表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

2025/04/10 (1)

 ――それを目にして、叫び声をあげたのは誰だったのか。

 彼かもしれないし、彼女かもしれないし、あるいは自分かもしれなかった。

 だがその光景が、この場の誰にとっても絶望的なものであることだけは確かだった。

 消えていく。

 光になって消えていく。

 あの人の身体が、心が、失われていく。

 

 知らず、手をのばした。

 そうすれば、なくなっていくなにかを掴み取れる気がしたのかもしれない。

 けれど、指先は届かなかった。

 なににも、触れることなく、あの人の全ては世界に溶けていってしまった。


「あぁ……ああああ、ああぁぁぁぁぁ」


 引きつった喉から、声が漏れでた。

 自分のものとも思えない、酷く、情けない呻き声。


 のろのろと視線をあげる。

 そこにそれはいる。

 身の丈を優に超える、山のような巨体。

 緑色の肌をした、赤い眼の化け物。

 錆びた鎧に錆びた兜に錆びた剣。

 赤錆にまみれた、このフロアのボスモンスター。


 ――《忘失された名も無き子鬼族の英雄》。


「おまえが……おまえがぁッ……! おまえがぁぁァァァァァァ!」


 化け物は何も答えず、ただ無言でその剣を振るうだけだった。






          **********






 ゼイルのメインダンジョンは始まりの街――中央都市アインフェリアの地下に存在する。

 アインフェリアはその名が示す通り大陸中央に位置する街で、プレイヤーからは簡単に『中央』、『中央都市』と呼ばれることが多い。大陸には他に四つの都市があり、北方都市ザインフェリア、東方都市ラインフェリア、南方都市マインフェリア、西方都市ウェインフェリアと名付けられている。

 名前の通り、中央都市を中心に東西南北に位置するそれらの街は、例外なく地下にダンジョンを有している。中央都市のそれをメインとするならばそれらはサブとも呼ぶべきもので、階層も同じく十層、十のフロアボスが存在する。

 メインダンジョン攻略はそれら四都市のサブダンジョンと連動して行われる。というのも、メインダンジョンのフロア解放条件が各都市の同フロアボスを倒すことだからだ。つまりメイン一層を攻略するためにはまずサブ四つの一層を踏破する必要があるわけだ。そうして初めて、中央都市のメインダンジョン一層の扉が開かれる。


 ゲーム開始より一ヶ月、現在最前線の攻略組は四つのサブダンジョンを踏破し、開かれたメインダンジョン一層を攻略し、ついにはフロアボスに対面するに至った。

 討伐戦に参加するプレイヤーの数は最大制限数の30人。最前線で攻略する各ギルドの精鋭と彼らによって声をかけられた選りすぐりの無所属プレイヤーで構成されている。今回人を集めるにあたって最も重視されたのは、壁役となる高レベルのタンク系プレイヤーだ。

 ペインレベル完全解放により受ける痛みが現実と変わりない現在のゼイルでは、盾役のプレイヤー数が激減してしまっている。その中でさらに高レベルとなれば、なおさらだ。おまけに初めてのメインダンジョンフロアボスということで腰がひけてしまい、想定レベルに達していても参加を拒否する者もいたのだから、最低限必要な数を揃えるのだけでずいぶんと難儀した。

 だがその各ギルドの必死の勧誘や説得の甲斐もあって、なんとか事前に想定していただけの数は揃えることができた。


「やれやれ……ようやくここまで来たか」


 目の前に聳え立つ重厚な扉を見上げて、思わず口をついて出た言葉に、隣で苦笑する気配がある。

 そちらを向けば、赤髪をショートカットにした女性型アバターの姿。年の頃は十代後半ぐらい。黒いローブですっぽり全身を包み、手には節くれだった木製の杖が握られている。騎士団結成当時から僕のギルドに所属する最古参メンバーの一人で、今では僕の副官のような立場にある魔術師だ。


「確かにうちのギルドは行き場のないプレイヤーの受け皿としても機能していますから所属人数も多いですけど、積極的に攻略に参加しているのはその中でもごく僅かでしかありませんからね、盾を集めるのにとんでもなく苦労しましたよね」

「ははは、まぁ、そこは仕方がないさ。誰だって痛いのは嫌だろうし、無理強いすることもできないよ。それでも参加ギルドの中では一番多く盾役を出すことが出来たんだから、僕はこのギルドを誇りに思うよ」

「キリッ」

「おいおまえ。やめないか」

「だってだんちょのセリフくさいんですもん」

「やれやれ、これだから心の汚れた子は。僕が子供の頃はもっと素直な良い子だったぞ」

「子供扱いしないでください。大体だんちょ、本当はいくつなんですか。おっさんですか」

「秘密」


 そんな会話をする僕らを見て、同じギルドのメンバーはやれやれといったように首を振る。どうやら無駄な力は抜けてくれたらしい。先程までのぴりぴりとした空気は鳴りを潜めていた。


「じゃあ中学生ですね。《神聖十字騎士団》とかおもいっきり厨二じゃないですか」

「よし決闘だ。僕が一晩徹夜して考えた素敵ネームを厨二扱いするとか、ギルドマスターとして許すことはできん」

「キリッ」

「……好きだね、きみ、それ」


 僕が溜め息を吐くと、彼女がなぜか勝ち誇ったように胸をそらした。

 ――ギルド、《神聖十字騎士団》。

 それが僕がマスターを務めるギルドの名前だ。ゼイルの中で最も規模の大きいギルドであり、ゲーム開始初期より攻略の最前線に立ち続けているトップギルドの一つ。もっともメンバーの半数以上は初心者や一人でいるのは心細いという理由だけで入団したライトプレイヤーが占めるので、攻略という側面でいえば他のギルドに比べてそこまで突出しているというわけでもないのだが。

 それでも知名度でいえば現在の全ギルドの中でもナンバーワンだろうそのギルドのまとめ役を、何の因果か現実では平凡な大学生でしかない僕がやっているのだから、人生、なにが起きるかわからない。正直自らの分を超えに超えまくっている感があり、時折何もかも投げ出して一人逃げ出したくなる時もある。あるのだが、今のところそうせずに済んでいる。

 それはきっと、騎士団結成時より僕と共に戦い続け、すぐそばで支え続けてくれている目の前の彼女や他の最古参メンバーのおかげだろうし、また、そんな僕らが常に最前線で後ろのことを気にせず戦えるよう様々な雑務を肩代わりしてくれている、攻略を僕らに託した他のギルドメンバーのおかげでもあるだろう。

 ――そしてなにより。


「おい、そこな魔術師よ。ところで我には朝から気になっていることがあるのだが」

「なにさ、そこの重戦士。言いたいことがあるなら言ってみりゃーいいんじゃない」


 僕が動かした視線の先では一人の重戦士と一人の女性型アバターが、ボスの間の扉を見上げたまま横に並んで会話を交わしていた。

 女性型の容姿は二十歳手前ぐらいの年頃で、黒い地肌に黒い髪。格好は、僕の副官の彼女のいかにもといった装備ではなく、真逆の――つまり胸元や太腿を露骨に強調するような、きわどいものだった。まるでビキニのような姿だが、確かメイジ系のレア装備であったはずだ。とするなら、おそらく女性の職業は魔術師なのだろう。

 一方、重戦士の方は白銀に輝くフルプレートアーマーで全身を覆っており、そのアバターがどのような容姿をしているか外からでは全くわからない。声も男とも女ともつかぬ中性的なものであり、どこか浮世離れした印象を抱かせる。

 その重戦士の名を、僕は知らない。

 しかしその姿だけは、今でも鮮烈に覚えている。

 

 ゲーム開始直後、まだ騎士団が結成される前のことだ。

 痛覚の完全解放、ログアウト不能、外界との隔絶といった想定外の状況に誰もが混乱し、右往左往していた頃。

 その時の僕はいまだ騎士団の初期メンバーと出会ってすらおらず、野良で組んだパーティでクエストをこなしていた。

 どれも低レベルの初心者用クエストだったが、その時期ほとんどのプレイヤーは状況の急激な変化についていけず困惑して街中に引きこもっていたため、当時としてはだいぶ活動的だったように思う。痛覚に関しても、出会うのはどれも雑魚モンスターばかりだったので攻撃を受けても大したダメージにならず、耐えられないほどのものではなかった。

 有り体にいえば、調子に乗っていた。僕も、僕が組んだ幾つかのパーティのメンバーも。

 みなが痛みに怯え萎縮している中で、自分たちだけは勇敢に戦い、この世界に立ち向かおうとしている。なんて情けないプレイヤーたち。なんてすごい僕ら。

 この世界の本当の姿をまだ知らなかった当時の僕たちは、自分たちの行動に酔い、調子に乗り――知らず破滅への一歩を踏み込んだ。


 初心者用クエストに飽き飽きしていた僕らは、ついには北方都市サブダンジョン攻略へと乗り出したのだ。上手くいった。上手く行きすぎた。大した苦労もせずあれよあれよという間にボスフロアまでたどり着き、そこで初めて僕らはこの世界の過酷さを身に受けることとなった。

 その時僕らは五人組でパーティを組んでいた。戦士、剣士、僧侶、弓兵、魔術師というバランス重視の組み合わせだったが、戦闘開始直後、まず戦士がボスによる一撃を運悪くクリティカルで受けた。体力ゲージの減少は半分程。大ダメージだが、通常のMMOであればそこまで致命的なものではない。だが一瞬でそれほどのダメージを――痛みを受けたのは、これまでで初めてのことであり、耐性が出来ていなかった戦士はその一撃で失神した。

 次に剣士である僕が呆然としているところを襲われ、脱落した。三分の一ほどのダメージしか受けていなかったというのに、その痛みはこれまでの人生において最も強烈なものだった。立ち上がることすら出来ず、情けない悲鳴をあげながら無様に地面をのたうち回ることしか出来なかった。

 前衛二人を失った残りの三人が同じように倒れ伏したのは、それからまもなくの事だった。

 誰も彼もが泣き声と悲鳴をあげて、虫けらのように地面を転がっていた。あまりの激痛に回復薬を使うという選択肢さえその時の僕らの頭からは消え去っていた。止めを刺されるまでもなく、既に僕らは終わっていた。

 本来であれば、僕らはその時に、この世界から脱落していたのだろう。自分たちの愚かな行動のつけを、自分たちの身体で支払うはずだった。精神死という結果で。


 ――けれど、そうはならなかった。


 あの人が、そこに現れたからだ。

 全身を光り輝くフルプレートアーマーで覆った一人の重戦士。

 きっとあの人は、偶然救ったプレイヤーの一人でしかなかった僕のことなど、覚えてはいないだろう。

 でも、僕は覚えている。その時の姿を、言葉を、いまでもはっきりと覚えている。

 忘れられるはずもない。

 あの人がいたからこそ、あの出来事があったからこそ、今の僕が、今の《神聖十字騎士団》があるのだから。


 今の僕は、あの憧れた背中にどれだけ追いつけただろうか。

 その結果は、きっとこれからの戦いで示されれるだろう。

 わずかに脈打つ心臓をなだめ、気を落ち着けるために一度大きく深呼吸する。そうしていると、ふと彼らの会話が耳に入った。


「――だから、なんでアタシがテメェなんかの着替えをのぞかなきゃならないのさ。そんな変態みたいなことするわけねーだろ」

「……我だってそう思う。しかし、確かにあの時、誰か、のぞいてた。はぁはぁ言ってた」

「はっ、だったらなおさらそんなのアタシじゃねーし。テメェの裸になんてぜんぜん興味ねーし。大体、のぞいたのぞかれたとか、そんなの気にするテメェは男なのか女なのかいい加減はっきりさせろよ」

「我は我だし。男とか女とか関係ないし」

「まぁーたソレね。はいはい、そうでちゅね、重戦士さんはおとこのことおんなのこの違いもわからないお子ちゃまなんでちゅもんねー」

「う、うぬ、我を馬鹿にするか! そんなの、我、知ってるし。知りまくってるし。知りまクリスティーだし」

「……ふーん。じゃあ教えてよ。アタシの身体を使って、じっくりとさ」

「ばっ、ばっかじゃん!? うぬ、ばっかじゃん!? へんたいめ! このへんたいへんたいへんたい!」


 指をつきつけて動揺の声をあげる重戦士を、女魔術師はニヤニヤした顔で眺めている。


「……なにを、ニヤニヤしてるんです、だんちょ?」

「え?」

 

 突然、横合いからそんなことを言われて、僕はきょとんとする。

 副官の彼女が、なぜかジト目で僕を見上げていた。


「いくらあの女の人が破廉恥な格好をしているからといって、そんなすけべぇな顔で見ているなんて……見損ないました。幻想が崩れ落ちました。さわやかイケメンな顔の裏に、そんなえろえろな本性を持っていたなんて」

「いや、なんのこと? いま僕、そんな変な顔してた?」

「してましたっ。とっても下衆い顔してましたっ」


 不思議なことをいう子だ。僕があの人を見てそんな顔をするわけないというのに。

 きっと緊張しているのだろう。そうだ。そうに違いない。

 僕はうんうんと頷くと、彼女の頭をゆっくりと撫でてやった。


「大丈夫。そんなに緊張する必要はないさ。いつもの通りにやれば、いつもの通り、みんな無事で帰ってこれる。僕が、連れ帰る。だから心配するな」

「……いや、なにを言ってるのか……いや、もう、いいです」

 

 もごもごと何かを呟いて、うつむいてしまった彼女を見下ろし、さて、と僕も気分を入れ替える。

 緊張しすぎなのも問題だが、気を抜きすぎるのも良くない。

 メインダンジョンのフロアボス戦はこれが初めてなのだ。なにが起きてもおかしくない。

 殊に、これまでの例からいっても一度ボスの間に突入すれば後退は不可能となるはずだった。つまり、一度戦闘に突入してしまえば、その部屋から出るにはボスを倒すか、自分が死ぬかしないということだ。だから通常のMMOと異なり死に戻りができないこの世界では、偵察や様子見などという手段は存在しない。

 後にも先にも一度限りの一発勝負。仕様として後から戦闘に参加することも可能だが、生きるか死ぬかの瀬戸際にそんな戦力を残しておく余裕など現在のプレイヤーたちにはない。最初から最大戦力。ボスを倒しきるか、全滅するか。フロアボス戦に挑むプレイヤーに待っているのは、そのどちらかだけだ。

 けれど。

 それでも。

 ――僕らは一人残らず無事に帰る。

 いつだって、そう決めていた。たとえ結果として犠牲者が出てしまうのだとしても、その気持ちだけは決して捨てなかった。

 それが、あの人が教えてくれた、大切なことだから。

 辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、いつだってあの言葉が僕の心を勇気づけてくれたのだ。

 だから、今日も僕は往く。

 いつかこの世界を越えてゆくための一歩を、また踏み出すのだ。






**********






 ――そのフロアは酷く殺風景だった。

 広さは運動場程で天井は野球場のドームのように高くゆるやかな球状になっている。壁も床も天井も装飾の類が一切無い無骨な石造りで、年代により風化したという設定なのかそこかしこがひび割れ砕けている。灯り等は一切ないが、そこはゲーム故にだろう、目視するに不便ではない程度には明るい。

 その間には、なにもなかった。石造りの、ただただ広大なだけの空間が続くそのフロアはひどく寒々しい印象を僕らに与える。

 しかし。

 フロアの最奥、他より二段三段高くなった場所に、この部屋唯一の例外があった。

 ぽつん、とまるでそれだけが取り残されたかのように据えられた調度品。

 人が座るには巨大すぎる古びた玉座――かつてはきらびやかであったのだろうそれは、無残にも装飾が剥がれ落ち、今ではもう見る影がないほど劣化していた。 

 その玉座に、このフロアの主は、黙して腰掛けていた。

 濁ったような黄色い瞳に、緑色の肌の子鬼族――ゴブリンである。だがその身体は種族の名に反して天をつくばかりに大きく、その身の丈は人間のそれを優に超えるだろう。全身を包む鎧はどこも赤茶に錆び付いており今にも崩れ落ちそうで、彼の座る玉座と相まって、まるで時より忘れ去られてしまったかのような有り様だった。

 彼は感情の見えない冷たく機械的な眼差しでこの場に現れた僕らを睥睨していた。

 だがやがてゆっくりと立ち上がるとその右手を天にかざす。すると光の粒子が彼の手元に集まり、一振りの大剣を形作った。プレイヤーの身長ほどもあるだろうその剣もまた、鎧と同じく赤錆に塗れていた。

 その時になって、ようやく彼の名――フロアボスの名称が表示される。


 《忘失された名も無き子鬼族の英雄》。


 体力ゲージは表示されない。ゼイルの仕様の一つだ。そのため体力の減少による行動パターンの変化でモンスターの残存体力を把握する技能が、対モンスター戦では必須とされている。それを見誤れば、待っているのは自らの破滅である。

 ――そうは、させない。今日もまた、勝って、生き残る。生き残らせる。

 それもまたリーダーの重要な役割の一つだ。


「総員、散開! 配置につけ!」


 僕の声に、すべてのプレイヤーたちが事前の打ち合わせ通りに各ポジションに移動する。

 今回の戦の一応の指揮は、最も多くのメンバーを参加させている《神聖十字騎士団》のギルマス――つまり僕が執ることになっていた。幸い、こういった役目を負うのも初めてではないし、指揮とはいっても大まかな指示を出すぐらいなので、こちらの負担は少ない。

 これだけの数に加えて主義主張、気風の異なる個々人やギルドの寄り合いによる即席のパーティなのだから、全てを思い通りに動かせるわけでも、動いてくれるわけでもないのだ。さらに、この戦に参加しているのは誰も彼も最前線で戦い続けてきた猛者ばかりで、総じてプレイヤースキルも高く経験も豊富である。

 下手に上から押さえつけようとするよりは自由にやってもらった方が遥かに効率的だろう。

 

「まずは魔術師、弓兵組! 遠距離より各々の最大火力をぶつけるぞ! 溜め用意! ……よし、攻撃開始!」


 色とりどりの魔法がボスへと殺到し――それがこの一戦の始まりの狼煙となった。











 戦いは順調に進んでいた。

 プレイヤーが囲むボスの全身には、部位欠損こそないが小さいもの大きいもの含め多くの裂傷が走り、そこからは人間であれば看過できないほどの血が流れている。錆びた鎧も破損し砕け散っている部分が多く、確実に体力を削っていっているのは間違いない。

 ここまで来るためにひやっとする危ない場面は幾度もあったが、その度に一人の重戦士が絶妙なタイミングでボスの攻撃を引きつけ、やり過ごしていた。


「さすがだな」


 やはりあの人のプレイヤースキルは群を抜いている。しかしなによりはその度胸と思いきりの良さだ。最前線で戦い続け痛みに対しての覚悟と耐性を強固なものにしてきたプレイヤーとはいえ、どうしてもある一定の部分では臆病にならざるを得ない。どれだけ心を強く持ち痛みをねじ伏せようとしても、プレイヤーのほとんどが現実ではろくに喧嘩もしたこともない暴力とは無縁の世界の生きてきた者達だ、どうしても痛みや恐怖に怯んでしまうこともあるのだ。

 もっとも、後戻りのきかないこの世界においてはそれは決して短所ではなく、生き残る上で最低限忘れてはならない慎重さともいえる。

 その中であの人は己の身など顧みていないのではないかと思うほど積極的にターゲットを取りにいき、場面の変化に誰よりも早く対応し、攻勢を支えていた。それは実力を過信しているとか、あるいは捨て身になっているというわけではなく、危ういところがほとんど感じられない実に安定した戦いぶりだった。

 おそらくその総ダメージ量はボス戦に参加しているプレイヤーの中でも突出しているだろうに、痛みに動きを鈍らせることもなく淀みない戦いぶりを他のメンバーに見せつけていた。


「それに、あの魔術師……」

  

 さらには、あの人とコンビを組んでいるのであろう、あの女性魔術師もまたその戦いぶりが目立っていた。

 基本、このゼイルにおいて魔術師は後衛職であるのだが、彼女は驚いたことに他の前衛職に混じって前線で動き回っていた。まるで軽業師のように身軽な動きでボスの攻撃を避け、躱し、かいくぐり、通常の魔術師であれば捨てスキルになる《バースト》系魔法を巧みに操って近接戦闘で多大なダメージを与えていた。

 魔術師におけるバースト系スキルは、通常遠距離より放つ魔法を、その射程を犠牲にすることで無詠唱に近いワンワードで発動させるものだ。発動速度だけでなく威力も上昇し魔力消費も減少するが、攻撃範囲は手元数十センチという狭さであり、元々は後衛である彼らが敵に近づかれた時の緊急的な手段として想定されたスキルだ。

 確かに上手く使えば彼女のように前衛として行動することも可能なのだろうが、防御力が全職中最低という中、そのような運用をする魔術師は今のところ見たことがなかった。

 その彼女が、ボスの反応を見るにおそらく他の前衛職に優るとも劣らぬ与ダメージを稼いでいるのだから、目を見張ってしまうというものだ。


「さて、僕もそろそろ――」


 ボスの挙動をよく観察し、行動パターンを読み、機を待つ。

 プレイヤーの一人、戦士のハンマーがボスの右足に直撃し、その体勢が崩れた。空気が震えるような叫び声をあげ、がくりと片膝をつく。だが次の瞬間、ボスの大剣が赤い光を放ち――


「退避! 後衛攻撃! スイッチ!」


 僕が言うまでもなく、ボスの範囲攻撃の予兆を感じ取ったプレイヤーはさっとその場から飛び退きく。

 直後、膝をついたままのボスの大剣がほぼ三百六十度に振るわれた。空間を赤いエフェクト光による残影が走る。

 空を切った剣にまた雄叫びをあげたボスはすぐさま立ち上がろうとして、そこに後衛からの攻撃が直撃する。そこに今度は僕を含めた後ろで小休止していたプレイヤーが、退避した彼らと入れ違いに突っ込んでいく。

 

「あなたも、そろそろ後ろに下がったらどうです? まだ一度しか休んでいないでしょう」


 あの人はまだ前線に残っていた。大盾を構え、一斉射撃により舞い上がった土煙の向こうを油断なく見据えている。 


「心配するな。この程度、なんのことはない」

「……でも、涙声ですよ」

「な、泣いてないし! 我、泣いてないし! ちゃんと体力も回復してるから大丈夫だし!」

「いや、でも、いくらアイテムや魔法で体力が戻ろうが、苦痛は精神力を削りとりますからね……総ダメージ量から考えて、結構、ひどいことになっているんじゃないですか?」

「そんなもの、気合いでなんとかなる」


 果たしてそれは強がりなのかどうか、ふふんと鼻を鳴らす重戦士の姿に、僕は自然と自らの頬が緩むのが分かった。

 ――変わっていない。

 まるであの時のままだった。それがとても嬉しいのだ。


「重戦士ちゃんは我慢強い子でちゅねー。お姉さんがいい子いい子してあげまちゅかー?」


 こちらも退避していなかったのだろう、マナポーションを飲みきった魔術師がその瓶を放り捨てて近寄ってきた。その顔にはニヤニヤとした笑みが浮かんでいる。


「……ふん。断固断る。我、大人だし。そんなので喜ばないし」

「わぉ、さっすがー。さっすがおっとなー。じゃあお子様なアタシは大人なテメェ様にいい子いい子してもらっちゃおうかなー」


 顔を前に向けたままのあの人の答えに、彼女は茶化すように笑い声をあげた。

 おい、というか貴様、なにさり気なく羨ましい約束を取り付けようとしている。

 

「なんだ急に。気持ち悪い。頭でも打ったか」

「……冗談にきまってんだろーが。なに本気にしてんだっつーの。冗談だし。ばぁーか!」


 この人が前を向いていて幸いだったろう、彼女の頬はうっすらと赤くなっていた。

 ざまぁ。

 そんな僕らの意識を戦闘に再び引き戻したのは、あの人の言葉だった。

 

「――様子がおかしい」


 土煙がはれた向こうに、ボスの姿はあった。片膝をついたままで、地面に突き刺した大剣を握り俯いている。

 炎系の魔法のせいか、僅かに煙を上げるその身体は身動き一つせず、人形のように固まっていた。

 まさか、倒したということはないだろう。攻撃前のボスの挙動を思い出してみても、そこまで追い詰められていたようには見えなかった。

 誰もが追撃するべきかどうか、迷っていた。あるいは何かの罠かもしれない。

 その硬直状態を解き放ったのは、やはりあの人の叫びだった。


「嫌な予感がする……攻めろ! 今こそが攻め時だ!」


 言うなり本人は既に飛び出している。僅かに遅れて僕と魔術師も続き、他のプレイヤーもまた弾かれたようにボスに殺到した。各々スキルを放ちここぞとばかりに攻め立てる。それでもボスの身体は揺らぐことなくその場にあったが、傷や出血は確実に増えている。ダメージを受けているのは間違いなかった。

 だがどうしてだろうか。あの人と同じく僕もまた嫌な予感がどんどんと膨らんでいくのを感じていた。

 まるで嵐の前の静けさ――


「――――――――――」


 その時、確かに僕は聞いた。プレイヤーの叫び声やスキルが生じさせる音の中に埋もれるようにして、聞こえた。

 ひゅぅ、となにかを大きく吸い込む音。まるで洞窟の風穴のような、大量の空気が吸引される――。


「ッ耳を塞げぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 あの人も気づいたのだろう。叫ぶなり装備を手放し両手で耳を押さえるも、他のプレイヤーが追随することは出来なかった。僕も、だ。あの人の行為を目にして、初めて思い至る。

 そうか、これは。


 ――フロア全体に、凄まじい轟音が響き渡った。


 爆撃機がすぐ上空を通過したかのように、空気が打ち震える。

 あたかもそれは音響兵器の如く。

 視界さえもが揺れ動き、全身から力が抜け、ぐにゃりと地面に倒れ込む。

 横倒しになった視界で、ばたばたと倒れ行くプレイヤーとは反対に、ボスが立ち上がるのが見えた。

 その瞳は不気味に赤く輝いており、なおも叫び続けているのかその口腔は限界まで開かれていた。

 だがその声は、聞こえない。なにも聞こえない。ただ肌だけがその振動を捉え、びりびりと細かく震えていた。

 おそらく、他のゲームではハウンリングと呼ばれるスキルなのだろう。叫びで一定時間相手の行動を封じる能力。

 これだけ広範囲に効果を及ぼすスキルだ、その有効時間はそれほど長いものではないだろうが、この状況では致命的だった。

 攻撃力の高いボスの前に無防備に身を晒しているという現状。

 腹の底からじわじわと恐怖がのぼってくるのを、僕は感じていた。

 嫌だ。死にたくない。怖い。死にたくない。

 だがなによりも。

 ――誰も、死なせたくない。

 

 そう思うのに、身体は動いてくれない。

 いまだ平衡感覚を失ったままで、ただ目の前で起きていることを眺めていることしか出来ない。


「――――――――――」


 だが、ボスは倒れたプレイヤーを攻撃することもなく、大剣を握りしめ、前方にその感情の感じられない冷たい眼を向けていた。

 そうして、その姿が目に映った。


 ――ああ。

 

 倒れ伏すプレイヤーの中で、たった一人、雄々しく直立するフルプレートアーマー姿の重戦士。

 

「――――――――――!」


 叫んでいるのだろうか、その音はボスの雄叫びに劣らず僕の肌を震わせた。

 力強く踏み込み、剣を打ち込む。ボスの赤錆の大剣が迎えうつ。一合、二合、三合、四合――ボスが他に向かう気配を見せれば挑発で攻撃を誘発し盾で攻撃を受け、逸らし、再び斬り結ぶ。

 戦闘は、決して互角などではなかった。ボスはそもそもソロで戦うことを想定された相手ではないのだ。さらには体力の減少によって先程よりも強化されているようで、ボスの一撃を受けるたび重戦士の剣は弾かれ、体勢は崩され、その度に地面を転がり、土に塗れていた。

 これまで見せていた鉄壁な重戦士の姿はそこにはなかった。

 どこまでも、必死な姿だった。

 どこまでも食い下がり、何度倒されようが何度でも立ち上がり、立ち向かっていった。

 そこに優雅さなどはない。どこまでも泥臭く、不恰好で、この場面だけを見れば無様と評する者もいるかもしれない。

 けれど。

 

「――――――――――!!」


 ――それでも。

 それでも、その重戦士は、一度として他のプレイヤーを攻撃させることはなかったのだ。

 すべての攻撃を一人で受け、耐え、戦い続けたのだ。

 

『――――耐えろ』


 聞こえていないはずの耳に、誰かの声が届いた。


『――耐えてくれ』


 いや、それは直接頭の中に声を飛ばす、ゼイルの仕様の一つ。


『――頑張って』


 ボイスチャット。特定の個人に向けられたものではなく、無差別に広範囲に飛ばす全体チャット。


『――お願いだ。どうか、もう少しだけ』『頑張れ!』『すぐに復帰する!』『頑張ってください!』『頑張れ!』『頑張れ!』『頑張れ!』『がんばれ!』『がんば!』『頑張ってくれ!』『いま指先が動いた!』『もうちょっと』『あとすこしだ!』『耐えてくれ!』『重戦士さん、頑張ってください!』『どうか!』『あきらめないで!』『あきらめるな!』『おまえらもだ!』『頑張れ』『がんばれ!』『頑張れよ!』『くそっ、動けよ俺の身体!』『動け動け!』『頑張れ!』

 

 溢れかえる音の洪水。

 この声は、あの人に届いているだろうか。

 独り戦い続けるあの人の背を、少しでも押してあげることが出来ているだろうか。

 僕は祈る。

 祈ることしか出来ない。

 どうか、どうか、どうか――。


『重戦士さん、頑張って!』


 そうして。




「――っっっっらああぁぁぁぁぁァァァァァァァァ!」



 

 倒れていたプレイヤーの一人が、立ち上がった。きわどい衣装の女魔術師。女性にしては雄々しすぎる叫びを上げると、彼女はその両手に炎をまとって、ボスに背に突っ込んだ。


「《フレイム》《バースト》ォォ――――――!!」


 激しい爆炎がボスの背中で巻き起こった。

 叫びをあげて振り向こうとするボスに、


「《グランドスラッシュ》ッ!!」


 横合いからの僕のスキルが直撃した。縦横十字の白いダメージエフェクトが発生する。

 そうして硬直から復帰したプレイヤーが次々にボスに攻勢をかけていく。

 今までの鬱憤を晴らすかのように、誰も彼も後先考えずスキルを惜しげもなく使い攻撃を加えていった。

 ――これでしばらくは前線を支えられそうだな。

 僕はそう考え、きっと他のプレイヤーもそう考えていただろう。


 だというのに。

 一体、それはいかなる理由からだったのだろうか。


 ボスは――名も無きゴブリンは、己を囲むプレイヤーからの攻撃を一切防ぐことなく、顧みることなく、一歩、二歩、どこかへと向かって足を踏み出した。その眼は周囲の僕達ではなく、もっと遠い別の何かを睨みつけていて――その時、ボスの瞳を見て、僕は背筋がゾッとする感覚を味わった。

 AIによって管理されるノンプレイヤーキャラクター。どれだけ人に近い姿をとろうが、ゼイルに生きるプレイヤー以外の存在は全て作り物の人形でしかない。そこに本当の意味での命も感情も意思もありはしない。

 そのはずなのに。

 ゴブリンの瞳の中に、生々しいなにかを、見た気がしたのだ。

 そしてそれが向けられる先は――。


「――――――――――――!!!!」

 

 ゴブリンの口から言葉にならない雄叫びが上がる。

 先の件を思い出し、誰もが、瞬間、思わず身を硬くした。

 それは本当にごく僅かな間だけのことだった。

 だがそれでゴブリンにとっては十分だったのだろう。

 

「――――――――!!」


 周囲のプレイヤーを蹴散らしながら駆け出したゴブリンは、ある一点に向かって突き進む。

 たった一人のプレイヤーだけを目指して、その巨体を走らせる。

 彼の眼差しの向く先にいるのは、片膝をついた重戦士。

 先程、彼と壮絶な一騎打ちを演じたプレイヤー。

 精神的疲労ゆえか、いまだ立ち上がることが出来ず、地面に突き刺した剣にもたれかかるようにして何とか倒れるのを耐えているといった有り様だった。


「なんであの人を――!!」


 ダメージをそれほど与えているわけでも、挑発を使用しているというわけでもないというのに。これまでのボスの行動パターンから余りにかけ離れている。

 一瞬の硬直の後、すぐに僕は駆け出したが、出遅れた僅かな差はこの時にとっては致命的だった。

 あの人の目前にまで迫ったゴブリンは、勢いのままに右手を振りかぶる。

 その手にはいつの間に喚び出したのか、錆びた大剣。

 だがその剣が纏うのはこれまで見たことがない黒色のエフェクト光。


「ォ――――――――――!!」


 再度の叫びを伴い、大剣は重戦士の頭上から振り下ろされた。

 あの人の防御は間に合わない。いまだ剣にすがりついたままで、盾を構えることすら――

   

「舐めるなァッ」


 刹那、あの人の周囲を包み込むように球状の白い膜が現れた。

 《プロテクト》。

 一定時間、一定のダメージを遮断する戦士の単体防御スキル。

 その防壁がゴブリンの大剣を受け止めた。だが両者が拮抗したのはほんの僅かな間だけのことだった。ガラスが割れたような甲高い音を立てて防壁は破壊される。なおも相手を害そうと迫り来る刃を、


「舐めるなと言っているッ――!」


 掬い上げるように下段より振りぬかれたあの人の剣が迎え撃った。

 《プロテクト》により威力をだいぶ殺されていたのか、あの人の渾身の意志がクリティカルを引き寄せたのか、驚愕すべきことにその一撃はゴブリンの剣を弾き飛ばした。

 ここが攻め時だと考えたのだろう、無手となった相手に続けてスキルを発動させようとしたあの人は、しかし次の瞬間、「ぬッ……な、に……」かくんと力が抜けたかのように、両膝を地に落とした。

 膝だけに留まらず、その全身が力を失い、ぐらりと前のめりに倒れていく。


 ――なんだ。なにが起こった。

 分からない。今の状況ではなにも思いつかない。

 いまはただ。

 ただ。


「重戦士さん!」

「テメェ!」


 あと少し。

 あと少しのところまで僕と女魔術師を先頭に他のプレイヤーが近づいていた。

 ボスの注意をこちらに引き付けるために、無防備に晒された背中にスキルを放とうとして。


「麻痺異常……! 気をつけろ、あのスキルは――」


 己の状態を悟ったのだろう、僕たちにそれを伝えようとしたあの人の言葉は、けれど、最後まで放たれなかった。

 無手となったゴブリンの組んだ両手が、倒れこむあの人の頭に、大槌の如く振り下ろされたからだ。

 あまりの衝撃に強固なはずの兜がひしゃげ、砕け、あの人の頭部はそのまま凄まじい轟音とともに地面に叩きつけられた。


「き、サマァァァァァァァ!!」


 激情に、目の前が真っ赤に染まる。

 目前に迫ったゴブリンの背中に、僕はスキルを発動させた。

 《セブンス・ソード》。一次職である剣士の最終スキル。つい先日覚えたばかりの、七連続攻撃スキル。マナのほぼ半分を使用するためこれまで温存していたそれを、ただ怒りに任せて放った。

 だが――。


「何故だ!? 何故それを今ここになってッ!!」


 一撃目を、突然現れた赤い光によって防がれた。二撃もまた、同様に。

 確かに。確かにそれはおかしくはない。ゴブリンはどう見ても戦士系のモンスターだ。だからそれを使えても不自然ではない。

 《プロテクト》。

 戦士の単体防御スキルが、ゴブリンの周囲を、あの人とゴブリンの二人だけを取り囲み、発動していた。


「砕けろ! 砕けろ! 砕け散れぇぇェェェェ!」


 斬り、薙ぎ――さらに二度攻撃が続いてなお防壁は破れず、その向こうではあの人は倒れたまま立ち上がる気配はない。だがアバターがロストしていないのならば、まだ体力が残っているということだ。身を屈めあの人に手を伸ばそうとするゴブリンを睨みつけ、僕は己を駆り立てる。

 まだ間に合う。間に合う。だから急げ。急げ。急げ!

 五度目の斬撃。防壁に罅が入る。

 六度目の斬撃。罅は大きく広がり。

 最後の斬撃。それでもまだ完全に破壊するに足りず――


「どけぇぇぇ!! 《フレア》《バースト》――――!!」


 魔術師の一撃が、最後のひと押しを加えた。

 ガラスの割れる音を響かせ、砕け散る防壁。

 雨のように降り注ぐ防壁の欠片。


「重戦士さん!」

「重戦士ィ!」

 

 その中を突き進み、越えた先に、その光景は広がっていた。

 ――ほんの僅かな時間だったのに。

 防壁を破るために掛かった時間なんて、十秒もなかったというのに。

 だというのに、状況は、一変していた。

  

 その光景を、見ていることしか、出来なかった。


 ゴブリンの大きな右手があの人の頭を鷲掴みにして持ち上げている。

 それから逃れようとしていたのか、あの人の手が、己を掴み上げる丸太のように太い腕にかけられている。

 あれ、麻痺をしてたんじゃ?

 どうでもいいことが、ふと思い浮かんだ。

 いや、どうでもいいことなんかじゃない。

 あの人が身を以て教えてくれたことだ。あの黒いエフェクトのスキルは麻痺攻撃。

 うん、そのはずだ。

 でなければ、あの人があんなにも簡単に膝をつくはずがない。

 じゃあ、一体、どうして動いた痕跡があるのだろう。

 不思議だ。 

 とても不思議な現象だ。

 これは一つ考える必要があるのではないだろうか。

 麻痺を自力で解除する手段なんて、見過ごしてはいけない重要事項だろう。

 そうだ。これはとても大切なことなんだ。

 だから。

 だから――。


 ずるり、とゴブリンの腕に掛けられていたあの人の腕が、垂れ下がる。

 その腕に力はない。

 どころか、吊り下げられた全身に、力は一切なかった。

 ぶらりぶらりと揺れている。

 ぽたりぽたりと零れている。

 

 考えたくない。認識したくない。ソレを見ていたくない。


 けれど。でも。

 否応にも、それは僕の視界に入ってくるのだ。

 

 頭を握りつぶされ、様々な体液を零しながら首吊り死体のように揺れているあの人の身体が。

 足の先から、徐々に光となって消えていくあの人の姿が。

 何度見ても慣れない、アバターをロストするその光景が。




 ――僕たちが防壁を破るために要した十秒足らずで、あの人は死んでいた。




「――――――――――――――――」


 それを目にして、叫び声をあげたのは誰だったのか。

 彼かもしれないし、彼女かもしれないし、あるいは自分かもしれなかった。

 だがその光景が、この場の誰にとっても絶望的なものであることだけは確かだった。

 あの一騎打ちによって、誰の心にも、あの人の姿は刻まれていた。

 誰もが、あの光景に勇気づけられた。力を与えられた。

 この戦いにおける不屈の、象徴だったのだ。

 

 それが消えていく。

 光になって消えていく。

 あの人の身体が、心が、失われていく。

 

 知らず、手をのばした。

 そうすれば、なくなっていくなにかを掴み取れる気がしたのかもしれない。

 けれど、指先は届かなかった。

 なににも、触れることなく、あの人の全ては世界に溶けていってしまった。


「あぁ……ああああ、ああぁぁぁぁぁ」


 引きつった喉から、声が漏れでた。

 自分のものとも思えない、酷く、情けない呻き声。


 のろのろと視線をあげる。

 そこにそれはいる。

 身の丈を優に超える、山のような巨体。

 緑色の肌をした、赤い眼の化け物。

 錆びた鎧に錆びた兜に錆びた剣。

 赤錆にまみれた、このフロアのボスモンスター。


 ――《忘失された名も無き子鬼族の英雄》。


「おまえが……おまえがぁッ……! おまえがぁぁァァァァァァ!」


 化け物は何も答えず、ただ無言でその剣を振るうだけだった。

 その眼から、生々しい何かは、既に消えていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ