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2025/07/01~ (3)

連日更新、三日目。最後です。

 ――気づけば、また蒼空を仰いでいた。


「………………?」


 太陽の陽が、やたらと目に眩しい。

 無意識に手をかざしたところで、背中の下に固い感触。

 その段になって、ようやく私は自分がベンチに横になっていることに気付いた。

 

「わたし、は……」


 一瞬の記憶の混乱。

 自分がどこにいるのか、なぜこうしているのかが理解できず、思考が働かない。

 しかし、すぐに意識を失う前のことを思い出し、勢い良く上体を起こした。


「っ……く」

 

 途端、くらりと目が回る感覚。

 咄嗟にベンチの背を掴み、転げそうになるのを防ぐ。

 しばらくして何とか目眩が収まったところで、改めて自分の状況を確認する。

 場所は、公園。

 太陽の位置から見て、時間もそれほど経ってはいないようだった。

 自分の身体におかしなところはない。

 気分も、今はもう、それほど、悪くはない。


「…………はぁ」


 他のおかしなところといえば、いつの間にか人が戻り始めていた公園の隅の草むらで、地面に這いつくばる重戦士の姿だろうか。

 公園の外周部、ベンチの背より更に向こう側の木々が立ち並ぶ間で、伏せるソレが顔を向ける先には、真っ白な毛並みの猫。

 四肢に力を溜め、じりじりと後退りする猫の瞳は、眼前で揺れる一本の草――猫じゃらしに固定されている。

 ゆらり、ゆらりと揺れるそれを握るは、当然のことながら鎧に身を固めた戦士である。

 猫が後退るとその分を匍匐して前へと進み、猫の後背が障害物に当たると今度は重戦士が退き猫の逃げ道を作ってやる。

 私が見つめる先で、しばらくそんな謎の攻防――攻防?――が続けられていたが、やがて猫は重戦士の一瞬の隙をついて大きく距離をとると、そのまま振り返ることもせずスタタタと逃げ出していった。

 ――結局、一度も猫じゃらしには食いつかなかった。


「…………」


 しばし、重戦士は無言でその後ろ姿を眺めていたが、完全に猫が藪の中に姿を消すと、なんとなく名残惜しげな様子で立ち上がった。

 次の獲物を探してか、きょろきょろと辺りを見回すその視線が、ベンチで身体を起こした私の姿をとらえる。


「…………」


 パンパン、と鎧を叩き埃を払う仕草をすると、重戦士は何事もなかったかのように私のもとに歩み寄ってきた。


「起きたか。気分はどうだ?」

「……悪くはない。」


 言葉短な私の返答に、そうか、と頷く。

 それきり会話が途絶え、沈黙が私達の間に流れる。

 重戦士は目の前に立ったまま私を見下ろし、私はそれを見上げる。

 鋼の兜。

 その覆いの向こうにあったもの。

 それが再び透かし見えやしないかとジッと目を凝らすも、出来るはずもなく。

 代わりに瞼を下ろして、暗闇の中に、想起する。

 

 ――途端。


「ッ……」


 ただそれだけで、心が乱れる。

 平静を保っていられない。

 その人間離れした容貌に、というより――想起と同時に己の内で生じる感情のうねりに。

 それは悲しみであるようで、怒りでもあるようで、憎しみでもあるようで。

 どこか、懐かしさのようでもあった。

 時折自分を襲う白昼夢や既視感などとは比べものにならないほどの大きな波濤だった。


「……私は、お前を、知っていた」


 何もかもが不明瞭で、相も変わらず足元も定まらない曖昧なままで、理解できないことばかりだけれど。

 ただ一つだけ。

 それだけは確信を以って言うことが出来た。

 そして――そして、ああ。

 そう、こいつを知っているのならば。


「私は、あの子を、知っていたんだ」


 その事実を、自分でも驚くほど素直に、私は認めることが出来た。

 私に妹はいない。 

 私は姉などではない。

 けれど、確かに、いつかどこかで、私はあの子と――。


「……頭のおかしい人間の考えだな」

 

 矛盾している。

 現実的ではない。

 非常識だ。

 妄想でしかない。


 普通であればそう考えるのに。


「だから、どうした」


 そう言えるだけの余裕が、私の中にはできていた。

 それは成長なのだろうか。進歩なのだろうか。

 あるいはより正常から離れてしまったのか。

 今の私には分からない。

 しかしそれで良い、とも思うのだ。

 結局、問題は、私がそうであるという自分に納得出来るかどうかだったのだろう。

 非現実的な道理が通らないことであろうとも、私の心が、その理屈に頷いている。

 変わらず心中は曖昧模糊ではあったけれども、どこか一本の芯が通されたような、そんな気分だった。

    

「……なぁ。お前は一体何を知っているんだ? この世界は何なのか。私は何を忘れているのか。お前は、その答えを知っているのか?」


 この日、二度目の問いだった。


 《Re:Zeilurthリ・ツェイラース》。

 このゲームにまつわる不可解な事象。

 あまりにリアルすぎる五感。

 AI特有の独特な不自然さを感じさせるNPCの中で、まれに存在するあの子のような人間と同じとしか思えない反応を見せる一部のNPC。 

 ――それが、あまりにも真に迫っていたから。

 現実の世界ではずっと思い出せなかった何かを、この世界の中で思い出そうとしている。


「……我にも、このゲームのことは分からない。我とて、ただの一プレイヤーにしか過ぎぬ」 


 重戦士は、しばらく黙し私を見下ろしていたが、やがて首を振ってそう告げた。


「ならば、私のことは? 私は何を忘れているんだ?」

「それは――」


 何かを言おうとして、しかしすぐにその口を閉じる。

 落ち着きなく右を向いて、左を向いて、ついでに空を見上げて。

 再び私に視線が向く。


「……そ、それも知らぬ。存ぜぬ」


 そう言った時にはもう、視線は明後日の方に逸らされていた。

 明らかに嘘だと分かる態度だった。


「……そうか」


 私が大きく溜め息を吐くと、ビクリと大げさなほどに目の前の鉄塊が震えた。

 先程までの達観した雰囲気とまるで異なる、小動物のような仕草に、思わず苦笑が漏れる。


「い、いや、知っているといえば知っているのかもしれないが、果たして本当にそういえるのか、そも知るとは何を以ってそう断じるのか、それは実に哲学的な問題であり、そうたやすく答えが出る問題でもなく――」

「それを知るには、私の心の準備が整っていない、とそういうことなのだろう?」


 あたふたとよく分からない言い訳を始めた相手に、やはり苦笑のままに私は言った。

 途端、ぴたりと身動きを止め、「……む」と口ごもる。


「お前の顔を見ただけで、アレだ。私にはまだ早すぎるということぐらい、分かっているさ」


 ――いずれ。

 自ずとそれを思い出し、知るときが来るのだろう。

 この世界に居続ければ、きっと、思い出さずはいられない。

 けれど、それはいつかであって、今ではないのだ。


「…………」


 重戦士はそんな私に何かを言いたげな素振りを見せるも、結局なにも口にすることなく押し黙る。

 それを横目に、私は空を仰ぎ、大きく息を吐いた。


「なんだか、今日はひどく疲れたな……いろいろなことがありすぎたよ」


 蒼天へと手をのばす。

 大きく開いた手のひらを握りしめて、手首を返す。

 握りこぶしを目の前に持ってきて、そっと開いて見る。

 

 相変わらず、そこには何もない。

 幻想を掴んだところで、この手に得るものなど何もない。

 手に入れたと思ったそばから、こぼれおちて、きえていく。

 それは当たり前のことでしかない。

 初めから、そんなことは分かっていた。

 

 けれど。


「――――――――」


 不意に、かすかな声が私の耳に届いた。

 郷愁、懐かしさを感じさせる、舌足らずな幼い声。


「ああ――」


 そちらに目を向ければ、公園の入り口から走り寄って来る小さな姿。

 まだまだ細く短い手足を必死に動かしてぱたぱたと駆ける、未熟で子供な、あの子の姿に。


 既視感。


 ぽこり、と記憶の海にまた一つ泡立ちが生じて、何かが想起される。

 それは常識的ではないことかもしれないけれど。

 今の私は、それを受け入れられる。認められる。


「お、おねーちゃんっ! だいじょぶ、だった!?」


 近くまでやってきた彼女は、荒い息を吐きながらそんなことを聞いてくる。


「んん? なんの話だ?」

「ええっ!? だ、だって、教会のおねーさんが、おねーちゃんがあの変なのに絡まれてるって――」


 そこまで言ったところで、きょろきょろと辺りを見回した彼女は、傍らに立つ重戦士の姿を見つけるも視線を素通りさせる。

 一瞬疑問に思うも、なるほど、彼女はあのピンク猫しか目にしていないため、これがアレと同一存在だとは分からないのだろう。


「大丈夫だ。少し話をしていただけだ。何もされていない」

「うー、……ほんと? それならいいんだけど……」

「ああ。それよりも、早く戻った方が良いんじゃないか? 抜け出して来たんだろう」

「あっ、そ、そうだった!」


 ぴょこん、と飛び上がると、彼女は来た時と同じように忙しなく帰っていこうとして、「あ、いや、まて」 その手を反射的に掴んで止めた。


「どったのー?」


 振り返って首をかしげる彼女の頭に、そっと掌をのせる。


「心配してくれて、ありがとう」


 心からの感謝を込めて、ゆっくりとその髪を撫でると、びっくりしたように彼女の目がまん丸になる。

 だがそれは一瞬のことで、すぐにくすぐったそうに細められた。

 うっすらと、その頬が赤みを帯びていく。


「……うえへへ。だって、おねーちゃんは、おねーちゃんだからね」

「そうか。……そうだな」


 今こうしてこの子を見て、触って、話して、返ってくる反応は本物の人間と――プレイヤーと何ら変わるところはない。

 けれどそれは、精巧に作られた偽物で、本物ではなく。

 天に広がる空と同じで、この世界が閉じれば共に消えてなくなる、儚い幻でしかない。

 

 それでも。

 それでも――それが、あまりにも真に迫りすぎているから。


 よく出来た模造品だと切って捨てることなんて出来るはずもなかった。

 本当はこの世界に謎なんてなくて、この子もまた単なる高度なAIでしかなくて、全てがお人形劇でしかなかったとしても。

 私がこの世界にいる間だけは、この子の姉でいようと、そう思った。


「じゃあねっ! また明日だからね!」


 はちきれんばかりの眩い笑顔を残して、彼女は去っていく。

 その跳ねるような後ろ姿を見送ってから、傍らを見やる。

 

 しかしそこには、誰もなかった。


「――む」


 つい先程までそこには鉄塊が在ったはずだったというのに、拍子抜けた気持ちが声となって漏れた。

 辺りに視線を向けるが、少なくとも公園内にはその目立つ姿は見当たらず、「やれやれ」と溜め息を吐き、どかりと背もたれに倒れこむ。


「結局、名前も聞けなかったか」


 なんとなく、アレはもうこの公園には来ないだろうという奇妙な確信があった。

 この世界の不可解さを明らかにする鍵となるだろう相手だ、せめてフレンド登録程度はしておきたかったのだが、仕方がない。 


「なんだか、そのうちあっさりと再会しそうな気もするしな……」


 実に有り得そうなことだった。

 その時はまともな格好をしていてくれれば良いのだが。

 ベンチの背にだらしなく寄りかかったままでそんなことを考えていると、


「なんだか疲れてますね、お姉さん」


 背後から聞き覚えのある声が掛かった。

 ぐいっと無理矢理に首を後ろに曲げてみると、逆さまになった視界に、これまた見覚えのある姿。

 

「……ああ、君か」


 赤い髪を肩より少し上で切り揃えた彼女は、私の数少ないフレンド登録者の一人だ。

 いつもはいかにも黒魔道士といった風のローブに身を包んでいるが、今日はオフ仕様なのだろう、ドット柄の黒いチュニックワンピースに、赤燈色の格子柄のショートパンツという女の子らしく可愛い装いをしていた。


「そですよ、あなたの親愛なるカワイイ私ちゃんですよ」


 ててて、と小走りにベンチを迂回して前に回ってくると、彼女はとすんと私の膝の上に座る。

 そうすると小柄な彼女の身体は、女性としては大きい方である私の腕の中にすっぽり埋まってしまう。


【警告!】

【他プレイヤーより過度な身体的接触を検知しました】

【接触拒否しますか?】


 途端、視界の隅に警戒ウィンドウがポップするが、相変わらずこういったところは実にゲーム的だなと考えながら、思考操作でノーを選択した。

 性的行為ができなくとも、こうした接触は本人の了承があれば出来るというのも、このゲームの謎なところだ。

 ちなみにイエスを選択すると体表面に遮断フィールドが展開され、互いに相手に触れられなくなる。

 これは戦闘可能地帯でも適応されるようなのだが、攻撃かわいせつ行為かの判断基準には曖昧な部分があり、これを利用した対PK防御方法なども一部では研究されているらしい。

 

「それで、何かあったんですか? すごく気だるげですけど」

「いや、まぁ、いろいろとあってな」


 首を回してこちらを見上げる彼女に曖昧な言葉を返すと、何かを察したのか、「ふぅん」と頷き、あっさりと話題を終わらせた。

 こういった気遣いというか、空気を読む能力の高さが、まだ年若い彼女が大規模ギルドの上位陣の中で上手くやっている理由なのかもしれない。

 ゼイルの中でもあまり他者と交流のない自分とは大違いだ。

 まぁ、これはもう性分としか言いようがないので、仕方がないと諦めているが。


「疲れた時は甘いものですよ。スイーツですよ。今度食べにいきませんか? 隠れた名店っていうのを、教えてもらったんです」

「何が美味しいんだ?」

「焼き菓子、特に常連の間ではクッキーが評判らしいですよ。確かお姉さん、好きでしたよね?」

「ああ、確かに好きだが。話したこと、あったか?」

「んー、忘れましたけど、そんなこと言っていたような気がします」

「そうか。……なら、明日の午後にでも行ってみるか?」

「本当ですか!? 絶対ですよ!」

 

 何の気なしに告げた言葉に思いの外大きな反応が返ってきて、自然と苦笑が浮かぶ。

 「もちろんだ」と頷くと、普段あまり表情の変わらない彼女にしては珍しくにこにこと笑って前に向き直った。

 私にべったりともたれ掛かってくると、よほどご機嫌なのか後頭部でぽすぽすと何度も私の胸を叩く。

 その拍子に彼女の髪が乱れるを見て、指で梳いてやるとその動きが静かになる。

 日向の猫のように目を細めて気持ちよさそうにしているのを見て、頬が緩んだ。

 

 ――彼女とは、そう長い付き合いではない。

 知り合った切欠は、居合わせた露店でたまたま同じ商品を欲しがり、私が彼女に譲ったことだった。

 そのお礼にと近くのカフェに誘われ、気が合ったと言ったらいいのか、私にしては珍しくすぐに打ち解け、流れのままフレンド登録をして、以来途切れることなく交流が続いている。

 これほど距離感が近い友人関係を築けたのは、現実を含めて初めてのことで、自分でも戸惑いを覚えるほどだった。

 いや、友人というよりは、まるで――


「…………においがする」


 突然、低い声が胸元から上がり、ハッと意識を戻す。

 見れば、彼女が私の手に鼻を近づけ、スンスンとにおいを嗅いでいた。


「ど、どうした?」

「……あの小娘のにおいがします」


 目が、据わっていた。

 先までの笑顔はどこにいったのか、私の手を握りしめた彼女は、細めた眼でこちらを見上げている。


「いや、小娘って……」

「ふんっ。またあの小娘めがお姉さんにちょっかいをかけているようですね」


 あの子とこの世界で会ったのは君よりも先だったんだが、という言葉は藪蛇になりそうだったので言わないでおく。

 ――ごく最近になって発覚したことだが、この子とあの子はどうも相性が悪いようだった。

 初めて顔を合わせた時などは顔から血の気が失せて、気分が悪いとすぐにどこかへ行ってしまい、あの子はあの子でしばらくの間ムッとした表情を浮かべたままだったのを覚えている。

 それ以降、面と向かって二人が顔を合わせたことはない。

 互いに避け合っているようで、それもちょっとした悩みの種ではあった。 


「というか、何のために私がここに来ているかは知っているだろう。だからここまで会いに来たんだろうに」

「そ、そうですけど」

「まったく、一体何がそんなに気に入らないのか」

「……自分でもよく分からないんですけど、これはもう相性が悪いと言うしかないですね」


 口をへの字に曲げた彼女は、そのまましばらくムスッとした顔をしていたが、気分を切り替えるためか大きく息を吐くと私の手を離し、またどっかりと私に体重を掛けてくる。


「ま、それはいいですよ、もう。一応、整理はついてます。それよりも、だんちょのことですよ、だんちょ。聞いてくださいよ、あの人ったらまた――」


 いつものように、とある人物に対する愚痴をこぼし始めた彼女に、私はこれまたいつものようにうんうん、と一々頷いてやる。

 その人物とは彼女が所属するギルドでマスターを務める男で、ゼイルでも五指に入るほど有名な存在だ。

 私に出会うよりもっと前からの付き合いで、この世界に閉じ込められた事実が発覚してよりずっと不安定続きだった彼女を心身ともに支えてくれた存在らしい。

 どうも彼女はそいつに特別な感情を抱いているらしく、私とそいつのどっちが大切なのか一度問い詰めてみたいところだが、最悪の場合この世界にまた一人廃人を追加してしまいそうで、あるいは思い当たるところなど全くないが、逆に彼女から同じような質問が返ってきそうで、別にそれで私が困るところなど何もないのだが、まあ、そんなわけで今のところ思いとどまっていた。

 それよりも件のそいつだ。

 薄々彼女からの想いに感づいているようなのだが、のらりくらりとかわし、曖昧な態度ばかりをとっているようで、こうしてその愚痴を時々聞くことになる。


「これはやはり、一度じっくりとお話しする必要があるかもな……」


 空を眺め、彼女には聞こえないよう小さく呟く。

 この青空の下のどこかで、一人爆発して吹き飛んでいれば良いのに、と思う。

 ――と。

 どこかから突き刺さるような視線を感じ、辺りを見回す。


「……あいつは、また何をやっているんだ」


 見覚えのある修道服を着た少女が、公園の入口にある大木の陰から半顔をのぞかせ、じとっとした目でこちらを見ていた。

 また、『シスターのおねーさん』とやらから話を聞いたのかもしれない。

 というか何者だよ、そいつ。どれだけ耳聡いんだ。

 まだ胸元で、やつに対する愚痴か惚気か分からないようなことを話す彼女に視線を向け、公園の入口に視線を向け、何となく気まずくなって、空を見やる。


「まぁ……こんな日々も悪くはない、な」

 

 不明瞭なことだらけで。

 いま自分が立っているところも定まらない有り様だけれども。 


「それでも、私は、ここに、いるんだ」


 そして、こうして他の誰かと触れ合っている。

 それが本物であろうと本物に限りなく近い偽物であろうとも。

 ならば。


「なにもかもが幻だったとしても、きっと私の中には、何かが残るんだろうさ」






          **********






 がしゃり、がしゃりと鋼鉄の擦れる音を鳴らしながら、それを纏った者は、歩いて行く。

 まだ日中だというのに、両脇を建物に囲まれた細い路地は薄暗く、人気もない。

 街の喧騒は遠く彼方で、辺りに聞こえるのは重厚な鎧に全身を包まれた重戦士の歩く音だけだった。


「…………」


 乱雑に積まれた木箱や立てかけられた木材――湿気に腐食して今にも崩れ落ちそうである――の間を危なげない足取りですり抜けて、奥へ奥へと進んでいく。

 その歩みが止まったのは、路地の終着点。

 袋小路の最奥であるそこには、煉瓦造りの古びた建屋があった。

 玄関口であるポーチの奥は階段になっており、その先は周囲より更に濃い闇で隠されている。

 ポーチ前で立ち止まった重戦士は、その視線を足元に向ける。


 そこには、艶やかな黒毛が美しい一匹の猫がいた。

 そばに立つ重戦士のことなど気にした様子もなく、横になったまま舌で毛繕いをしている。

 屈みこんだ重戦士は、警戒心などどこかに置き忘れたような猫のその身体にそっと指先を伸ばして――


「――ッ」


 触れる寸前、びくりと腕が震え、まるで竦んだように動きが止まる。

 その気配にか、猫が毛繕いを止めて顔をあげるが、逃げようとはしなかった。

 黒の中の金色の瞳と、視線を交わらせる。

 

「…………」


 ゆっくりと、その指先は猫から離れていく。

 そうして結局、猫に触れることなく立ち上がった重戦士を、まだ金眼が見上げている。

 しかしそれも僅かな間であり、あっさりと視線を逸らした猫は大きな欠伸をするとのっそりと身体を起き上がらせた。

 前足を突き出し、背筋をぐぅっと伸ばして、また一つ欠伸する。

 やがて完全に身を起こした黒猫は、またもやじっと重戦士を見上げるも、すぐに興味を失ったように視線を外した。

 そのままふらりとどこかへ去って行こうとして、


「――ぁ」


 行き掛けの駄賃だとでも言うかのように、すり、と重戦士の足に身体を何度か擦りつけてから、路地の隙間に消えていった。

 しばらく呆然とした様子で立ち尽くしていた重戦士は、ぽつりと小さな呟きを発する。

 

「……ここではない、どこかの、誰かの記憶など、忘れたままであればそれで良いのに」


 黒猫が触れていった足甲を一瞥して、再び重戦士は動き出した。

 俯きながらポーチを抜けると、その奥にある階段の一段一段を重い足取りで上がっていき、


「よう。なんだよ、随分としおれてるじゃねーか。拾い食いでもしたか?」


 顔をあげる。

 階段の頂、白茶けた木製の扉の前――そこに、小麦色の肌の女が座っていた。

 上は臍を出したノースリーブのシャツ、下は革素材のショートパンツで、太腿が丸出しになるほどギリギリまで短くカットされている。

 そこから伸びる長い両足を組んだ彼女は、膝の上に頬杖をついて、重戦士を見下ろしていた。

 

「……うぬか。別にしてないし。我、この世界だと小金持ちだから、そんなのする必要ないし」


 返ってきた言葉に、女は一瞬、面食らったような表情を浮かべるも、すぐににやりとからかうような笑みを作る。


「じゃあなんだ、ここ最近アタシに会えなくて、寂しい思いでもしてたのか?」

「はぁ?」


 まるで相手の正気を疑うような、そんな響きを感じさせる声だった。

 ひくり、と女の笑みが引きつる。


「……んだよ、わざわざテメェの棲家まで会いにきたってーのに、その反応はないんじゃねーの」


 そっぽを向いて拗ねたように唇を尖らせる女に、重戦士は「ぬ、いや、その」と慌てたように口ごもった。

 それを見て、再び女は意地悪く笑う。


「はっ、冗談だよ冗談。テメェがあんまりにもらしくねーから、戯言を口にしただけだ。そんなに慌てふためくなよ」

「べ、別に全然慌ててないし。うぬにどう思われようと我、全然、これっぽっちも気にしてないし」

「はいはい、分かってる分かってるっつーの。んなことより、ちょいと遠出して美味いメシ食いに行くぞ」


 言うなり立ち上がった女は、重戦士のところまで下りてくると、その腕を掴み、なおも下へと向かっていく。


「ちょ、突然なんなのだ! 我、帰ってきたばかりなのだが!」

「うっせ、アタシはテメェの帰りを待ち続けて腹ペコなんだ。いいから来い」


 抵抗する重戦士に構わず、女は外へと強引に引っ張っていく。


「それにな、どんなに気分が落ち込んでいる時だってな、本当に美味いメシを食えば、とりあえずは元気になるもんだ」

「わ、我は別に、そんな、普通だし」

「んな萎びた野菜みたいな空気出して、普通もクソもあるかよ」

「いや、でも」

「昨日食べたケーキ、美味かっただろ?」


 ポーチまで下りてきた女は、外に一歩踏み出すと、そこでようやく掴んだ手を離した。

 くるりと重戦士を振り返って、言葉を続ける。


「所詮ゲームだ作り物だって言ってもな、美味いものは美味いんだ。そんでそれを食べたらちょっとでも幸せを感じられるだろ。だったらとりあえず、それでいいじゃねーか」

「…………」

「そんな時ぐらい、いろんなことを忘れて、ただ美味いなぁ美味しいなぁって思ってればいいんだよ」


 重戦士へ向ける眼差しに、それまでのからかうような色は少しもなく。


「そして、その時間を独りじゃなく、他の誰かと一緒に過ごせたら、なおさら良いだろ」


 むしろ女の顔には、優しげな笑みが浮かんでいて。


「だから、ほら――いくぞ」


 差し出された手を、重戦士はしばし見つめる。

 だがやがて、何かを恐れるようにおずおずとそれに手を伸ばして、


「…………ん」


 小さく、小さく頷いて、その手を握ったのだった。

 


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