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夢もない。希望もない。将来の見通しなんてもってのほか。
そんな私が彼と出会ったのは、ほんの数日前の放課後のことだった。
その日、私は放送で特別支援学級の教室に呼び出された。本来は障害を持っている生徒が通う教室なのだが、今はそんな生徒がいないため使われていなかった。理由も分からないままに、私は普段使うこともないその教室の前まで一人で来た。ドアを軽くたたいて、静かに開く。
そこは小さな部屋だった。教員用と思しき、プリントや本などが乱雑に置かれた机が一つ。私たち生徒が使うような机が一つ。あとは、移動式のホワイトボードが一台と、部屋の隅に置かれたごみ箱が一つある以外に、これといって目立ったものはない。
その教室の真ん中で、一人の少年が椅子に腰かけて、不思議そうにこちらを見ていた。華奢な体つきに雪のように白い肌が、女の子のような印象を与える少年だった。
「ここの先生は?」
私は淡々と尋ねた。もともと長居をする気はさらさらなかった。
「先生なら、さっき出て行ってそれっきりだよ」
彼は今にも消え入りそうな声で答えた。呼び出した人間がここにいないのなら、私がここにいる理由はない。
「そう」
「待って」
私が教室から出て行こうとすると、彼はさっきより少し大きい声で私を引き留めた。
振り返って彼の顔を見る。多分、私はすごく嫌そうな顔をしていただろう。
「先生に呼ばれてきたんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったら、少し僕の話を聞いてくれない?先生以外誰も来てくれなくて、寂しかったんだ」
懇願するような、不安げな瞳だった。少し怯えているようでもあった(私の表情のせいだろう)。それでもしっかりと、私の眼を見ていた。受ける理由はないが、断る理由もない。このまま家に帰っても特にすることもない。それに、この少年にも友達がいないのかと思った。このままここを去れば、また彼は独りぼっちになってしまう……私はそれまでの表情を崩して、微笑み頷いた。
彼は教卓のところにあった椅子を持ってきて、私に勧めた。彼と向かい合うように座ると、屈託のない笑顔で話し始めた。
それは、彼が見た夢の話だった。
「暗い夜道で、僕は誰かに追われていたんだ。といっても、足音が追いかけてくるだけなんだけどね。一生懸命逃げるんだけど、その足音はどこまでも追いかけてきて、振り返ったところで目が覚めたんだ。とても怖い夢だったよ」
と、そんな内容だった。それまでのか細い声が嘘のように、夢の話をする彼の声は生き生きしていた。口をはさむことなく最後まで聞いて、それから一言
「ふぅん」
とだけ答えた。今考えれば、もっとこちらからも話しかけるべきだったのかもしれないが、その時どう反応していいのかも、何を言ったらいいのかも分からなかった。ただ、先生が私を呼んだのはこの少年のためだったのだろうかと考えると、「話す」ことではなく「聴く」ことの方が大事だったのかもしれない。そもそも人と「話す」事が苦手な私にとっては、「聴く」だけという条件は売ってつけだったのだろう。実際その少年は、自分の話が終わると満足そうにしていたし、私の反応が薄いことに対して何も言わなかった。
「ありがとう、聞いてくれて」
「気にしないで。おかげでいい暇つぶしになったわけだし」
笑顔の彼に、私は顔をそむけて返す。人の顔をまともに見るのは恥ずかしいし、いつもそうしてきた。思えばそれが、私に友達がいない理由かもしれないと思った。それに、彼の笑顔は、私にとっては眩しすぎた。
私が「それじゃあ」と立ち上がってドアへ向かおうとすると、
「明日も、来てくれる?」
と、彼のか細い声がした。
「いいよ、どうせ暇だし」
私は顔だけ振り返って返す。やっぱり顔を見るところまではいかない。
「ありがとう。僕は夢野守。君は?」
突然名乗られて、しかも名を聞かれて、私は少し戸惑った。そういえば、話し始めてからお互い名乗っていなかったなと思い出す。
「葵……如月葵」
「そっか。よろしくね、葵ちゃん」
「……よろしく」
輝く笑顔で私を見つめる守にぎこちない挨拶をして、その日の会話はそこで終わった。
次の日も、そのまた次の日も、私は守のもとへ行った。そのたび、彼は夢の話をしてくれた。守の話を聞いているだけで、時間はどんどん過ぎていった。それくらい、私は彼の話に引き込まれていたんだと思う。勇者になって悪者と戦う夢、テストで満点を取った夢、どこか高いところから落ちていく夢。本当に夢幻にすぎないような夢も、本当に起こりそうな夢も、守は一つ一つ、よくそこまで覚えていたなと思うほど細かく話してくれた。そのたび私は、
「ふぅん」
と返すことしかできなかった。
それじゃあダメだと思って、聴いた夢をネットで分析しようとしたけど、家に帰ると彼の話がぽっかりと頭から抜け落ちていて、調べることもできなかった。それならばと、彼の話を、メモを取りながら聞こうとしたけど、それはそれで失礼かなと思ったのと、書くのが追い付かないのとで、潔く諦めた。
「ごめん、何か言えたらいいんだけど、言葉が見つからなくて……」
ある時、私は守の話を聞き終わった後にこう打ち明けた。何か文句を言われるかな、と思ったら、守は一瞬ぽかんとした顔をして、
「葵ちゃんは、僕の話を最後まで聞いてくれるじゃない。ほかの人は、先生も家族も、くだらないって言って、全然聞いてくれないんだ。だから、僕は話を聞いてもらえるだけでも嬉しいんだ」
と、笑顔で答えてくれた。放課後のこの時間は、私にとってはただの暇つぶしでも、守にとっては大切な時間であるようだった。
「人の見る夢は、必ず何らかの意味を持っているのだよ」
誰か言っていたその言葉が、頭の中で鳴り響く。おかしいな、今まで気にかけたこともなかったのに、と私は首をかしげる。
いつ聞いたのかも覚えていないその言葉は、ここ最近よく私の頭の中に浮かび上がるようになっていた。何かのメッセージだろうか。いや、警告?あるいは……
「ねえ、聞いてる?葵ちゃん」
「えっ」
呼ばれた自分の名前に、私ははっと我に返る。
目の前には、椅子に腰かけた守が、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
私が微笑むと、彼の顔にも笑顔の花が咲いた。
「肌が黒い子、白い子、黄色の子。目が赤い子、青い子、緑の子。とにかく、いろんな国の子と仲良くなって、一緒に歌ったり踊ったりしたんだ。すごく楽しかったなー」
話をする彼の瞳は輝いていて、本当に楽しそうだった。そんな彼を見て、私は一言
「ふぅん」
と応えた。彼は満足そうだったけど、私は私の中で聞こえた声の内容がどこか引っかかって、釈然としない気分だった。
「ねえ」
だからこそ、初めて会った時以来、私から口を開いた。
「守くんは、今まで見た夢って、何か意味があると思う?」
「ど、どうしたの、いきなり……」
「いや、ちょっと気になってさ」
「……うーん、考えたことないなぁ」
守は笑いながら頭を掻いた。その時の彼は、そこにはない何かを見据えるような、遠い目をしていた。少し気になったけど、それ以上追及する気になれなくなった。
その日の会話は、結局うやむやなままで終わった。
「昨日は、嫌な夢を見たんだ」
いつになく不安げな顔で、守は言った。私に初めて話しかけたときも、ここまで何かを抱えたような表情は見せなかった。
「……どんな夢を見たの?」
私が尋ねると、守は恐る恐る答えた。
「葵ちゃんが、一人になる夢」
「……ふぅん」
私はいつも通りに答えたけど、守にはいつもの生き生きとした感じがなかった。
「どうして不安がってるの?」
「ほんのたまにだけどさ、僕の夢って、本当になることがあるんだ。もし本当になったらいやだなって思って……」
「たまにでしょ?気にしなくてもいいよ」
私は守の不安を拭い去るように、できるだけ明るく言った。それでも、守は弱弱しく笑っただけだった。
次の日、私は本当に一人だった。家には誰もいなかったし、学校へ行っても、教室はおろか、職員室にも誰もいなかった。通学路ですら、誰にも会うことはなかった。彼のいるはずの教室へ行ってみたけれど、彼はそこにいなかった。
「……もしかして、彼の言っていたことが……」
誰もいない学校にいるのもばからしくなって、私は町に出た。どうせ学校がないなら、どこかで遊んでやろうと思った。でも、やはり誰にも会うことはなかった。行きつけのカラオケ店も、二十四時間営業のコンビニも、何故か閉まっていた。
することもないまま家に帰った。結局、その日は誰にも会えなかった。
その翌日、いなくなっていたはずの人は、いつの間にか戻ってきていた。
それまで通り学校へ行き、放課後に特別支援学級に寄った。
「学校の前で交通事故が起こってさ、危うくうちの学校の生徒が巻き込まれそうになっていたんだ。僕はこの教室の窓から見ていたんだけどね」
守はいつも通り夢の話を聞かせてくれた。私はいつも通りの返事を返した。平静を装いながらも、心の中では知らず知らずのうちに「これは夢の話だ」と何度も繰り返していた。
その話を聞いて守と別れた後、学校の門を出ようとしたときにその事故は起こった。
猛スピードで走ってきた軽乗用車が、ハンドル操作を誤ったのか、ガードレールに突っ込んだ。よりによって、私の目の前で。私は怖くなって、逃げるように走って家に帰った。
「昨日は、もっといやな夢を見たんだ」
そういう守の顔は、いつもの守ではないように見えた。
「なに?」
私が尋ねると、守は小さな声で言った。
「葵ちゃんと……会えなくなる夢」
――息が止まりそうだった。よりによってそんな夢を見るなんて……彼の見た夢が続けて二回本当になったから、すぐに否定することはできなかった。
もし本当になったら……守の話を聞く――守と話す時間は終わってしまうのか……
今までどうでもいいと思っていた時間を、失われそうになった今になって惜しんでいる。我儘だと思いながら、いつの間にか守と一緒に過ごす時間が私にとって特別な時間になっていたことに驚きながら、私は口を開いた。
「駄目だよ、そんなの本気にしたら。それが本当になるかどうかなんて、分からないでしょう?」
少しでも彼を励ましたかった。同時に、自分を安心させたかった。
「ありがとう……でも、僕には分かるんだ。今回は絶対だって」
「でも……」
「君はもうすぐ、戻らなきゃならない。君はいつまでも、こちらにいてはいけないんだ」
話し方まで、いつもの守とは違った。今の守は、まるで死を宣告する天使のようだとさえ思えた。
その守の姿が、寂しそうな笑顔とともに少しずつ空気に溶けこんでいく。
「ここでサヨナラだ。いままでありがとう」
「だめっ」
私は彼の手をつかんだ。絶対に離してやるものかと、強く握った。その手の感覚すら、徐々に薄れていく。同時に、体が風船みたいに宙に浮きあがる。あるはずの天井は消えて、私の体は夕焼けに染まる茜色の空を目指して昇っていく……
「!」
目が覚めた。そこはいつも彼の話を聞いていた教室だった。でも、彼はいなかった。全部夢だったのだ。そう認識するのに、かなりの時間がかかった。でも、どこからどこまでが夢だったのだろうか?
「人の見る夢は、必ず何らかの意味を持っているのだよ」
その言葉がまた、どこからか浮かび上がってきた。
のろのろと教室を出ると、辺りはもう暗くなり始めていた。でも、校舎から見える水平線の向こうに、私が最後に見た茜色が、うっすらと残っているような気がした。
「そうか、如月は、心理学者か」
進路指導室で、担任の高田は嬉しそうに言った。ずっと決まらなかった将来の事を、私がはっきり示したからだろう。
「しかしまた、どうして思い立ったんだ?」
「嘘みたいな話ですけど、ある夢を見たんです。どんなものかは言いませんがね」
「夢の研究か。いい夢だな」
高田は笑顔でそう言ってくれた。私は心の中で、「ありがとう」と呟いていた。放送で私を呼び出した声は、この高田のものだった。何故彼は私を呼び出したのだろう。気になって、少し探りを入れてみる。
「時に先生、夢野守って生徒をご存知ですか?」
私の言葉を聞いた高田が、一瞬驚いた顔をしたような気がした。が、気のせいだったのだろうか?次の瞬間にはいつもの優しい顔に戻っていた。
「さあ、知らんな」
別に何かを隠しているような顔ではなかった。これがポーカーフェイスなのかどうかは、私には分からない。仕方なく、私はそこで追及を打ち切った。私が将来の事を考える手助けをしてくれようとしたに違いないと、心の中で勝手に納得した。
その時私は気付かなかったが、高田の机の上には、小さな木製の写真立てがあった。そこには、高田と一緒に、夢の中で出会った「彼」が映っていたのだった。
*
とある病室で、一人の少年が眠っていた。不慮の事故で長い間植物状態だった彼の顔には、うっすらと優しい笑みが浮かんでいた。
少年は眠り続ける。また誰かの夢と交差できることを夢見ながら……
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
色々な小説を読んでいて、こんな風に書くことができたらいいな、って思うことは結構あるのですが、なかなか思うようにいきません。~は言った。とかばかりになってしまったり、会話と会話の間をうまくつなげなかったり、区切りが短すぎたり……まだまだ修行が必要そうです。
この作品は、かつて私が過去に書いた作品に加筆・修正を加えたものです。元々の文章をコピーしてなくて、思い出しながら、付け加えながら書いたので、前回書いた時よりもクオリティーが落ちているかも……というところが少し怖いです。
ちなみに、タイトルのXは、「クロス」と呼んでほしいです。エックスでもいいですけど、最後まで読んだ方ならわかりますよね?もともとのタイトルは「X――とある小さな夢物語」だったのですが、長かったので削りました。
中途半端な締めくくりですが、最後にもう一度、ここまで読んでくださった方に感謝の雨を。本当にありがとうございました。