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1-13『日常の終わり』

 朝食後、「それじゃ、わたしは帰るねー」と、ノエミは早々に帰宅の意を示した。

 もう少しゆっくりしていってくれても、ぼくとしては構わなかったのだが。それを告げると、

「気持ちは嬉しいけど、いろいろとやることもあるしねー。わたし、フランスから帰って来たばっかりなんだよ」

「そういえば、そんなことも言ってたっけ」

 重そうなトランクを携行しているノエミ。

 昨夜は気にしていなかったが、その中には旅の荷物が詰まっているのだろう。

「それにほら、いろいろとやることもあるしねー」

「やること?」

「そうそう。ミコのとこにも、顔を出さないといけないし」

 と、そこまで言ったところで、ノエミが「あ、そうだ」と思い出したように呟いた。

 彼女はトランクを開き、その中をごそごそと探り出すと、やがて何かを取り出して「はい」とぼくに向かって投げ寄越した。

 ぼくはそれを胸で受け取る。

 大きさは両の手で持てる程度の、白い包帯のような布でぐるぐる巻きにされた何かだった。

「それあげるよ。まあ、使わないに越したことはないんだけどさ」

「……これは?」

「まあ、いわゆる《破魔の剣》ってやつ。大きさ的には小刀程度だけどね」

「破魔……」

「そ。魔術で作った剣。物理的な殺傷性能はほとんどないけど、魔的なモノに強い抵抗力があるから。過信は禁物だけど、護身くらいにはなると思うよ」

「……ありがとう」

 ぼくはありがたくそれを受け取った。別段、断る理由がない。

 ノエミは、無駄に様になった横ピースを目元で決めながら、

「いいってことよー!」

 それに――。

 と、ノエミは悪戯げに笑んで、

「二人の愛の巣に、お邪魔虫が長居するのも申し訳ないし」

 そんなことを宣った。

 台詞の直後、「いいからさっさと出てけ!」と玄架に尻を蹴飛ばされたのは、まあ余談であろう。

 ともあれ。

 そんな感じで、午前の薬師家には、玄架とぼくだけが残されることとなった。


     ※


「……状況は、まあ、あまりいいとは言えないかしらね」

 居間のテーブルで向かい合うぼくたち。

 椅子に腰を下ろした玄架は、静かに瞑目してぼくに言う。

「ノエミが帰ってきたことはプラスだけど、相手が《七姓》まで雇っていたのは正直、予想外だわ。なりふり構っていないと言うか……まったく、相手の魔術師は、いったい何が目的なんだか」

 どこか腹立たしげに玄架が言う。

 確かに、相手が単独犯ではなく複数だという点は痛手だろうが。どうも玄架の言葉には、それ以上の意味が込められているようだった。

 七姓、というのはおそらく先日遭遇した、あの《綴生》という男を指した言葉なのだろうが、詳しいことはわからない。

 とはいえ、ぼくは特に言葉の意味を問い質そうとは思わなかった。もしぼくが知っているべきことなら、玄架のほうから説明があるだろう。そう考えたのだ。

 ただ、その肝心の玄架のほうは、何か毒づくようにぶつぶつと文句を零している。

「風の異能、か……。西洋魔術で言うところの四大元素だけど、今どき元素魔術師なんて絶滅種でしょ。風精霊シルフと属性を同調できる人間なんて、そもそも現代にはいないだろうし……ああもう、きょうび四精霊テトラエレメンツ論なんて、黒魔術以上に流行ってないっての」

「……」何を言っているかちっともわからない。

 玄架は続ける。

「これだから嫌いなのよ、異能者って奴は。魔術師が逆立ちしたって再現できないような異常を、平気で持ち出してくるんだから。ああもう、錬金術関係の本、どっかに仕舞ってあったかな……? 師匠の書架になら一冊くらい……ちっ。パラケルススなんて趣味でしか齧ってないってのに。どっちにしろ、役に立つかどうかも怪しいけど」

 珍しく、玄架は相当に苛立っている様子だ。いや、珍しいというわけではないのだろうか。どうもぼくにはわからない。

 いずれにせよ、玄架はぼくのことなんて眼中にないようだった。ぶつぶつと呟きながらも、意識は内側へ埋没している。この独り言も、おそらくは思索に集中する際の、玄架の癖みたいなものなのだろう。そういう意味では、やはりちょっと意外な反応だという気はする。

 それを判断できるほど、ぼくと玄架は同じ時間を過ごしていなかったが。

 ――やれやれ、などと肩を揺らしてみる振りをしながら、ぼくはお茶でも淹れようかと席を立つ。

 と、そのときだった。

 玄関のチャイムが鳴らされ、ぴんぽーん、という間延びした音が居間に響いた。

 玄架がちら、と目を上げて言う。

「来客みたいね」

「そうだね。誰だろう」

 訊ねるぼくに、玄架は興味なさげに肩を揺らした。

「さあ。結界が反応してない以上、害意のある人間じゃないから。出ても大丈夫よ」

「……なるほど」

 お墨付きを貰ったところで、ぼくは玄関の方へと向かった。意外にも、玄架が後ろからついて来る。

 ぼくは振り返って、

「なんだ。結局来るんだ?」

「何よ――悪い?」

「いや。なんだかんだ優しいよね、と思って」

「……言ってなさい、ばか苑樹」

 どこまでも微妙な表情で、玄架はそう吐き捨てた。


     ※


 果たして。

 来客の正体は、稲葉だった。

「おはっ。やくし、元気? 玄架ちゃんも」

「……。まあ元気だけど」

 わずかに驚きつつ答える。ちなみに玄架は答えなかった。

「どうしたの? 今日は学校もないのに」

 ぼくがそう訊ねると、稲葉はきょとんとした表情で首を傾げる。

「どうした、って訊かれても……」

 なぜそんな当たり前のことを訊ねるのだろう。

 なんて、そう問うてこんばかりに、稲葉はあっけらかんと言う。

「毎日、見に来ることになってるじゃんか。今さらどうしたも何もなくない?」

「……何もわざわざ、こんな日にまで来なくなって」

 律儀にも程があるだろう。

 呆れすら通り越し、いっそ感心してしまうほどだった。

「えっと……ほら。一応、委員長だし?」

 それでも図星ではあったのか、稲葉はどことなく顔を赤くして明後日の方向へ目をやった。

 答えもまるで理由になっていない。考えて来たというよりは、習慣のままに来てしまったという感じなのだろう。

「通り魔に襲われたらどうするつもりなんだ。危ないだろう」

 ぼくは言った。まだ陽の出ている時間とはいえ、それは決して安全を保証するものではない。これは少しくらい、強く言ったほうがいいだろう。

 と、そう思ったのだが、いかんせんぼくが言う程度では迫力が出ない。気迫が希薄過ぎる。

「……心配してくれたの?」

 上目遣いに、窺うように稲葉が言う。

 おっと。これは案外、思ったよりも迫力を出せていたのだろうか。

 別に怖がらせたかったわけではないのだ。先程よりもいくぶん語調を抑え、笑いかけるようにぼくは答えた。

「当たり前じゃないか」

「当たり前……そっか、そうなんだ……」

「クラスメイトなんだから」

「――――」

 稲葉が、何かものすごい裏切りに遭ったみたいな目でぼくを見た。

 背後からはなぜか玄架の視線まで感じる。

 意味がわからない。

 わからないが、まあ、とはいえ。

 せっかく来てくれた彼女を、無碍に追い払うのも気が引ける。そもそもぼくが初めからしっかりしていれば、彼女の手を煩わせることもなかったのだから。

 毎日来てもらっている身分で、ぼくがどうこう言い過ぎるのも違う話だろう。

 たまには、稲葉を労ってもいいかもしれない。

「せっかくだし、上がっていきなよ、稲葉」

「う――うえぇっ!?」

「……ごめん。まさかそんなに嫌がるとは――」

「い、嫌がってないよっ!? ちょっと驚いただけ!」

「そんなに驚かせるようなこと言ったかな」

「だ、だってやくし、今までわたしのこと、家に上げてくれたことなんてないじゃん! なのに急に……」

「いや、だって稲葉が来るときは、つまり学校に行く時間だから」

「そりゃそうだけど――!」

 稲葉のテンションがおかしい。とりあえず、嫌がってはいないようだが。

 ふむ。もしやこれは異性の家に招かれることに、少し警戒があるのかもしれない。それはそれで仕方ないとは思うし、ちょっと心外な気もする。

 まあ、今の時代、警戒はしてし過ぎるということはないだろう。最近、とみにそう思う。

 ぼくは言った。

「まあ、心配しなくても玄架もいるから」

「…………」

 ものすごく名状しがたい顔をする稲葉が、そこにはいた。その意味は判じかねたが、訊ねるのもそれはそれで何かが違う感じだ。

 結局、何も言わずにぼくは振り返り、稲葉を中へと誘導する。

 そのとき、自然と玄架に目が合ったが、

「…………」

 彼女もまた、何も言うことはなく、難しい表情で腕を組んでいる。

 どうにも険しい表情で黙り込む玄架のその意図を、ぼくは判ずることができなかった。


     ※


 だらだらと過ごし、時刻はおよそ十時頃。

 その間は、特に何をするでもなかった。学校のことや、その他のこと。いろいろなことを稲葉が話し、ぼくはそれを聞いていたに過ぎない。

 益体もない四方山話。中身のない、よしなしごとのつまらない雑談。

 けれど、そんな時間も悪くない。なんて、そんな風にも思ったりするぼくだった。

 この心境の変化は、玄架が来て以来のものだろうか。

 そんな風に考えながら、ぼくは稲葉の言葉に耳を傾けていた。

「やくしの家、なんにもないね……」

 どこか呆れた風に稲葉が言う。ぼくは首を傾けて、

「なんにも、ってことはないと思うけど。お客に出すお茶くらいはあるさ」

「そうじゃなくって。テレビとか、パソコンとか、電話とか……普通ある家電が」

「一人暮らしになったときに、一度全部を処分してね。本当はこの家も処分するかもしれなかったんだけど……それはともかく、まあそれ以来、結局揃えないまんまで今日まで来てる」

「……そっか。不便じゃない?」

「慣れればそうでもないよ。住めば都ってヤツだね」

「その使い方は違うと思うけど……」

 なんて。本当に、ただの雑談だけをしていた。とはいえ、どちらかと言えば、稲葉はむしろ玄架と話していることが多かったように思う。

 ひたすら猫被りを続ける玄架と、それに気を使い続ける稲葉。

 すれ違って噛み合わない、微妙な会話劇がそこにはあった。


「玄架ちゃんは、その、やくしとはどういう知り合いなの?」

「海外に住む両親と、苑樹兄さんに縁故がありまして。私はその紹介で知り合ったんです」

「そ、そうなんだ。すごいね、ひとりで日本に来るなんて」

「いえ。苑樹兄さんに助けてもらっていますから。平気ですよ?」

「そうなんだ……。が、学校とかは大丈夫なのかなっ?」

「これでも私、成績はいいんです。それに――いざとなれば、兄さんが教えてくれますから」

「そ、そうなんだー……」

「はい、そうなんです」


 ――ね、兄さん?


 などとこちらへ笑顔を向けてくる玄架には、まったくぞっとさせられる。玄架に『兄さん』などと連呼されるのはすさまじく居心地が悪い。気分はまさに針のむしろだ。

 なぜぼくは、自宅でこんな、真綿に首を締められるかの如き気分を味わわねばならないのだろう。玄架が事あるごとにぼくを引き合いに出す、その意味がわからなかった。

 何かが間違っている気がしてならない。

 ならないが……まあ、結局のところ、ぼくは黙っているだけだった。

 嘆くべきは、日和見主義者の意気地のなさであろう。

 まあ、要は自縛なのだが。


 そして、そうこうしている内に。

 いい時間になったので、せっかくだからとぼくは稲葉を昼食に誘った。

「えっと……いいの?」

 遠慮がちにこちらを窺う稲葉へ、

「まあ、日頃のお礼ってことで。御馳走するから、食べていってよ」

「……じゃあ、ご相伴に与らせてもらいます。へへ」

 照れた様子ではにかむ稲葉は、なんならもう、ぼくには玄架よりも年下に見えた。

 どちらかと言えば玄架が達観しすぎているという気もするけれど。それはそれで、まあ、どちらも貴重な人格だろう。

 なんて適当な結論をつけつつ、さて昼食はどうするかとぼくは頭を悩ませ始める。

「どうせなら外食もアリだけど……」

 安易に出かけるのもどうなのか。

 単純な疑問としてなのだが、ぼくはいったい日々の生活をどこまで警戒して生きればいいのだろう。

 そんな思いを視線に籠めて玄架を見遣ったが、視線に気づいているはずの玄架から反応がない。

 まあ、問題なら何か言うだろう。

「どうする、稲葉。何か食べたいものはある? もっとも、必ずしも希望に沿えるかはわからないけど」

「い、いや、なんでもいいよ……うん。ほんとに。なんでも食べるよっ?」

「……へえ。いい子なんだね」

「いい子って……」

 ぼくの言葉に、奇妙に引き攣った笑顔を見せる稲葉。

 なんらかの噛み合わないニュアンスも感じつつも、さてどうしたものか。

 料理する側からすれば「なんでもいい」と言われるのがいちばん困ると言う意見もあるらしいが、ぼくの場合はなんでもいいと言われたら本当に適当に作ってしまうので、特に困るということもない。

 稲葉だって、別にぼくに何かを期待しているというわけでもないだろう。所詮、男の料理なんて、その程度のものだ。ありがたがるのなど雅彦くらいのものだろう。

「適当に何か作るか……」

 そんな呟きに、稲葉が首を少し傾げ、

「やくし、料理できるんだっけ」

「そりゃまあ、一人暮らしだからね。嗜みとして。それなりに」

「へえー……イメージ的には、結構意外、かな」

「そうかな。そうかもしれない」よくわからないけれど。

 どうなんだろうと考え込むぼくに、ふと稲葉がこんな提案をしてきた。

「ね。料理、手伝ってもいいかな?」

 手伝おうか、ではなく、手伝ってもいいか、という疑問であるところがなんとも稲葉らしい。

 そんなことを思いつつぼくは答える。

「お客さんなんだし、別に座っててくれてもいいんだよ?」

「んー……と」

 稲葉は少し躊躇うようにしつつ。

 それでも言った。

「でも、やくしが料理してるところ、近くで見てたいな。……だめ?」

「……楽しいものだとは思わないけどね。いいよ」

 そうぼくは答えた。

 答えた。

 答えて――しまった。

 その選択が巻き起こした事態の、結論だけ先に書いておこう。


 大失敗だった。


     ※


 戦慄、という言葉の意味を、ともすればぼくは、これまで知らなかったのかもしれない。

 そう思わせるほどの惨状が今、目の前の台所に広がっていた。

 これに比すれば、魔術師も異能者もなんということはない。あれだけの夜を過ごしたぼくですら、そんな風に思うほどの光景がそこにはある。

「……まさかここまで料理ができないとは……」

 驚愕が、なんかもはや一周回って畏怖のような何かに変わってしまったような。

 そんな思いの発露をぼくは口にする。

 稲葉はただでさえ華奢な身体を、もうハリネズミか何かと思えるほどに丸めて恐縮していた。

「ごめんなさい……。手伝うとか言って足引っ張って本当にごめんなさい……」

「いや。別に怒ってないよ。むしろ新鮮な体験だというような謎の境地に今は至ってる」

「ううぅぅぅ……」

 蚊の鳴くような稲葉の呻き。今はもう耳に入らない。

 人間は視覚の生き物だ。五感の中でも、目から入る情報を人間はいちばん頼りにしている。今のぼくは、その視覚情報の処理で精いっぱいだった。聴覚なんかに気を払っていられる余裕がない。

 玄架が、あの玄架ですら戦慄の表情で、

「……畏れ入りました。見事です。これはもう料理ではなく、芸術の一種なのだと私は思います。才能ある人間にしか理解できない、アートなのだと。……いやマジで半端ないわ」

 最後の辺りはもはや素だった。猫が脱げてる。

 だがそれも無理はなかろう。今、目の前に広がっている惨状は、まさにこの世のモノとは思えないほどだったのだから。

 たとえるなら、


 うん、地獄――かな。


 ひっくり返った食器。その勢いで飛び散った食材。そんなものはまだ序の口だ。

 乱雑なカオスを形成する台所の中央に、何を間違ったのか完成してしまった、鍋の中のダークマター。

 もう、料理が下手などというレベルではない。通り過ぎて《毒物を作るのが上手い》と、むしろそう表現したほうがいいような気がした。

 おかしい。ぼくは確か、有り物を合わせて炒飯を作ろうと思っていたはずだ。

 炒飯。

 およそ誰でも作れる料理の筆頭と、そう言ってもいいくらい簡単な料理のはずなのだが。もちろん料理人の如く極めようとすれば話は別だが、言うまでもなくそんなレベルは目指していなかった。ただの家庭炒飯だ。

 そのはずだった。

 だが、その原形は今やどこにもない。

 そもそもなぜ鍋なのか。中華鍋、とかそういう叙述トリックではない。

 寸胴の、パスタを茹でるときとかに使う鍋が出ている。その時点でもう意味がわからない。

 そして一緒に料理をしていたぼくにさえ、なぜこうなったのかがまるで理解できていなかった。

 いつ出したっけ、鍋なんて。まったく記憶にないのだが。

 いや、そんなことをは今の状況から鑑みれば、些事と言ってしまって差し支えないだろう。

 その中に入っている物質モノもまた凄まじかったのだ。

 まず黒い。焦げとかそういうものじゃない。墨で塗ったくったみたいなドス黒だ。だがあまりにも深淵のような雰囲気が濃く、イカ墨とすら言い張れそうにない。

 しかもどろどろしている。液状なのだ。固形物は黒の底に沈みきっている。

 似た何かをあえて挙げるなら、沼、って感じ。炒飯的な要素がどこにも見当たらない。

 なんでだ。どうしてこうなった。ほんの数分、目を離していただけなのに。いつの間に、ぼくの家の台所は戦場に変わってしまったのだろう。

 それこそ魔術としか思えない惨状ができあがっているのだが。もしや稲葉は魔術師だったのだろうか。だめだ錯乱してきた。非現実的すぎる光景に頭が回らなくなっている。

 砂糖と塩を間違えることすら、現実ではそうそうあり得ないと言うのに。

 本当に、漫画みたいな惨状がそこには広がっていた。

 なんの伏線なんだ、これは。いったい誰が得をするというのだろう。

 考え抜いた挙句、

「……稲葉、料理ってしたことある……?」

 ぼくは訊ねた。

 稲葉は泣きそうな顔で答える。

「ないです……」

「そっか」

 とぼくは、小さくなっている同級生の頭を、ぽんぽんと軽くあやすように撫でた。

「……や、やくし……?」

「ねえ、稲葉」

「ふぇ?」


「もう二度と料理しちゃ駄目だからね」


 そして、全部忘れることにした。


     ※


 何もなかった。米印区切りなんて知ったことではない。

 そんなわけで昼食である。

 いろいろとあった――いや何もなかったのだけれどいろいろとあったため――時間もすでに、昼食にはいい頃合いだ。むしろ少し遅いくらいですらある。

「いただきます」と、ぼくたちは三人で手を合わせた。

 目の前の皿には、本当に簡素な具しかない、焼きうどんが盛られている。ぼくと玄架で作ったものだ。

 ……炒飯?

 米はもう、全部カオスの底に沈んでいる。

 ともあれ三人で食べ始め――そして早々に食べ終わった。

 特筆することなんて何もない。なぜなら三人とも、誰ひとり口を開かなかったのだから。

 こんなに静かな食事、そう滅多にないだろう。雰囲気的には、たとえるなら葬式の夜とでも言ったところだろうか。

「ごちそうさま」と、これもまたなんとなく三人で言う。

 そして、誰も動き出さなかった。というか台所に行きたくなかったのだと思う。

 理由はちっともわからないが。断固としてわからないのだが。

 あまりにもいたたまれなくなったのか、稲葉がそこで、ぽつりとぼくにこう告げた。

「え、ええと……食器は、わたしが洗おうか?」

 瞬間、ぼくは玄架の顔を見た。玄架もまたぼくを見ていた。

 何も言葉にしなくても、互いの考えていることが手に取るようにわかる。こんなに心が通じ合ったのは、初めての経験だとさえ思った。

 すなわち――稲葉を台所に入れるわけにはいかない。

 ぼくは言った。

「いや、お客さんをこれ以上働かせるわけにはいかないだろう。ぼくがやるよ」

 玄架も言った。

「ええ。後始末なんて兄さんに任せておきましょう」

「で、でも――」

「それよりも稲葉先輩」若干、玄架の声が大きかったことを追記しておこう。「わたし、兄さんの話が聞きたいです」

「やくしの話……?」

「ええ。兄さんが学校で普段、どんなことをしているのか。よければ聞かせてくれませんか?」

 そんなことに興味などないくせに、玄架は平然と大嘘を宣う。

 今回ばかりは、玄架の変貌にも頼り甲斐があったけれど。

「あんまり妙なこと言わないでくれよ、稲葉」

 一応の釘を刺しつつ、ぼくは食器を集めて立ち上がった。

 ぼくの言葉に、なぜか玄架が――ぼくにだけ見える角度で――意地悪く笑んで答える。

「あら兄さん、何か聞かれて困ることでもあるんですか?」

 何が『あら』か。玄架を一時でも味方だと思ったのは、やはり失敗だった気がする。

「別に。何もないけどね」

 悔し紛れにそれだけを答えて、ぼくは台所のほうへと部屋を辞した。

 だからそれ以降、二人が何を話していたのかは、ぼくの知るところではないのである。

 とはいえ。

 興味がないかと問われたとして、それに否と答えては、きっと嘘になるのだろう。


     ※


 ぼくが皿洗いを――というよりは台所の混沌の始末がほとんどだが――を終えて部屋に戻ると、稲葉と玄架が、何事か顔を突き合わせて、くすくすと微笑み合っているところに遭遇した。

 まあどうせ、ぼくの悪口で盛り上がっているのだろうが。話題を提供できて光栄だよ、とせめて嘯くくらいはしておきたい。

 それにしても、まったくいつの間にここまで仲よくなったのやら。こういう部分は、やはり女性のほうが男より順応性が高いという雅彦の言は、ともすれば正鵠を射ているのかもしれない。

 正鵠は得るものだった気もするが。どっちかは正直、覚えていない。今度調べるとしよう。

 さておき、そんな風に現実逃避をするのも束の間、稲葉がぼくへと声をかけてきた。

「あ、やくし。ごめんね、ぜんぶ任せちゃって」

 肩を揺らして、なんでもないとぼくは答える。

「いや。何度か言ったけど、稲葉はあくまでお客さんだから。これくらいはね」

「……そっか」稲葉は、嬉しそうに微笑する。「それじゃ――ありがと、やくし。ごはん美味しかった」

「そっか」ぼくも同じように言った。「口にあったならよかったよ」

「すごいおいしかったよ。わたしも料理、覚えたいなあ」

「やめておいたほうがいいよ」

「…………」

 完全に真顔で言いきったぼくに、稲葉は奇妙な表情を見せた。その意味するところは察したが、生憎と意見を変えるつもりはない。

 稲葉に、料理は、無理。

 もはや絶対不変の真理と言ってもいい。ぼくはそう確信していたし、それは玄架も同じなはずだ。

 それより、とぼくは都合の悪い話題を変えるように言う。

「稲葉は、今日は一日、暇なのか?」

「うん?」

「いや、思ったより長い時間、引き留めちゃったから。何か予定があるなら、これ以上は悪いと思って」

 遠回しに《帰れ》と告げたわけじゃない。客人にぶぶ漬けを出せる意気地が、そもそもぼくにあるわけがないからだ。そしてそれ以上に、稲葉小愛という個人を、ぼくは誰よりも買っている。

 ただ、できれば帰ったほうがいいのだろう、とは思っていた。玄架は何も言ってこないが、ぼくが現状、かなり名状しがたい微妙な立ち位置にいるのは間違いないのだから。ぼくと関わってしまったせいで、稲葉まで殺人鬼に狙われてしまっては申し訳が立たない。

 果たして、稲葉は困ったようにこう言った。

「……そうだね。ごめん、長居しすぎちゃったかな」

「いや」

 ぼくは反射的に首を振った。我ながら、ちょっと驚くくらい反応が早かったと思う。

 いや、それに驚いていたのは、むしろ稲葉のほうだったのだろうけれど。

「別に気にすることないよ。どうせ誰もいないし」この場合、玄架は数に入れていにない。「稲葉なら、いつだって歓迎するよ。また来たときは、食事くらい御馳走するさ」

「……わたしなら歓迎してくれるの?」

 首を傾げた稲葉に、ぼくは頷きを返答とする。

「うん。いつもお世話になってるからね」

「そっか」と、稲葉は笑った。

 どこか儚いとさえ思える表情で、

「それなら、おせっかい焼いてた甲斐もあるよ」

「まあ、文句は担任に言ってくれ」

「文句なんてないよ。やくしの手料理を食べたひとなんて、クラスでもわたしくらいでしょ?」

「……そうだろうね」

「なら、むしろ役得じゃんか」

 そう言って、稲葉はやはり、儚げに微笑みを見せるのだった。

 衒いもなく言い切れる彼女が、ぼくには少し、眩しかった。


     ※


 それから。

 家に帰るという稲葉を、ぼくは送っていくことにする。

 玄架はついて来なかった。「わたしも、いろいろとやることがあるから。まあ夜までには帰って来なさいよ。あとなるべくひと気の多い場所を通ること。日中なら、まあ、たぶん死ぬこたないでしょう。一応、保険(、、)もかけておくし――」と、そんなことを告げてきたくらいだ。

 まあ、言われずとも、という程度のことだろう。

 そんなわけでぼくは稲葉を引き連れて、昼間の街を歩いていく。

 とりあえず、駅まで送る程度で、ぼくもすぐ引き返すつもりだった。

 現状では、稲葉よりむしろ、ぼくのほうが危ないくらいだろう。なんなら一緒にいることで、稲葉を巻き込みかねないくらいには。

 線引きは、しておくべきだと思ったのだ。

 とまあ、そんな感じでぼくは稲葉を駅まで送り届けた。

 駅前での別れ際、ふと彼女はぼくに向き直り、

「……玄架ちゃんのことは、学校では秘密にしておくね」

 と、そんなことを言った。ぼくは首を傾げて、

「ん? どうして?」

「……年頃の男女が、二人きりで住んでるなんて問題でしょ」

「でもほら、親戚だし」設定上だが。「別に問題ないと思うけど」

「周りはそうは見ないかもしれないじゃん。やくし、ちょっと考え足りなすぎだよ」

 お説教をされてしまった。まるで稲葉がぼくの姉みたいだ。

 まあ、言われてみれば、という気もする。ぼくの考えは、確かに足りていないのだろう。

 返す言葉もなく頷いたぼくに、稲葉は眉根を寄せて告げる。

「やくし、もうちょっとこう、周りの視線とか気にしたほうがいいと思うよ」

「……気にしてない、というつもりはないけど」

「知ってる」あっさりと頷く稲葉だった。「だから、それじゃ足りないって言ってるんだよ」

 そんなことをぼくに告げた人間が、他にもいたことを思い出す。

「それ、雅彦にも言われたよ。……あー、確か稲葉は、雅彦と会ったことあるよね」

「覚えてるよ。雅彦さん。警察のひとだよね」

「ああ」

 頷きながら、ぼくは考えた。

 雅彦は、あれでぼくのことをとても考えてくれている。それが理解できないほど、ぼくも鈍感ではないつもりだった。

 だから――同じようにぼくへ告げてくれる稲葉が、やはりぼくのことを心配してくれていることもわかるのだ。

 頭の上がらない人間が、二人目に増えたことに僕は気がついていた。

 そして同時に、その中へ玄架を入れていないということにも。

 ぼくの命を直接的に守ってくれていることを鑑みれば、あるいは雅彦や稲葉以上に、ぼくは玄架へ感謝するべきはずなのに――。

 と、その違いに内心、首を傾げていたところで、

「それじゃ、わたしは帰るね」

 稲葉が言った。多少慌てながらも、ぼくは頷きを返して答える。

「あ――ああ。今日はありがとう」

「いつものことじゃん」

「じゃあ、いつもありがとう、に言い換えるよ」

「それこそ今さらじゃん」

「確かに」

「あははっ、ヘンなやくしー」

「……失礼な」

「そうだね。ヘンなのは、普段からだったね」

「より失礼じゃないか」

「あはははっ!」

 よく笑う稲葉だった。でも、それがまったく不快じゃない。

 むしろ心地いいくらいで、なんならいつまでも見ていたいとさえぼくは思うのだが――。

 生憎と、別れの時間が迫っていた。

「それじゃあ、やくし。また明日」

「……本当なら、しばらくウチに来るのは控えてほしいんだけどな」

「通り魔が出るのは夜って話じゃん。だいじょぶだよ」

 あっけらかんと微笑んで、稲葉は繰り返すようにぼくへ言う。

 まるで、ぼくから言質を取ろうとしているかのように、

「――また明日」

 だから、ぼくも答えた。

「ああ、また明日」

 そして。


     ※


 そして、ここがひとつの分岐点。


     ※


 その声は、ぼくの背後から唐突にかけられた。

 あまりにも自然なその声が、ぼくは最初、自分にかけられたものだと気づかなかったくらいだ。

「――可愛い子ですね」

 なんというか、そう、言うなれば――真っ白な声だった。

 澄んでいる、とは言い難い。むしろ、どこか聞き取りづらさのある声だ。

 だが、あまりにも自然だった。周囲へ無抵抗に溶け込んで、だから気づけないような、そんな声。

 それが、繰り返すようにぼくへと言う。

「可愛い子ですね。彼女さんですか?」

 そこでようやく、声をかけられているのが自分だと気づいた。

 慌てて振り返ってぼくは答える。

「あ、いえ。別にそういうわけでは――」

 そこで一瞬、ぼくの喉が凍りつく、いや、凍りついたかのような錯覚に陥ったのだ。

 そこにいたのは、ひとりの少女だった。

 いや――本当に《少女》と表すべき歳なのかは、実のところわかっていない。あまりにも純白な雰囲気を纏うその人影が、特徴というものにあまりにも乏しかったからだ。

 いや、それは違う。そんなものは嘘だ。彼女はとても特徴的な出で立ちをしている。没個性だとはとても言えない。

 なにせ、彼女は白髪だった。単に色が抜けたのではなく、完全に漂白されたかのような純白だ。

 彼女はその白亜の長髪を、優雅に風へと遊ばせている。

 にもかかわらず、ぼくは彼女を正確に認識できているという気がしない。

 女性の姿はしわがれた老婆にも見えたし、幼気な子どもにも見えたし、同年代くらいの少女にさえ見えた。

 それはもはや、見えていないのと同じことだ。

 その彼女が口を開く。やはりどうにも捉えどころのない真っ白な声音で。

「すみません。道をお訊ねしたいのですが、構わないでしょうか」

 その声に――その声にその声にその声にその声に。

 ぼくは、だから、こう答えた。

「お教えするのは構いませんけれど。その前に、ぼくの質問にも答えていただけますか」

「交換条件、というわけですね。ええ、構いませんよ。なんですか?」

「訊きたいことはひとつです」

 ぼくは言った。


「――貴女は、魔術師ですか?」


 その問いに。その問いに、彼女は――笑った。

「はは。はは――あは、あはは、あははははははははははははははあははははあは――!」

「…………」

「へえ、本当に《暗示》が効かないんですね、貴方。面白いなあ」

「……質問に答えていただけますか」

「うん――質問? ああ、私が魔術師かどうか、でしたっけ。おわかりなんでしょう? あまり答える意味を感じませんが――でもまあ、魔術師らしく、ここは気取らせていただきますね」

 人影が笑う。女性が笑う。

 魔術師が――嗤う。

「そうです。わたしは魔術師――いえ、白魔術師です」

「白魔術師……」

「ええ。この街にいるという黒魔術師とは、あらゆる意味で対を為す――」


 ――今回の事件の犯人ですよ。


 そう言って。

 白魔術師は――凄絶に嗤う。


 日常が、ぼくに終わりを告げていた。

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