エンジン音はこう響く
時は2030年。一人の男が赤子を抱いていた。父親はかつて自分教えられたように、笑顔で指差し「ほらブーブー来たよ、速いね~」と息子に教えた。確かに 速い。しかし、それはブーブーというにはあまりにも静かすぎた。音も立てずに過ぎ去るそれを赤子は『ブーブー』と一致させることは不可能だった。
「ほら、また来たよ!ブーブー!ほら!!」父親は楽しそうに言った。昔、自分も母に抱かれ、車が通りすぎる度に「ブーブー」と喜々と叫び興奮していた記憶を思い出していたのかもしれない。しかし、当の息子はしかめっ面で、小さくなっていく車を眺めていた。
父は悩んだ。普段仕事で忙しく、子育てに参加できないのだ。久しぶりに息子と一緒にいるというのに、まるで空回りしているかのように手応えがないのだ。上手くできているだろうか、赤子の考えていることはわからん。そもそも、自分のことを父親と認識しているのかさえ不安だった。
子どもは父の悩みと全く違う次元で悩んでいた。赤子は、父が「ブーブー」と呼んでいるものが「車」だと知っていた。しかし、音もなく過ぎ去ったそれを「ブーブー」と呼ぶことに抵抗があったのだ。勿論、まだ「車」という高度な発音はできない。今「ブーブー」と言えば、父親は間違いなく喜ぶだろう。しかし、自分を曲げてまで「ブーブー」と呼ぶ、果たしてそんな妥協をしていいのだろうか?
プライドと無力感との狭間で葛藤し、いつの間にか涙が頬を伝った。そして赤子はそれを抑えることができず、泣き叫んでしまった。涙がとめどなく溢れる。父親は困惑した。なぜ息子が泣くかわからなかったから。
哀れな父親は肩を落とし、ため息を吐いた。重たい湿った空気が息子の顔に当たった。息子は父のために「ブーブー」と言えば良かった、と後悔をした。
15年が経った。この頃には、公共施設にタイムマシンが設置され、市の許可さえ下りれば誰でも使えた。しかし、実用化から日はまだ浅く、多くの制約を満たさなければ使用が出来なかった。歴史の改変はもちろん禁止され、学術的な調査に限り使用可能。1日1時間まで、過ぎれば強制帰還。その他およそ20項目を満たせば、市は許可を出してくれる。
少年は夏休みの宿題のため、タイムマシンの使用申請をした。2000年の町並みと現在の街の比較。少年自身、興味があったテーマではないのだが、父が昔は良かったと耳にタコができるほど繰り返すこと、タイムマシンを使ってみたかったことの2点で街の比較という課題に決めたのだった。
利用予約が多かったタイムマシンも、なんとか夏休み中に使えることになり、少年は市役所へと走った。受付を済ませ、しばらく座って待つ。時間を超えるってどんな感覚だろう、落ち着かずにそわそわとしてしまう。
「どうぞ、こちらへ」、受付の女性が案内をしてくれタイムマシンの前に立つ。円柱型の巨大な機械。時間設定は全て職員がやっているらしく、この中に入って待つだけらしい。足を踏み入れると、中はまるでエレベーターのように殺風景だった。前上方には、2000年8月19日と表示されている。45年前のその日は、少年が設定した日付だ。
「それでは、タイムリープを始めます」、聞こえたと同時にガタンと音がして、身体が宙に浮かんだ。真っ白な光に包まれ、目をギュッと閉じた。
体感時間だと5秒くらいで、体の感覚が元に戻る。地に足が着き、目を開けることも普段通りできた。あたりを見回すと写真で見たことがある風景が広がっていた。自分が住んでいた街の昔の景色。面影が残っているが全く知らない場所。
少年は自分の家がある方角へ向かうことにした。街も人も、なんだか芋臭い気がした。
少年は立ち止まった。一人の女が赤子を抱いていた。少年は物陰に隠れ、女性をジッと見つめた。祖母に似ている、と感じた。赤ん坊を見ると、これもまた父の顔とそっくりだった。
女性が道路を指差して赤子に笑いかけた。
「ほら見て、ブーブーよ、ブーブー」
走り去る赤い車は確かにエンジン音をブーブーとやかましくかき鳴らしていた。
「ほら、もう一台!ブーブー」
「ブーブー!!ブーブー!!」
少年はたまらず叫びだした。あの時父が言ってた車、ブーブーはこれだったんだ!本当にブーブーって走ってる。少年の興奮は冷めなかった。ブーブー!ブーブー!
赤ん坊が「ブーブー」と手足をバタバタさせ嬉しそうに叫んだ。