表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/31

2 富仲商会

 七月の初日、空良と管地を乗せた緑のボルボ940ステーションワゴンは、絶え間なく現れる都バスを避けたり抜いたりしながら真昼の浅草を走っていた。午後二時から浅草で作業があるが、約束の時間にはまだ少し間があった。管地は郵便局を過ぎたところで車を停めると、パン買ってくる、とえんじ色の日よけテントがある店を親指で示した。

 ふうん、となんとなく目を逸らす空良を置いて車を降りた管地は、しばらくして大きな白い袋を抱えて戻ってくる。

「あったあった、ラッキーだったぜ」

「今から食べるの」

 渡された袋の中を覗きながら空良が聞いた。出先での簡易的な食事として管地がパンを買うのはいつものことだが、今、空良の膝の上にあるのは三斤ほどある食パンだった。

「いいや、滅多に買えないからゲットしといた。車に置いといたら痛むから、作業中は道具のフリしてお前が持ってろ」

「ぼくが手伝えないけど」

「問題ない。今日はエアコンの効いた部屋に飾ってある絵をちょこっと修復する、簡単なお仕事だ」

 管地はアロハシャツの胸元に引っ掛けてあるサングラスを装着すると、上機嫌で車を発進させた。空良が膝の上のパンを眠ってしまった猫のように持て余しているうちに、菅地はそう大きくないマンションの駐車場で車を停める。画材や掃除道具の入った箱を担いで四階へ到着する。二時ジャストだった。

 目的の部屋を訪問すると、三十半ばの管地より若く見える男が出迎え、とりあえず、とリビングに二人を通した。管地は愛想よく簡単に挨拶を済ませ、謎の袋を抱えてほとんど喋らない背の低い少年を、修行として厳しい掟を課している弟子だと説明する。半分納得したような顔の依頼人が二人に麦茶と茶菓子を勧めると、これはどうも、と手を合わせる管地の隣で空良が彫像のように動きを止めた。

「ああ空良、大丈夫なやつだから」

 管地の言葉で動きを取り戻した空良が肯く。目の前に置かれた穏やかな黄色の直方体と対峙する少年に、依頼人が心配そうな声を出す。

「どうしました?」

「いえ失礼しました、こいつ芋ようかん見たの初めてなんですわ。ホント世間知らずで。えーとそれで、修復する絵っていうのは、そちらの?」

 話を逸らしつつ管地が向かいの壁を手のひらで示す。そうでした、と依頼人の男が後ろに立てかけてある額縁を持ち上げ、麦茶と芋ようかんの皿を避けたテーブルの上にそっと置いた。身を乗り出して額縁を覗き込む空良の隣で、管地が腰を上げて全体を眺める。

 依頼の品は、異国風の街並みを描いた油絵だった。手前には石造りの橋や水路があり、明るい水色で描かれた水面にはゆったりと小舟が浮かんでいる。小舟の上には向かい合う男と女。その女の顔を修復、というより修正して欲しいというのが今回の仕事だった。

「ちゃんと聞いたわけじゃないんですけど、今の彼女、この女のコが元カノに似てるのを気にしてるっぽいんです。彼女、僕の元カノの顔知ってるんですよ」

 これなんですけど、と男が恥じらうように女性の写真を見せる。あー微妙ですよね、と適当に相槌を打つ管地に男が続けた。

「今カノが部屋に来てくれるようになったのは最近なんですけど、なんか彼女、この絵が寝室に飾ってあると気になるみたいでイマイチなんですよ。あ、こっち今カノです」

 男は見せる必要のない女性の写真を見せる。飾らなければいいのに、と言いたげな空良を押しやった管地が、似ていると言われれば似ていないこともない写真の女性と、油絵をじっと見比べた。あえて話題にするのも微妙に気まずいが、改めて絵を外すのも却って気まずい事態を、じんわりと修正して解決できないかという相談だ。気付かれないレベルで、現在の恋人にほんのり似せるという手もある。

 管地は男に断りを入れて絵を額から外すと、水平に持ち上げたり斜めにしたりしてから、問題の顔部分を示した。

「この部分だけをいじると、どうしても違和感が生まれます。わずかな筆遣いのクセだの、光の反射の仕方なんかに女性は気付くことが多いです。ですから、不自然にならないよう最初からこんな絵だったと思われるよう、全体に手を入れます。……空良、ファイル」

 空良が見本のファイルを出して渡すと、管地は修正した例をいくつか見せて説明する。一見しただけでは変化に気付かれない仕上がりになること、絵具の材質が違うものになること、女性の顔を今カノ寄りに修正すること、時間とともに色の変化が予想されること、元には戻せないことなどを話し、ちらりと部屋を見回しながら付け加えた。

「それと、一時的に照明器具とか、絵の位置を変えてみるのをお薦めします。見る角度や光の当たり方で絵の印象が変わったりもしますので、変化に気付きにくいはずです」

 なるほど、と肯く男に了承を得ると、それでは、と管地と空良が作業の準備を始める。エアコンの効いた応接間を固く遠慮し、小部屋ながらも床面積の広い洋間を借りてドアを閉め、空良がシートを広げて窓を開けた。室外機からの熱気に管地がため息をつく。

 空良に道具を指示しながら管地が作業に入る。はじめに絵の汚れを落とし、全体の色味や具合を見ながら慎重に女性の顔を修正していく。空良の不安げな視線に気付いた管地が顔を上げた。

「心配すんな。ついでだよ、ついで」

「でもそこ、関係ないんじゃ」

 弱々しい声で空良が指摘する。問題の箇所は小さく、大幅に手を加えるような作業ではない。だが管地は、依頼人も気付かない程度に舟の上の男性や女性が触れている水面を修正していた。あのな、と管地が声をひそめる。

「あの写真見ただろ? 俺が思うにな、問題は女の顔じゃなくて男の顔の方かもしれんぞ」

 なんで、と空良が管地の手元を覗き込む。管地は男の顔に依頼人の面影を足した。

「見当違いかもしれないけどな。この絵の女、元カノちゃんと大して似てないし、別の男と舟に乗ってる時点でどうでも良さそうな話だろ? むしろ今カノちゃんが気にしてるのはこの男の方で、自分の『元カレ』に似てるからじゃないか、と思ったわけだ。今の男に言えないのは、自分の方に理由があるからだぜ、たぶん」

「そうなの……か?」

「まあまあ、なんにせよ恋人達の憂いに繋がる可能性は潰しておくにこしたことないさ。人の絵を修正しようが会社の帳簿を改竄しようが、要は二人がハッピーなら構わない」

 くくっ、と下卑た笑いを浮かべながら心にもない発言をする管地に、こっちのは何? と絵の水面を指差して空良が聞いた。

「今カノちゃんが気にしてる可能性その二。この水面に、人の足みたいな影が見える」

 なにそれ、と空良が絵に近付き、修正しかけている水面部分を凝視する。揺らいだ水に舟の先端が映り込んでいるだけにも見えるが、沈みゆく人の足に見えないこともない。

「舟から落ちた人の足かな」

「この二人に沈められたのかもな。まあ、仮にそういう物騒な絵だったとしても、作者の意図を正しく理解して伝える必要なんざないし、尊重する義理もないさ。絵の価値なんて見る側が自由に決めるのさ」

 管地は持っていた細筆を置き、仕上げ用の塗料で光沢の加減を調整する。作業を終えて塗料を乾かすあいだ、現場を念入りに清掃をするのが空良の役目だったが、スペースの狭さゆえに掃除はすぐ終えてしまった。道具の手入れも済ませて荷物をまとめ、空良が作業完了を告げると管地は親指を立てた。

「おうグッドだ、お前はいい絵描きになれるぞ」

「……絵と掃除って関係あるのか」

「掃除や整頓、道具の手入れがいい加減な奴は、美しさを妥協できる奴だ。向いてない」

 そう言って管地は部屋の窓を閉め、額に収めるために修正した絵を慎重に持ち上げる。どこか不満げな顔をする空良に管地が続けた。

「そうだな、適性みたいなもんがあるとすれば……空良、お前はじーっと座って絵だけを描いてることや、絵の具の匂いは嫌いか?」

「嫌いじゃない。どっちも」

「ならノープロブレムだ」

 そうなのか、とまだ不信そうな色を隠さない空良を促し、額装の済んだ絵を持った管地がドアの前に立つ。あのな、とドアを開けようとする空良に言った。

「いっときもじっとしてられない奴や、絵の具の匂いがカメムシよりも嫌だって奴もいる。だが、それが悪いって話じゃない。いろんな奴がいるから世界は成り立ってるんだ」

 素晴らしい話だろ、と管地は得意気に笑った。


 管地と依頼人が応接間で延々と絵を鑑賞しつつ話しているあいだ、空良は外の車に荷物とパンを運び、西日の当たらない駐車場の隅で時間を潰していた。

 暑さと湿気を気にして空良がなんとなくパンの袋を開ける。かすかに漂う甘い匂いに安心して袋を閉じようとすると、見ていたようにどこからか一羽の鳩が足下に降り立った。

 すごいな、と感心しながら空良は袋の中に視線を戻し、パンの端を小さくちぎって鳩に与える。これ以上鳩が来たらどうしよう、と駐車場を見回していると、二階の外階段から紺色のシャツを着た男が降りてくるのが見えた。

 なんだ人間か、と人面犬のように呟く空良の前を通り過ぎ、男は白いBMWの後部座席に持っていたブリーフケースを積み込む。シャツをまくった腕には大きめの腕時計があり、具合の悪そうな顔で時間を確認して小さく呟いた。

「五時四十五分、ぴったりです」

 ぴったりという言葉について考え始める空良をよそに、白いBMWに乗り込んだ顔色の良くない男は、スカイツリーの見える方向へと消えていった。




午後七時を過ぎ、紺色のシャツにライトグレーのパンツ姿の男は、四谷にある富仲商会の事務所に戻り、具合の悪そうな顔で革張りのソファに座った。お疲れ様です、と金髪に眼鏡の男が冷えたおしぼりを渡すと、男は額を拭いながら言った。

「とりあえず水ください、間能」

 マノウと呼ばれた金髪男がミネラルウォーターのボトルにストローを挿し、はいボス、と渡す。虚弱なボスの顔色に見慣れている間能は、炭酸水のキャップを開けながら笑った。

「富仲さんは車の中じゃ水も飲まないですからね、真夏でも」

 体に悪いですよ、と間能がボトルに口をつけて炭酸水を飲む。虚弱でデリケートなボス・富仲は、大抵の仕事を自分の愛車で遂行してしまうが、車内での飲食はしない。

 そんな富仲が思い出したように細長い紙袋を差し出した。

「これおみやげです。受け渡しがスカイツリーの近くでしたから」

間能が受け取った袋に印刷されたスカイツリーの絵を見る。中身はスカイツリーを象った飴色のパンだった。

「あ、これ有名なパン屋の、ソラマチ限定のやつじゃないですか」

「スカイツリーまで余裕でしたし、せっかくですから。帰りは赤坂の方が渋滞してたので、神田橋から一番町を抜けてきたんですが」

「はい、一番リスクの少ないベストなルートでしたよ。な、小堀」

 給湯スペースに立った間能が事務所の奥に声をかけると、そうですね、と比較的若い男の声が返ってくる。富仲はストローから口を離し、疲れたように息を吐いた。

「まあ、C2が開通したおかげでしばらくは楽ができるかもしれません。荷が小さければ」

「あー、次もまた、詰めた小指なんかだといいですね。重たい風呂釜なんかじゃなくて」

 フルーツやナッツの詰まったパンをざっくり切り分けながら、しみじみと間能が言った。業者の仲介や代行業務なども受けることもあるが、富仲商会のメインは、非公式な運送、特殊な運搬を引き受ける男三人の事務所だった。顔色の悪いボス・富仲がさらに顔色を悪くして言う。

「例えが怖いので却下です、間能。それに、あんな重い仕事はもう来ません」

「まあ、盗むにしろ黄金の風呂釜なんてそうそうないですからね」

「ウチが犯罪に関わってるみたいに言わないでください。富仲商会は零細ながらも信用と愛で成り立つ健気な会社です。ウチで運んだアレは、黄金の便器です。どこかのホテルで黄金の浴槽が盗まれた事件とは関係ありません」

「そういうことでしたら、他人事みたいにゆったりたっぷりのーんびりしてましょうか」

 からかうように笑う間能に、富仲がため息をついた。富仲商会の信条は、『あるモノを、あるところから、あるところへ、時間を守って確実に運ぶこと』であり、『ある』の部分を詮索しないし、わかったところで口外しないのが鉄則だ。口が堅いというより単に無口な小堀はともかく、口が軽いわけではないが、物騒な状況を面白がる間能に、富仲の虚弱な肝は冷えるばかりだった。

「いいですか間能、盗品や悪い薬など、法に触れる物は扱わないと常に公言してますし、誘拐、殺人のサポートは致しかねます、とはっきり断ってあります」

「普通はそんなこといちいち断ったりしませんけどね。そしたらこの前、ランドセルに婆さんが現金詰めて『お願いします』って渡してきたあれ、誘拐じゃないんですか?」

「ああ大丈夫ですよ、あれは流行りの詐欺です。いや知りませんけど」

 まあ誘拐より詐欺の方が平和ですね、と間能が切り分けたパンを乗せた皿をテーブルに置いた。富仲がパンを囓りながら書類を確認する。

「しょぼい詐欺より、最近は小分けの密輸なんかがトレンドっぽいですよ。ちなみに次の仕事も船便です。受け取りして昼過ぎには四谷に届けますから」

 了解しました、と肯く間能の声に遅れて、わかりました、とパンを咀嚼する小堀の声が奥から聞こえた。それと、と書類をめくりながら富仲が続ける。

「四日には芝公園で大物の移送があります。受け取りが少し面倒なので、人目につかないよう、速やかに済ませないといけません」

「何をガメるんですか」

「間能、人聞きが悪いです。ウチが何かをガメたことはありません。我々は大切に預かり、間違いなく確実に運ぶだけです。それがもらいものでも拾いものでも、ウチの知ったことじゃありません」

「わかってますけど、荷はなんですか」

 飽きたように間能が眼鏡を直しながら聞いた。富仲も気を取り直して書類に目を落とし、大きさや重さなどを説明する。怪訝な顔をする間能に富仲が付け加えた。

「実はこの日、近くで大物の葬儀があるんですよ」

「そういや大安ですね」

「それ関係ないです。で、その『お別れ会』で個人の思い出の品などを展示するそうです」

「あー、そのひとつをガメるんですね」

 間能がぽんと手を叩く。違いますって、と睨みながら富仲は地図を出して説明した。

「川口線に乗って埼玉方面すぐです。ドラッグ関連の事件が増えてるせいで取り締まりが強化されてます。小堀は検問や情報漏れの確認を念入りに頼みます」

「わかりました」

 至近距離からの返事に富仲が振り返る。そこにはハンディ型の広帯域受信機を手にして口をもぐもぐさせている短髪の大男がのっそりと立っていた。小堀はその体躯を活かした力仕事のほか、不審な機器や危険物などのチェックを担当している。

 小堀は広帯域受信機で事務所内とBMWの盗聴器チェックを済ませ、サーモグラフィー装置のバッテリーを充電しつつテーブルのパンを口に入れた。熱源を可視化するサーモは、預かる荷物や届け先に不審な機器がないかを手早く確認するためにある。

「『掃除』は済みました。不審物やオンになってるマイク、カメラもありません」

「オーケー、ご苦労様です。今日は心配してませんでしたよ。小指に爆弾仕掛けるバカもそういないでしょう」

 肩の力を抜く富仲に、間能がからかうように笑った。

「やっぱり、今日の荷は小指だったんですね。なんか預かった際に『ユビがどうの』って話してたの聞こえましたし」

「違います。えー……USBメモリです」

「ああ、ユーエスビーの聞き間違いですかね。なるほど」

 間能がうんうんと肯く。納得してくれましたか、とほっとする富仲に、しませんよ、と間能が返す。富仲はあさっての方向を見ながら話題を変えた。

「小堀の掃除で思い出しましたが、最近、マキノ組の若手がバタバタ動いてるんですよね。今日も病院の近くで……なんていうか、掃除してるんですよ」

「……槙野組って、六本木に事務所置いてる『マキノ企画』の『槙野組』ですよね。血で血を洗う抗争でもありましたっけ」

「いえ、そういう物騒な奴じゃありません。文字通りのお掃除です。今日も病院の近くで、取り壊し待ちのビルの壁をキレイにしてたんです。槙野組の若手が、白ペンキで」

「へえ……どこの病院ですか」

「四番町です。といっても聖フィーナ伊原記念館ですから、もう病院ではないですが」

 G1ですか、と振り向く小堀に、競馬じゃないですよ小堀、と富仲が注意する。現在ある『伊原記念病院』は一番町の施設を指し、四番町にある『聖フィーナ伊原記念館』は、閉鎖した古い療養病棟を資料館として残した施設だった。それにしても、と間能が腕を組む。

「放っておけばそのまま撤去されるものを、わざわざ何やってんでしょうね。組長の悪口でも書いてあったんでしょうか」

「字じゃなくて絵みたいですよ。それは別にしても、最近の槙野組……といっても一部の若手連中っぽいんですが、妙な感じです。ちょっと前までは、扱うドラッグがヒットしてボロい商売してたくせに、今は街のヤク中を探し回って、手遅れのボディが出るとマメに回収してるようです。面倒なことをやらかしているようなのに、人を増やすでもない」

「ヤク中の死体ですか。この季節、ドライアイスもなしに処理するのはキツかろうに」

 間能、と富仲が部下の発言をたしなめる。刺激的な言葉を避けるのは仕事上のルールとしてだけではなく、デリケートな富仲の精神衛生のためでもあった。預かる荷物が小指だろうと大蛇の標本だろうと仕事は受けるが、それを南青山で買える細巻きクッキーだとかラプソディ・イン・ブルーで使うバスクラリネットだなどと言いながら富仲は荷物を運ぶ。

「間能はもう少し慎重に。まだ迂闊に動くの禁止です」

「大丈夫ですよ、慎重に見に行きますから」

 そういうわけでお先に、と間能が敬礼して事務所を出て行くと、はいお疲れ、と富仲は疲れ切ったように大きくため息をついた。


 富仲商会を出た間能は、新宿通りから麹町を抜ける途中の暗い脇道で、独特の雰囲気を放っている男達の一人が、ペンキ缶のようなものを持っているのを見た。富仲商会データファイルの犯罪組織や暴力団関連リストで見た顔があった。正確なことはわからないが、槙野組の若手幹部とその部下達のようだ。四番町の掃除は済ませたらしい。

 少し離れたところに車を停め、間能が黒いハリアーの中から様子を眺めていると、何か感じるものがあったらしく、パトロール中の警察車両が脇道へ入っていく。気付いた槙野組の男達は適当に散会し、残った若手が警官の相手をしながら遠ざかり、しばらくすると誰もいなくなった。

 間能はゆるゆるとハリアーを出し、先刻までパトカーの停まっていた場所に移動すると周辺を見回した。これか、と自動販売機のそばにある古いブロック塀を見る。

 このあたりではそう珍しくもない、スプレーペンキによる迷惑な落書きだった。よほど絵心がくすぐられる場所なのか、独特なタッチで描かれた謎の文字やキャラクターの上にポップで意味不明な図柄が重なったりと全体的に乱雑な仕上がりになっている。

 その隅に、白のペンキで消されかけた新しい落書きがあった。それは、ほかのスプレーアートとは異質な、ラクガキと呼ぶには繊細で厳かな、宗教画のような趣があった。

 なんだこりゃ、と車を降りた間能が壁画を凝視する。槙野組の連中に消され全体の構図はわからないが、特徴的な造りの屋内、十字架や聖卓と思しき台が描かれていることから、礼拝堂のような空間と思われる。鳥や天使のいる天井は青く、中心には十字架を背にした白衣の人物が立ち、その足下に転がっている男の顔色は富仲商会のボスよりも悪い。

 壁を睨んでいた間能が、ふと笑った。険しい表情で中心に立つ白衣の女性。その上唇の左側には、小さなほくろが二つ星のように並んでいた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ