2025/07/01~ (1)
「いらっしゃい」
街の大通りに立ち並ぶ露店の中、人混みに紛れ特に目的もなくぶらぶらと冷やかしをしていた私は、不意に声を掛けられて、足を止めた。
声の主は、褐色の肌の大男だった。
日焼けしてそうなったというより、地黒な肌を有する種族なのだろう、その肌は意外なほど荒れておらず、つるりとしている。
地べたに座り込んだままこちらを見上げる男の前には一抱えもありそうな大きさの籠が置いてあった。
上から覗きこんで見れば、その中には回復薬や素材、ちょっとしたアクセサリーになるような小物など、様々な物品が乱雑に放り込んであった。
「なにをお求めで?」
大きな体格に、一本の残しもなく剃髪したスキンヘッド、それとは打って変わって口の周りから顎下に掛けて丁寧に整えられた黒ひげ、睨みつけるかのような鋭い目つき――人相の悪さでいえば他の露天商に比べ格段に際立ったその男は、しかし思いのほか愛嬌のある声と笑みを作り話を続ける。
「――特に、探しているものはないが」
「そうかい? 他ではあまり扱ってないポーションなんかもあるが、興味はないかい?」
そう言って男が籠から取り出したのは、橙色の液体が入った小瓶だ。
「悪いが。今のところ間に合っている」
すげない断りの返事にも男は気を悪くした様子はないようだった。
「そうかい」と肩をすくめるとあっさりとその瓶を籠に戻す。
「んじゃ、また機会があったら、今度はそっちから声をかけてくれ。大体、この時間にはこの辺りに居ることが多いからな」
「……ああ。もし必要な時があれば」
軽く頷き、私はその場を後にする。
「…………」
雑踏の中、行き交う者をかわし進むたびにちゃりちゃりと背中で金属同士が擦れる音が鳴る。
背に負っているのは小さな子供の背丈程もある大剣、両手剣。
それを固定するための金具が揺れて鎧と当たり、また剥き出しの刀身が鎧と擦れ音を立てるのだ。
耳につくその音に眉を顰め――そこで初めて、街中だというのに武器を装備したままであることに気付いた。
「…………はぁ」
立ち止まる。
小さく首を振り、思考操作で武器の装備を解除、そのままアイテムストレージに放り込む。
――大剣は細かな粒子を舞い上がらせて、まるで空気に溶けるように消えていった。
ついでに防具の方も戦闘用の鎧から動きやすい布装備へと変更しておく。
白のシャツにベスト、革のズボンという色気もクソもない格好だが、これが私の持っている服の中では一番動きやすいものだった。
「…………」
軽く肩を回してから、再び歩き出した。
いつものお決まりの場所に半ば無意識に向かいながらも、頭の中に思い浮かべるのは先程の大男との会話だった。
いや、正確には、会話の内容ではなく、会話をしていた男の姿だ。
作り物とは到底思えない、現実と寸分違わぬ肉体、その質感。
不自然なトーンが全くない、流暢な声、言葉。
打てば響くような違和感のない反応、仕草、円滑なコミュニケーション。
どれも、完璧だった。
どこまでも人間らしくあった。
一見しただけでは、ソレとソレではないものの区別など容易にはつかないだろう。
けれど。
――けれど、たった一つ。
「まるで死んだ魚のような眼だ」
その両眼だけが、まるで人間らしくなかった。
その一点が、全てを台無しにしていた。
その違いを、明確に言葉で表すことは難しい。
見た目の作りは完璧で、人間の眼そのものなのだ。
しかし、本物のそれとは決定的に異なっていた。
敢えていうのならば――色がない。
光がない。
寒々しいまでに温度が感じられない。
どこまでも精巧に模されているが故に、結果的には、その差異は彼らを観測する者に奇妙な不協和音を感じさせる。
言い知れぬ不気味さ。
気持ち悪さ。
人によってその受け取り方は様々で、中にはその点が気にならない者もいるが、少なくとも私にとっては、彼らの様はそのように思えてしまう。
彼らは私たちとは違う。
決定的に、異なる。
それが。
――ノンプレイヤーキャラクター。この世界のNPCという存在の実態だった。
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この世界は、どこかがおかしい。
この世界で過ごせば過ごすほど、その思いは強くなる。
勿論、ゲームにログインしたまま外界と連絡が途絶してしまい閉じ込められているというだけでも十分に異常でおかしいが、この世界の所々の要素もまた、不自然な部分が多い。
例えば性的な部分に関することだ。
プレイヤーは、基本的には肌着を外して裸になることが出来ない。
例外は街中の宿屋など自分のセーブポイントとしている部屋で、自分以外に他のプレイヤーやNPCが存在しない時と入浴中ぐらいだ。
その入浴もシャワールームに入室できるのは一人だけという制限があり、他者が入室しようとすると弾かれる。
そのため他者との性的行為は出来ないようになっており、そもそも根本的に性的な機能自体が働かないようになっているのだが、触れられなくとも、近づけなくとも、なぜか『見る』ことだけは可能なのだ。
これはおかしなことだ。
このゲームは全年齢対象という謳い文句で発売された。
しかし性的行為が出来なくとも、限りなく実写に近いプレイヤーキャラの裸を見てしまえるのであれば、それだけで年齢制限が必要になってくるはずだった。
おまけに服の上からであれば、プレイヤーの許可によっては接触可能というのだからなおさらだ。
それは流血表現にも言え、これほどにリアルな表現が可能になっているゲームで年齢制限がなされていないのだ。
昨今、短い間に目覚ましい発展を遂げたVRコンテンツに関しては国の法整備も追いついておらず、プレイヤーの身体や精神面に限らず社会自体への多方面における影響が問題視されている。
そのため各自治体の条例によってその購入、使用に厳しい制限が設けられている現状、なぜ現在の仕様で倫理審査を通過することが出来たのか。。
――あるいは、ペインレベルのようにこの状況になってから仕様が変更されたのか。
その答えを知るものはこの世界にはない。
なぜならば、このゲームにはオープンβやクローズドβテストに参加したというプレイヤーが一人もいないからだ。
行われたという説明はあった。
だが一万人に及ぶプレイヤーの中で、実際に参加したという者や、知り合いにいたという報告は今のところ掲示板ではされていない。
本当にβテストは行われたのか。
なぜこのゲームは倫理審査を通過して発売されたのか。
なぜ自分たちはここに閉じ込められ、外からの連絡が四ヶ月たった今もまだないのか。
ここで過ごせば過ごすほど、段々と不自然な点は浮かび上がってくるようになった。
毎日、この種の考察をする掲示板は大賑わいだ。
痛みに怯えて攻略を諦め、暇を持て余したプレイヤーの溜まり場となっている。
今のところ、やはりこれは事故ではなく、何者かによるテロ行為であるという説や国の陰謀であるという説が有力だ。
でなければここまで何の音沙汰もないのはおかしいと、誰もが考えているのだ。
――けれど、私がこの世界でもっとも異常であると感じているのは、そのどれでもない。
この世界に閉じ込められたことさえも、それに比べれば大したことではない。
私は、そう思っている。
「ねー、おねーちゃん、なに難しい顔してるんー?」
ふと、すぐそばから掛けられた声に、私は我に返った。
視線を隣に向ける。木製のベンチに横並びに腰掛けた少女が、首を傾げて私を見上げている。
年の頃は十を少し過ぎたばかりか。
西洋系の顔立ちで、栗色の髪を二つにしばった黄土色の瞳の少女だ。
西洋系の人種が多くを占めるこのゲーム内世界においては比較的ありふれた容姿の持ち主である。
もっとも、身につけているのはあまりそう多くは見られない青く染められた修道服だったが。
「――ああ、いや、なんでもないさ。それよりどうだ、その猫の怪我は」
首を振って返した私の言葉に、彼女は自分の膝上――そこで丸くなっていた三毛猫をひょいと持ち上げた。
為されるがままの猫は彼女の眼前で手足をだらっと垂らして、にゃあと鳴いている。
「むー、もう大丈夫そう。よかったー、わたしの魔法がちゃんと効いてくれたみたい」
「そうか。……良かったな」
おそるおそる手を伸ばし彼女の頭を撫でると、くしゃりとその顔が笑みにつぶれる。
それを見て、私の胸に幾ばくかの安堵と、締め付けられるような痛みが走った。
自分の撫で方が、ひどくぎこちないということは自覚していた。
それは彼女も分かっているはずだった。
けれどそれでも、彼女は何も言わず嬉しそうに笑うのだ。
「えへへー。ほめられちゃった。わたしがほめられて、お猫さんもケガが治って、一挙両得だね」
彼女は猫の身体を抱きしめると、頬をその顔に擦り付ける。
なぁー、と猫が迷惑そうな声を上げるが、彼女に恩でも感じているのか抵抗する様子もなく諦めたような雰囲気で脱力しているだけだった。
「……時間は、まだ大丈夫か。そろそろ昼過ぎの鐘が鳴るが」
「えっ、もうそんな時間?」
本当ならもっとこうした時間を過ごしていたかったが、ここで引き止めてしまえば後で彼女が世話役から叱責をうけることになってしまう。
そんなことは私も望んではいなかった。
「じゃあ、わたしは戻るね! また明日、おねーちゃん!」
「ああ。またな」
猫をベンチに下ろすと、彼女は私に大きく手を振って、駆けていく。
その背中が雑踏の中に消えていくのを最後まで見送って、大きく溜め息を吐いた。
自然と下がった視界に、解放された喜びからかベンチの上で大きく背筋を伸ばしている猫の姿が入った。
私に見られていることに気づいたのか、猫はピタリと動きを止める。
警戒するような目で私を見上げ――パッと急に跳ねるとその場から逃げていった。
「相変わらず、私達には懐かない、な」
小さく呟き、はぁとまた溜め息。
だらしなくベンチの背もたれに身体を預けて手足を投げ出し、なんとなく辺りを見回す。
ここは東方都市の一角にある公園の一つだ。
木々に囲まれたそれなりに大きなスペースを取られており、中心には噴水があり、くつろげるようベンチなどもあちらこちらに設置されている。
ここからでは見えないが奥の方にいけば池などもあり、そこでは小舟に乗ったり釣りをしたりもできるらしい。
今は昼時ともあって、公園内にはプレイヤーに限らずNPCなど多くの人の姿が見られた。
ちなみに東方都市とは名付けられているものの、特段和風の街というわけではない。
街の住民たるNPCも、比較的黒髪などが多いが、あからさまに東洋系の顔立ちをしているわけでもない。
強いていうならば売っているものや食事などのメニューに和風色があるというぐらいで、他には刀を腰に帯びたサムライらしきNPCの姿がちらほら見受けられる程度だが、それも数多いわけではない。
そんな五大都市のどこにでもあるような公園の中で、ひときわ目を引く光景があった。
――重戦士、である。
足先から頭天辺まで重厚な鎧で身を包んだ、一人の重戦士。
通常、街の中ではダメージカット仕様のためデスの危険性がないため、あのような動きにくい装備のままでいるプレイヤーは少ない。
ましてやここは憩いの場である公園の中であり、なおさらである。
だというのに、その重戦士はフル装備のままで地面に寝そべり、木陰でなにやら怪しい動きをしていた。
すわ、変態の類かと一瞬身構えるも、どうやらそういうわけではないようだった。
「……っ。…………っ……っ! っ……!」
よく見れば木の根本には一匹の白猫がだらしなく横になっていた。
重戦士は可能な限り離れた位置から必死に手を伸ばし、その猫に向かって猫じゃらしを揺らめかせていた。
鼻先を掠めるようにゆらゆら草が揺れるが、白猫はくぁっとあくびをして、完全にスルー。
「く……! ぬぅ……」
じり、と重戦士の身体が匍匐で前へと進む。
途端。
「――――!」
カッと目を見開いた白猫はその場から飛び上がり、逃げる体勢になる。
「ま、待てっ!」
そこに重戦士の声が掛けられ、ぴたりと猫の動きが止まる。
尻を向けたまま顔だけで振り向き、じっと見つめる。
「鰹節だな……わかっているぞ……うぬは鰹節を所望しているのだろう……?」
猫じゃらしを握っていない方の手が光輝き、そこに真空パックされた鰹節が現れる。
「ふ、ふふは……こ、これが欲しければ、大人しく我のもとに下るが――」
興味を失ったように、白猫は去っていった。
声もなくそれを見送っていた重戦士は、やがて、がくりと頭を落とした。
「ぐぬぬ……。これでもダメ。やはりここはマタタビを手に入れなくては……しかし、そんな情報は……」
うつ伏せに地面に横になったまま、ぶつぶつと重戦士はつぶやく。
その一部始終を目撃して私は、変な人がいるなぁ、と思った。
今日は陽気がいいから、そういうこともあるのだろう。
もう一度大きく溜め息を吐いて、私は深く目を瞑った。
翌日、いつものようにいつもの場所で、私は彼女がやって来るのを一人待っていた。
ベンチにもたれ掛かり、なんとはなしに公園内を見回していると、奇妙なものが視界に入った。
色とりどりの猫が何かを取り囲み、にゃーにゃーにゃーにゃーと鳴き声を上げている。
「………………?」
ふと、髪の毛に何かが触れたように感じて、手をやる。
顔の前に持ってくると、指先には肌色の削りカスのようなもの――鰹節があった。
「…………」
猫の密集地を見やる。
よく見れば、そこにはこんもりと鰹節らしきものの山ができていた。
しかもところどころから鋼鉄の輝きが垣間見える。
どうやら横になった人の体程の大きな鉄の塊らしきものを大量の鰹節が覆い隠しているらしい。
猫が次々に鰹節をさらっていくと、次第にその鉄の塊の全容が明らかになり――私はそっと目を逸らした。
鰹節が失われた後に残ったのは、昨日の重戦士の姿だったからだ。
既に猫の姿は周囲から一匹残らず消えている。
「我は……なにをやっているのだろう……」
何やら自失したような呟きが聞こえてきたが、そんなことは私が聞きたいことだった。
仰向けに地面に横になったまま身動きしないそれから、再びそっと目を逸らす。
――と。
「おねーちゃーん!」
公園に面した通りから溌剌とした声。
視線を向けると入り口でぶんぶんと大きく手を振っている彼女の姿が見えた。
その顔には弾けんばかりの笑顔。
自然と、こちらにも笑みが浮かぶ。
小さく手をふると、彼女はまるで尻尾を振る犬のような元気さで駆け寄ってくる。
手に持った籠が振り回され、あれでは中身が少々まずいことになるだろうと思い、苦笑する。
「こんにちはっ」
私の前まで来ると彼女は、ぺこりと大げさに頭を下げてから私の隣に並んで座る。
「今日はねー、サンドイッチを作ってきたの」
「へぇ……具材は?」
「うんとねー、トマトとレタスのに、卵のに、あとはおハムが挟んであるやつ!」
ぱかりと蓋を開けられた編みかごの中身を見て、目を細める。
「美味しそうだな」
「そ、そうかな? じゃあ、食べて食べてー」
ずいと差し出されたそれから、トマトとレタスがサンドされたものを選び、手に取る。
「うん……おいしい。トマトもレタスも随分と新鮮だな」
「えへへー。どっちもとれたてだよっ」
「そうか。……わざわざありがとう。さ、おまえも食べるといい」
「うん!」
大きく頷いた彼女もまた、サンドイッチに口をつけて食べ始めた。
小さな口でちまちまと食べる様は、リスやハムスターのような小動物を連想させ、自然と口許が緩んでしまう。
そうして他愛のない話をしながら食事を続けていることしばし。
不意にすぐそばで猫の鳴き声があがった。
見ればいつの間にか彼女の足元に二匹の猫がおり、なにかを催促するように彼女を見上げていた。
「あれ、きみ、またきたのー?」
見れば一匹は、昨日の怪我を負っていた三毛猫だった。
なー、と彼女の手のサンドイッチを見つめ、鳴く。
「これはダメっ。わたしとおねーちゃんのなんだからね」
猫から隠すように籠を背中に庇うも、何もあげないのは可哀想だと思ったのか、
「んー、仕方ないからきみたちにはぁー……」
空いている彼女の手に光の粒子が収束した。
次いで現れたのは、薄い桃色の茹でた肉片――ササミであった。
それを見た瞬間、二匹の眼がカッと見開かれる。
うーにゃー、うーにゃー、興奮したように鳴き声をあげ、前足で彼女の靴をカリカリと掻きはじめる。
「ホントはあんまりあげちゃダメなんだけど、今日は特別なんだからねー」
「……そうなのか?」
放り投げられたそれを見事に口でキャッチしてむしゃぶりつく二匹。
それに視線を向けたまま問うと、隣で彼女が頷く気配。
「うん。っていうか、前におねーちゃんが教えてくれたんでしょ? まだ村にいたときに、ミミに鶏肉はやっちゃめーっって」
「――むら? ミミ?」
ハッと彼女を振り向くと、可愛らしく小首を傾げていた彼女は、ん?と私を上目遣いで見上げる。
私が何に驚いているのかは理解できないようで、しかしすぐに「……あれ?」と疑問の声を上げた。
「わたし、いま、変なこといったよね? あれ、なんだっけ、いま、たしか」
「……村、ミミ、と」
「うん? 村はわたしの住んでいる場所で、ミミはおうちで飼ってる猫で……んん? あれ、でも、わたし、生まれたときから教会にいるはずで……ミミって、なんだっけ?」
不思議そうな表情で、右に左に頭をこてんこてんとして考えこむ彼女を、私は息を詰めて見守っていた。
けれど結局、その日、彼女がその答えを思いつくことはなかった。
思い出せそうで思い出せない――あるいは知っているはずなのに知らない、そんな顔をして、彼女は帰っていった。
いつものように、その背中が消えるまで見送ってから、私はゆっくりと大きく溜め息を吐いた。
ずるずると背中をベンチにもたれかけさせ、顔を手で覆って空を仰ぎ見る。
指の隙間から見える空は、ひどく青い。
作り物の空。偽物の空。
だというのに、その空は現実のものと寸分変わらぬものにしか見えず、まるでここが本当は外の世界なのだと錯覚してしまいそうだった。
「……それでも、偽物の、はずなんだ」
本物であればいい――この世界に初めて触れたとき、そう思っていたのは確かだったけれど。
それは、確かにこの世界が幻想であると理解していたからだ。
「……だが、本当に?」
その呟きに答えるものはいない。
代わりにどこかから、「どうやら最終兵器を投入するしかないようだな……」という何かを決意したような声が聞こえてきた気がしたが、たぶん、幻聴に違いない。
そう思いたかった。
いつまでそこで寝転がってるんだよ、とは決して思っていない。
さらに翌日、やはりいつもの如くいつもの時間に公園にやってき私は、そこで異様な光景を目にした。
公園の中央、噴水の近くに、なにか得体の知れないモノがあった。
たくさんの猫がそれを取り囲み、にゃーにゃーと威嚇の声を上げている。
他のプレイヤーやNPCがそれを更に遠巻きにして様子を窺っている。
普段であればのどかな空気が流れるその場を今支配しているのは、肌が粟立つようなピリピリとした緊張感だった。
「あれは、なんだ……?」
一人のプレイヤーらしき剣士が言う。
「あれは、幻の……まさか、ナンバーファイブが実在するなんて」
さらに別のプレイヤーが震える声でつぶやく。
「…………」
私もまた、それをじっくりと見やる。
まず目に入ってくるのは、その鮮烈すぎるほど鮮烈な蛍光色――ショッキングピンク。
これはもはや視覚の暴力ではないかと思うほどのどぎつい色が、目にした者の視神経を強烈に刺激してくる。
次いで目立つのは、その頭部である。
それは人型をしており、全身をピンクの毛皮のようなもので包み、頭部だけが異様に巨大であった。
その頭は、おそらく、猫、をイメージしているのだろう。
こぶりな耳に、すぼんだ猫口、両頬の三本ヒゲ――だがその造形の中で最も目を引くのは、やたらと大きくデフォルメされた双眼だ。
人間の目のように白目の中心にある黒い瞳は茫洋としており、どこかこの世ならぬものを見つめているような不気味さがある。
まるで死んだ魚の眼のようだ。
そんな眼を持つそいつは人間のように二足で地面に立っており、両腕をだらりと垂らしたまま身動き一つしない。
ひどく、薄気味悪い居姿であった。
猫が威嚇の鳴き声を上げながらも、腰が引けたように後じさりしているのも納得できるというものだ。
ソレ――便宜的にここでは猫人間と呼ぶことにする――猫人間は、数分の間そのまま佇んでいたが、やがてゆっくりと両腕をあげた。
バンザイするというよりは威嚇するように見える体勢だ。
周囲の猫たちを見回し、初めてその声を出す。
「にゃぁぁぁぁぁぁぁ」
猫のみならず、私達もまたその声に、ビクッと背を震わせた。
それはまるで地の底から響いてくるような、嗄れ、重々しい、怨念に満ちた声であった。
猫人間は、猫の鳴き声がぴたりと止んだことをどう解釈したのか、なんとなく満足そうに一度頷くと、今度はゆっくりと膝を曲げて地に四つん這いになった。
そしてその前足――に相当するのだろう右手――を使って猫達に手招きする。
「さあ、こっちにくるのだ。我はうぬらのお友達だ。何も怖くないのだぞ。きっとそこにはパライソが待っている――そう、今こそがうぬらの悲願成就の時であり、これこそがうぬらの待ち望んでいた理想の黄金郷っ。さあっ! うぬらの終焉へと飛び込んでくるがよいっ。盛大に歓迎してやろうぞ!」
まるでRPGのラスボスのような雰囲気を醸し出し語りかけるも、勿論、それで猫たちが飛び込むわけもない。
じりじりと離れていく猫を見て首をかしげた猫人間は、なにかを思いついたのか一つ頷き、
「にゃああああああああおおおおおん」
また、鳴いた。
ビクリと猫達の背筋が震え、凍りついたようにその場に釘付けとなる。
それを隙と見て取ったのか、次の瞬間、猫人間は一番近くにいた猫に俊敏な動きで飛びかかった。
「ああっ!?」
公園にいた者達の悲鳴が重なった。
ああ、あの哀れな猫たちは悪しき猫人間の手に落ちてしまうのか――攫われた先で、一体どのような残虐非道が行われるのか、私達の頭の中に絶望の未来が描かれたその時。
「だめーーーーっ」
救いの主が、現れた。
横合いから走り寄ってきた一人の少女が、その勢いのままに猫人間へと体当たりを仕掛けたのだ。
衝撃に猫人間の軌道は猫たちから逸れ、重なりあった二人は近くの地面に落下する。
あわや、というところで危難を救われた猫達は一目散に公園内から逃げ去って行き、誰もが最悪の未来が回避されたことにほっと安堵の気持ちを抱いている中で、私だけが顔を青ざめさせていた。
「な、なんてことを……!」
このままでは彼女の身が危ない。
猫などという畜生よりよほど可愛い彼女だ、あの猫人間もきっと彼女をひと目見て夢中になってしまうかもしれない。
いや、間違いなくそうなる。
そうならない人間などこの世には存在しないだろう。
そうなればきっと彼女はどことも分からぬ場所に攫われ、言葉にするも悍ましいことを――!
そうはさせじと大いなる決意をもって足を踏み出そうとした私は、
「お猫さんにいじわるしちゃメーッでしょー!」
なぜかその凶行に及ぶはずであった猫人間が彼女の眼前に正座させられ、叱られているのを見て足を止めた。
「い、いや、別に我はいじめてなど……」
「うそっ! みんな怖がってたもん!」
「な、なに? あれは我を同胞だと思って歓迎していたのではないのかっ?」
「そんなわけないでしょー! このばっかちーんがー!」
恐れ知らずの彼女は、猫人間の額のあたりをぺちぺちと叩く。
それを見てあわあわした私は慌てて近づき彼女を止めようとしたが、猫人間が大人しくうなだれているのを見て、とどまった。
てっきり数日前からわけのわからない行動をしていたものだから、この閉鎖環境に頭がどうにかなってしまったプレイヤーなのかと考えていたのだが、どうも違うらしかった。
恐れていたように逆上する様子もない。
「ま、まさかこの《ねこにゃんシリーズ》幻のナンバーファイブでもあやつらの心を開くことが出来ぬとは……万策尽きた、な」
「そんな変な着ぐるみでお猫さんたちが仲良くなってくれるはずないでしょー、もー」
「へ、変!? こ、この完成されたデザインを見て、言うに事欠いて変だと!?」
「すっごいへん」
猫人間の訴えを、彼女はたった一言でばっさりと断ち切った。
猫人間は「……それが世界の選択だというのか」と地面に両手をついて大きく項垂れる。
「とにかく、もうお猫さんたちをいじめちゃダメなんだからね?」
「……うむ、分かっているとも。そもそもそんなつもりはなかった。我が野望もここで潰えるか…」
「やぼー?」
首をかしげる彼女に、顔をあげた猫人間はうむ、と頷く。
「最近巷で話題になっている猫をテイムできるという、アレだ。そのためにいろいろと試行錯誤してみたものの、結局実らなかったようだ」
「お猫さん? お猫さんたちはそんな変な格好しなくても、普通に接してあげれば仲良くしてくれるけど……」
「ぬ? いや、そんなはずは……ああ」
今度は猫人間のほうが首を傾げていたが、彼女を改めて見やり、すぐに何かに気づいたようだった。
一瞬だけちらりと私にその視線が向けられ、また彼女へと戻される。
なにかを見定めるように、見透かすように、死んだ魚のような目が、じっと彼女を見つめる。
ごくり、と無意識に自分の喉がなる音を聞く。
一体、この変人と呼ぶしかないプレイヤーはこの子にどう反応するのだろう。
――いや、どういった反応をしてほしいと、私は期待しているのだろう。
「なるほど。うぬは動物に好かれやすい性質なのかもしれぬな。羨ましいことだ」
ひどく、柔らかな言葉だった。
そこには、間違いなく人としての温度が存在していた。
ああ――と、ほんのすこしだけ、救われた気がする。
認められた、気がした。
「え? そうかなー? えへへー」
嬉しい言葉だったのか、彼女は頬を赤くして照れたように頭を掻く。
その姿が愛おしく、気づけば彼女の頭を撫でていた。
それは自分でも驚くほどに、自然な動作だった。
「……? なにー、おねーちゃん?」
「いや、なんでもないさ。ただ、お前は可愛いな、と思ってな」
微笑みを向けると、彼女は耳たぶまで真っ赤にして、うつむいてしまう。
それを見て、どうしてか私の胸に鋭い痛みが走った。
――私は。
私は、ずっと前にも、こうやって。
いや、そんなものは、ぜんぶ、ただの私の。
けれど、とてもそうは思えなくて。
一体、この世界は。
この少女は。
私は。
心が千々に乱れ、掻き毟りたくなる衝動に襲われる。
だがそんな無様な姿を、この子の前では見せたくなかった。
奥歯を噛み締め、それが表に出るのを、必死で堪える。
「あっ、それよりもおねーちゃん! はやくご飯食べよ。お休み時間なくなっちゃう!」
なにをしにこの公園までやってきたのかを思い出したのだろう、彼女は私の手を握ると引きずるようにしてベンチに向かう。
背後から地面に正座したままの猫人間の視線を感じていたが、今の私には、なにかを言う気には、とてもなれなかった。
ベンチに並んで座る。
アイテムストレージを使用したのだろう、特有のエフェクトを生じさせ、何もない空中からいつもの編み籠を取り出した彼女は、それをベンチの上に広げる。
「今日はね、昨日と具を変えたサンドイッチだよ!」
「ほう。それは楽しみだな」
「じゃん! これ! お肉とお野菜のサンド! おねーちゃん、これが大好きでよくわたしに作ってくれたよね!」
取り出されたサンドイッチの具材を、彼女の言葉を聞いて、私は目を見開いた。
――何かを言い返そうとして、だが私の口は凍りついたように閉じて、動いてはくれなかった。
どうして。
なんで。
確かにそれは私の大好物で。
けれど私にそんな記憶なんて。
いや、しかし――ほんとうに?
――私は一体、それをいつから好きだったのだろう?
「……そう、だったか?」
「うん! ……うん? うーん……? あれ、そんなこと、あったっけ?」
サンドイッチを口に咥えたまま不思議そうに首をひねる彼女を見て、なお、私の心は惑う。
いままで、そんなことを彼女に言ったことはなかった。
そんな話題を出したこともなかった。
そんな私の好みを知っている者など、この閉鎖された世界にいるはずがないのだ。
この世界でそれを食べたこともなければ、誰かに言った覚えもない。
ならば、その記憶は。
あの、『彼女』は。
この、『彼女』は。
「――おまえは、そして私は、いったい、だれなんだ?」
なにもかもが曖昧で。
私は顔を両手で覆った。
休みの時間が終わり、彼女は公園から去っていった。
私の様子がおかしいことに気づいた彼女は何かを言いたげな顔をしていたが、私が大丈夫と声を掛けて半ば強制的に送り出した。
その姿が完全に消えてから、大きな溜め息とともに身体を弛緩させ、脱力する。
ベンチの背にだらしなくもたれ掛かり、天を仰ぐ。
鮮烈な青。
まばゆいばかりの陽の光。
今日もこの世界は本物と見紛う輝きを放っていた。
空に向かって手をのばす。
大きく手のひらを開き、ゆっくりと閉じる。
なにかを掴めたような気がしたが、開いて見ればそこにはやはり何もない。
なにもかも偽物で、幻想で――だからこそ現実では得られない居場所が、ここにはあった。
全ては現実ではない仮想の世界だからこそ。
現実のいかなる束縛やしがらみからも解放されて、初めて私は私らしく在れた。
――そう、思っていたのに、もう今の私は確信をもってそう思うことができなくなっていた。
彼女が、あの子がいるから。
幻想というには、この世界は、真に迫りすぎている。
偽物と、本物と。
境界が曖昧になって、戻らない。
「…………」
隣に、誰かが腰を下ろす気配。
ちらと横目で見てみれば、蛍光色のピンクが目を刺激してくる。
猫人間は、足を組んでやたらと横柄な態度で座っている。
拗ねているような、やさぐれているような、そんな雰囲気を発していた。
「……別にそんなに猫とか好きじゃないし。だから気にしてないし。ぜんぜんくやしくないし……本当だし……」
しばらくの間ぶつぶつと呟く声が聞こえてきたが、やがてそれも静かになる。
大きく溜め息を吐く音が聞こえて、その濁った目がふいにこちらに向けられる。
視線が、合う。
「………………」
「………………」
しばらく沈黙が続いた後で、猫人間は私を指さしてきた。
「口元に、パン屑がついているぞ」
「…………」
顔をそむけて、指でつまんで捨てる。
別に、恥ずかしくは、ない。
「先程の少女、NPCだな」
唐突に言われた言葉に、どきりと心臓が跳ねる。
「……そう、だ。だから、なに?」
「ふむん? 特別、なにということもない。強いていうならば、あれだけあの猫めらに懐かれて羨ましいことだとは思うが」
「…………」
「…………」
それきり黙して何も語らず、どぎついピンク色の物体は死んだ魚の目で公園内を眺めている。
おそらくうろちょろしている猫を目で追っているのだろう、時折わずかに頭が左右に揺れていた。
「……そんなにあれが良いのか? どれだけあの猫が本物に似せて作られようとも、所詮は精巧なプログラムの産物でしかない。それがどれほど本物に酷似しているのだとしても、結局のところは、あんなものは、」
その続きを口にしようとして、しかし、どうしても、できなかった。
胸が苦しくなり、息が途切れ、喉まで出かかっている言葉が、そこで止まってしまう。
思い浮かぶのは、あの子の顔。
私を姉と呼び、慕う稚い姿。
「偽物、と。そういいたいのか?」
代わりに猫人間の口から告げられたその言葉に、思い浮かぶイメージが、切り裂かれる。
ずきん、と胸の中心に鋭い痛みが走る。
「…………それは」
――だが、そうだ。
そのはずなのだ。
あの猫だけではない。
この目に見えるもの、この耳に聞こえるもの、この手が触れるもの、匂い、味、それら全てはただの電子上のデータでしかなく、そこには真実も本物も何もなく。
私たちプレイヤーでさえ、この世界で動く身体は仮想のものでしかなく、本当のものなど、ここには何一つ転がっていない。
本物であればいいと、何度もそう思ったけれども、それでも、それが真実のはずなのだ。
理想の楽園なんて、現実にはあるはずがないのだから。
「ふむ……まぁ、確かに偽物なのだろうな。あの猫だけではない。見えるもの聞こえるもの感じるもの全て、この世界の何もかも、全てがまがい物で――幻想でしかない」
「……その、通りだ。そのはずなんだ」
現実の世界に、私の居場所はなかった。
だから、この幻想に溺れたのだ。
なのに。
「だが、あの娘と接している時のうぬは、とてもそう考えているようには、見えなかったぞ」
「っ――」
突き刺さるような言葉だった。
これ以上を目をそむけて誤魔化すこともできない事実を、はっきりと突きつけてくる。
「お前の目からは、そう……見えたのか?」
「まるで本当の姉妹のように」
するり、とその言葉は私の中に入り込んできた。
不意に涙腺が刺激され、じわりと熱いものが眦ににじむ。
喜び、悲しみ、怒り、憎しみ――自分でもよくわからない感情が一瞬で心の内を満たし、溢れ出そうになる。
それは私から生じているものでなく――『私』であって私ではなく――いや、それはこの私であって――。
混乱。
渦巻き。
全てが混ざり、交ざり、なにもかもが曖昧になって。
息が、出来ない。
心が、苦しい。
頭が、破裂しそうで。
「落ち着け」
――刹那、真っ白になった視界に、黄金の煌めきが、見えた気がした。
「ゆっくり息を吸って、吐くのだ」
透き通った透明な声。
高くも低くもない無色の音色。
ふっと、心が軽くなる。
正常な思考が戻ってくる。
「いま、のは」
夢から覚めたような心地でパチパチと瞬きをする。
「呑み込まれるな。ろくなことにならぬぞ。うぬは、うぬでしかない」
声の主に、怪訝な視線を向けるが、そこにあるのは濁った眼の蛍光色の猫人間。
一気に、脱力する。
溜め息がこぼれ落ちる。
「……お前は、何を、知っているんだ」
「さて、そう言われてもな。我はうぬが何を知っているかも知らぬ」
「…………」
迷う。
自分の事情を、この得体の知れない存在に伝えるべきかどうか。
このまま己一人で抱えていたところで何も解決しないことは身にしみている。
だがそれは私にとって酷くデリケートな部分の話になる。
悪意をもってそのことを利用されたなら、どうしようもないほど傷つけられる結果になるかもしれない。
目の前の相手を、自分は何も知らない。
意味不明の行動をとり、幼稚な部分があるかと思えば、どこか達観したような部分もあるように思える。
一見すれば強い悪意を持った人間ではないように思えるが、それが正しいかは分からない。
そもそも見知ってからのこの僅かな間で、正しく他者を見定められようはずもない。
「……私は」
しかし、もう、限界だった。
日々が過ぎゆくごとに、私の中の私が定かではなくなっていくのだ。
私の世界が揺らぎ、揺らいで、いまにも崩れ落ちてしまいそうになる。
これ以上、自分の中だけに留めておくことは、無理そうだった。
「私には、」
きっと、誰でもよかったのだろう。
もう耐えられないと思ったその時に、たまたまこの奇矯な人物がそばにいた。
ただ、それだけのことなのだろう。
そう、この時の私は思っていた。
「私には、妹がいたんだ」
――だから、私は、その言葉を、告げた。