の男が遅れて顔を見せた。伊原に花束を押し付けると男は眼鏡を外し、お久しぶりです、と金髪頭を深々と下げる。あら、とようやく思い出した伊原は、花束を抱えたまま間能の頭部をしみじみと眺めた。

「お久しぶり。てっきりカタギになってるか、とっくに土の下にいるのかと思ってたわ。それにしても、ずいぶんオシャレに変わったのね。その年で、美容師でもないのに」

「俺みたいな顔はトシとらないですから」

「あらそう。ところであなた、間能なんて名前だったかしら」

「わけあって昔と名前が違うので」

 間能が片目を閉じると、伊原は呆れたように花束をデスクに置いた。北条が口を挟む。

「それまでは何と?」

「まあまあ、昔の名前なんていいじゃないですか。シノブでもナギサでも」

「それで? 流れ男が最後の止まり木でも探しに来たの? ここはホスピスでもなければ病院でもないのよ」

「じゃあ今は闇医者一本ですか」

 物騒なものいいをする間能にソファを勧めた伊原は、変わってないのね、と自分の席に座り足を組んだ。

「本業にするほど需要はないの。適当に処方箋出す方がまだ小金になるわよ」

「それはもったいない。せっかく腕のいい闇医者先生がいるのに、撃たれた刺されたっていう極道な客は来ないんですか」

「今はその辺の若い子達の方が、刃物とかヘンなモノ持って歩いてるじゃない。そういう子達の方がすぐ刺したりするし、とりあえず普通に救急車呼ぶのよ。闇医者の出番なんてめったにナイナイ。あと、私は闇医者じゃないんだけど」

「それは残念です。本職の切った張ったや売った話はそうないですか」

 睨む伊原の視線を躱し、間能は北条からコーヒーを受け取る。伊原は手元の赤い花弁を突きながらつまらなそうに言った。

「それこそ、本職は売る方でしょ。鉄砲もヤクもAVもおんなじ。医者のところへ来るのはお買いあげした客の方なの。前に往診したわよ。真似したらえらいことになったって」

 鉄砲の話? ヤクの話? と間能が北条を見ると、AVの話、と伊原が冷たい声で答えた。なるほど、と間能が気を取り直して尋ねる。

「でも、伊原先生が往診をするってことは、カタギじゃないんですね、その客」

「……だからってあなたに有益な話なんてないわよ?」

 伊原は間能を見据えながら口元だけをにやりと歪めた。そういうつもりじゃ、と間能が肩をすくめる。不得要領な顔の北条に伊原が言った。

「こいつはね、育ちの良さそうな顔をしてるくせに昔から悪さばっかりして、十年くらい前から姿をくらましてたのよ」

 服役ですか、と北条は悪気もなしに尋ねる。お久しぶりだのご無沙汰だのと『伊原先生』を訪ねてくる男達の『出所のご挨拶』は珍しくなかった。

「とんでもない。過去は忘れようとこっちに出てきたんです。イメチェンも兼ねて」

「名前を変えるのはイメチェンとは言わないわよ」

 呆れたように伊原がため息をついた。伊原の話によると、間能と名乗るこの男は、よからぬ組織の恨みを買い、身を隠すために地方に潜伏していたらしい。

「どうせ潜伏先で女性問題でも起こしたんでしょう。『責任取れ』って追いかけられてるんじゃないの?」

「いえ、振られっぱなしなんで女の子はこりごりです。俺もトシですから」

「あなた私に喧嘩売ってる?」

「とんでもない。本来ここは、行き場をなくした子羊が訪れる場所でしょう?」

「あなたみたいなのが来るから困ってるのよ。残念ながら、子羊の礼拝堂は立ち入り禁止なの。老朽化が激しいし、病院とは切り離されているから修繕する資金もない。そのうちここも込みで駐車場になってるかもしれないわね」

 そう言いながらも伊原は、資料を出すよう北条に指示し、ファイルを確認する。

「残念だけど、あなたの好きな鯨井組……一応は鯨井興業ね、最近ほとんど縁がないの。今は輸入販売がメインみたいで、偽ブランド品より幻の漢方とか、連れて来ちゃいけない動物なんかを扱ってるみたい。こないだ商品に噛まれた奴が青い顔してうちに来たわよ。『これヘンな病気ないですよね?』って」

「槙野組はどうです?」

 間能が伊原を伺うように見た。考えるような顔をする伊原に代わり、北条が口を挟む。

「マキノ企画はリースやスカウト、派遣会社にも手を出しています。現在順調なのは出会い系です」

「そりゃ、ワタアメやお面売ってシノいでるとは思ってませんよ。その手の話はこっちの耳にも入ってきます。あからさまにヤバいのはかなり減りましたね。ヤクの売人とか」

 当たり障りのないところに話を落とそうとする北条を遮り、間能が物騒な話題を振る。伊原は取り出した煙草に火をつけると、諦めたように言った。

「この辺にはいないわよ。向こうもこの頃は、ヤクが値崩れして儲けにならないようだし」

向こう、と伊原が窓に向かって煙を吐いた。煙で霞む窓の向こうには六本木のビル群が見える。

「でも最近、妙に死体が出てるって話を聞きました。流行りのドラッグだかハーブやらと違うヤツで」

「普通にラリって救急搬送される件数も増えてるわよ。あの辺で最近見つかってるのは、メタンフェタミンのオーバードースって聞いてるけど」

「……覚醒剤の過剰摂取ですか。安い物でもなかろうに、多めに打つのが流行りなのか」

「経口摂取よ。結構な量を合成の錠剤とちゃんぽんで一気食い」

 死体にならない方がおかしいわね、と伊原が呆れたように煙を吐く。間能は飲み干したコーヒーカップを手にしたまま、感心したように目を閉じる。

「贅沢な客というか……サービスのいい売人がいたもんですね。同業者は大変だ」

「あの辺でコツコツさばいてた奴らも参ってるみたいよ。ルートやシマを荒らされて商品をバラ撒かれたあげく、商品をバカ食いした死体がごろごろ出てくるんだから」

「よくそれで騒ぎになりませんね」

「なってるのよ。だからこれ以上騒ぎにならないように、同業者が回収、処分してるの。落としてもいないゴミを拾わされて、捨ててやってるボランティア達は怒り心頭よ」

 そう言って伊原がファイルを閉じる。マナーの悪いアルピニストにも聞かせてやりたい話だ、と笑いながら間能は身を乗り出した。

「あの辺で薬をさばいてたのは、鯨井組か槙野組じゃなかったですか? ヤク中の死体をいちいちお引き取りしてて仕事になるんですかね、あの人達」

「解剖されると困るんじゃない? 商品が特徴的だから」

「特徴的って、食うとベロに色が付くような覚醒剤でもあるんですか?」

「まさか。そっちは普通に結晶らしいわよ。問題は、同時に摂取してた錠剤の方。国産の優れモノだって話だけど、新種の合成麻薬みたい。生産者や関係者は焦ってるでしょうね。あの様子じゃ、槙野組が関係してるって言ってるようなものだけど」

 伊原はくだらなそうに鼻を鳴らし、短くなった煙草を手元の灰皿に押し付ける。間能はカップを脇に置くと、確かめるように聞いた。

「火消ししてるのは槙野組の若い奴らですよね」

「そうよ。火消しだかゴミ拾いだか知らないけど、割りを食ってるのも槙野組ね。現れた謎の売人がタダ同然にヤクを売り、新商品の錠剤をオマケにつける。相場はガタ落ちするうえ、用法用量も考えない客にでたらめな量を与えるものだから、警察もハーブなんかにかまけていられなくなった。今はかなり警戒してるはずよ」

「警察が? ヤクザが?」

「どっちも。この辺はニュートラルかつ神聖なエリアだからみんな自重してるのに、その聖域で、駄菓子をバラ撒いてる馬鹿は誰だ? って話よ」

「鯨井組じゃないんですか?」

「鯨井はヤクから手を引いたんじゃなかったかしら。とにかく、あなたが知りたいことはこれくらいしか私も知らないわよ」

 伊原は会見終了とばかりに立ち上がり、お花ありがとう、と花束を持ち上げて見せる。仕方なく立ち上がった間能は、ではまた、と肩をすくめて館長室を出ていった。


「まったく、営業時間外から似たようなのがわらわらと」

 自分の席ではなく応接のソファに座った伊原が疲れたように息を吐いた。北条は花束を抱え、とりあえず隅の深型シンクに移動させて尋ねた。

「何者なんですか」

「彼は骨董や密輸品なんかのブローカーだったのよ。若い頃からやり手で使える奴だったらしいけど、なんていうか……元から協調性があんまりないせいなのか、当時のお得意先だった鯨井組をおちょくって怒らせて姿を消してたのよ」

「わかるような気もしますが、怒らせるとは、何を?」

「さあ……当時の組長をおちょくったうえに、結構な額を持ち逃げしたそうだけど」

「大丈夫ですか、そんな人間を出入りさせて」

 机の灰皿を取り替えた北条がちらりと花束を見ながら言う。さあね、と伊原が二本目の煙草に火をつけて笑った。

「実際は、当時の幹部とのいざこざだったらしいし、三年前に組長が変わってるからね。組織ももう別物みたいに変わってるのに、十年も前から行方知れずの男を、組を上げて探し続けるほど鯨井も暇じゃないでしょ」

「逆に教えてやらないんですか? 鯨井に」

「私の方はヤクザに用がないもの。情報提供する義理もない。そうじゃなくても槙野組がくだらないことでうるさいのに、これ以上は結構よ」

 ため息のように煙を吐く伊原に、例の落書きの話ですか、と眼鏡を直して北条が聞く。伊原の部下となって二年になるが、闇医者のような行為はかなり前からあったようで、伊原を頼ってくる無法者が時折現れる。仏心が仇になった、と不本意そうな伊原をさらに悩ませているのは、治療を望む患者としてではなく訪れる、槙野組の輩だった。

「奴らに気に入られて困ってるのよ。勝手に連帯感を持ってくれてるみたいで、おととい出た死体は処分したとか、私に不利な落書きを消しておいたとか、知りたくもない話を恩着せがましく耳に入れにくる」

「館長と親しくなる機会を狙っているんでしょうか」

 北条が微かに笑いを含んだ声で言う。嬉しくないわね、と足を組み替えながら伊原が鼻を鳴らした。

「どうせ街中にスプレーして回ってるような若手の集団に消させてるんでしょ。ご親切に、くだらなくて面倒な話もいちいち報告、連絡、相談してくるのよ。『秋山』ってバカが」

「槙野組の秋山は……下っ端ではなく、一応は幹部でしたよね」

「幹部の下っ端よ。秋山はヤクの密売を任されていて、一時は鯨井組が仕切ってたルートを飲む勢いだったの。鯨井はムキにならずに手を引いたけど、そんな折にバラ撒き騒ぎが起きたものだから、市場拡大を図っていた槙野組は大ダメージ。秋山は大慌てよ」

「バラ撒かれた合成の錠剤とやらは、どこから?」

「さあ? 槙野組は製薬会社と微妙に縁があるって話だから、錠剤だけならそっちと絡んでいる可能性はあるんじゃない? 合成麻薬はそれなりに作れるでしょう?」

 目を細めて微笑む伊原に、物によりますが、と北条が他人事のように無表情で答える。北条が以前勤めていた製薬会社は、薬物の密造に絡んだ不祥事で消滅していた。

「それより問題は、出所より行き先がわからないことなの。とんでもない金額になる商品を仕入れたはずが、それを丸々失くしたのが秋山って男なのよ」

「それで……秋山が槙野組で息していられるのが不思議ですが」

「そこそこ偉くなってるからじゃない? ヤクザの出世システムなんて知らないけどね。それにこの話、槙野組の主力幹部達は知らないのよ。今バラ撒かれてるヤクと合成麻薬の錠剤は、二年前に秋山が独断で進めていた取引の際に消えたものなの。秋山がいくらバカでも、こんな間抜けな話を上に報告するより先に犯人を捜すでしょ」

「それで最近槙野組はバタバタしてるんですね」

 そういうこと、と伊原が口の端を上げる。損失を埋めるよりも先に、結晶と錠剤をバラ撒いている人物を探さなくてはならないし、『商品』だけではなく、『商品』による死体は警察の手に渡る前に処分したい。簡単に犯人が見つかるはずもなく、その尻拭いばかりをするはめになった秋山達は、いらだちを募らせていた。

「落書きを消したとかいう話も、その秋山が?」

「私は見てないけどね。ヤクの取引現場にいたメンバーの似顔絵が晒されていて、そこに私の顔も追加されていたみたい。取引に使われた施設の所有者が私だから、関係者扱いされたのかもしれないけど、壁の落書き程度で騒いでたら却って怪しまれるわよ」

「しかしそれは……横取りした人物の仕業でしょうか。何が目的でそんなことを」

「それがわからないから尻尾が掴めないの。流行りの菓子みたいにヤク中仲間で広まって、犯人と接触した人間が把握できない。大金が動けば秋山も気付くはずだけど、それもない。さらに死体から検出されるヤクの量が尋常じゃない。流通してる量や価格の辻褄が合わない。つまり金にするのが目的ではない」

「理解に苦しみますね」

「得体の知れない人間からもらったヤクと錠剤を一度に食うほどのバカよ。理解しなくていいわ」

 伊原が暑そうに白衣の襟元をバタつかせる。ふと陽気なリズムで館長室のドアがノックされた。北条がドアを開けると、立っていたのはにっこりと笑う間能だった。

「すみません、仕事道具を忘れて」

 そう言って踊るように館長室へと入り込んだ間能はつかつかと隅のシンクへと向かい、平然と花束からライターのような小型の機器を取り出した。伊原はそれほど驚かず、言葉を失っている北条に低い声で言った。

「……こういう奴よ」

 それは、と盗聴器と思しき装置を指差す北条に、まあまあ、と間能は耳に装着していた受信機らしき装置を外し、盗聴器とともにポケットへ入れる。冷えた視線を向ける伊原に、間能は挑むように視線を返して明るく言った。

「それで、薬物乱用防止キャンペーン中の秋山って奴が、忙しい合間をぬって伊原先生に報告したくなるほど見事なコラ画像を、先生は見てないんですか?」




 窓の外には、真昼の光を照り返す、黒々とした墓石群が広がっていた。

 管地の自宅マンションは南青山四丁目にあり、アトリエを兼ねた居住空間は、心安らぐ霊園ビューの一室にある。その壁際には画材や道具をはじめ資料や図鑑などの書籍が並び、中心には作業台やイーゼルが当然のように設置されていた。出先での作業が多い管地だが、自宅ではそれなりに絵画や立体造形などの制作も手掛けていて、いくつかの油絵や彫刻、オブジェなどが棚に残っている。ベッドなど最低限の家具は奥にまとめて配置してあり、二年前から空良が陣取っているクローゼットは、小動物の巣のように空良の寝具や私物が押し込まれていた。

 のんびりと筆の手入れをしていた管地が、窓からの光を遮られてふと顔をあげる。

「おう、起きたか」

「だいぶ前から」

 もう昼だよ、と空良が窓際で墓地を眺める。仕事がなければ管地も必要以上に空良を構うことはなく、狭いながらも空良のプライバシーは程よく尊重されていた。

 腕時計に目をやりつつも手を休めない管地に空良が尋ねる。

「それ、ぼくがしなくていいの?」

「俺の道具を手入れして、お前が快適になるならやればいい。誰のものとか考えないで、お前が快適になるための手入れをしとけ」

 そう言って管地が手入れの済んだ筆を作業台に並べる。二秒ほど考えるような顔をした空良は、まあいいか、とキッチンへ向かった。何する気だ、と振り向く管地に空良は白いシャツを腕まくりしながら言った。

「わかんないけど、お腹へったから」

 パン以外なんにもねえぞ、という管地の声に構わず空良が冷蔵庫を覗き込む。黒オリーブにバルサミコビネガー、牛乳とチョコレートスプレッドを取り出した空良は、一つだけ残っていた卵を持って背を向ける。よし待て、と管地が作業台から立ち上がった。

「今、一か八かみたいなこと考えてただろ」

「……そうだけど、卵が足りない」

「そうだけど、じゃねえよ。料理するならちゃんと味を考えろよ? 意外な組み合わせで生まれる不思議感とか、幻想的な世界観とか、無意識世界の表現とかはいらんからな」

 大丈夫、と空良は右手に持っていたを冷蔵庫に戻し、右手に持っていたカラーペンをカーゴパンツのポケットに収めて言った。

「卵買ってくる」

 行けんのか? と心配する管地に肯いてみせると、空良は自分の財布を持って外に出た。黙ったままでも卵は買える。

 

 七月の熱気とスーパーマーケットの冷気を交互に堪能した空良は、卵の入った白い袋を提げたままマンションとは別方向へ歩き、外れにある廃材置き場に忍び込んだ。そこには廃材だけでなく、不法投棄された家電やマッサージ椅子が放置されたままになっていて、いたずらに塗料を持て余した輩により、ポップな洗礼がほどこされていた。

 空良は乱雑に積み上げられた廃材をよじ登り、年季の入ったマッサージ椅子の揉み玉に白い袋を引っ掛け、ピンク色の大型冷蔵庫を眺めながらポケットを探った。冷蔵庫のドア部分には礼拝堂のような空間の絵が描きかけになっていて、中心に立つ人物は、まだ白い影のようにぼんやりとあるだけだった。

 絵の具と筆を取り出した空良は、額の汗を手の甲で拭うと、細かい部分を速やかに描き込んでいく。暗いトーンの背景と、ほのかに黄みを帯びた白い壁。その中心に立つ人物を青白く際立たせていく。

 口元にほくろを二つ描き足し、一歩下がって全体を眺める。薄暗い空間に横たわる四人の男。ほくろのある白衣の女性。十字架と、壁に掛かった二枚の絵。青い天井に舞う鳥と天使。その手には、空良ではない人物によって赤いリンゴが描き足されていた。

 空良はそれをじっと見つめて、画材をポケットにしまった。卵の入った白い袋を取って外へ向かう。左にある赤い塗料のついた古看板を避けようとした瞬間、その陰からゆらりと見知らぬ男が現れた。声にならない声を上げ、空良が跳ねるように飛びすさる。

 ばくばくと心拍の高まりを感じながらも目が離せない空良に、どこか病的な動きの男は赤い塗料のついた看板に手をつき、それ? と空良の白い袋を指差した。薄気味の悪さに、夏の真昼を忘れた肌が総毛立つ。

 男はゆっくりと近付き、白い袋を持つ空良の手首を掴もうとした。ぎょっとした空良が手を振り払い、震えるような声で言う。

「……これ、たまご」

 じりじりとあとずさり、空良は廃材置き場から走り出した。すれ違いに二台の黒い車が過ぎていく。

 角を曲がって振り向くと、黒い車は廃材置き場のそばで止まり、たちの悪そうな男達が降りてくるのが見えた。

 手首には、乾きかけの赤い塗料と、じっとりとした手の感触が残っていた。


 ただいま、とマンションに帰ってきた空良は、真っ先に洗面所へ向かった。キッチンに置かれた袋を覗き込んだ管地が、産みたてのごとく温まった卵に触れる。

「おうご苦労さん、これで何作るんだ?」

 温泉卵か、と問う管地に、タマゴオムレツ、とタオルを被りながら空良が答えた。

「そりゃいいや。卵抜きのオムレツなんざ食いたくないからな」

 そう言って冷蔵庫から使えそうな材料を探し始めた管地が、マッシュルームとチーズを取り出して動きを止めた。恐る恐る冷蔵庫の奥へ手を伸ばす。

「……なんでもいいけど、画材持ってキッチン立つの禁止な」

 冷蔵庫に残っていた卵を手にした管地が念を押す。卵の殻には、ひび割れたような線と、そこから孵化しかけのヒナが見えている絵が描かれていた。

 管地は食べにくいデザインの卵を容赦なく割り、買ってきた卵に異常がないことを確認すると、空良に調理を任せてリビングへ向かった。テーブルの上を片付けた管地が、フライパンを揺する空良の背中に声を掛ける。

「そういや、明日は木彫の修正があるから出かけるぞ」

 ぼくも行くの? と乗り気でない空良の声に、当たり前だ、とベンチ型の椅子に座った管地が腕を組む。空良はガスレンジの火を調節しながら言った。

「やることなさそう」

「そう言うな、何が役立つかわからんぞ? それにお前を一人置いて行けると思うか?」

「絵の練習なら一人でもできるよ」

「ピッチャー江夏みたいなこと言ってないで支度しとけ。お前に必要なのは、生身の人間と話す練習だ」

 管地がパニーニメーカーで焼き目を付けた厚切り食パンを皿に乗せ、テーブルに置いた。空良はフライパンの中身を二枚の皿に移し、管地の待つテーブルへ運ぶ。

「……人と話せないんじゃなくて、話すのが嫌なだけだよ」

「何が違うんだよ。運転と一緒で、話さなけりゃ日本語だって忘れちまうぞ? そうなる前にお兄さんと楽しく練習だ」

「別に、楽しくなくてもいいけど」

 いただきます、と空良が焼きたてのパンに手を伸ばし、管地は湯気の立ったオムレツにフォークを突き刺す。ナイフで切り取った一口を冷ましながら言った。

「苦行じゃねえんだ、苦しいだけの練習なんて意味がない」



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