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1-03『誘蛾灯の下』

 深夜零時を過ぎた頃。ぼくは、自宅の玄関を後にした。

 ジーンズにトレーナーという至ってラフで、かつシンプルな格好。元来そういう服しか持っていないというだけだが、ぼくにとってはこれがベストな散歩着だった。今の季節はともかく、冬はウィンドブレーカーなど防寒着を身に纏わないとさすがに寒いが、基本的には夜の空気を直接感じられる格好で外に出たい、という嗜好がある。

 なんなら裸で徘徊したいくらいだ、とまで言うと、さすがに言いすぎだが。ぼくとて一応、良心や常識という概念は所持している。別に露出狂の気もない。

 ともあれ。

 わざわざ来てくれた雅彦に対し不誠実極まりない行為ではあったが、ぼくは結局、今日も深夜に自宅を抜け出し、こうして深夜徘徊に勤しんでいる。我ながら病的だという自覚はあったが、自覚すれば病を治せるのかと問われれば、そんなこともないわけで。

 季節は春と夏の過渡期。

 吹く風の温度にも日ごとにばらつきがある不安定な時候だが、今日は比較的過ごしやすい。

 こんな日の散歩は、きっと気分がいいだろう。

 もっともぼくの散歩は趣味や息抜きの類ではなく、言うなればただの衝動でしかないのだけれど。

 ――まあ、だからというわけでもないが。


 後から振り返ってみても。

 その日のぼくは、予感らしい予感などまったく感じてはいなかった。


 しばし、夜の住宅街を練り歩く。

 この昏咲市の面積は、全国的に見てもかなり広い部類に入るという。

 ぼくが住んでいるのは、その中でも北東の方角に位置するエリアだ。この区画は大雑把に《繁華街》と《住宅街》に二分でき、自宅や学校があるのは後者のほう。前者には市の交通の要衝となる昏咲駅があり、自宅の最寄りである珠瑚音川たまこねがわ駅からは電車で四駅、十分程度。徒歩ではおよそ一時間強ほどといったところだ。ちなみに雅彦のアパートや勤務する警察署も、方面としては繁華街側に位置している。


 歩きながら空を見上げた。

 地方都市の夜に星は少なく、見えるのは深く広がる一面の黒と、静かに浮かんだ艶やかな満月だけ。吸い込まれそうな夜空は、不気味で、それ故に美しい。眺めていると、まるでこの世の中に自分ひとりだけが取り残されて、他は何もかも消えてしまったかのような錯覚が湧いてくる。

 破滅願望的な幻覚妄想。

 にもかかわらず惹かれるのは、果たして人間が生まれながらにして持つという原罪が故か、それともぼく個人が個人として抱えている何かに起因しているのか。――どちらにしろ、似たようなものだとは思うけれど。

 なんて。

 そんなことを考えながら歩いていたら、道に迷った。

「……あれ?」

 ふと気がつくと、周囲の風景にまるで見覚えがなくなっていた。

 ――いや、厳密には少し違う。

 見覚えがないというより、見て覚えることができなくなっている、と表現したほうが近いだろう。

 どうも周りの様子が頭に入ってこない。景色を認識することができなくなっていく。

 頭の中がくらくらと揺れた。

 なんだかひどく気分が悪い。

 まっすぐ伸びるコンクリートの道路、横手の民家を囲う黒い金属製の柵、石を積み上げたような塀と表札、僅かに傾いた電柱と仄かに明滅する電灯――それらの要素は視認できる。

 けれどそういった風景が、意味のある概念として頭に入ってこない。

 自分の思考が、自分で認識できない感覚とでも言うか。いや、それを的確に表現することも難しい。

「――っ、……?」

 視界は鮮明だった。けれど、まるで頭の内部に靄が掛かったみたいに、認識能力が下がっている。

 ここはいったいどこなのか。

 どうしてこんなところにいるのか。

 今までどれくらいの時間を歩いていたのか。

 そういった諸々を、何ひとつ思い出せなくなっている。


 ――ただ、何かに呼ばれている気がした。


 道の向こうに在る何か。それが逆らいがたい強烈さで以て、ぼくの名前を呼んでいる。そんな感覚がしていた。

 僕はふらふらと、まるで誘蛾灯に近づく羽虫のように、その方向へと引き寄せられていく。

 ゆっくりと。不確かな地面を、踏みしめる足で確かめながら歩くように。

 ぼくは、道を進んでいった。

 やがて小さな公園へと辿り着く。

 住宅地の片隅にひっそりと存在する、たまたまスペースが余ったので公園にしてみました、と言わんばかりの小規模な子供の遊び場。入口から見て左手は奥側に鉄棒、手前側にはシーソーが設置されており、その逆、右手側には奥に電灯、手前に砂場がそれぞれあった。誰かが置き忘れていったのだろう、土汚れのついたサッカーボールやおもちゃのバケツが、公園の入口辺りに投げられている。

 それは何の変哲もない、至極普通の公園だった。

「――――」

 見覚えは、ない。

 安っぽい遊具にも打ち棄てられた玩具にも、記憶を刺激されるようなことはなかった。

 ――なのに、どうしてか、ココロが惹かれる。

 ふと、鼻腔を擽る香りがあった。脳がとろけるほどに甘く淫靡な、濃密かつ馥郁たる芳香。

 ……いや、今気がついたわけじゃない。本当は最初からこの臭いに気づいていた。だってぼくは、それに引き寄せられてきたのだから。これは源に近づいせいで、香りがより顕著になったというだけの話。

 身体が赴くままに、ぼくは一歩、公園の中へと足を踏み入れる。


 ――瞬間、

 抉るような刺激が全身を貫いた。


「く――は、っ」

 鼻を刺す強烈な香気。全身を覆う大気が、突然に質量を持って圧迫してきたかのような衝撃だった。

 心臓が、跳ねる。

 ぼくのナカから飛び出そうとして暴れ始める。

 脈拍が加速し、鼓動が乱舞し、意識が急激な覚醒を得た。


 ――なぜ、ぼくはこんなところへ来た?


 当然の疑問が脳裡を広がる。だがそこに行き当たったぼくの思考は、ここに至って初めて、焦燥に似た感情を生み出した。

 なぜだろう。ぼくはこんな場所を知らない。こんな公園に用なんてない。だから、ここに訪れる理由もない。

 ――ならばなぜ。なぜ、ここに――?

 にわかに感染を拡大し始める恐慌の思い。

 まるで、自分が自分ではないような。

 誰かに操られてしまったかのような。

 そんな、どうしようもなく不安を煽る感覚を、ぼくは思索の帰結として獲得していた。


「う――あ」

 意識の覚醒と比例するように、急激な頭痛が発生した。

 内側に棘が付いた鉄製の輪で、脳を直接締め付けられているような、そんな感覚がする。

 この場所に満ちる全ての大気が不快だった。

 肺腑を占める空気を全て吐き出してしまいたい。心臓は酸素の供給を止め、脳髄は直ちに活動を凍結しろ――そんなことさえ思った。

「――――ぐ、」

 胃の中身を、足元のバケツにぶち撒けてしまうかと思った。

 咄嗟に口元を手で覆い、すんでのところで嘔吐を堪える。せり上がってきた胃液を、不快感と共に無理矢理呑み込、「ぐお、――あ」ああくそ、やばい、超気持ち悪い。

「――っ」

 そのまま数秒。

 ぼくはなんとか気分を整える。

「…………、あー」

 足元の砂利を数えて、荒れた呼吸を落ち着けた。「……っ、はあ……」どうにか意識を持ち直す。

 ――もう大丈夫だろう。

 そう判断し、ぼくはゆっくりと顔を上げ、


 ――死体が目の前に、


「――――っ!?」

 振るわれる腕。それは純然たる殺意の発露だ。

 命を刈り取るべく突き出された指先が、すぐ目の前にまで迫っていた。

「……!」

 瞬間、ぼくは後ろ向きに倒れ込んだ。

 回避しようとしたわけじゃない。脅威を理解していたわけですらなかったと思う。ぼくはただ反射的に身を引いただけ。

 だから、初撃を躱すことができたのは、恐らくは奇跡の類だったと思う。


 自分の顔の、たった数十センチ前に見えた女性の顔。

 ――死体の顔。

 絶望という概念をヒトの顔で表現したような。哀切、悲嘆、痛哭、ありとあらゆる負の感情を表現する、それは死者だけが形作れるかんばせだった。

 恐怖を感じてはいなかった。ただ彼女が持つ怒涛の如き哀の感情に押されて、ぼくは思わず、後ろへ倒れ込むように足を滑らせていたのだ。

 無様に転倒したぼくの、その視界の上。それまで胸があった部分を、まるで刺す槍のような勢いで腕の一撃が奔る。風を切る音さえ耳に届く、それは恐ろしく力強い一撃だった。


 理屈ではなく直感で悟る。

 もしも直撃していたら、多分ぼくは死んでいた――と。


 二撃目は来なかった。

 死体は、空を切った自らの右手を、不思議そうに首を傾げて見つめている。その瞳と胸からは、溢れるように血が流れ続けていた。

 それが、ぼくがこの女性を、ひと目で死体だと判別した理由だ。


 ――心臓がない。


 胸。女性らしい膨らみがある両の乳房、そのちょうど中心の位置。

 その部分が、ぽっかりと孔になっていた。

 削がれた骨と、千切れた肉が断面から見える。綺麗な傷口ではない。強引に抉られ、力任せに心臓を引き抜かれたような――そんな空洞。

 倒れたぼくからは、その孔を通じて空を見上げることさえできる。

 その様は、いっそ滑稽ですらあった。


 死体の首が、がくりと歯車が起動するような勢いでこちらを向いた。

 落ち窪んだ両の瞳から流れ出る血涙が、ぽたりと垂れて、ぼくの頬を僅かに濡らす。

 眼が、合った。


「――――――――」


 ……ぼくは。

 転がるように身を横へ逃がすと、すぐに立ち上がって公園の中へと飛び込んだ。

 わざわざ袋小路に逃げ込むなんて、我ながら気でも狂ったのかと思うけれど、それでも他のところへ逃げる気にはなれなかった。

 こんなわけのわからない存在を引き連れたまま、別の場所へ向かうわけにはいかない。いかに深夜とはいえ、それでも人がいないとは限らないのだから。

 ――なんて、冷静なのか興奮しているのか、どちらなのか判らないけれど。

 とにかく、そんなふうに考えていた。

 たまには雅彦を見習って、正義の真似事をしてみるのも悪くない。

 電灯の明かりの下へと駆け込む。弱く淡い橙色の灯りが、それでも今は頼もしかった。

 辺りを見回す。

 武器になるようなモノは――なかった。

 まあいい。初めから期待などしていなかった。

 得物がないなら殴り倒すまでのこと。

 ぼくは武道の心得などないし、運動能力も平均程度のものだけれど、まあ女性ひとりくらいならばなんとかなるだろう。というか、ならなければ困る。死ぬ。

 目の前の《これ》を普通の女性、というか人間の範疇に当て嵌めて考えてもいいものなのかは、いまいち自信がなかったが。


 どうせ、できなければ死ぬだけだし。

 ならば考えるだけ無駄というものだろう。

 まったく恰好がつかないけれど。

 どうにもやはり、雅彦のように上手くはいかない。


「■■■■■■■■――!」

 動く死体が、小さく呻きながらこちらを見据える。

 灯りの下に身を出したのは、相手から見やすい位置に移動するためでもあった。

 ぼくはここにいる。

 さあ向かってこい。

 そう思ってぼくは身構えて、

「――なっ、」

 反射的に、しかし今度は明確に回避の意志を持って身を捻る。

 だが間に合わなかった。突き出された女性の長い爪が、ぼくの頬を抉っていく。

「――く……」

 傷は浅い。滲むような頬の痛みを無視しつつ、ぼくは光の中から転げ出た。

 距離を取るように、砂場の方向の外郭まで全力で走った。

 緑色のフェンスに背を預ける。

 ――はやい。

 いや、迅いとか遅いとか、そういうレベルの問題じゃなかった。最初のときと同じだ。動きをまるで察知できなかった。瞬間移動でもしているかのような具合だ。

 にわかに混乱する頭を立て直しつつ、ぼくは電灯のある方向を確認した。

 ――誰もいない。

 女性したいの姿が忽然と消えている。

「……いったい、」

 どこに消えた?

 と、そう口にする途中だった。


「――――■■■■■■■、■■■■!」


 背後から、呻くような声が聞こえた。

「……!」

 悪寒に突き飛ばされるように振り向く。

 いた。

 フェンスの上に。

 座り込むようにして、心臓のない女性が存在していた。

 ――いつの間に、

 そう疑問する暇もなく、死体かのじょの腕が容赦なくぼくの心臓へと伸びてくる。


 景色の再生が、スローになったかのような気分だった。

 走馬燈という現象だろうか。

 死と共に迫りくる腕が、絶望の色を浮かべた顔が、胸と眼窩から流れ出る赤い血液が――何もかもはっきりと見て取れた。

 腕は、既にぼくの心臓のすぐ前にまで至っている。

 彼女はきっと、失くした心臓を捜しているに違いない。だから、見つけた心臓ぼくに手を伸ばそうとしているだけなのだろう。

 そう思うと、これから殺されることについても、どこか優しい納得を得られるような気がする。


 ――そして。

 ぼくは死んだ、



     ※



「――悪いけれど。少し、邪魔をさせてもらうから」

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