15 いと高きところに神の栄光あれ ①
あれからサキ達は、天使や天国の話ばかりしていた。病院であることを配慮した飛田のアドバイスにより、サキ達はエンゼルだの天国に近い病院だのを連発することもなく、『ミルクホテル』という謎の単語で通じ合っている。
夜、眠れずに二号室へとやってきたサキは、聖書を開いて飛田に聞いた。
「アーメンってなに」
「神様の言うとおりです、とか、そうでありますように、みたいな意味だったはずですよ。あと例外的に、くたばって欲しい相手に対し、心の中で唱える場合もあります」
どんなふうに使うんだろう、と空良とシノが顔を見合わせる。サキは普段から寝付きが悪く、飛田もすぐには眠らない。当然のように空良も眠ろうとせず、シノはそんな三人の話を聞きながらうとうとしていた。シノに構わず、眠れない羊達は聖書を読む。
「清い動物を七つがいずつ取り、また、清くない動物も一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがいずつ取りなさい。……これ、神様が悪い人間を全部滅ぼすときの命令だけど、どうして清くない動物も残すの?」
「生態系的に、清くない動物を滅ぼしたら、それを食べる清い動物も滅ぶからでは?」
「清いのと清くないのと、どう違うの?」
「それは当時の文化で、食べられるか食べられないかの区別だったらしいですよ? 神が定めた清いとか清くないとかで、食べていいかどうかが決まるのです」
「神様の言うとおり、なのかな」
「昔の人は日照りや洪水を天罰や神の怒りと考え、何が神を怒らせたのだろうと畏れ悩みながら生きていました。いけにえが足りないのか、神に背く罪深い奴がいるのか。そういうのに詳しそうな人が、いけにえや作法、罪の定義や決まりごとを作ったのです」
小さな明かりの中、空良があくびをして、シノは寝息を立てている。変わらずに目を見開いているサキに、飛田は神妙な顔で続けた。
「そして、罪を追及するより隣人への愛を考えるべきだ、と決まりごとに背いて、自らを神へのいけにえとしたのがイエスでした。彼が、『清くないものを食べても人は汚れない』と『何食べてもいいんだよ宣言』をしてくれたおかげで、ポーク文化は花開いたのです」
よくわかんないけどすごーい、とサキが手を叩き、なんでもお聞きください、と飛田がガウンの裾をつまんでうやうやしく頭を下げる。横から空良がぽつりと聞いた。
「トビタさんの罪ってなに?」
「自分の中にある愛に背くことでしょうか」
ふうん、とわからないまま空良が肯くと、神に背くことじゃないんだ、とサキが製薬会社の名前が入った付箋を聖書に貼った。私クリスチャンでもなければディオールでもないですし、と飛田が肩をすくめる。
「これをしたら神様に怒られるな、と思うことはやらずに、ここまではオッケーかな、と思えることを行えばいいんです。つまり神様と合意できれば何やったっていいんです」
「神様が人に合意なんかするの? 洪水とかソドムとか、神様って問答無用でたくさん人を死なせてない?」
「神を愛するという約束のもとで、神に背き、堕落したものに罰を与えているそうです。つまり『約束破ってるのは人間の方じゃよ』って話なんでしょうな」
飛田が他人事のように言った。なーんだ、とサキはほっとしながらも複雑な顔をする。
「堕落した人ってたくさんいたんだね。でもそんな約束なんて知らないのに、なんで何も悪くない子供も病気になって、痛かったり苦しかったりするの?」
「それは……、私が答えられる質問ではなさそうです」
「トビタさんでもわからないのかぁ」
いつの間にか目を覚ましていたシノが、がっかりしたように息を吐いた。トシとってるからってなんでも知ってるわけではないですよ、と手を振る飛田に、サキが付箋の貼られた別のページを目で追いながら言った。
「ヨブ記にもあったよ。年寄りが賢く正しいとは限らないって」
「あー、それこそ、神様だって優しく慈悲深いとは限らないという話ですよ。神は一人の人間がどれだけ自分に従順であるかを悪魔に証明するために、ヨブの親兄弟、親類縁者家畜までをも殺し、死んだ方がマシだと思うほどの苦しみを本人にも与えた。それでもヨブは神に祈ったのです」
うわあ、とシノがげっそりした声を出すそばで、空良も微妙な顔をする。合意できる気がしないよ、と笑うサキの横で、シノはふっと真顔になって言った。
「ヨブの家族は不幸だよね。ヨブは嫌にならなかったのかな。自分のせいで周りの人達が全部死んで、自分も死ぬほど苦しくて。自分がいなければみんなに迷惑がかからないのに、自分が嫌にならないのかな」
「病気は嫌でも、病気の自分を嫌うことはないわ」
突然聞こえた伊原の声に、四人が一斉にドアを見た。無言のまま驚いている空良の奥で、正座したまま飛田が慌てて寝たふりを試みる。困ったように固まっているシノの手前で、眠れなくて、とサキが言い訳をした。
「まったく、子羊達が眠れなくてどうするの」
「眠れるお薬があれば寝られます。ヨブだって、痛み止めとか麻酔があれば楽になれてたでしょ?」
「痛みは体の声なの。なぜ痛いのか。なぜ症状が出るのか、何が起きているのか。原因がどこにあるのかを考えて解決に導くのが医者なの。体は自己を生かすために休まず代謝や解毒を続け、菌やウイルスと戦って命を守っている。病気に罹ったとしても、体や自分を責めることはないし、苦痛のみを麻痺させるのが解決ではない、と私は考えてるの」
伊原が涼しい顔でさらりと言う。じゃあ、とサキは聖書に目を落としながら聞いた。
「症状は『すっごい皮膚病と、もう死んだ方がマシな苦痛』、原因は『自分への気持ちを確かめたかった神様の嫌がらせ』だったら?」
「それは……私の仕事ではないかもしれないわね」
「お医者さんでも効く薬はわからないの?」
「医者だろうが学者だろうが、わからないものはわからない。確実に言えるのは、ヨブに効く薬はウチにない、くらいよ」
そう言って伊原が腕を組む。でも痛み止めくらい出すでしょ、と確かめるようにサキが聞くと、ペインクリニックに任せるかもね、と伊原が続けた。
「痛みや苦しみがあるのは、体が生きたがっているということなの。薬で痛みを和らげることができても、病気や怪我を治せるのは本人だけ。私の仕事は、症状を見極めたうえで処置をすること。治らない者も含めてね。私の仕事は『生命の尊重』だ」
だからさっさと寝ろ、と伊原は部屋の照明をすべて消した。
あるとき、廊下で飛田が伊原にねちねちと付きまとっていると、シノが慌てて助けを求めてきた。飛田と伊原が二号室へ行くと、サキと空良が険悪な表情で黒いリュックを引っ張り合っている。あなた達、と伊原が呆れたようにベッドの毛布を二人に被せ、驚いているうちに二人を引き離す。シノの話によると、サキが勝手に空良の荷物を探り、それを見た空良が、サキから荷物を奪い返そうとして喧嘩になったらしい。
ぼくが見つけたものなのに、とふてくされたように空良が言うと、だって、とサキが反論する。
「ソラくんのじゃないのに、隠して見せてくれないから見ようとしたの」
「サキに取られるのが嫌だったから」
どっちも悪い、と二人に伊原がげんこつを落とすと、二人はむっとしたまま顔を背けた。伊原は困ったような顔でため息をつくと、サキに向かって言った。
「まあ、男の子と喧嘩して泣かないのは、あなたのいいところだわ」
そうなの? とサキは頬を膨らませながらも嬉しそうな顔をする。飛田は隅で座り込む空良のもとへ行き、屈みながら言った。
「どっちが悪いって話でもないですし、こういうのは、先に謝った方が勝ちですよ?」
うん、と空良はまだ少し不満げに肯く。成り行きをはらはらしながら見ていたシノは、ほっとしたような声を出した。
「そういえば、ソラくん何を見つけたの?」
空良は黙ったまま自分のリュックを探り、梅の実ほどの大きさのガラス玉を取り出して見せた。キレイだ、とシノが驚いた声を出す。
それは製薬会社のノベルティで、薬の名前が入ったマスコットつきのガラス玉だった。サンキャッチャーね、と伊原がそれを窓際の日差しに当てて見せると、多面体のクリスタルガラスが光を分散させて、部屋中に虹色の光がきらきらと舞った。
「自分の宝を地上に蓄えるのをやめなさい。そこでは虫とサビで傷物になり、また盗人が穴をあけて盗む」
飛田が虹色の光を見ながら言った。なにそれ、と顔を見合わせるシノと空良の背後で、サキが気がついたように目を見開いた。
「マタイの六時十九分のところだ」
マタイの福音書六章十九節? と怪訝な顔をする伊原に、時間の方が覚えやすいよ? とサキが笑う。それです、と肯いて飛田は続けた。
「自分の宝は天に蓄えなさい。そこでは、虫も錆もつかず、盗人が穴をあけて盗むこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」
データをクラウドに預けるようなものね、と伊原が勝手に理解するそばで、飛田は目を細めながら空良に言った。
「昔、私も同じようなことをして、同じことを言われたんです。美しいものを見つけて、自分だけのものにしようとしたことがありました。このままだと二度と見ることができないと思った私は、それを隠すっていうか、ちょろまかそうとしてバレちゃったんです」
「……ソラくんやサキちゃんよりひどくない?」
「もちろん、私もしがないヤングボーイでしたから、素直に謝りましたよ。そのとき許してくれた女ボスが、この話をしてくれたんです」
女ボス? と子供達が怪訝な顔を見合わせる。ヤングな頃から何やってるの、と伊原が困ったようにため息をついた。飛田は伊原を見ながら恥じらうように言う。
「その女ボスが伊原先生にちょっと似てるんです。五十年くらい昔の話ですけど」
「そんなころからトビタさんているの?」
子供達が驚きの声をあげる。問題はそこじゃないはずだけど、と伊原が疲れたようにサンキャッチャーをそのまま窓際に吊した。
子供達は懲りずに聖書を斜め読みしては揚げ足を取り、天国や天使について好き勝手に話していた。中庭の花壇のそばに座りこんだサキが、やっぱりあそこが礼拝堂なのかな、と庭園の奥を指差すと、シノも鬱蒼としたエリアを眺めて言った。
「あそこだったらちょっとやだね。天国の絵があるって聞いたような気もするけど」
「天国の絵を描いた人って、天国なんか見てないよね? 天国の色とか、天使の姿とか、見てないものを描いて怒られないの?」
「さすがに、『これが天国です』って言い切ったら怒られそうだけど、想像で描くくらいはいいんじゃない?」
だめって言われたことある、と空良がぼそりと口を挟むと、わたしも怒られたことある、とサキも言った。
「花がたくさん咲いてる、すごくきれいな場所をテレビで見たの。花壇とか花畑みたいに誰かに見せるために作った物じゃなくて、冬は雪で埋まるような険しい山の奥で、枯れ草とか岩だらけの谷に、薄紫色の小さいユリみたいな花が一面に咲いてるの。信じられないくらいきれいで、『天国みたいにきれい』って言ったの」
「それで怒られたの?」
不思議そうな顔をして聞くシノに、うん、とサキは無意識にみぞおちのあたりをさすりながら言った。
「天国なんか見たこともないくせに適当なこと言うなって。すごくきれいだったから言っただけなんだけど、知らないことは言っちゃダメなの」
わかる、と空良が一方的に同士を見るような目でサキを見る。よくわからないままシノが花壇を眺めていると、いつのまにかそばにいた葉月も参加した。
「私も天国で叱られたことありますよ」
えっ、とびっくりしながら空良が顔を上げる。誰に叱られたの? とサキが心配そうに尋ねると、お坊さんです、と葉月が笑った。
「お坊さんには……というよりも、仏教の世界に天国はないんです。ですからお坊さんが来るお葬式では『天国』という言葉は使えなくて、『お浄土』とか『極楽』って言ったりします。お坊さんの前では『天国』って言わないんですよ」
伊原病棟の問題児達が、次に興味を持つのものはわかりきっていたので、余計なことをしでかす前に伊原はサキ達を呼びつけて言った。
「貴重なものもあるからすぐに取り壊すことはできないけれど、古くて危険な状態だから礼拝堂は立ち入り禁止なの。ムカデや蛇もうようよ出るんだから、近付いたりしないこと」
わかったわね、とだめ押しする伊原に、ばれてたんだ、とサキとシノが顔を見合わせる。天国の絵は? と尋ねる空良に、伊原は息を吐きながら棚からファイルを取り出した。
「残しておいた写真よ」
伊原が机に広げたのは、資料として残されていた礼拝堂内部の写真だった。白い漆喰のような壁と焦げ茶色の床。あまり広く見えない空間の奥は少しだけ高くなっていて、簡素な十字架と白い布の掛けられた机のようなものがある。その上には聖書らしき黒い表紙の本があった。
なんか思ってたのと違うね、というシノに、サキも納得のいかない顔をする。
「もっと複雑でアーチになってる天井とか、すごい彫刻がある祭壇とか、キラキラのステンドグラスがあるかと思った」
「あと壁や天井が青くて、天使とか鳥の絵とか壁画がたくさんあって」
「システィーナ礼拝堂みたいなのと一緒にしないでくれる?」
伊原が二人を睨むそばで、なんかボロい、と空良が感想を言う。だから閉鎖したのよ、という伊原に構わず、空良はほかの写真を見つけて声を漏らした。
「……絵がある」
礼拝堂の奥、白い布の掛かった聖卓の左側には木製の説教壇があり、さらにその左側の壁には、栗色の髪をした聖女らしき肖像画を収めた小さな額縁が掛かっていた。
また、その反対側である右の壁を撮った写真には、大人の背丈よりもありそうな縦長の大きな絵が写っている。それは草木が繁り、動物達の集う実り豊かな庭園の絵で、中には角のあるウサギのようなものや、うろこのある奇妙な動物も描かれていた。
これだな、と伊原がファイルから絵だけを撮った写真を出すと、なにこれ、と空良を押しのけたサキが食い入るように写真を見た。
「怪獣? アルマジロみたい」
「アルマジロは怪獣じゃないですよ。怪獣というなら地底怪獣マグラーに似てますな」
いつの間にか来ていた飛田が口を挟む。出たわね、と伊原は四人目の問題児を睨んだ。シノはファイルにあった絵の注釈を見て首をかしげる。
「楽園、かな?」
庭園らしき絵に付け加えられたメモには、走り書きのような字で『楽園か』と疑問形で書かれていた。サキが考えるような顔をして言う。
「たぶん、楽園と天国と極楽は違うんだよ。楽園は木が生えてるくらいだから地上なの。天国は空の上。極楽はわかんないけど」
「確かに、空の上に地底怪獣がいるのも妙ですしね。空を飛ぶならラドンやモスラです」
「こっちのは伊原先生?」
サキが飛田の話を無視して写真を指差すと、そんなわけないわよ、と伊原が鼻を鳴らす。それは左側の壁にある小さな肖像画で、白い小花とネズミのような小動物が隅に描かれた聖女の絵だった。メモには特に説明もなく、一九六八年、とだけ記されている。私が花も恥じらう十八歳だった頃ですな、と頬に手を当てる飛田に構わず、伊原は写真を眺めながら言った。
「私の前の前だったか、当時の院長が手に入れた絵よ」
「一九六八年って、まだ先生は生まれてないの?」
「……さあ、どうだったかしら」
ふーん、といまいちピンとこないままのサキ達をよそに、伊原は複雑な顔でファイルを閉じると、四人の問題児達をじろりと見た。
「ともかく、礼拝堂の謎は解けたでしょう。さらに雨、風、地震でぼろぼろなんだから、あそこは立ち入り禁止。近付くのもね」
「えー、鳥とかヘビは入り込んでるのに?」
「そう、犬猫じゃない。人の子なら、これが読めるな?」
伊原が『立ち入り禁止』の立て札が設置された礼拝堂手前の写真を見せると、はーい、と嫌々ながらもサキが返事をした。よろしい、と伊原は強い口調で続ける。
「人の子なら、入るなよ」
昼下がり、眠る場所を求めてさまよっていた空良は、再び礼拝堂の近くで遅めの昼食をとっている葉月に遭遇した。
「あっ、こんにちはソラくん。……よかったら、また一緒にどうですか」
食べかけのパンを持ったまま、葉月が微笑む。目の前には『立ち入り禁止』の札があり、『人の子』空良は、一応その結界手前で足を止め、木陰に座った。
ちゃんと眠れてますか、ごはんはおいしいですか、と挨拶のように言いながら、葉月は『ツナきゅうりサンド』と『ハムトマトサンド』を空良に見せる。
「どっちがいいですか」
「……赤は、苦手だから」
言いにくそうに空良が告げる。そうなんですか、と葉月はツナきゅうりサンドを手渡し、恥ずかしそうに言った。
「実は私もです」
「……そうなのか」
「はい。色としては」
肩をすくめて葉月がパンを食べる。言われてみると、葉月には赤が少なかった。仕事上どうにもならない服装だけではなく、身の回りの小物や口紅も『赤』はない。
赤は嫌な色で、隠さなくてはいけない色だ。絵に描いたり、人に見せてはいけない色。赤い口紅、赤い爪、赤い痣も、ない方がいい。
「……ソラくん、どうしたんですか」
じっと見つめながらパンを食べていると、葉月の耳がほんのり赤くなる。赤が似合わないわけじゃないんだ、と密かに理解しながら空良が聞いた。
「ハヅキって、口とか、赤くしないの」
「……自分のお化粧は、苦手なんです」
サキも葉月への興味は尽きないらしく、葉月を見るといつも嬉しそうに話しかけていた。
「ハヅキって、伊原先生といつも死んだ人の話してるの?」
「……いつもではないですが、亡くなられたあとの体の変化とか、どうしてあげるのが一番いいかという話を、伊原先生から教わってますよ」
「お化粧も?」
「お化粧というより、穏やかな顔でいられるようにどうするか、というお話になりますね」
ふうん、とサキが感心しながら廊下のベンチに座ると、歩行訓練用の杖を置こうとして手が滑り、いつも持っているバスケットが転がり落ちた。あっ、と慌てるサキを制して、葉月がこぼれ落ちた中身をバスケットに戻す。
「……サキちゃん、これお薬?」
葉月が錠剤を拾い上げて尋ねた。バスケットの中にも、パックされた錠剤やカプセルがばらばらと隠されている。しまった、という顔をしたサキは小さな声で言った。
「……薬飲むの嫌だから、隠してたの」
「お薬、苦手なの?」
「……丸呑みするのは得意だけど、飲んだあとのにおいが嫌なの」
そう言ってサキが気まずそうに下を向く。葉月はバッグを探りながら、アレルギーある? とサキに質問した。全然ない、とサキが答えると、葉月は小粒のキャンディを取り出し、目の前でゆらゆらと揺らしてみせた。
「お薬のあと、こっそりお口直しするのはどうでしょう?」
まずはお味見、と二人でこっそりキャンディを口に入れる。おいしい、とサキが目を細めると、葉月は小さなキャンディケースをサキのバスケットに入れて笑った。
「よかった。おいしいのはサキちゃんが生きている証拠です」
「なんだかズルしてるみたいなのに、いいの?」
「どうでしょう? でも、嫌なことが嬉しいことに変わるなら、少しくらい許されるかな、なんて思います」
でも歯みがきはしてくださいね? と葉月が片目を閉じる。キャンディを味わいながら葉月の言葉を反芻していたサキは、そっか、と理解したように言った。
「すごいねハヅキ。嫌なことを嬉しいことに変えるって、考えてみるとすごくない?」
「私はそうしてましたよ。小さなことですが、私がサキちゃんくらいの頃、絵を描くのが遅くて、授業中に終わらないことが多かったんです。はじめのうちは大急ぎで色を塗って間に合わせてましたが、できあがった絵を見ても、いい気分にはなれなかったんです」
「それをハヅキは、いい気分に変えたの?」
「はい。描きたいところだけを、きれいに丁寧に塗ることにしたんです。時間内には終わらないし、もともと絵は上手じゃないので成績は良くなかったですけど、別の先生にこっそり誉めてもらったことがあります。好きな先生が認めてくれて嬉しかったし、私の手に残ったのは、描きたかったものに丁寧に色を塗った、お気に入りの絵です」
どうでしょうか、と葉月が恥ずかしそうに言うと、サキは目を輝かせた。
「わたしも絶対そっちの方が嬉しい! ……でも、時間は足りなくなるんだね」
「私はのんびり過ぎるんですよ、昼食を食べ損ねるのもしょっちゅうだし。生きる速度や持ち時間は人それぞれですから、好きなことに時間を使えばいいんです。私の仕事で時々聞くことですが、素敵な服や人を見つけて、『いつかこれを着て』、『いつか会いに行こう』そう思っているうちに時間が過ぎて、叶わなかった話も多いです」
「死んだってこと? ハヅキの仕事って葬儀屋さんでしょ」
ダイレクトなサキの言葉に、葉月は少し困ったように肯いた。
「亡くなられたあとに、その服を着せました。こんなに素晴らしい世界です。生きているうちにその服を着ていたら、もっと世界を楽しめたのかな、と思いました」
「……世界は素晴らしいの?」
ふとサキが不思議そうな顔をして聞いた。はい、と葉月は微笑んで答える。
「いろんな人がいるでしょう? 善いことだけしかできないよう、本能で強制されているわけでもなく、善いこともそうじゃないことも、選ぶことが許されている。楽なことも、苦しいことも」
「頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいってこと?」
「許されているんです。甘い飴が好きな女の子がいて、苦い葉っぱしか食べない虫もいて、虫ばっかり食べる鳥や魚もいるでしょう。全部がいて世界はできている。神様の楽園にもあらかじめ食べてはいけない『実』があって、食べることをそそのかす『蛇』がいます。許されていなければ、はじめから禁断の実も、蛇も、人間も楽園に存在していないんです。だから、どんなに目の前の景色が凄惨なものに見えても、世界は素晴らしいんです。って、私も前にシスターからそんなお話を聞いて、そう考えるようにしているんですけど」
葉月が肩をすくめる。ふうん、とサキは考えるような顔をして呟くように言った。
「神様は、最後の審判はやめたのかな」
「もうちょっと見てようかな、って待ってるのかも。世界に子供が生まれてくるうちは、審判の日は来ない、って伊原先生がいつか言ってました」
「……今が悪い子でも、いい子になることを選べるのかな。神様に怒られるようなことをしなければ、いい子になれるのかな。素晴らしい場所に行けるのかな、わたしも」
サキは遠い場所を眺めるような目をする。葉月が考えるような顔をしていると、サキは夢見る女の子のように冗談っぽく言った。
「なれるなら、いい子になりたいな」
「サキちゃんは心配ないですよ。望めばどんなものにもなれます。どんな形で叶うかは、わからなくても」
ほんとうかな、とサキが葉月の顔を見ると、だいじょうぶ、と葉月はほんのり耳を赤くしながらサキの目を見つめた。
「この世界は、素晴らしいから」
「うん。わたし、ハヅキのことは本当に信じる」
サキが葉月を気に入っているのは空良にもよくわかった。葉月が来ればサキは足の怪我など忘れたように駆け寄り、許される限りそばにいようとする。洗面所で歯を磨いていたときも、女子トイレの方からサキの声が聞こえてきた。
「どうしたのそれ、痛くないの?」
「全然平気です。ずっとあるんですよ」
そうなの、と不思議そうなサキの声がして、ふふ、と葉月の笑う声が続いた。全然気付かなかった、とサキも楽しそうに続ける。
「でもかわいい。隠してるのもったいないかも」
「そうですか? お仕事もあるので隠してますが、うっかりしてると取れちゃうんです。気をつけてはいるんですけど、いつも余裕がなくて必死なんですよ」
空良が歯を磨く手を止めて首をかしげる。清掃道具や蓋付きバケツを片付けていた清掃スタッフが、空良の傾いた口元からこぼれる泡を見て笑った。必死すぎー、とサキが笑い、女子達の会話は蝶々のように方向を変えていった。
「必死すぎて笑われます。歯医者さんでは緊張していつまでも目を閉じてるし、病院でも注射の針が刺さるところを見るのが恐くて、思い切り目を閉じてしまうので看護師さんに笑われます」
「ふーん、注射こわいんだ」
あんなの簡単、と言いかけたサキの声が途切れ、ふと沈黙が訪れた。どうしました、と葉月が心配そうな声で聞く。
「……なんでもないけど、わたし、どうかしてる?」
「一瞬、顔がこわばっていました。ごめんなさい、怖いこととか嫌なことを、思い出させてしまいましたか?」
「えっ、そんなの全然平気だよ? 嫌なことなんていつも、普通にあるでしょ?」
サキが明るく言うと、普通にですか、と葉月は少し真面目な声を出した。
「嫌なことが、いつも普通に心のなかにあるのは、自分のお部屋に怖くて嫌な絵が飾ってあるようなものです。目が覚めたときも、出かけて帰ってきても、眠くなって目を閉じる直前まで、いつも『嫌な絵』が見えているのは辛くないですか? 絵を変えてしまう方が楽しくないですか?」
「そんなことできるの?」
「実際に手に入れるのは難しくても、好きな歌を覚えて、好きな絵を心に飾っておくのは簡単です。サキちゃんは聖書を暗唱できるくらいだし、心に絵や歌を取り込む容量はいっぱいあります。欲しいと思うと苦しいけど、好きって思うことは楽しいでしょう?」
いつまでトイレにいるんだろう、と空良が歯ブラシを洗いながら息をつく。そんな外野に構わず、トイレからは葉月の優しい声が聞こえた。
「いつも、こうやって唇の端を上げて。笑っていられるのは、心の部屋に素敵で大好きな絵が飾ってあることの証拠です。笑うのをやめたら負けですよ」
そろそろ行かないとね、と思い出したような女子達の気配が近付き、なんとなく空良が身を隠す。遠ざかっていく二人の楽しげな会話の中、呟くようなサキの声が耳に入った。
「でもわたし、ハヅキの絵が欲しいな」




