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2025/04/10 (2)

 

 ――あの姿を覚えている。

 あの人の背中を、その大きさを、覚えている。

 


 もう、誰もが諦めていた。

 自らの行く末を、悟っていた。

 この世界での死が、なにを意味するのか。どうなるのか。

 一つの噂があった。

 現実と同じ痛みを感じるこの世界で死ぬと、痛みに耐え切れず、その精神が壊れてしまう。

 

 信じてなど、いなかった。

 この時になるまで、そんなこと有り得ないと思っていた。

 けれど、初めて致命的なダメージを受けて、その痛みを感じて――。

 こんなもの、耐えられないと思い知った。

 その噂がおそらく真実であろうと、わかってしまった。


「この莫迦ものどもめ! たった五人でフロアボスに挑むなど、なにを考えている! 最大参加可能人数三十だぞ! たったの五人でなにができる!」

  

 そんな絶望や諦念を吹き飛ばすように、単身、重戦士はフロアに飛び込んできた。

 ただの一人。

 たったの一人。

 自らの身だけをもって、撤退不可、フロア外チャット不可のこの死地へと。

 

「な、んで……どうして……」


 床に這いつくばったまま、僕はそれを呆然と見ているしか出来なかった。

 重戦士は、そんな僕を守るようにボスとの間に立ちはだかり、腰を落として大盾を構えている。

 その向こうで、《銀狼王》が四足に力を込め、今にも飛びかかってこようとしていた。

 

「見捨てられるか! うぬらがたったの五人ぽっちでここに突入するのが見えてしまって、負けると分かっていて、放っておくことなど出来ようはずがあるまいッ!」


 こちらを振り向かずに怒鳴る重戦士に、僕は息を呑む。

 同時、《銀狼王》が跳躍。その身体全てで体当たりを仕掛けてくる。

 パーティの戦士を一撃で再起不能にした攻撃。

 それを、重戦士は、呻き声を上げながらも、盾でしっかりと受け止めた。

 

「そ、それじゃあ、あなたも! このフロアからは撤退できないのに!」


 この時になってようやく、そのことに思い至った。

 とりあえずの危地を救われたことによる安堵など、一瞬で吹き飛んだ。

 自分たちのヘマに、他人を巻き込んでしまった。それも、ボスの一撃を危なげなく受け止めるほどの高レベルで、痛覚耐性も持った、おそらく生き残ればこれからの攻略には欠かせない存在となるであろうプレイヤーを。

 目の前が真っ暗になる。

 これが実力を見誤り、調子にのったことのツケだというのか。

 他人を巻き込んで自滅するという、最低な結末が僕の終わりだというのか。


 何度も何度も、何度も何度もボスの体当たりを受ける重戦士を見上げて、僕は己の情けなさに涙することさえ出来なかった。

 ただただ、消えてしまいたかった。

 こんな惨めな自分など、どこかへ行ってしまえばいいと思った。


「……ぅぅ、ぐっ、ふぐぅ……て、撤退など、する必要などあるまいっ!」


 呻き、のようなものを漏らしながら重戦士は叫ぶ。

 

「なにを勝手に絶望している! ぐっ……た、倒せば、いいだけの話ではないか!」

「な、なにをいっているんだ!? あなたがいま言ったばかりじゃないか! あのレベルのボス相手に、ここにはたったの六人しかいないんだぞ! なにができるっていうんだ!」


 反射的に、僕は言い返していた。

 その六人でさえ、うち五人は使い物になるかどうかも分からないのだ。

 怖い。

 怖いのだ。痛いのが怖い。痛いのは嫌だ。

 戦えるわけがない。

 戦いたくない。


「六人も、だ」


 だが、重戦士は言う。

 《シールドバッシュ》でボスを弾き飛ばし、一息ついて、ちらりと僕を振り返り、息を荒げながら、告げる。


「我がいる。うぬらは五人ぽっちだが、我がいる今、ここには六人もいるではないか」


 ふふん、と鼻を鳴らす。


「大体、あれではないか、六人の内の一人が我だぞ。我がここにいる→勝利。もはやこれは確定事項。誰にでも分かる黄金の方程式。つまりッ、既に我は勝っているッ!」


 胸を反らして勝ち誇る重戦士の向こうから、再び銀狼の姿。


「だから――」


 気配で察していたのか、前に向き直り再び盾を突き出す重戦士は続ける。


「立ち上がれ! 戦え! 死に物狂いで理不尽に抗え! 今だけは、痛みを忘れろ! 恐怖を忘れろ! ――弱さを、忘れろ!」


 響く。響き渡る。

 その背中を僕らに見せつけて、宣言する。


「うぬらの全てを我が背負う。全ての痛みを、全ての恐怖を、全ての弱さを、我の盾が受け止める。だから、うぬらよ。――戦え、抗え、越えてゆけ」


 それは、なんて、おおきな。


「一時間でも、二時間でも、一日中でも、うぬら全員、ボスの攻撃から守ってやる。戦って戦って戦い続けろ。そうすれば、いつかは終わる。悲観する要素などなにもない。簡単なことだろう? 一歩一歩、確実に前に進んでゆけば、それだけでいつか辿り着けるのだ。それは水が高きから低きに流れるように、一つの真理でしかない。我がそう決めた。いま決めた。だから、それは真となる」


 そうして、その人は高らかに声をあげる。


「――さあ、我がこの場にいる今、うぬらは最強だ。この程度の塵芥、一飛びに越えてゆくぞ!」


 それがあの人と僕の出会い。

 僕らの出会い。

 この三時間後、フロアボスは攻略された。

 僕らは、その間、一度もダメージを受けることはなかった。

 宣言通り、あの人が全てを肩代わりして、受け止めきったのだ。

 

 ボスを倒したあと、あの人は目立ちたくないから、と名前も告げず、顔も見せず、去っていった。

 僕たちもまた、自らの情けなさに自分たちが攻略したと報告することはなかった。

 ただ掲示板に、匿名で攻略完了の知らせを書き込んだ。

 

 その時のパーティメンバーは、それぞれ僕のように攻略組のギルドマスターをやっていたり、ソロで名を馳せたりと、今でもその名をよく聞く。

 もちろん、この戦いにも参加していた。

 あの人が参加すると聞いて、来ないはずがなかった。

 あれからどのぐらい自分たちが変わったのか。

 それを見て欲しかったのだ。

 まるで親にむかって褒める言葉を催促する子供のような気持ちで。

 

 なのに。

 なのに、どうして――。



 

 

 

          **********






「アアアアアァァァァァ!」


 激情に任せて、僕はスキルを発動させる。

 振るわれたボスの大剣をかいくぐり、後先考えず残りのマナ全てをつぎ込んで、再度の《セブンス・ソード》。

 袈裟斬り、逆袈裟斬り、薙ぎ払い、斬り上げ、唐竹割り――そして一瞬の溜めの後、縦横十字斬り。

 派手なエフェクトが撒き散らされ、ボスに少なからぬダメージを与える。

 だが、それだけだった。

 身体を仰け反らしたゴブリンは、しかし倒れることもなく、その不気味な赤い瞳を眼下の僕に向け、大剣を振り下ろした。

 僕は、避けられない。

 強力な連続技である《セブンス・ソード》はその分、硬直時間が長い。

 身動き出来ない僕は、ただ己にもたらされる死を見ていることしかできず――


「《フリーズ》《バースト》!!」


 横合いからの衝撃に吹き飛ばされた。

 流れる視界の中で、女魔術師の姿が見えた気がした。

 身体が冷たい。

 凍りつくようだ――いや、実際、地面を転がりながら、僕の身体からは氷の欠片が剥がれ落ちていく。


「頭を冷やせ大馬鹿野郎がッ! ここで無謀に突撃してどうするつもりだ! テメェはギルマスなんだろうがッ」


 怒声が、叩きつけられた。

 ボスと相対したまま、彼女は振り返らず叫ぶ。

 転がり終えた僕は立ち上がる気力もなく、首だけをあげてそれを見ていた。


「他の奴らもだ! なにを止まっていやがる! こいつをよく見ろ! 満身創痍じゃねーか! もう少し、もう少しなんだよッ。アイツの踏ん張りを全部無駄にするつもりかよテメェら!」


 ゴブリンの大剣をかわし、かいくぐり、注意を引き付けながら彼女は全てのプレイヤーに語りかける。


「なにも終わっちゃいない! なにも始まっちゃいない! これからだ、アタシたちはこれからなんだよ!」

 

 ずるずると誰かに後ろに引きずられていきながら、僕は彼女の背中を見つめる。


「だから戦え! 戦え! 戦え! 戦え! 死ぬまで戦い果てろよ! それが今この時に出来るたった一つだッ!!」


 そうして、彼女はゴブリンの身体に爆炎を叩きつける。

 怒りと苦痛の雄叫び。

 癇癪を起こしたように闇雲に大剣を振り回し、運悪くその切っ先が彼女の身体を掠める。

 ぐらりと体勢を崩し、たたらを踏んだ彼女に更に追撃の大剣が迫り、


「――おおおおおおお!」


 喚声を上げて滑り込んだ戦士が、構えた盾でそれを受け止めた。


「来いよこのクソヤロウが! てめぇなんざ怖くねぇんだよ! ゴブリンごときがいつまでも図に乗ってんじゃねぇ!」


 挑発。

 ボスの標的が彼に移り、そのタイミングで新たに現れた剣士が横合いから斬りつける。

 戦士が、剣士が、魔術師が、弓兵が――プレイヤーたちが再び動き出し、戦線に復帰してくる。


「さっきの勢いはどうした! 俺たちは眼中にないってか? 舐めるなよゴブリン風情が!」

「ほうらこっちだ! 鉄球を喰らいやがれ!」

「臭いのよこの獣が! その口臭ごと凍りつかせてあげるわ!」

「ひゃっふー! 目玉に当ててやったぜ!」


 至る所で威勢のよい言葉が飛び交うも、誰もがその顔から不安の色を隠しきれてはいなかった。

 体力減少によるステータス強化、行動パターンの変化。

 なんとか戦線を再構築しつつあるものの、どれもいまだ読みきれておらず、いつ崩れてもおかしくない状況だ。

 なにより、先程あのゴブリンが見せた行動が頭の片隅から離れない。

 AIに管理されたものとは思えない異常ともいえる行動――あるいは、執着、なのか。

 だが何にしろ、今は戦うしかない。

 残り少なくなっているであろうボスの体力、なにかが起こる前に削り取るしかないのだ。

 

 だというのに。

 僕は一体、なにをやっているのだろうか。


 後衛のところまで引きずりこまれ、まだ立ち上がりもせず、呆然とプレイヤーたちが戦っている姿を眺めていることしかしていない。

 あの女魔術師は、まさに獅子奮迅という言葉の如く、八面六臂の活躍をしていた。

 常にボスの近くで攻撃を加えながら、他のプレイヤーに指示を出し、時にはポーションをあちらこちらに投げつけ臨時の回復役さえこなし――今この場では、彼女こそが僕たちの中心だった。


 立ち上がらなければならない。戦わなければならない。

 そんなことは分かっているのに。

 なのに、気力が湧いてこない。

 上体を起こしただけで、それ以上の力が入らない。

 あの光景が頭の中から消えてくれないのだ。

 あの、あの人の――


「……だんちょ」


 すぐそばから、聞き覚えのある声が上がった。

 人の気配。

 のろのろと見上げてみれば、そこには黒いローブ姿に節くれだった杖を持った赤髪の少女――僕の副官の彼女がいた。

 彼女は、ひどく悲しげな目で、僕を見下ろしていた。

 

 ――ああ。そうだろうな。

 ギルマスである僕が、こんな無様な姿を晒しているのだ。幻滅するのも、見損なうのも無理はない。

 そう思うのに、だからといってなにをする気も起きない自らに、いよいよもって最悪だなと自嘲の笑みが浮かぶ。


「あの人は、あの重戦士さんは、だんちょの、大切な人……だったんですか」

「……ああ、そうだよ。僕の、憧れだった。北方都市の最初期攻略、知っているだろう? あれの時に、全滅しかけたところをあの人に救われたんだ」


 彼女が息を呑むのが分かった。

 驚きに目を丸くしている。


「だんちょが、あの……」

「掲示板では、《偉大なる一歩》だのと言われてるけどね、ぜんぶ、あの人のおかげなんだよ。実力を見誤って馬鹿をやらかした僕らのツケを、全部、あの人が支払ってくれたんだ。僕らは、ただあの人の背中に負ぶさって、後ろからつついていただけさ」


 痛みも、苦しみも、恐怖も、弱さも、全てをあの人が一人で肩代わりしてくれた。

 

「情けない……僕はなにも変わっていない。ちっとも強くなれていない。あの人みたいに、なりたかったんだ。あの人のように、強く在りたかったんだ。なのに――」

「そんなことっ」


 僕の言葉を遮って、彼女が大きく叫んだ。

 強く、その拳が握られる。


「そんなこと、言わないでください……! わたしを、わたしたちを、一人残らずこの世界から連れ出すって、みんなで現実に帰るんだって、そう騎士団を立ち上げたときに、言ってくれたじゃないですか! あなたがそう誓ってくれたから、だから、わたしたちはッ」

「……すべて、借り物だったんだよ。張りぼてだったんだ。偽物だったんだ。だから、簡単に剥がれてしまう。あの人に、依存していただけだったんだ」


 今にも泣き出してしまうそうな顔の彼女を見上げ、僕は力なく笑った。

 口元だけの、歪な笑み。


「幻想だよ……この世界の何もかもと同じように、夢幻でしか、なかった。所詮、凡人でしかない僕の意志なんて、その程――」

「うるさいっ」


 ――頬に、衝撃。

 一瞬、何が起きたのか分からず、僕は自失する。

 

 殴られた。

 拳で、彼女に、殴られたのだ。

 

「あなたがわたしたちの思いを決めつけるな! あの時、あの場所の思い出を、貶めるな!」


 地面に膝をついて、僕の襟首を掴んで、彼女は僕を涙目で睨みつける。

 その視線の強さに、僕は気圧されるものを感じた。

 

 この子は、誰だろう。

 こんなにも強い瞳をした少女を、僕は知らない。

 彼女はいつもカルガモの雛のように僕の後をひっついてまわり、甘えたがりで、そのくせ甘え下手で、いつも一人で隠れて泣いていて、まるで幼い子供のようで、だから、僕が守ってやらなければと思っていて。

 その、はずだったのに。


「この世界の全てが幻想なのだとしても、それでもわたしの心は、わたしたちのこの気持ちだけは、決して偽物なんかじゃないんだ! 確かに、それはここに在るんだよ! わたしにも、あなたにも!」

 

 そう言って、彼女は自分の胸と、僕の胸を拳で叩く。


「なのに、すべてを、あなたは嘘にしてしまうの? あなたの誓いが張りぼてだったのだとしても、それを信じたわたしたちの気持ちは、誓いを守ろうと必死で戦い続けてきたあなたの気持ちは、嘘じゃない。ぜったいに、そうじゃない」


 ぽろぽろと、彼女の眦から、涙がついに零れる。

 頬を伝い、顎から滴り落ちていく。


「はじめから強い人なんて、きっといない。強さは、積み上げていくものなんだよ。張りぼてだって、重ねあわせれば、いつか強固な壁になる。そう、信じてる。わたしは、あなたを信じてる。だから立って、だんちょ。立ち上がってよ、だんちょ」

 

 涙を流し、何度も、何度も彼女は僕の胸を叩く。


「それは、ここにあるんだ。だんちょの、本当は、ここにあるんだよ。いま立ち上がらなかったら、今度こそ、嘘になっちゃう……そんなの、わたし、やだよ。嘘なんかに、したくないよ……」

 

 そう言って、彼女は僕の胸に顔を埋めてすすり声を上げる。

 頭の中が、真っ白になっていた。

 いろいろな言葉が、情景が、リフレインする。

 

 ――ふと、そばに彼女以外の気配を感じて、視線を上げる。


「いよう、団長。もう十分休んだだろう。ぼちぼち前線に戻ろうや」


 戦士。アタッカーとして活動していた彼に無理を言って、今回は盾役――重戦士型の装備で参加してもらっていた。傷だらけの顔は非常に強面で、三十代というアバターの年齢もあって、頼もしい貫禄を醸し出す最古参の一人。

 頭から流れる血を拭い、不敵な笑みで僕を見下ろしていた。


「《セブンス・ソード》使えるの、今のところ団長だけなんすから、はよ戦ってくれんと困るっすよ」


 剣士。整った顔立ちの彼の浮かべる表情は、いつもどうしてか軽薄さがつきまとい、よく副官の彼女から遊び人扱いされていた。

 今もへらへらとしたしまりのない笑みで、青年剣士は僕を見下ろしている。


「ファック。もうとっくに団長の傷は完治しているんだから、いつまでもずる休みしてないでよね」

 

 僧侶。支援職であるのに短気で喧嘩っ早く、いつもファックファックと口癖のように言っていた。腰に手を当ててマナポーションをぐい呑みする彼女は、ただでさえきつい目元をさらにつり上がらせ、僕を見下ろしている。


 彼らと僕と副官の彼女を含めて五人。

 それがギルド《神聖十字騎士団》の結成メンバー。

 出会い、衝突、和解――一言では表せない様々な出来事があり、その果てに僕らは誓いを立てた。

 一万人のプレイヤー全てで現実に帰るのだと。

 そのための《神聖十字騎士団》。

 攻略とプレイヤー保護を両立させる、下手をすればどっち付かずの中途半端なものになりそうだったギルドを、今のところそれぞれの努力で並び立たせていた。

 

 強く、なりたかったのだ。

 誰かに守られるだけの、無様な自分から脱却したかったのだ。

 だから大見得を切った。

 現実ではただの大学生でしかない僕にそんなことが出来るとは、実のところ思っていなかったのだ。

 根拠も証拠もなにもない、ただの平凡なプレイヤーの妄言、大言壮語。

 けれど変わりたかったから、変えたかったから、そう、僕は彼らの前で、誓ったのだ。

 

「ああ――そうだったな」


 僕の分を越えていることなんて、初めから分かっていたのだ。

 それが張りぼてだと、大見得でしかないことなんて、理解していたのだ。

 それでも、決めたのだ。

 僕が、決めたのだ。

 誰かがやらなければならないことならば、僕がやるのだと。

 あの人のように、強く、在るのだと。

 

 ――きっと。

 あの人だって、そうだったのだ。

 痛みに涙をながすあの人は、決して強いといえる人ではなかったのだろう。

 最初からそう在ったわけではない。誰かに望まれたわけでもない。

 己で決めたのだ。

 言っていた。自分で決めた。だからそれは本当になるのだと。 


 そうやって、どんな痛みだって、あの人は耐え切ってきた。

 最期まで、そうやって生きたのだ。


 ならば。

 僕もまた、そう在らねばならない。


「僕は、生きている。ここに、いまだ生きている。ならば、立ち上がれない道理はない」


 本当は弱いままなのだとしても。

 あの人に依存していただけなのだったとしても。

 いまここで折れてしまえば、それは僕の誓いだけではなく僕を信じてついてきた彼らも、果てはあの人そのものまで、嘘にしてしまう。

 それだけは嫌だった。

 

「僕は、強く、在る。負けない。何が来ようと、負けるはずがない」


 ――たとえあの人が、もういないのだとしても。

 あの人がいるからじゃない。

 誰かに望まれたからじゃない。

 僕が、そう決めた。

 いま、そう決めた。

 だから嘘じゃない。それは本当なのだ。

 

「待たせた。ありがとう。もう、大丈夫」


 胸の中の彼女を、そっと離し、立ち上がる。

 そんな僕を、四人は笑って迎え入れてくれた。


「それでこそ我らが騎士団長だ」

 

 戦士が言う。

 

「遅いんすよ。あれっすからね、今回、団長のドロップなしっすから」


 剣士が言う。


「ファック。今度新しい杖買ってもらうから、覚えておきなさいよ」


 僧侶が言う。


「……だんちょの、ばか。女の子を泣かせるとか、最低なんですからね」


 そして、魔術師の彼女が、僕の胸を軽く叩いて、言う。

 そんな彼らを見回し、僕もまた、笑って答える。


「あのボスを倒したら、僕のポケットマネーで祭りだ。好きなだけ飲んで、食べて、騒ごう」


 装備を確認。問題ない。体力を確認。誰かが回復してくれたのだろう、こちらも問題ない。

 ――と。 


「はっはーん、そりゃいいこと聞いたなぁ」


 背後から、女性の声が掛かった。

 振り向いたそこには、際どい装備の女魔術師の姿。マナポーションだろう瓶に口をつけて一気に飲み干している。


「ぷはっ。んじゃあ、アタシら全員分、よろしく頼むよ騎士団長さん」


 ニヤニヤと笑う彼女は、次いで他のプレイヤーに向かって叫ぶ。


「おいテメェら! この戦いが終わったらお偉いギルドの団長様が奢りでなんでも飲み食いさせてくれるってよー!」

「なっ、ちょ」

「ひゃっほーい! じゃあ俺ワイバーン肉ね! 一度竜肉食ってみたかったんだよ!」

「来たこれ! 中央食堂のフルーツ盛り合わせ希望!」

「はいはいはーい! わたし東方の一番高い餡蜜ね!」

 

 次々にフロアのあちこちから声が上がる。

 どのプレイヤーもその顔には苦痛や疲労の色が濃いが、それでも無理して陽気に装っているのが分かった。

 この状況で士気を下げるような空気の読めない発言をするよりも、少しでも明るい話題に食いついて、未来に目を向けたいのだろう。

 そんなものを見せられて、今まで役立たずでしかなかった僕が、何かを言えるはずがない。


「はぁ……分かりましたよ。好きにしてください。お金なら、幾らでもだしますから」

「さっすが大規模ギルドのマスターは言うことが違うね。――で、頭の方はいい加減、冷えたんだろ?」


 彼女の口元はいまだニヤついていたが、その目だけはとても真剣なものだった。

 僕は頷く。


「先程は、すみませんでした。あなたのお陰で命拾いしましたよ」

「べっつにぃー。ただ目障りだからぶっ飛ばしただけだしぃー。……ま、テメェが暴走しなけりゃ、アタシがそうなってかもしれねーからな」


 ふと、彼女の表情が陰りを帯びる。

 だがそれも一瞬のことで、すぐにまた勝気なものに戻った。

 その眼差しは、はっとするほど強い。


「アイツは再起不能になんか、なっちゃいねーさ。きっと今も、宿屋のベッドの上で、痛みにえぐえぐ泣いてるに決まってる。だから、早く迎えにいかなくちゃならねーんだよ」


 言うほど、そのことを信じているわけではないのだろう。声にはどこか自分へと言い聞かせるようなところがあった。

 現在のところ、デス状態になって正気を取り戻したというプレイヤーの話は聞いたことがない。

 そのことは彼女も分かっているはずだ。

 だがそれでも、信じたいのだろう。

 ――その気持ちは、僕にも分かった。


「そう、ですね。なら、そのためには一刻も早くボスを倒さなければいけませんね」

「はっ、いうじゃねーか。さっきまでウダウダやってたくせに」


 鼻で笑う彼女に、僕の隣で副官の彼女がムッとする気配。

 他の三人は苦笑している。


「だが、テメェのいうことも最もだ。さっさとあのクソゴブリンをぶっ殺して、街に帰るぞ」


 そう言って、再び戦線に飛び出した彼女の後を追って、僕らもまた駆け出した。

 勝つ。

 勝って、帰るのだ。

 街へと、

 そしていつかは現実へと。

 

 ――そう、決めた。











 それはようやく終わりが見えてきたと、誰もが思っていたときだった。

 名も無きゴブリンの全身は、無事なところがないほどに傷まみれであった。

 四肢の欠損こそないものの、鎧のほとんどは砕かれ、剥き出しになった緑色の肌には数え切れない無数の傷。また身体のそこかしこには弓兵の放った矢尻が突き刺さったままで、特に目立つのはその右目に突き立ったものだろう。

 ゴブリンの身は真に満身創痍で、人と同じ赤い血に塗れ、その姿はまるで溺れているように見えた。


 そのゴブリンが、一人の戦士の鉄球を受けた時、がくりと膝をついたのだ。

 その光景に、プレイヤーがざわめく。

 戦闘開始以来、このボスが膝をついたのは、ただの一度だけ。


 ――ひゅごう、と風が吸い込まれる音。


 次に起こることを、プレイヤーの誰もが知っていた。


「耳をふさげぇぇぇぇぇぇ――――――――!!」


 誰かが叫び、プレイヤーは一斉に装備を手放し、両手で耳を押さえる。

 その直後、空気を震わせる轟音がフロア全体に響き渡った。

 耳を塞いでなお、頭を揺らす雄叫び。


 ハウリング。


 プレイヤーを短時間の行動不能状態に陥らせるスキル。

 しかし最前線で戦うプレイヤーが、一度受けた攻撃をまた間抜けに食らうはずもなく、今度は一人として崩れ落ちることなく耐え切った。それでも幾らか意識が朦朧とするものの、堪え切れないほどではない。


 だが、それは確かな隙だった。


 叫びが消えた後、フロアにいる者の中で最も早く行動したのは、ゴブリンだった。

 術後硬直などまるで存在しないかのように手近にいたプレイヤーに斬りかかる。

 一閃。

 二閃。

 三閃。

 四閃。

 五閃。

 六閃。

 ――止まらない。見れば、いつの間にか、ゴブリンの手にする大剣がふた振りに増えていた。

 両手に握った大剣で、ゴブリンは直前まで自分を囲んでいたプレイヤーを縦横無尽に切り刻んでいく。

 しかも、彼らはみな、タンク系の戦士。

 両耳を塞ぐために盾を手放していた彼らに、その攻撃を防ぐ手立てはなかった。

 あっという間に地面に倒れ伏していく彼らを見て、僕は咄嗟に飛び出していた。

 まだ間に合う!

 まだどのプレイヤーもアバターをロストしていない。 

 

「クソったれ! スキル直後に、アレとか、どういう反則だよ!」


 運良く僕と同じく後方に退避していた女魔術師も、後を追ってくる。

 それに答える余裕もなくボスに全速で突っ込んだ僕は、倒れた戦士に止めを刺そうと振り落とされた大剣を自らの剣で受け止めた。

 

「がぁッ」


 重い。重すぎる。押しつぶされそうになって、身体が沈む。

 先程までより、更にステータスが強化されている。

 さらには――。


「チィィッ!」


 同じ威力の剣がもう一撃、横合いから迫ってくるのだ。

 一瞬の判断。頭上で鍔迫り合いをしていた剣を横に滑らせ、軽くなった身体を後ろに下がらせる。唸りを上げた大剣が前髪を揺らし鼻先を掠めていく。だが息をつく間もなく、次々に追撃が襲ってくる。

 その攻撃は荒く大振りだが、その分速い。

 おまけに先までの二倍の手数だ。まさに猛攻といった言葉が相応しい勢いだった。

 多少の無理をすれば距離を取ることも出来そうではあったが、そうすることは出来ない。

 運悪くスイッチするタイミングでのハウリングだったのだ。直後の猛攻でこの場に存在する全てのタンク系プレイヤーがダウンしてしまった。

 彼らが復帰する間、誰かがボスの気を引きつけておかなければならない。今はようやく倒れたプレイヤーを後方に避難させたというところだ。先は長い。


「とは、いう、もののッ」


 さすがに、無理がある。剣士は決して防御力が高いわけではないのだ。大剣を受け止めるだけで、着実にダメージが増えていく。

 女魔術師が背後から攻撃を加え、他にも駆けつけた攻撃重視型の戦士や剣士などが囲むが、今の強化されたボスの一撃を受けただけで行動不能になりかねない。

 今も、一人の剣士が攻撃を避けそこねて、吹き飛ばされた。

 素早さ重視だったのだろう、軽装備だった彼はそのまま身動きできずにいるところを、魔術師に引きずられていく。

 じわじわと追い詰められているのを実感する。

 積極的に攻勢に出ていない状況でこれだ。一斉攻撃を掛けてボスを仕留めてしまうという手もあるが、タンク系がいないこの状況では、失敗したら即全滅だろう。

 今は慎重に行くしか無い。

 

「盾はまだかッ! こちらもそろそろ限界だぞ!」


 プレイヤーの一人が叫ぶが、それに返ってきた答えは、決して良いものではなかった。


「駄目だ! 復帰できそうなのは半分以下だ! 他は意識を失ってる!」

「くそっ! 仕方ない、そちらを優先して――」


 言葉はそこで遮られた。

 ゴブリンの持つ大剣が、黒い光を帯びたからだ。

 自分の顔が引きつるのが分かる。

 

「麻痺来るぞ! 避けろぉぉぉぉ!」


 これまでの何度かの発動で分かったことだが、このボスの麻痺攻撃は、通常のスキルのようにモーションが設定されているわけではない。一定時間武器に麻痺属性が付与され威力も増加されるというもので、直撃せずとも受け止めたり掠ったりしただけでアウトだ。

 防ぐには、ひたすら躱すしかない。

 だがゴブリンを囲んでおり、更には二刀流で縦横無尽に猛攻を仕掛けてくる現状、完全に避けられるものではない。

 数人のプレイヤーが麻痺効果を受け、崩れ落ちる。

 彼らへ追撃しようとするボスの注意をひくために、危険と分かっても敢えて攻勢に出るしかなく、結果的に、更に数人麻痺に陥ったところで、ようやく黒いエフェクトが消える。

 

「なんてこった! 麻痺解除薬はもうないんだぞ!? 自然回復を待つまで復帰できない!」

 

 プレイヤーの悲痛な叫び。

 そもそもが今のところ麻痺攻撃を使ってくるモンスターはほとんどおらず、もっと上のレベルでの運用を想定しているのだろう解除薬は非常に高価で、生産方法もまだ判明していない。結果、今回の戦いにおいてはポーションやマナポーションが所持アイテム制限数の半ばを占めることになり、麻痺解除薬は最低限の数しか揃えていなかった。

 回収されていくプレイヤーたちを横目にしながらも、僕は更に激しくなったゴブリンの攻撃を捌くのに必死だった。前衛の数が減り、一人あたりの負担が増しているのだ。既に限界が近い。タンクはまだなのか。せめて彼らが復帰してくれればだいぶ楽になるのだが――。

 だが、その知らせよりも早くもたらされたのは、この戦闘が始まってから最も悪い知らせだった。


「――ポーションが、尽きたッ!」


 すぐには、理解出来なかった。

 理解した後で、血の気が引いていく音を、聞いた気がした。

 動きを止めず、思考コマンドでアイテム欄を開く。戦闘中故に視界の端に現れた半透明のウィンドウを横目で確認するが、まだゼロにはなっていない。だがいつの間にか、一桁まで減っていた。

 それぞれの報告が口頭でなされるが、どれも二桁を割っておりゼロの者もいる始末。いまだ中級ポーションは解禁されておらず、体力を全開させるにはノーマルポーションを何本も使用しなくてはならない現状では、合わせても絶望的な数しか残っていない。

 完全に尽きるのは目前だった。


 ここに至って、僕たちは決断せざるを得なかった。

 犠牲が出るのを覚悟で、攻勢に出るしかない。

 

「一斉攻撃に出るぞ! ここで叩くしかない!」


 僕の叫びに、賛同の声が上がる。誰もが、理解しているのだろう。

 失敗すれば僕らを待っているのはおそらく全滅という最悪の結末だろうが、これ以上長引かせても状況は悪くなるだけだ。

 やるしか、ない。


「――総員、突撃ィィィィ!」


 復帰したタンクと共に、僕らは半ば捨て身の攻撃を仕掛けた。










「ぐ……はぁ、はぁっ……く」


 静まり返った場に、荒い呼吸の音が響く。

 震える膝を叱咤し、倒れてしまいそうになるのを堪える。

 腕が重い。

 あれほど容易く扱っていたのが嘘のように、手に握る剣が重く感じる。

 視界の右端が、赤く染まっている。

 頭から流れた血が目に入ってしまったのだろう。それを拭う体力も気力も、今の僕には残されていなかった。


「たお、れろよ……いい加減、倒れろ、よ、この……」


 目の前にはいまだ立ち続けるゴブリンの姿があった。

 右腕が失われ、血の赤にまみれ、威圧感のようなものも消え、虫の息というのが相応しい状態だというのに。

 それでも倒れることがない。

 ボスの前に立っているのは、僕と女魔術師の彼女だけだった。

 他のプレイヤーは、みな力尽き、後方に引きずられていった。

 

 ――五人、死んだ。


 麻痺に掛からず早く戦線に復帰したタンクが、二人、まず死んだ。

 その後、代わりに盾役を引き継いた戦士が一人、剣士が二人死んだ。

 他のプレイヤーは辛うじてデスは免れていたがポーションが尽きたため、後方で瀕死の状態で倒れている。

 僕と彼女だって、似たようなものだ。

 もう体力は残り少なく、ポーションも、マナポーションも尽きている。あと一撃、たとえ直撃を避けたとしても、おそらくそれで終わる。

 

「……アタシが、先に行く。テメェが、止めを、刺せ」


 ボスと同じく、血だらけ、満身創痍の彼女が息も絶え絶えに言う。

 その眼差しはこの状況でもまだ力を失っておらず、鋭さを持って目前のゴブリンに向けられている。


「了解、した」


 声を出すのも億劫で、端的にそう返すのが精一杯だった。

 彼女のマナもこれからの一撃で打ち止めだろう。僕もまた、これから発動させようと考えているスキルでマナは空になる予定だった。

 それで倒せなければ、僕の全てがここで終わる。

 後方にはまだ後衛職のプレイヤーが生き残っているが、彼らのマナも既に尽きている。あるいは自然回復で初級の魔法ぐらい使えるかもしれず、かつ総掛かりで物理攻撃を加えれば瀕死のボスを倒せる可能性は残っているかもしれない。

 だがそれで生き残るのは精々数人がいいところだろう。

 最も容易であるはずの第一層攻略の結果が、ほぼ全滅。

 最前線のプレイヤーが総力を上げて挑んでそれでは、プレイヤー全体の士気は最低まで落ちるだろう。それがもたらすのは、以後の攻略の大幅な遅延。

 それはプレイヤーにとって大きなストレスになるだろう。現実の僕たちの身体がいつまで無事でいるかの保証など何もなく、そもそもが攻略自体が本当に脱出の手段であるかも分からない現状、それさえも困難であると周知されてしまったなら、そう遠くないうちにプレイヤーのストレスは暴発するに違いない。

 そうなった後に待っている混沌など、想像したくもない。


 そうさせないためにも――と、傲慢にもたった一人でこのゼイル全体の運命を背負ったつもりになるのはさすがに気負いすぎなのだろうが、そうとでも思って自分に発破を掛けなければ、とてもこの現状を乗りきれる気がしなかった。

 ここで決められなければ、僕の、僕らの全てが終わる。

 そう思うことにする。

 そう思えば、どこまでも突き進んでいけそうだった。

 

「――行くぜ」


 言葉少なに女魔術師が告げ、走りだす。

 その動きには戦闘開始当初の身軽さなど毛筋ほども感じられない。

 だがそれは相手も同じだ。


「――……――――」


 迎えるゴブリンの叫びに力はなく、残された左腕で振るう大剣も勢いがない。

 それでもその一撃は、当たれば容易く今の僕らを打ち砕くだろう。

 彼女は横薙ぎに振るわれたそれを、前のめりに倒れこむようにして、躱す。

 

「ッ――――!?」


 自重を支えきれなかったのか、ずるりと足を滑らせかけたが、歯を食いしばり辛くも堪えた。

 そして最後の力を振り絞るようにして力強く一歩を踏み込み、ゴブリンの腹部に入り込む。


「ッあああああァァァァァァ《フレア》ッ! 《バースト》ォォォォォォ――――!!」


 それはほとんど絶叫だった。

 大きく振りかぶった右手を、真っ赤に燃え盛る炎を、その鳩尾に突き上げるように叩きつけた。

 

 爆発。

 苦痛の叫びを上げ、ぐらりと傾くゴブリンの巨体。

 しかし、なお倒れず。


「――――――」


 それを目にするよりも早く、僕は駆け出している。

 スキルの反動を堪える力さえ失ったのか、こちらに向かって吹き飛ばされてきた女魔術師と入れ替わるように、ゴブリンに肉薄する。

 近づく敵を押しつぶそうと頭上から大剣が落ちてくる。

 しかし、遅い。

 走る速度をあげた僕の背後にそれは振り落とされ、その時にはもう、眼前にゴブリンのがら空きの腹。

 

 スキルを発動させる。

 最後のマナ。

 最後の力を、この攻撃に注ぎ込む。


『――これで終わらなければ、総員突貫しろ。僕も彼女も気にしなくていい。僕らごと、こいつを倒せ』


 発動の直前、全体チャットで告げて。

 僕のラストスキルが放たれた。


「――――――」

 

 《セブンス・ソード》。

 連続七回攻撃。

 設定されたモーションをなぞるようにして、僕の身体が半ば自動的に動いていく。

 袈裟の斬り下ろし。

 逆袈裟の斬り下ろし。

 右から左への薙ぎ払い。

 左下から右上への斬り上げ。

 天から地への唐竹割り。

 そして一瞬の溜め――縦横十字斬り。

 僕の身体の疲労など知ったことではないというような力強さで、都合七度の斬撃は振るわれた。

 

「――――――――!」


 空気を震わすゴブリンの叫び。

 それは苦痛の叫びか。

 断末魔の声か。

 大剣を取り落とし、よろめくように、一歩、二歩、後ろに下がっていく。

 膝から力を失い、後ろに倒れて――

 倒れて。

 倒れて。

 

 倒れて――いかなかった。

  

 寸前で堪えたゴブリンは、体勢を戻し、僕をその無機質な眼で睨めつけ、空手の左拳を握り、振りかぶり。

 ――振るった。

 迫る拳は、僕を終わらせる一撃は、ひどくゆっくりに見えた。

 限りなく時間が引き伸ばされていき、僕はいろいろなことを考えた。

 思い出すのは、なぜかこのゼイルに囚われた僅かな日々のことだけで。

  

 現実では、僕は何者でもない、平凡な、どこにでもいるただの大学生だった。

 けれど、僕は、この世界では確かに、何者かだったのだ。

 それがどんなものだったのかは、分からないけれど。

 確かに、僕は、僕として、ここに在ったのだ。

 思い出が、それを僕に教えてくれた。

 

 ――ああ、楽しかった、のかなぁ。


 辛いこと。悲しいこと。苦しいこと。

 それらに比べれば喜びや楽しかったことなんて、ほんの少ししかなくて。

 なのに、その少しが、とても、とてもとても、光り輝いていた。

 たくさんの辛く、苦しく、悲しいことが霞んでしまうぐらいに、僕の心を照らしていたのだ。

 

 僕はここで終わるだろう。

 だが、きっと、僕らは終わらない。

 あのゴブリンは、今度こそ、本当に、死ぬ一歩手前だ。

 生き残ったプレイヤーで総攻撃をかければ、非力な後衛職といえど、それほど多くの犠牲を出さすに倒せるはずだ。

 希望は残る。希望は続いていく。

 僕らは、負けない。

 それで、いい。この期に及んで思うことなど、それだけでいい。

 僕らは、やがて、この世界を越えていくのだ。

 

 奇妙なぐらい、晴れ晴れとした気持ちで、僕は瞼をそっと下ろした。

 暗闇の向こうに浮かぶのは、いつかどこかで見た、大きな背中。

 あの人の、縋ってしまいそうになる、頼もしい背中。

 ふと、未練が出来てしまった。

 せめて、最期に、もう一度だけあの人に――。

 

 遠いどこかで、副官の彼女の叫び声が、聞こえた気がした。






          **********






 ――その光景を、誰もが呆然と見ていた。

 マナの尽きた魔術師も、ポーションを失った僧侶も、矢の尽きた弓兵も、麻痺に掛かり倒れ伏したままの戦士も、瀕死の状態で意識が朦朧としていた剣士も。

 この戦いのリーダーであった剣士が斃れる姿を幻視し、特攻を掛けようと踏み出した足を止めて、それを見た。 その場に生き残っていた全てのプレイヤーが、それを目にしたのだ。


 剣士を背中に、両腕を交差させ、ゴブリンの振るった拳を受け止めた者の姿が、そこにはあった。

  

 黄金色の髪。

 肩まで伸ばされた絹糸の如きそれは、繊細に風に揺れ。

 宝石のように煌めく碧眼。

 吸い込まれそうなほど深い色を持つそれは、熾烈な輝きを瞳にのせ。

 薄く、艶やかな唇。

 桜色の細筆のようなそれは、内に秘めた激情を押し潰すが如く噛み締められ。


 ――それは、完成された美しさだった。

 男にも女にも見える、この世のものとも思えぬ容貌の持ち主だった。

 

 だが今、その姿は酷く泥にまみれている。

 金色の髪は血に塗れ、陶磁器のような肌は青白く、碧眼は充血し、目元や頬には涙の跡がこびりつき。

 身に纏う鎧も、至る所が傷つき、窪み、砕けている部位さえあり、白銀の輝きも汚れでくすんでいる。

 例えばそれを見た者が、ヴィーナスを信仰する画家であったのならば、酷く落胆したことだろう。

 余りに俗に落ちている、と。 


 だがしかし、それ故に、そうであるからこそ、その姿は、この場にいるプレイヤー全ての胸を打たずにはいられなかった。

 何故ならば、そのプレイヤーを、その重戦士の姿を、どれだけ無様を晒そうが折れず曲がらず自分たちの前に立つ大きな背中を、誰もが知っていたからだ。

 ここに存在するはずがなかった。それはもう、永遠に失われてしまった尊い何かであったはずだった。

 だがそれは、ここにしかと在る。

 どのような奇跡か、それは再び彼らの前に姿を現したのだ。 

 そして、それを口にする。

 今にも泣き出しそうな顔を見せながら、きつく唇を噛み締めながら、誰もが聞き覚えのある声を震わせて、言うのだ。




「我ッ……参上! 再び、ここに、参上したァッ!!」




 高らかに、声は鳴り響く。

 どこまでも力強いそれは、聞いた者の心を、ひどく震わせる。

 絶望と悲哀に満ちていた空気が、たった一言で吹き払われていく。


「二十、四人……五人、いなくなった。五人、失われた……! 五人が、仮初の命を、散らした!」


 いまだ乾ききっていない頬を、その美しい相貌を、再び幾筋もの涙が濡らしていく。

 彼らの死を悼んでいるのだろうか。

 彼らを守りきれず先に脱落した己の不甲斐なさに憤っているのだろうか。

 ――だが、その瞳は、なおも輝きを増して意志の光に満ちていく。


「だがッ! だが、何も失われてなどいない! 全ては仮初なのだ! 我らを囚えるこの世界のなにもかも、夢幻に過ぎぬ! ――我らの命さえもだ!」


 力強さを増した声は、空気を震わせていく。


「ならば――ならば、耐えられる。耐えられるのだ。死をもたらそうとする痛みも、苦しみも、恐怖も全て、どれだけそれが真に迫っていようとも、そんなもの本当はどこにも存在しないのならば、耐えられぬ道理はないのだ……!」


 他の者が口にすれば妄想にしか過ぎぬと鼻で笑っただろう。

 だが、この場においてそれを出来るものなどいはしなかった。


 それは、どれだけの痛みだったのだろうか。どれだけの苦しみだったのだろうか。どれだけの恐怖だったのだろうか。

 泣き喚いたのだろう。暴れまわったのだろう。全身の血の気を失うほどに、怯え、竦み、慄いたのだろう。

 この場に現れた時の姿を見れば、それは瞭然であった。


 だがそれら全てを乗り越えて、重戦士は、ここに立っていた。

 全身の鎧を襤褸のようにさせながら、砕かれた兜をかぶり直す余裕もなく、死より蘇った状態のままで、単身この一層最奥まで我が身を省みず駆けつけたのだろう。


 ならばそれは、真なのだ。

 それを可能にする者がどれだけ稀であろうとも、可能性は、決して、ゼロではないのだ。

 それは。 

 それは、なんという――。


「この世界で失われるものなど、なにも、ない! 我らは何一つ失わぬ! かけがえのないたった一つを、我らは既に持っているのだから! この世界において唯一の真を、最初から最後まで、この手に握りしめているのだから!」


 それは世界に対する、宣言だった。

 このどうしようもない世界へと、告げる言葉だった。


「――だから」


 重戦士の貫くような眼差しが、眼前の名も無きゴブリンへと向けられた。


「だからうぬら幻想如きが、我らを傷つけることなど、出来るものか! 我らの歩みを、邪魔立てするなァァァァァッ――――!!」


 叫びが放たれ、重戦士は、ゴブリンの拳を大きく弾き返した。

 まるで気圧されたように、その巨体を後退らせていく。

 それを一瞥した重戦士は振り返り、背後の全てのプレイヤーに、言う。

 己の胸に拳をあて、彼らに突き出し、告げる、


「信じよ! それは、ここに在ると! この世界にあるただ一つの本当。人の意志が生む黄金色の輝き。それこそが如何なる苦難においても我らを前へと進ませ、光となって夜を越えさせていく」


 重戦士の周囲の空間が輝き、そこから、まるで雨粒のようにたくさんのなにかが地面へと落ちていく。

 硬質な音を立てて転がるそれらは、全て、ガラスの瓶。

 ポーション。

 マナポーション。


「我らが意志を持ち続ける限り、それは我らと共に在り続けるのだ。三度地に伏そうとも、四度立ち上がらせる。だから我はそれをこう呼んでいる。――黄金方程式、と」


 重戦士の足元の剣士が、震える腕を伸ばし、その瓶を手にとった。

 倒れ伏していた女魔術師が、その瓶を握り、叩き割った。

 瀕死であったはずの戦士が立ち上がり、よろめきながらも近寄り、握りしめる。

 立ち尽くしていた魔術師が、肩を貸していた弓兵とともに、それを拾った。


「我は信じている。我は信仰している。我の、うぬらの、黄金色の輝きを。だから、今はその心を休めている者たちも、いずれ再び立ち上がる。そう決めている。だから、我は、言うぞ。うぬらに、この場にいないこの世界の一万九百三十五人すべてのプレイヤー全てに」


 前に向き直り、重戦士はその手に大盾を召喚する。

 腰を落とし、構え、怯えたように巨体を竦ませるゴブリンを睨めあげて、告げる。






「立ち上がれ! 武器を取れ! 足を踏み出せ! 我ら全てでこの世界を越えてゆくぞ――――!」






 叫声が、フロアを満たした。

 戦士に、剣士に、魔術師に、僧侶に、弓兵に、彼らの胸の中に、それは確かに在った。

 目に見えることはない。手に触れることはない。

 しかし確かに、それはそこに、在ったのだ。


 それが言っている。

 戦えと。立ち上がれと。歩き出せと。

 あらゆる困難を打ち砕いてゆけと。

 

 だからそうする。

 そうせずにはいられなかった。


 一人残らず立ち上がり、武器を構えて、一心に駆け出していく。

 そこに悲壮さなど欠片もない。

 ただ在るのは、強い意志だけだ。

 眼前の敵を越えていくという、揺らがぬ思いだけだ。

 

 だから、その結果は語るまでもないだろう。

 全ては、水が高きから低きに流れるように、当然の帰着を迎えるのだから。

 プレイヤーの波の中に、名も無きゴブリンは消えていく。

 感情なき人形であるはずの彼の眼は、酷く揺らぎ、なにかの色を宿らせ、どうしてか重戦士だけをまっすぐ見据えて――。


  




 ――そうして、メインダンジョン第一層ボス、《忘失された名も無き子鬼族の英雄》は五人の犠牲を出しながら、攻略されたのだ。














 彼が光の粒子となって消えていく中、その言葉を耳にした者は、その場のどこにもいなかった。

 

「おうごん……! おれはまた、おうごんにまけるのか――――!」 

 


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