1-01『昏咲市連続猟奇通り魔殺人事件』
その日。六月二十七日。
叔父の新田雅彦が我が薬師家の玄関をくぐったのは、時刻にして午後五時半を回ろうかという頃だった。
「――いらっしゃい」
とぼくは歳の離れた友人である彼を、すぐに居間へと招き入れた。
勝手知ったるというふうに、雅彦のほうもいそいそと机の定位置へ腰を掛ける。
「なんだ、料理中だったか?」
「うん。今日はカレーだね。ビーフカレー」
「そりゃオーソドックスだな」
久闊を叙するための、当たり障りのない会話。
高校生にして贅沢にも一軒家で独り暮らしをするぼくは、自然、それなりに自炊で食っていけなければ生活ができない。得意とまでは言わないが、最低限の料理は習得していた。
一方の雅彦は、独り身の社会人である癖に、と言うと偏見になるのかもしれないが、これが麺を茹でる以外の調理ができなかったりする。
だから雅彦は、たまにぼくのところへ食事をたかりに来ることがあった。
――今回もまた、要件としてはそんなところなのだろう。
と、ぼくは当初、そんなふうに当たりをつけていた。
しばし、ぼくは来客を二の次に調理を続ける。
雅彦はテーブルに肘を突いたまま、何をするでもなく虚空を見つめ続けていた。
我が家にはテレビやパソコンといった退屈を紛らわせるような機器は、何ひとつ設置されていない。とはいえ雅彦もそれには慣れている。最初の数言喋って以来、ぼくが淹れた茶を黙々と啜っている。
その様子に、ぼくは若干の違和感を覚えていた。どうも雅彦らしくない。
ぼくにとって雅彦は友人だ。
雅彦にとってのぼくもまた、諸々の要素を取っ払って考えれば友人である、はずだ。二十九の雅彦と十七のぼくとでは歳の差が大きいが、そういった瑣末を無視できるだけの親しみやすさが、新田雅彦という男にはある。
その彼が黙りこくったまま何も言わないなんて、これは些か以上に奇妙な事態だと言えるだろう。
いったいどうしてしまったのか。
微かに引っかかる思いを抱えたまま、ぼくはただ、雅彦の言葉を待って調理を続けた。
やがて、夕食の準備がひと段落した頃。
ふと思い出したというような気軽さで、雅彦が口を開いた。
「――なあ、苑樹」
「ん? 何、心配しなくても雅彦の分も作ってあるけど」
「最近この辺りで、連続殺人が起きてるのは知ってるよな?」
雅彦は、ぼくが入れた茶々には耳を傾けず、言った。
多少の驚愕を覚えつつもぼくは頷く。
「まあ、一応は」
「そうか。――お前のことだからな、知らないとか言われたらどうしようかとヒヤヒヤしたぜ」
「いきなり失礼だね……」
とはいえ、テレビもなければパソコンもない、文明社会に真っ向から対立するような家に住んでいる人間に対してのことである。その危惧ももっともだと言えよう。
実際、世間を騒がせる大抵のニュース情報を、ぼくは知らないまま生きていると思う。知らないなら知らないで、何かに困るわけではないのだから。
しかしながら、そんなぼくでさえ雅彦の言うその《事件》だけは、知らないでいるほうが難しいというものだろう。
――昏咲市連続猟奇通り魔殺人事件。
そのセンセーショナルを極めたような、平和を謳うこの国には酷く似つかわしくない踊り文句が、このところ世間を賑わせている事件の呼称だった。
深夜、女性ばかりを狙って殺害、解体して回る無差別通り魔。
そんな殺人鬼が自分の住む市にいることを、さすがに知らないとは言えない。
まあもっとも、詳しく知っているわけでもないことは事実だったが。
それを言ってはまた雅彦から白い眼で見られてしまうだろうことは明らかだ。余計なことは、言わないでおくのが正解であろう。
「けど、それがどうかした?」
というわけでぼくは、ただ首を傾げて問うにとどめた。
確かに注意すべき大事件ではあるが、その話題をわざわざ夕食の前に持ち出す理由とはなんだろうか。
「もしかして、犯人が捕まったの?」
「いや、正直言うと全然だ。驚くことに手掛かりすらない」
「……」
確かにそれは、驚くべき情報ではあるのだろう。
殺人鬼の犠牲となった女性は、昨日までで知る限り四人にも上っている。それだけの殺人を遂げていながら、未だに尻尾のひとつも掴ませないとくれば驚愕のひとつも覚えるというもの。
どうやら随分と周到な犯人であるらしい。
この国の警察は、そして現代の科学捜査は、相当に優秀かつ、相応に有力なものなのだとぼくは思っていたが……それでも絶対ではない、ということか。
けれど、
「捜査一課の刑事の口から、そんな言葉を聞かされるとは思わなかったな」
そう言ってぼくは肩を竦める。
――新田雅彦。
彼は一課随一の切れ者を自称する、これでれっきとした警察官である。
たとえ普段の見た目が、無精髭を蓄えた酷い乱髪の冴えないオッサンと化していようとも。真面目に身なりを整えれば、そこに現れるのは精悍な顔付きで捜査に臨む、善良な市民のために働く法の守護者なのだった。
「警察官が、一般市民を不安にさせるようなこと言っちゃ駄目なんじゃない?」
問うと、雅彦は失礼にもぼくを鼻で笑い、
「はっ。お前がそんなことで動揺するタマかよ」
確かに動揺はしないが。
「そういう問題じゃないと思うけど」
「いいんだよ別に。知らないのか? 俺はこれで、署内じゃ変わり者で通ってるんだぜ」
「……だから?」
「多少の問題を起こすくらい、いつものことって感じなんだよ」
「知らないよ……」
というか知りたくもなかった、そんなこと。
なぜこの友人は、そんな悲しい情報を誇るかのように宣言してくるのだろうか。言葉もないとはこのことである。
……まあ、雅彦なりの冗談なのだとわかっているけれど。
頼むから上司の方々は、雅彦の行動にもう少し目を光らせてほしいものである。
「いいけどね、別に。それで、その事件がどうしたわけ?」
「どうもしねえさ。どうもしねえからどうしようもねえわけだよ。これはただ愚痴っただけだ」
「……まあ、愚痴くらいなら聞くけれど」
「ありがたいね」
苦虫を口の中でミキサーした、ってくらいの渋面を雅彦は作る。
彼は一見して粗野で粗放で、総じて不真面目な印象を見る者に与える男ではあるけれど、根っこの部分では驚くほど真摯で誠実な人間であることを付き合いの長さからぼくは知っている。
おどけるような調子で喋ってはいるけれど、雅彦は自身の管轄内で四人もの犠牲者を出してしまっているのだ。その内心では、忸怩たる思いを強く抱えているはずだった。
「ったく、十日の内に人間を四人も殺してバラして、それでもまだ悠々と街を歩いてやがるたぁ……我ながら情けない話だぜ」
雅彦は溜息と共に、胸裏へと抱え込んだ複雑な感情を言葉に変えて吐き捨てる。
ぼくはフォローするように、
「とはいえ、進展がまったくゼロってわけでもないんでしょ? ほら、何だっけ、たとえばあの、現場の状況とかから犯人の人格を割り出すっていう……」
「プロファイリングか?」
「そう、それ。そういうの、警察でやってるんじゃないの?」
「さあな?」と首を縮こませて、雅彦。
テーブルから水道水の入ったグラスを手に取り、
「俺はそっちの専門じゃねえし」言って、グラス水を一気に呷って元の位置に戻す。「そもそも人間殺してオブジェに作り替えるような奴の人格なんざ、理解したいとは思えねえよ」
心底から嫌悪するように吐き棄てていた。
……どうだろう。その点ではしかし、ぼくは雅彦と意見を違えている。
ぼくはむしろ尋ねてみたい。もしも殺人鬼に会えたなら、是非ともひとつ訊いてみたかった。
――人殺しは楽しいですか?
と、そんな質問を。
さておき、
「オブジェって?」
ぼくは首を傾げた。
単に死体を解体しただけならば、《オブジェ》という表現は選ばないだろう。その点が少し引っかかった。
「言葉通りだよ」と雅彦はつまらなげに答える。「殺された被害者が、全員バラバラに解体されてるって話は知ってるよな?」
「一応ね」ぼくは頷く。
だからこそ、この事件は大きな話題性でもって国中を騒がせているのだから。
猟奇殺人。連続殺人。解体殺人。
センセーショナルなどという表現では及びもつかないほど、それはどこまでも非日常的な響きを孕んでいるフレーズだ。それこそ、まともな情報媒体をひとつも持たないような、非文明人たるぼくの耳にさえ及ぶほど。
おそらくだが、そろそろ警察へのバッシングも始まりつつある頃合いだろう。これ以上の犠牲者が現れるようでは、不特定多数から無能の謗りを受けることも避けられない。
そんな思いも言外に含めつつ、ぼくは雅彦へと視線を投げる。
それを悟ってか悟らずしてか、雅彦はひとつ首肯して言葉を再開した。
「実はな、……この事件の仏は、ただバラバラにされてるってだけじゃねえんだよ」
「というと?」
「――魔法陣」
雅彦の口から、予想だにせぬ言葉が飛び出してきた。
思わずぼくは眉根を寄せ、雅彦の宣った言葉をそのまま繰り返してしまう。
「魔法陣、だって?」
「ああ。そう表現するのが、一番近いと思ってな」
「…………」
この場合、まさか算数のクイズに出てくるような方陣を指して言っているわけではないだろう。
とするならば、
「それってあの、円の中に文字とか星とか、そういう紋様みたいなの描いたりする、アレのこと?」
「そう。まさにその《魔法陣》だな」
頷く雅彦。
ぼくは逆にわからなくなってきてしまう。
「いや、それ……それがどうしたんだ?」
自然、怪訝な面持ちになりつつあったぼくへ、雅彦はゆっくりと告げてくる。
「どうしたも何も、描かれてたんだよ」
「……、じゃあ」
「そう、現場にな。犯人の手で遺されていたわけさ」
静かに、呟くように雅彦は頷く。
渋く、苦味に溢れた声で。
「――つまり、現場の地面に被害者の血液で、趣味の悪いお絵描き遊びがしてあったってことだよ」
吐き捨てた。