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1-04『黒との出逢い』

 死んだ、と。

 瞬間、ぼくは確かに錯覚した。


 凛とした、鈴の鳴るような声が耳に届いた。

 ような気がした。

「…………、」

 死んだと思ったぼくは、けれど死なずに生きていた。

 生き残っていた。

 視界は正常。目前の光景は微かな電灯の光に流されるようにして、ぼくの脳へと認識を植える。

 見えるのは、ぼくの心臓を奪うはずの腕が、胸の僅か数ミリ前で停止している事実だ。

 否、止まっているのではない。正確には《止められている》と言うべきだろう。

 死体の背後、フェンスの向こう側から伸びている幾筋もの黒い帯のようなモノが右腕に巻きついて、その動きを完全に束縛していた。細く伸びる影を彷彿とさせる、どこか二次元的なその黒帯こくたいは、その見た目に反してかなりの強度を持っているらしい。捕らわれた肉体は微動だにさえしなくなっている。

 だが、右手が使えないのなら逆の腕を使うまでのこと。

 死体は動かない右腕への興味を忘れ、今度は左のかいなを大きく振りかぶって、


「――許すはずないでしょう」


 またも伸びてきた影の触手に、今度は身体の全てを拘束された。

 左腕だけではない。頭部から頸部、穿孔された胸も含めて腹、腰、腿、脚――全身の自由を一瞬にして奪われている。

 もはや死体は、黒色のミイラとさえ言えるほどになっていた。

「大丈夫?」

 奥の闇から声が聞こえる。

 少女の声だ。高く軽やかで、闇を涼やかに響かせる、それは夜に似合う声色だった。

「ああもう、こんなところにヒトがいるなんて想定外。なんのための結界なのか、まったく知れたものじゃないわね」

 ぼくに語りかけるというよりも、自らで噛み締めているような色合いの声。それが徐々にこの公園のほうへと近づいてくる。


 そして。

 夜の帳から現れたのは、ひとりの黒い少女だった。

 開いた右手をまっすぐにこちらへ伸ばしており、そこが黒帯の出どころになっている。まるで蛇使いの如く、彼女はその帯を自在に操っていた。

 そんな少女が、夜を背負って、立っている。

 華奢な体格で、背はぼくよりもずっと低い。歳の頃はおそらく中学生か、ともすれば小学校高学年くらいだろうか。長く美しい黒髪と、黒曜の如き瞳が印象的な少女だった。

 長髪は烏の濡れ羽よりもつややかで、深い漆黒が夜の中へと溶けている。瞳も同じく夜色だったが、そちらはどこか透明感を持っていた。

 どこか人形めいた少女だ。

 髪や瞳とは対照的な白磁を思わせるほど白い肌が、一種の魔性を感じさせる。糸を編み込んだような頭髪も、石を嵌め込んだような眼球も、妙に現実感がなく作り物めいていた。

 そんな少女を生物たらしめているモノがあるとすれば、それは表情の彩りであろう。

 こちらへ向ける、安堵と呆れをないまぜにしたみたいな、苦みと甘みが一緒くたになったみたいな彼女のその表情は、決して人形には刻まれない生きた感情の表現だ。

 曖昧な苦笑を少女は零す。確かな血の流れが感じられていた。


「よっ、と」

 呟き、少女は身軽にフェンスを飛び越えてくる。

 黒を基調としたゴシック調の着衣が、月明かりの下をはためいた。なんとなく《御嬢様》とか、あるいは《御令嬢》といった風情の出で立ちでありながら、やっている行動は似合わず豪快だ。

 その右手からは、今も黒の帯が死体の女性へと伸びている。完全に行動を封じるそれが、まるでマリオネットを操る糸のようで、ぼくはようやく自分が助かったのだという事実を実感した。

「えっと……、ありがとう」

 近づいてくる少女へ向け、ぼくは感謝の言葉を告げる。

 それはただ状況に流された舌が勝手に動いたに過ぎなかったが、それでも声を掛けることが必要だと考えたからだ。

 すると少女は肩を竦めて、

「構わないわ。むしろこっちの不手際だし」

「……?」

「もちろん、貴方の不運も大きいけれどね。不運も一種の強運には違いないけれど、貴方、もしかして死神にでも愛されているのかしら」

 不吉な言葉を呟かれる。

 どういう意味かと問い質す言葉を作る前に、

「――でもまあ。とりあえずは、こっちを先に片付けましょう」

 言って、視線の向く先を変えた。


 少女は静かに、動かなくなった死体のほうを見据える。

 その瞳がどんな色をしているのか、ぼくの位置からでは見ることができない。

 それでもなぜか、想像できる。


「……駄目ね。こうなってしまうともう、《壊す》以外が私にはできない」

 真っ直ぐ前に延ばされた腕。

 少女はそれを、す――、と横に振るった。


 ――拘束が、解かれる。


 途端、死体は少女目がけて突進した。

 もはやぼくなど眼中にない。死体かのじょが捉えているのは、黒き少女の姿だけ。

 ふっ、と死体の姿が掻き消える。けれど少女は慌てない。

 つい、と指揮を揮うように手首を返し、開いていた掌を天の方向へと向け直す。

「貴女の弔いは、仇を討つことで変えさせてもらうわね」

 そしてか細い指を、小指側からゆっくりと順番に閉じていくと――、


「――――ごめんなさい」


 頭上から押しころそうと迫る影を、黒の穂先が貫いた。

「××■■■■×■――!!」

 口腔から、喉の奥を刺し貫かれた死体の女性。

 声にならない痛みの悲鳴が、夜の空気を大きく揺らした。そのまま死体は、振るわれる黒影の動きに薙ぎ払われ、地面へと叩きつけられる。

 そこへ無数の帯が、肉を切り刻もうと文字通りに殺到した。

 たとえるならば、槍か、刀か、あるいは死神の鎌だろうか。

 四方八方から縦横無尽に、幾筋もの黒い帯が襲いかかって、死体の血肉をぐちゃぐちゃに切り刻んでいく。肉を抉る音が、骨を削る音が、血を散らす音が、耳に残って離れない。

「――嗚■■呼■■■嫌■■……ッ!!」

 声とは言えない悲鳴が、鼓膜をつんざくように響く。

「……っ」

 酷い光景だった。最悪と言っていい。

 それはまるで、人肉をミキサーにかけるような行為に等しかったのだから。

 まともな精神では、とても直視はしていられないだろう。


 ――けれど。

 ぼくは、それを、ただ見続けた。黒い少女と共になって、一部始終を見届けていた。

 それがぼくの義務であるように思えたから。


 やがて、肉も骨も臓器も、魂でさえ液状になってしまっただろう頃。

 黒の影は、ようやくその動きを止めた。

 すうっと水に溶けるように、帯は空気の中へと霧散していく。

 次いで、少女は胸の前で両手を組み合わせた。

 まるで神へと祈りを捧ぐ、敬虔なシスターのような雰囲気を纏い、少女は呟く。

「せめて安らかに。祈りの向こうへ、至れるように」

 その言葉に、いったいどんな意味が込められていたのか。

 少女は組んでいた指をゆっくりと解きながら、その腕を前方の、血の池になった死体のほうへと向ける。そして、

「――――黒蛍」

 瞬間、少女の双手から、黒い火焔が迸った。

 黒炎はまるで石油にでも引火したかのように、元は人間だった《ソレ》へ一瞬の内に広がっていく。瞬く間に天を焦がし、その二瞬後には、初めから何もなかったかのように鎮火していた。

 あとには何も残っていない。

 目の前に広がる風景は、何の変哲もない夜の公園でしかなかった。

 動く死体も、迫り来る死も。

 非日常の要素なんて――もう、どこにも存在していない。


「…………」言葉が出なかった。

 当然だ。今の今まで繰り広げられていた光景は全て、どれもこれも理解の埒外だった。

 ――いったい何が起きていたんだ。

 あるいは夢でも見ていたのだろうかと、そんな気さえしてくる有様だった。

 けれど、もちろん、現実だ。

 今も目の前に立つ少女の、そのどこまでもリアルな存在感が夢などであろうはずがない。そんな確信だけは、疑うことなく抱いている。


「――ねえ」

 と、少女が口を開く。

 まるで十年来の友人に天気を訊ねるような、どこまでも気負いのない声音で。

 その声が、疑問の旋律を奏でる。

「貴方、どうして逃げなかったの?」

「え……?」

「《アレ》の脅威が理解できなかったほどの鈍感、ってわけじゃないんでしょう。あのままだったら殺されてたって、人間なら本能で悟っていたはず」

「……まあ」

 確かに《アレ》は理屈じゃない。

 それを肯定するぼくに、少女は淡々と言葉を連ねる。

「なら、どうして逃げなかったわけ?」

 あくまで自然な、含むところのない口調。

 だからこそ、ぼくの舌もまた自然かってに動き始めた。

「……そもそも、あんなのから逃げられるとは思えなかったから、かな?」

「できるできないの問題じゃないでしょう。捕まれば死ぬ。それが解ってたのなら、普通の人間は逃げ出すものよ。たとえ不可能だと気づいていても」

「…………」

 そんなことを言われても、と思った。それは本当にこの場で訊くべきことだろうか。

 質問は、むしろぼくのほうからしたいくらいなのに。


「なるほどね」

 返答に詰まっていると、やがて少女は、勝手に納得し始めていた。

 そして勝手なことを宣う。

「貴方、どこか壊れてるんだ」

「……」

 罵倒された、というわけではないのだろう。

 実際、少女の声に侮蔑の色は微塵も感じられない。この謎の女の子は、あくまで本心から、ただ観測した事実を認識の通りに言語へ変換しただけなのだろう。

 怒る気にも、否定する気にもならなかったのは、だから、それが理由なのだろうと思う。

「ま、そうでもなければ、こんなところに迷い込めるわけもないか……」

 ひとり納得する少女。

 その言葉が意味するところは今ひとつ以上に理解できないけれど、けれどさらにそれ以上に、こちらからもひとつ訊ねておきたいことがあった。

 そのために、ぼくは言葉を作り出してみる。

「……ねえ」

「ん、なに?」

 なんの気負いもなく少女は首を傾げた。

 だからぼくも、端的に訊ねる。

「君は?」

 端的で、しかし抽象的な問い掛け。

 とはいえこれ以外に訊ける言葉はないし、またこれだけで通じるはずだった。

 少女は笑み、答える。

「私はね、――黒魔術師だよ」

「……違う」

「え?」

「ぼくが訊きたいのは――」

 そう、ぼくが訊きたいのは、そんなどうでもいい瑣末じゃない。

 魔術師だろうが手品師だろうが、そんな些末は知ったことじゃなかった。

 この夜ぼくが見出したものを、そんなチンケな言葉で片付けられて堪るものか。

 ぼくが知りたいことは、ただひとつだけ。

「――名前だ。君の名前を教えてくれ」

 ――遠い過去。今よりもずっと幼い頃。

 薄れかけた記憶の底に、誰かの言葉を思い出す。


『名前というモノは、人間にとってとても大切なモノなのよ』

『誰かと仲よくなりたいのなら、まずは名前を交換しなさい』

『その儀式を通して初めて、人は互いを認識できるのだから』


 ――なんて。誰が言ったか知らないけれど、その言葉は今もぼくを縛っている。

 言いつけは守らなければならない。

 けれどもぼくはそのとき、そんな理由とは関係なく、ただ少女の名前を、知りたいと思っていた。

 このぼくこそが、そう願っていた。


「――玄架」


 と。

 やがて、少女は静かに答えた。

 ぼくはその音を、口の中で小さく反芻する。

「くろか……」

「そう。私は七河玄架だよ」

 少女――玄架はそう言って、誇らしそうにはにかんだ。

 まるでその名を名乗ることが、この上ない至福であるかのように。

「七つの河水のくらい架け橋。で、七河玄架。どう、格好いいでしょ?」

 そう嘯いてまた微笑む。今までの大人びた口調や空気はどこかに消えて、年相応に眩い笑顔を見せていた。

 ぼくは小さく頷きを返す。

「……うん、そうだね」

「それで、貴方の名前は?」

「ぼくは……、ぼくは苑樹。薬師苑樹」

「えんじゅ……か。へえ、面白い名前だね」

「あー、まあ、変わってるとはよく言われるよ」

「あははっ!」

 心底愉快だというふうに破顔する玄架。

 先程までとはもう、本当に別人のようだった。


「じゃあ、苑樹……って呼ぶけど、いいよね?」

 と、笑みを消した玄架が、小さく首を傾げて問うてくる。

「まあ、好きに呼んでくれていいけれど」

「よろしい。――それじゃあ」

 どこか試すような口調を作り、

「――ちょっとこれから、真面目な話、いいよね?」

「……そうだね」

 無論、問われるまでもなく。

 ぼくは静かに、玄架へと首肯してみせる。

「悪いけれど」と、玄架。「楽しい話には、なりそうもないわよ?」

「だろうね」ぼくは肩を竦めてみせる。「で、ここで話すの?」

「まさか。ないとは思うけど、巡回の警察官なんて来たら厄介だし。ほら、近頃物騒じゃない」

 どの口が言うのか、玄架は肩を竦めてそう嘯く。

 ……ふむ。

 ならば、とひとつ提案してみる。

「だったらウチに来る?」

 ぼくのその言葉に、玄架は一瞬、ぽかんと目を見開いた。

 しかしすぐに愉しげな――享楽よりは悦楽に近い――笑みを作ると、玄架は悪戯っぽく口角を吊り上げる。

「……へえ」それは獲物を狙う猛禽の表情に似ていた。「初対面の女の子をこんな時間に誘うなんて。意外と積極的なんだ?」

 ぼくもだから、笑顔で返す。

「いや、さすがに小学生に対してそういう興味は、」

「小学生じゃねーよ」

 声音が一瞬にして低くなった。まるでひと昔前のヤンキーだ。

 ……そうか。背が低いことを気にしてるのか……。

 口の端を僅かに引き攣らせつつも、ぼくは謝罪の台詞を口にする。

「それは悪かった」

「まったくよ」

「人にはそれぞれ事情があるからね」

「……は?」

「そりゃ義務教育に通えない人も、中にはいるよね。ごめん」

「いや小学校に通えてないって意味じゃないから」

「だろうね。知ってる」

「あはは……まったくもう」玄架は綺麗な笑顔で言った。「呪い殺すぞ?」

「……それは怖いな」

 言ってぼくはまた肩を竦める。

 黒魔術師に言われると、その言葉もあながち冗談とは言い切れない。


 ――ともあれ。

 その夜、ぼくの身に起こった出来事の、それが全ての顛末である。

 六月二十七日の深夜だった。

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