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1 ヒーリングスパ極楽

少年の描く『絵』と、消えたドラッグ。

舞台は七月の東京都内。背の低い、無口な少年が主人公です。


投稿する際の都合で、『推理』に分類されていますが、『サスペンス』寄りのお話です。

怖い人とかドラッグとか、時々死体が出てきますので、苦手なかたはご注意ください。


 青は、天国のイメージだ。

 青。鮮やかな深い青。明るく澄んだ空の青。

 目の前に広がる、南国みたいなエメラルドブルーの海。浅瀬のアクアマリン。影を落としたようなピーコックブルー。

 天国とか楽園の絵なら、空は明るく晴れているはず。パラダイスが雨降りだったり、どんよりしているのも変だ。

「どうだソラ、ここはもう天国だぜ」

 満足げな男の声があたりに残響する。びくりと肩を震わせ、白シャツにカーゴパンツの少年がうなずいた。ソラの上司であるアロハシャツの中年男も、この青い光景に天国を思ったらしい。

 上司であり保護者でもあるスガチは、茶髪の上に乗せたサングラスを直しながらのんびりと続けた。

「パラダイスにあるべきものは、青い空と白い雲、青い海と白い波。ド派手な花とトロピカルフルーツ、そして冷たいドリンク。それを持ってくる日に焼けた美女、だろ?」

「……それ、ただの南の島じゃ」

 ぼそりとソラが返すと、スガチは脚立の上からエコーのかかった声で言った。

「いいんだよ、依頼主が『南国っぽく』してくれってんだから。見渡す限りの青い空、打ち寄せる波の音、潮風と南国の果実の匂い。ワクワクと癒しが両方味わえる天国だ」

「……でも、ここって極楽じゃないの」

「極楽も天国も似たようなもんだろ」

 どうでも良さそうなスガチに、そうなのか、と青い塗料の缶を持ったソラが壁に描かれた南国の海を眺める。

 そんな天国に一番近い銭湯、『ヒーリングスパ極楽』の所在地は、千代田区神田だった。


 ふいに入口の引き戸が開く音が響き、いやいやどうも、と『ヒーリングスパ極楽』のオーナーが団扇で顔を扇ぎながら水気のない大浴場へと入ってきた。足下の塗料の缶や養生シートの先にある壁に目を見張り、素晴らしいですな! と大きな声を出す。

「いやあ、管地さんに頼んでよかった。お弟子さん……えーと空良くん、も御苦労様です」

 脇に抱えていた書類と管地の名刺を確認しながらオーナーが声をかける。名刺には管地の字で『助手 小野丸空良』と書き足されていた。空良が無言でぎこちなく頭を下げると、すかさず管地が口を挟む。

「あー、すいませんね、仕事中『ハイ』しか言うな、って掟なんです」

「ほうほう、厳しいですな」

「いえいえ、こういうのは若いうちから叩き込まないと。あと、ムスッとして見えますが、仕事中はヘラヘラするなというのも掟のうちなんで」

「ほう、やはりこういう世界は難しいんですなあ」

 感心したようにうなずくオーナーに、管地は作業の首尾を報告する。塗料の特性上こまめにインターバルを置いているが予定通りに仕上がることを話すと、オーナーはほうほうと納得して顔を扇ぎながら大浴場から出ていった。

「シロウトはこれだから困るぜ」

 管地が小声で言う。あまり新しいともいえない『大黒湯』を低予算で改装しようと考えたのか、大浴場の壁はオーナーが自力でどうにかしようとした形跡があった。

 適当に塗られた白い塗料の下には描き損じの富士山がうっすらと透けていて、管地はそれを丁寧に塗り直し、『南国っぽく』『もっと南国っぽく!』『できれば南の島っぽく!』という富士山を忘れたいオーナーの依頼に応えて、南国のパラダイスを描き上げた。

 そして『大黒湯』は『ヒーリングスパ極楽』に生まれ変わった。

「下地は命だぜ? それが甘けりゃ上に何描いても無駄だっつうの。なあ空良」

 うん、とうなずいた空良は低い位置の仕上げを続ける。

 管地の本業は絵画や彫刻の制作だが、アトリエで黙々と作業するという状況はほとんどなかった。空良が住み込みの弟子になってから今のところ、壁や看板の塗装にフィギュアの造形、置き物の修復などの出張仕事が多く、静かな作業時間というものには縁がなかった。

 

 ちょっと時間置くか、と管地が脚立から降り、塗料の様子を確認して空良を外へ促す。改装といっても銭湯を洋風に模様替えした程度で、モンステラやパームツリーなどの観葉植物を置いたり、暖簾をハワイアン風のバンブーカーテンに変えたりしてあった。

 ロッカーの上には木彫りのパイナップルやウクレレもディスプレイしてあるが、すぐ隣に将棋盤がナチュラルに置かれている。

 やれやれ、とハイビスカス模様の彫られた木製のベンチに管地が座り、空良は隅に設置されているガラスの冷蔵庫を覗いた。見慣れない色の牛乳瓶を不思議そうに眺める。

「これ飲めるの」

「おう飲め。ホトケサマも牛乳飲んで悟りを開いたんだ」

 そうなのか、と空良はあまり信用していない顔で淡いオレンジ色の牛乳瓶を見る。その頭上から管地が手を伸ばし、牛乳瓶を二本取り出すと奥にいた従業員に小銭を渡した。塗料の匂いが漂うなか、空良はフルーツ牛乳を持ったまま振り返り、大浴場の壁を眺める。

 青。日本晴れの空と雄壮な富士山の青は消え、別世界の空の青。まるで光っているような海の青。空と海の遠いその境界には、厚みのある白い雲が浮かんでいる。

 手前には白い砂浜。かつて松の枝があった左端には、椰子の木が自由に伸びていた。右端には鮮烈なピンク色のブーゲンビリアが咲き誇り、その向こうに白いヨットが浮かんでいる。

 空良の背後で、管地が呟くように言った。

「ヒーリングスパつっても、まだ銭湯から抜けきれないな。富士山描かなくて済んだからいいけどよ」

「富士山、苦手なのか」

 空良がパステルオレンジの牛乳を怖々と舐めながら聞いた。今までの仕事でもデイサービスや老人ホームの浴室に富士山を描いていた。んー、と管地は顎を掻く。

「俺はその道のプロじゃないからな。富士山なら、銭湯絵師に描いてもらう方がいい。……つってもまあ、今は日本に二、三人しかいないんじゃないか」

「風呂の……プロなのか」

「おう。空と富士山、松の木がうまくないと務まらない。それも下描きなし。空塗り三年松の木十年とか言われてるらしいぜ」

 そう言って管地は飲み干した瓶を置き、コキコキと首を鳴らして立ち上がった。壁の向こうにある女湯の作業はすでに完了しているし、男湯の大浴場もほぼ終わっている。

 管地はその反対側の洗い場の隅を指差した。小さめの椅子があり、ほかよりシャワーの位置が低くなっている。

「空良、ちょっとここに何か描いてみな」

「なにを」

「見てみろ、ここはまだ女湯に入ってもとやかく言われないのに、あえて男湯を選んだ男子が使う栄光の場所だ。その栄誉を褒め称え、祝福するべくお前が絵を描くんだよ」

「それで、何描くの」

「だから、子供を歓迎する絵を描けってこったよ」

 そう言って管地は空良の牛乳瓶をひったくり、残っている中身を飲み干しながら背後の塗料と道具を親指で示す。わかった、と空良は緑や黄色の塗料をじっと見つめて考える。

 これまでも、管地は時々空良に仕事の一部を任せることがあった。

 人と話したがらず、恐がりでコミュニケーション能力は低いが、絵を描くことに関するレベルは高い。作業も丁寧で無駄がなく、助手として問題はない。言動や背丈のせいで子供に見えるが、空良は来月で十八歳になる。

 しばらくぼんやりと考えたあと、空良は管地に範囲を確認し、使う色と構図、大まかなイメージをたどたどしく伝え、よし、と管地が許可を出した。

「いいか空良、今やってるのはペンキの塗り替えじゃない。新しい壁画を描いてるんだ。それもただの壁画じゃない。金払った上に服を脱がなきゃ見れないレアな絵だ。気合い入れて描けよ」

 じゃっ、と回れ右をした管地は反対側の壁に戻り、仕上げにかかる。空良は与えられたスペースに艶やかな深い緑の葉を描き、バナナのようなくちばしを持った大きな鳥と、その左右に発光しているように鮮やかな青い蝶を描いた。

 しばらくすると、高音の叫び声が響き、空良は不審そうに振り向いた。その視線に気付いた管地が睨む。

「クリスタルキングだよ。『大都会』は風呂で歌うに限る」


 作業がすべて完了し、大まかな仕上がりを確認すると、管地はコットンパンツのポケットから車のキーを取り出して言った。

「俺はさっきの社長とまだ話があるから。お前はこれ全部車に積んだら、ここをきちっと掃除しとけよ」

 わかった、と空良は車のキーを受け取り、そのまま管地の腕時計を覗き込む。話が長くなりそうな予感を覚えた管地はしばし天井を睨み、そのあとは自由時間だ、とポケットに手を入れて携帯電話を操作した。

 次の瞬間、空良のカーキ色のカーゴパンツから着信音が鳴り響き、空良がびくりと飛び上がった。

「なにするんだ」

「確認だよ。お前すぐ電源切るだろうが。ほかに連絡手段がないんだから切るなよ」

「でも電源入ってると急に電話が来るから」

 不具合のように主張する空良に、それが電話だっつの、と言い残して管地は大浴場から出ていった。

 空良は後処理した筆や刷毛を保存箱に納め、塗料の缶や諸々の道具を外へ運び出す。駐車場に停めてある緑のボルボ940の後ろに回り、ハッチを開けて慎重に積み込んでいく。

 六月が終わるとはいえ、スイッチを切り替えるように初夏が真夏に変わるわけでもなく、湿った空気の中で空良は黙々と機材を運んだ。

 剥がした養生シートやテープをまとめ、充電式のクリーナーをかける。水拭きできる箇所を拭き清め、脱衣所や大浴場の備品の位置も密かに整える。蛇口や鏡などの曇りや汚れも気付いたら落としておく。どの現場でも必ず管地がしていることだった。

 最後に全体を眺めて、よし、と自分に終了の許可を出す。乾きかけの塗料の匂いだけを残し、作業の痕跡はすっかり消えていた。しばらく風を通してから駐車場へ行き、ボルボの施錠を確かめると、通りに向かって歩き出した。


 空良は思い出したように日本橋方面へと歩き、商業施設やオフィスビルを通り過ぎると、製薬会社の近くにある駐車場の壁の前に立った。

 奥まったところにあること、壁面が広い割には無地であることが災いしたのか、そう古くないコンクリートの壁には一面、絵とも文字ともつかないロゴのような落書きが何重にもスプレーで描かれている。

 そんなポップな壁の片隅で、異質な雰囲気を放っている領域があった。駐車場利用者がその繊細で写実的な絵に目を止め、少し驚いたような表情で過ぎていく。

 宗教画のような色調と構図。教会のような、奥行きのある屋内の光景。中心には祭壇のような白いテーブルがあり、白い服を着た女性が寄りかかるように立っている。左右の壁には聖女の絵、楽園の絵が掛かっていて、背後には十字架と青く塗られた天井、小さな天使と小鳥の姿が描かれていた。

 空良は周囲を見回し、ポケットから布とアクリル絵の具のチューブを取り出した。指に布を巻き付けて直接色を取り、絵の中心に立つ人物の足下にくすんだ緑色を足していく。

 さらに細かな部分を手早く描き足すと、空良は布とチューブをポケットに戻し、その場をあとにした。




 昼休みは、暇。

 きゃいきゃいと明るい声が響く教室。次から次へと楽しそうに流行りの話題を繰り出す女子中学生達。その脇で一人、自分の机で厚い本を眺めていた少女は、頬杖をついたまま眠気と戯れていた。

 まぶたをこすりながら黒板の上の時計に目をやり、五時間目までまだ時間があることを確認する。もう寝ちゃおう、と机に突っ伏し、肩まである髪で顔を隠して目を閉じる。

 しばらく女子達の声を聞き流していた少女が、ふと目を開けた。突っ伏した姿勢のまま、じっと耳をそばだてる。

「ミルクホテルっていうのが、『美しすぎる落書き』の名前なの?」

「てゆうか『美しすぎる不思議な落書き』らしいよ?」

 どう不思議なの? と訝しむような声に、その絵を見た直後に告白されたらしいよ、と笑いを含んだような声が答えた。あと、と真面目な口調で続ける。

「いろんなところに出たり、消えたりしてるらしいよ。青山とか六本木とかの、ちょっと怖い通りの駐車場とか、工事してない工事現場とか、路地裏とか」

「えー、それヤバくない? 校則的な意味で出入り禁止エリアだし。そんなとこで何してたのって話でしょ? あの子お嬢っぽいと思ってたのに」

 確かにー、と笑い転げる女子達の脇で、少女も密かに微笑んだ。どこで見ただのあそこで見ただのと、校則で立ち入りにくい場所の目撃証言は曖昧だった。

 でも、と少女は顔を上げた。すっかり眠気は去っている。開いていた本を鞄に入れて立ち上がる。授業なんかどうせつまんないし、その絵を見たい。

 校則で行動範囲を決められているあの子たちなんかより、わたしは遠くへ行くことができる。遠くへ行ける方が勝ちだ。

 

 適当な言い訳で学校を抜け出した少女は、水を含んだ空気の匂いを感じながら六本木を歩いていた。

 気温も湿度も高く、大人達は上着を抱えて長袖をまくっている。すでに半袖を着ている人も多い。少女の通う学校では、明日の七月一日が夏服に切り替わる日だった。

 大通りから細い道へ入り、先刻聞いた場所を探す。ひとけのない道をいくつか巡り、薄暗い隙間のようなところへ抜けると、目の前に探していたものが現れた。

「……きれい」

 礼拝堂のような空間で、十字架とともに描かれた女性。左右の壁には額装された大小の絵が掛かっていて、左の壁には小さくも荘厳な額装の聖女、右の壁には楽園らしき縦長の大きな絵があった。中心に立つ冷然とした顔の女性は白衣のようなものを着ていて、足下にはくすんだ緑色をした、黒い模様の入った人の腕のようなものが描かれている。

 その絵の端には『ミルクホテル』とカタカナで書いてあった。

 ふうん、と少女は考えるような表情で絵に触れる。大きく描かれた中央の人物と、向かって左側の小さく美しい聖女の絵を見た。

 ふふ、と宝物を見つけたように笑った少女は、暗い路地裏から抜け出し、明るい通りを歩き始めた。面白いものを見つけてしまった。『美しすぎる不思議な落書き』のおかげで、すっかり気分がよくなってしまった。




 代々木の工事現場では、解体途中の建物を囲うパネルの前で、初老の小男が佇んでいた。

 茶色の麻ジャケットを羽織ったその男は、中途半端に解体されたコンクリートの粗い断面だの、空を掴むように歪んだ剥き出しの鉄骨だのに美しさを見出していたわけではなく、その手前にある防塵用パネルを眺めていた。

 工事を中断してしばらく放置されている鉄製のパネルは、衝動を持て余した若者によりラッカースプレーで幾重にも落書きがされている。

 男は細い顎に人差し指を当て、端のパネルに描かれている異色の壁画を見つめた。

 十字架のある聖堂。その絵の中に描かれた二つの絵。右の絵には実り豊かな庭園が描かれ、木や草花のもとに鹿やサイなどの動物達が集い、黒い蛇やアルマジロ、橙色の花のかたわらにはモグラが顔を出している。さらに人魚らしきものや角のある兎もいる。

 小柄な男は肯きながら視線を移し、左に描かれた聖女の肖像を眺めたあと、中心に立っている人物をうっとりと見つめた。

 優しげな聖女とは異なり、険しい目で前を見据えている白衣の女性。豊かにうねるブラウンの髪は長く、鋭角のおとがいに薄い唇が閉じられている。明確に描かれてはいないが、白衣の女性がシャープかつグラマラスな体型で、足が長いことは窺えた。

 その足の先に転がっていたのは、四人の男だった。暗がりに溶け込むように描かれた男の肌は濁った緑色で、タトゥー入りの太い腕は踏まれても仕方のない位置に投げ出されている。

 その隅にはいびつなカタカナで『ミルクホテル』と書かれていた。




「こんなところにもあったか」

 銀座から新橋方面へ向かう途中のガード下では、紺のスーツ姿の男が白のボルボS80の運転席から壁を眺めていた。色白の男は、夏の紫外線を少しでも避けようと高架下で停車させ、美しいと言えなくもないが趣味が良いとも言いにくい壁画を見て笑った。

 信号が変わり、ゆるゆると前方の車が進み始めると、壁に描かれた緑の腕を横目に車を発進させる。とはいえ、追従機能による走行なので色白の男はハンドルを握っているだけだ。

「画力はスゴイんだが、題材がなぁ」

 宗教画のような雰囲気を漂わせる絵の中では、男達が力を失ったように転がっていた。

 一人は仰向けでタトゥー入りの腕を投げ出し、そのかたわらで横向きに蹲る男、俯せの男が倒れている。いずれも濁った緑色で描かれているが、手前に倒れている男だけは土色じみた肌をしていた。どっちにせよ血色は今ひとつだ。

「まあ、僕くらいの美肌はそうそういないからな。大目に見よう」

 ふはは、と男は一人で大きく笑い、眩しげに遠くの空を見た。


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