2025/07/01~ (2)
連日更新、二日目です
「ねー、きょーは、なにしてあそぶー?」
「――――」
「んー、そだね」
「――――」
「じゃーあー、おそとであそぶ?」
「――――」
「うえへへ、おっしおっし」
「――――」
**********
――私には、妹がいる。
たったひとりの、かわいい、可愛い、カワイイ妹だ。
幼い頃の私は、他に友達も作らず毎日飽きもせずに妹とだけ遊び暮らしていた。
積み木、お絵かき、おままごと、追いかけっこ。
いつだって二人仲良く遊ぶ私たちを――私を、両親は微笑ましいものを見るような目で、いつも見守ってくれていた。
けれど、いつからだろうか。
そんな両親の顔に笑みが浮かばなくなったのは。
微笑んでいたはずの顔は、時が経つにつれ困惑したものにかわり、やがて不気味なものを見るようなそれに変わっていった。
妹と遊ぶことにばかり夢中になっていた私は、そんな両親の変化にも気づかずに平穏で満ち足りた日々を繰り返して。
ずっと続くのだと思っていた。
ずっと一緒に居られるのだと思っていた。
根拠もなく、理由もなく。
子供心に何も分からないまま、ただ、願っていた。
そうあるべきだから。
『今度こそ』――今度こそ?――そうなるべきであるから。
しかし、結局のところ。
そんなものは全て幻想でしかなかったのだ。
**********
「……ねぇ、あなたは一体誰とお話しているの? あなたに妹なんていないのよ?」
ある日、唐突に、母は言った。
いつものように、妹と一緒に子供部屋でおしゃべりをしているところだった。
恐る恐るといった調子でそんなことを口にする母に、私は首をかしげることしかできなかった。
心の底から、理解できなかったからだ。
物心ついた頃からずっとそばに居て一緒に生きてきた妹が、今もそこにいて目の前で私ににっこりと笑いかける妹が、いないとは、どういうことなんだろう。
「ママ、なにいってるの? あの子なら、ここにいるじゃない」
だから私は言ったのだ。
妹の肩をつかんで前に押し出し、母を見上げて、笑いながら。
それを聞いて、母の口元がひくりと引きつったのを、今でも私は覚えている。
――それが、私の小さな世界が崩れ去る、全ての切欠だった。
**********
私には妹などいないという。
父も母も、祖父も祖母も、親戚も、近所の大人たちも、誰もが口をそろえて言う。
私に見える妹の姿は誰にも見えず、私に聞こえる妹の声は誰にも聞こえず、そこには誰もいないと言う。
私は確かに妹のぬくもりを感じることが出来るのに、そんなものはウソだ、まやかしだ、モウソウだと言う。
なぜそんなことを言うのだろうと初めは思った。
みんなして自分をからかっているのか、意地悪されているのだと思った。
泣いて、喚いて、怒鳴り散らして、否定されることを否定した。
妹の存在を主張した。
けれど誰も信じてはくれなかった。
否定されて、否定されて、徹底的に否定された。
妹は、写真には映らない。
妹は、ビデオには映らない。
妹は、ドアを開けることが出来ない。
妹は、私のお下がりを着ることが出来ない。
妹は、
妹は、
妹は、
妹は、……。
――分からなかった。
妹はそこにいるはずなのに、そこにはいなかった。
なにが本当で、何が嘘なのか、分からなくなってしまった。
両親は、まるでそれが酷い罪悪であるかのように、私が語る妹を執拗に病的なまでに否定した。
妹を語る私という存在そのものさえ、時には否定するようになった。
だから、いろいろなことが分からなくなってしまった。
私のことも、妹のことも、夢も現実も、たくさんの境界があやふやになって、よく分からなくなってしまったのだ。
知るはずもないことを知っていたり、知っているはずのことを忘れてしまったり、あるはずのない記憶を思い出したり、奇妙な幻覚を見たり、知っているようで知らない声の幻聴を耳にしたり。
そんなふうにしているうちに。
気づけば、妹は私の前から姿を消していた。
**********
イマジナリー・フレンド、というらしい。
いなくなった妹をさがすため躍起になり、心身ともに危険なほど疲弊して病院に担ぎ込まれたあと。
担当医に事情を話し、紹介されたカウンセラーから、妹のような存在のことをそう呼ぶのだと説明された。
想像上の友達。
幼い子どもがつくり上げる、架空の遊び相手。
こういったことはそれほど珍しいことではなく、医学的にも特に異常ということはないらしい。
そのほとんどが一時的なもので、成長するにしたがって見えなくなり、忘れてしまう――らしい。
異常ではないと説明されたにも関わらず、両親は、私が妹を失ったことを、まるで奇跡が起きたかのように喜んだ。
必要以上に世間体を気にする彼らは、ごく一般的ではないというそれだけで、多少でも周囲から奇異の目で見られることが我慢ならないらしかった。
私にとっては半身が引き裂かれたようなもので、心身ともに酷い苦痛を味わっているというのに。
それが幻想だ、偽物だといわれても。
それでも、妹の存在は私にとっては現実だったのだ。
たったひとりの、大切な存在だったのだ。
それが失われて、平気でいられるはずがない。
――それまでの私と同じでいられるはずがない。
本来であれば成長するにしたがって、そんなことも思い出の一つになりいずれは忘れ去られてしまう記憶なのかもしれない。
けれど私の中には、いつまでも消えない喪失感が残り、絶えることがなかった。
掛けがえのないものを失くしてしまったという思いだけが、それからの私を支配していた。
あるとき、こんなことがあった。
小学校に入学してしばらく経ってからのこと。
クラスメイトの男の子に、あの妹を失った時期のことについてからかわれたことがあった。
その件については、両親や私の取り乱し様から近所でも噂になっており、知っている者は知っていたのだ。
「おまえってさぁ、アタマおかしいんだって? いないのに妹がいるとかワケわかんねーモーソーとかしてて、うちのおかあさんからあんまりなかよくするなっていわれたぜ!」
――一瞬で、目の前が真っ赤になって。
私が我に返ったときには、目の前の床には歪にねじ曲がった鼻から夥しい量の血を流して、泣いてうずくまる男の子がいた。
全治一ヶ月以上の重傷だった。
怒りで完全に正気を失っていたのか、その間の記憶はいまだに思いだせないのだが、周囲の証言によると私は男の子を殴りつけ床に転がしたあとは無言、無表情で彼の腹を蹴り続けていたらしい。
まるで何かに取り憑かれたようだったとは、私を力ずくで制止した教師の言葉である。
当時私が住んでいたのは地方の田舎であったため、悪い噂はあっという間に周囲に広がった。
学校を休学しカウンセラーに通う日々がしばらく続いたが、結局は地域に居づらくなった両親の判断で転校、逃げ出すようにその地をあとにした。
その頃から、私の不安定な記憶や、幻覚、幻聴はますます酷くなった。
それだけに留まらず現実に対する確かな実感が喪失し、まるで身体の外から自分を見ているような浮遊した感覚に侵され、日常における感情はどんどんと平坦になっていった。
一時は日常生活を送ることさえ難しい、それはもう酷い状態だったのだ。
ふとした時に、今まで過ごしてきた世界が、見たことも聞いたこともない異世界のように感じたり、身の回りの電子機器などの便利な道具が未知の物体に思えたり。
あるいは手元に武器がないことに愕然とした思いを抱いたり、聞き覚えのある、だが決して思い出せない奇妙な声が私の行動に対して一々注釈をしたり、否定したり、肯定したりと、この時の私の精神は酷く混乱していた。
自宅ならまだしも不特定多数の人間がいる街中や学校などには近づくことも難しい有り様で、転校した先の学校もろくに通わない内に不登校になってしまった。
投薬とカウンセリングによってある程度までは症状を抑えることができたが、それから何年も経ったいまでも完治はしておらず、ふとしたときにそういった奇妙な感覚が再発することがある。
高校には入学できずに独学で大学検定を受けどうにか国立の大学に進学したが、そんな奇矯な言動を見せる私は周囲からひどく浮いており、遠巻きに忌避されることが多々あった。
私の現実世界に友人といえる存在は一人もいなかった。
両親との関係もぎくしゃくとしたままで修復の見込みは一切なく、一人暮らしをはじめた今ではほとんど接触がない。
私にとって現実とは、孤独な世界だったのだ。
だが大人になった私の隣に、あの愛しい妹の姿はない。
いまではその姿を見ることも聞くこともできない。
周囲は私を傷つけるものばかりで、私も周囲を傷つけるばかりで、『私』という人間の歯車は、物心ついた頃よりこのかたこの世界の歯車と噛み合ったことがないような気がする。
私はなにかを致命的に間違えて生まれてきてしまった――そんな気さえするのだ。
まるで世界から色が抜け落ちてしまったかのような、モノクロームの日々。
感情の起伏が少なくなっていって、自分というものが酷く薄くなっていって。
その代わりとでもいうかのように、世界や自分に対する違和感だけが大きくなっていって。
そんな日々のなかで、私は、はじめてソレと出会った。
《Re:Zeilurth》。
それまで一度もふれたことがなかったVRMMORPG――その広告の動画だった。
はじめてその映像を見たとき、私は筆舌に尽くしがたい衝撃を受けたのを覚えている。
興味や関心――惹かれた、などという言葉では足りない。
もはやそれは一種の衝動といってよかった。
もっとその世界の風景を見たい。
もっとその世界の音を聞きたい。
もっと、その世界に、触れたい。
一目見たときから、それは私の心の全てを奪っていった。
いまだかつて経験はないが、それは例えるなら恋のようなものだった。
その事柄だけが頭の中を支配し、他のことなど何も考えられない、手に付かない。
それだけが、私の世界の全てになった。
それだけが、私の欠落を埋めてくれる何かだった。
だから、その結末はわかりきっていた。
発売日当日にそのゲームを手に入れることも。
サービス開始日に、開始時間から一秒と経たずそのVR世界に接続することも。
――結果として、その世界に囚われてしまうことも。
そうして、私はこの世界の虜となったのだ。
**********
「――――――――――――…………………………」
私が初めてこの世界に降り立ったのは、街の近くにある非戦闘エリアの草原の一つだった。
視界の上半分には驚くほど鮮やかな青い空。
下半分の足元には、風になびき微かな音を立てて揺れる草花。
そんな息を呑むほど鮮烈な光景が、どこまでもどこまでも、地平線の向こうまで続いていた。
耳に聞こえる音も、肌に感じる風も、目に見える光景も、露ほども違和感がない。
ここが仮想空間の中であることなど、信じられないほどの現実感。
五感の全てが、この世界を現実と判断していた。
けれども、この時。
私の言葉を失わせていたのは、その圧倒的な現実感だけではなかった。
それは、この世界を身体の全てで以って感覚した瞬間に、不意に自分の胸中に浮かび上がったもの。
言いようのない懐かしさ、寂しさ、切なさ。
――それは郷愁と呼ばれるもので。
自然と身体が震えてしまうほどの、感情のうねりが私の中で暴れ回り。
ああ、ここなのだ、と私は思った。
妹を失ったときよりつきまとって離れない、外の世界で感じていた己の居場所のなさ、周囲とのズレ。
何かを間違えてしまっているのに、それが何かも分からない不安感。
そういった諸々が、この仮想であるはずの世界に生まれ落ちた時、まるで霞のように消え去っていた。
郷愁。
安堵。
解放感。
私はここに居て良いのだという安心。
私の世界は、ここなのだという、確信。
気づけば、私は涙を流して、そこに立っていた。
福音。
私が追い求めていた幻想は、ここに、あった。
それは確かに偽物で、作り物で、仮初でしかないと理解してはいたけれど、それで、良かった。
どうせ、現実に、楽園などあるはずがないのだから。
仮想の世界に、私は耽溺した。
ログアウト不能という事態には少なからず動揺させられることになったが、もはやその時の私にとってはこの世界の方が己のいるべき場所――リアルだった。
外の世界で感じた違和感、精神的不調などこの世界の中では一つも感じることはなく、世界と私の歯車がようやく噛み合って正常に動き出した――そんな実感があった。
だから、本当の現実になど何の未練もなかったのだ。
ゼイルの中での私は、驚くほど自然体でいられた。
外の世界であれほど苦労していたのが嘘のように、そこには何の障害もなかった。
あまり積極的に他者と馴れ合うことはしなかったが、これはもう性分としか言いようがない。
私の生来の気質は、社交的なものではなかったのだろう。
それがすんなりと受け入れられ、その事実に負の感情を抱くこともなく、穏やかにゼイルの日々は続いていった。
それが劇的に変化したのは、ゼイルでの生活が始まっておよそ一月が経った頃のことだ。
――私は、その日、一人の少女に出会った。
**********
「――――――――」
何の目的もなく、ふらふらと街中を歩いていた時のことだった。
もう今ではおぼろげにしか覚えていないが、確かそのとき私は、今日の昼食はどこで食べるかだとか、昨日の夕飯に食べたデザートはイマイチだったとか、どうでもいいことを考えていたように思う。
ちょうど昼時とあってか、辺りはプレイヤーとNPCが入り混じり、多くの人で溢れかえっていた。
時折いそぐ誰かにぶつかりそうになりながらも、さしたる目的もなく足を進めていた私は、向かいから歩いてきた一人の少女とすれ違った。
修道服を着た、まだ小さな背丈の女の子だった。
すれ違いざま、なんとなしにその顔に視線を向け――
気づけば反射的に、その少女の手首を掴んでいた。
瞬間、耳障りなブザー音とともに、握った手が勢い良く弾かれる。
【警告!】
【当該人物はノンプレイヤーキャラクターです!】
【過度な接触は禁止されています!】
視界の端に警告画面が現れ、テキストが表示される。
だがこの時の私の目に、そんなものは一切入っていなかった。
「…………お前、は」
手を引かれたことで立ち止まり、こちらを振り向いた彼女の横顔。
吸い込まれたかのように、それから視線を離すことができなかった。
その顔を、私は見たことがあった。
今となってはもうずいぶんと昔に感じられる過去に、彼女はいた。
けれど。
光のない眼。
こちらを見ているようで見ていない、NPC特有の目つき。
その容姿は現実にいる人間そのものであるのに、その視線が彼らの人間らしさを致命的なまでに損なっている。
それが、私の記憶にある彼女と一致しない。
「なにかごようでしょうか?」
彼女は小首を傾げて稚い仕草で微笑む。
だが、そこには人間としての感情が少しものってはいなかった。
プログラムされた機械人形が、製作者に決められた通りに、人間のように振舞っているだけ。
その容姿が本物と区別がつかないほど精巧にできているだけに、その様は余計に寒々しいものを感じさせた。
「…………い、や。わたし、は」
――違う。
違う、違う、違う。
これは私の知っている彼女ではない。
私の大切だった彼女ではない。
私の、たったひとりの、
妹では、ない。
その、はずなのに。
気づけば、無意識に、私の口から、その名が漏れていた。
「――――――」
反応は、ない。
なかった。
ただ首を傾げて、何を言っているのだろうというふうにこちらを見上げて――
「…………?」
不意に。
精巧に作られたNPCの虹彩が、急速に収縮した。
まるできゅうっと音が聞こえそうなほどに縮瞳したそれは一つの点のようになり、次の瞬間にはまた元の瞳に戻っている。
「……あ、えっと……?」
――いや、元の、ではない。
私を見上げる少女の双眸には、まるでプレイヤーのような色と温度が、
「お、ねえ、ちゃん?」
世界の音が、止まった気がした。
「あれ……ええと……うん? おねえ、ちゃん、だよね?」
世界が、まるで私と彼女だけになってしまったかのようで。
「久しぶり……? うん、久しぶり、だよね?」
そう嬉しげな笑みを向けてくる彼女は、まるであの時の、彼女の、ままで。
――ノイズ。
あの時、いつか、どこか、誰かの。
砂嵐の向こうに、少女と、女が。
――ようやく。
ようやく、わたしは、
「おねーちゃん? どうしたの? どこかいたいの?」
頬が、濡れている。
顎下に伝わり、地面へと零れていく。
「あわわわわ!? ど、どどどどうしよう! ケガっ!? ケガしたの!?」
慌てふためく彼女を見て、声が、喉奥から漏れてしまう。
口許が、緩んでしまう。
「いや……いや、なんでもない。なんでもないんだよ」
衝撃はある。
懐疑はある。
混乱はある。
けれど。
今この時だけは、ただ。
もう一度彼女と巡り会えたこの瞬間に、ただただ感謝しよう――。
「久しぶりだな、――――」
甘い飴を口の中で転がすように、そっと少女の名を、私は呼んだ。
**********
――再会の甘い感動に浸っていられたのは、その時だけだった。
大きな感情の波が過ぎ去ったあとの私の心中には、決して消えぬ疑念が渦巻くようになった。
『彼女』は『何』なのか?
冷静になった頭で考えてみれば、あの子が第三者の目にも見える存在として現れるはずがないのだ。
大人になったからこそ、子供の頃には分からなかったことも理解できるようになる。
あの子は、私の妹は、現実には存在しない。
誰もその姿を見ることは出来ず、誰もその声を聞くことは出来ず、誰もその身に触れることは出来ない。
その少女は、私の頭の中にしか存在し得ないものだったのだ。
だというのに、この仮想世界の中で出会った彼女は、あの頃の彼女と寸分たがわぬ容姿と声を持っていた。
私しか知らないはずの彼女の存在を、ああまで完璧に再現できるはずがない。
しかし最も不可思議な点は、あの子は、私が幼いころ共に過ごした『あの子』ではない、ということだ。
その容姿も声も性格も仕草も口調も私の記憶に残るあの子と全く同一だ。
しかし彼女には、私と過ごした幼少時の記憶がない。
私を姉と認識しているし、私の性格などを把握しているようでもある。
だが、そこに思い出がない。
そしてそのことを本人は少しも不思議に思っていないのだ。
だが最近になって、時折、彼女の口から思い出の欠片のようなものが零れ出ることがある。
――村。二人で暮らす家。農作業。狩り。
そんな断片を、あの子は口にする。
本人も無意識なのだろう、その次の瞬間には自分が口にした内容を不思議がって首を傾げている。
それは私の記憶にはない、彼女か、あるいは彼女を作り出した何者かが捏造した思い出だ。
その、はずだ。
だというのに。
どうしてか、私はその曖昧な思い出を、経験したはずのない出来事を、知っているような気がするのだ。
まるで現実世界で幻覚や幻聴に苛まれていたときのように、不意に、そんな片鱗が、私の脳裏に思い浮かぶ。
最近では朧気に夢にまで見るようになった。
そんな身に覚えのない記憶が増える度に、これまで私が私だと思ったいたものが、段々とあやふやになっていく。
足元が、崩れ落ちていくような、不安感。焦燥感。
ここは、現実ではなかったはずなのに。
私を傷つけるものは、なかったはずなのに。
この世界の私は、外の世界の、どうしようもなく社会とズレてしまった私ではなく、きちんと生きていけている『私』だったはずなのに。
どうして、こうなってしまったのだろうか。
私には、もう、何も分からない。
分かりたくもなかっった。
*********
「……どうだ? 訳が、分からないだろう? この環境に頭がおかしくなった病人の戯言だと、そう思うだろう?」
口許を歪めて、私は言う。
空を見上げて、相も変わらず美しい青を眺めて、言葉を続ける。
「私だってそう思う。元からおかしかったんだ。それがまともになったと勘違いして、結局はまた元に戻ったという、それだけのことなんだろう。今となっては、そう思うしかない」
溜め込んでいたものを吐き出した胸の内に残ったのは、熱も色もない空虚さだった。
言葉を尽くせば尽くすほど、自分を分かってもらおうと、苦しみを理解してもらおうと必死になるほど、そんな自分が、私の中心から乖離していくのを感じていた。
私の主体というべきものは、そんな自分の様を客観的に眺め、滑稽に思う。
――なんだ、こいつはただ頭がおかしくなっているだけじゃあないか。
自然とそんな感想が思い浮かんだ。
そうして、それはすとんとあっけないほどに腑に落ちた。
客観的な視点から俯瞰してみれば、よく分かる。
普通から、正常から、一般から、私の語るところは、大いに逸脱していた。
結局。
つまるところは、そういうことなのだろう。
途端に、あれほどに懊悩していたことが、なんだかどうでも良くなってしまった。
もう、あの子のことも、この世界のことも、私自身のことも、何も考えたくない。
きっと、初めから、私のような人間が、まともでありたいと思うことが間違いだったのだ。
色づいていた世界から、その鮮やかさが急速に失われていく。
まるで外の世界のように、白と黒だけの世界に変化していき、
「さて、それはどうだろうな」
――呟くような、小さな声だった。
だが妙にはっきりと私の耳には聞こえた。
視線を空から、隣へと移す。
そこには先と変わらず、やたらとふてぶてしい態度で背もたれにより掛かる猫人間――着ぐるみの姿。
顔は少し前の私と同じように天を仰いでいる。
「少なくとも。我はうぬを見て、その話を聞いて、狂っているとは思わない」
続けられたのは、私を否定する言葉ではなく。
「むしろ、この上なく正常なのだろうよ。故にこそ、うぬはうぬに耐えられないのだろう」
肯定する言葉。
私を蔑み、遠ざけ、排斥するのではなく。
異常者という名札を与えて、そうでない多くの人々から区別しようとするのではなく。
間違っていないという、私を認める言葉。
「……だったら」
けれど、それを聞いて私の中に生じたのは、小さな、本当に小さな苛立ちだった。
そんな言葉は、聞き飽きていたのだ。
私を対応したカウンセラーは、医者は、いつも、いつもいつも言っていた。
彼らは両親と違って私を否定する言葉など、一度も吐かなかった。
傷つけるような言葉は、決して口にしなかった。
「――だったら!」
けれども、その結果が、今の私なのだ。
「だったら! 私がまともだというのなら! 私は何なんだ!? 外の世界では、私はまともに生きることなんて出来なかった! 出来なかったんだよ!」
はじめは僅かであったはずの苛立ちは刹那の間に急速に膨れ上がり、その勢いのままに己の口から飛び出していく。
「挙句の果てには初めて自分の居場所だと思えたこの世界でさえ! 私が狂っていないというのなら、なぜ私の妄想が具現する!? なぜ身に覚えのない光景が、記憶が、感情が、湧き出てくる!?」
今や完全なる激情と化したそれに突き動かされ、着ぐるみの胸元を掴み引き寄せた。
無感情な眼を睨めつけ、額がぶつかるほど間近で、感情を吐き散らす。
「どうしてッ、わたしはッ、こうなんだッ!! こんなふうにしか、いられないんだ!」
叩きつけるような叫びにも、身体をゆすられても、相手はされるがままで。
ただ黙して、静かに私を見つめている。
「どうして、私は、」
何故だかその顔を見続けることができなくて、自然と私の顔は、俯いていった。
握りしめていた手から、力が、徐々に抜け落ちていく。
「どこにいたって、いつだって、こんなにも、不確かなんだ……」
感情のうねりが過ぎ去り、やがて落ち着きを取り戻した私の胸中に残ったのは、ひどく暗い気持ちだった。
まともでいられない自分への情けなさ。
誰とも知れない相手に感情を押し付けてしまったことへの後悔。
やはり自分はまともでなどあるはずがないという諦念。
力を失った手が、相手の胸元から外れ、下へと落ちる。
耳に聞こえるのは、公園から離れた場所でのかすかなざわめきだけ。
普段であれば居心地悪く感じる沈黙も、今の私にとってはどうでもいいように思えた。
なにもかもがどうでもいいと、自棄の気持ちだけが心を支配していく。
けれど。
「――それがあまりにも真に迫っていたから」
不意に、その沈黙が破られた。
「だから、うぬは、思い出してしまっただけなのだろう」
静かな、声だった。
そこに私の無様を嘲る色は少しもなく。
「忘れたままでいるべきだったものを。いや、」
むしろ、どこか、かなしみを帯びて。
「……結局は、忘れられるわけもなかったと、そういうことなのだろうよ」
それは意味の分からない言葉であるはずだった。
前後のつながりがない、脈絡のない言葉であるはずだった。
なのに。
「なにを……なにを、いって」
「うぬと、この世界を創った誰かが同じ少女を生み出したというのなら」
私の震える声を遮り、なおも言葉は続けられる。
「それは、きっと、その少女を、知っていたからだ」
まるでそれが唯一の真実だというように。
声は、告げる。
「同じものを元にしたから、同じようでいて、異なるものを創りだした。ただ、それだけのことなのだろう」
「――――」
どくどく、どくどくと。
心臓の鳴る音が、耳につく。
走ったあとのような、妙にうるさい鼓動が、胸の内で響く。
「うぬは、知っていたのだ。どこかの誰かも知っていたのだ。そして――」
そして。
そして――?
「我もまた、同じものを知っていた」
「――――ッ」
弾かれたように、顔をあげた。
視界に入るのは、蛍光色の目に痛いピンク。
相も変わらず死んだ魚のような濁った眼。
唖然としている私を一瞥し、すぐにそれは逸らされる。
遠いどこかを見やり、かすかな溜め息とも言えぬほどの吐息。
「……いつか、どこかの、あの少女の姿を、知っていたのだ」
それは、どこか悔いるような響きを含んで。
その声の主は、ひどく気だるそうに立ち上がった。
「いつか、どこかで、仲睦まじく暮らす、あの少女と――その姉の姿を、我は、知っていたのだ」
言葉の終わりとともに、着ぐるみの全身が淡い光に包まれた。
蛍の光のような幾つもの灯火が空に立ち昇って消えていき、やがてそこに現れたのは、いつか見た鋼をまとった戦士の姿。
「うぬも、知っていたのだろう?」
重戦士は、私を見下ろし、言う。
それが当然であるかのように、確信を以って。
「あの少女も、その姉だった者も――」
僅かな躊躇いの間があって、重戦士の手が、その頭部にかけられる。
がしゃり、と音を立て、いかめしい装飾をされた兜が、外され。
「そして、」
そして。
「――――――――――――――」
頭が、真っ白になった。
まるで頭をがつんと殴られたような衝撃。
自分が何に動揺しているのかも分からず、ただただ、目を見開き、その素顔を凝視する。
黄金。
黄金であった。
それは、天上の色彩。
燦爛たる陽の光のごときこがね色の絹髪に、深く澄み渡る大空の如き青の瞳。
完成された美しさ。
大人とも子供ともつかない、男とも女ともつかない、まるで全ての美の原型のような人あらざる容貌。
――それは。
それは、その姿は、その色は。
まるで人とは異にした高みに立っているような、それこそ天上のものであるかのような、それは。
「■■■■■■■■■■■」
何かを言い表す言葉が、私の口から、こぼれ出た。
それを聞いて、目の前の存在は、どうしてか弱々しい微笑みを漏らし。
――――――――。
幾つかの、場面が、脳裏で、点滅する。
いつかの、どこかの、だれかの、景色。
「私は、お前を、知っていた……?」
それはこの世界で初めて『彼女』と出会った時の焼き直しのようで。
けれど、その時と同じか以上の、強い何かが心の内よりわき起こり。
閃光。
フラッシュバック。
憎悪。
憤怒。
悲哀。
懐古。
意識が、明滅して、視界が、傾く。
暗闇が押し寄せる。
途切れる。
暗転。
「――荒療治が過ぎた、か」
最後に、そんな呟きが聞こえた気がした。