1-12『ノエミ=ティトルーズ』
昔の話をしよう。
遠い遠い昔。まだぼくに、血の繋がった家族があった頃の話だ。
父がいて、母がいて、妹がいて。そんな日常を、何ひとつ疑うことのなかった頃の話だ。
その頃のぼくはまだ、物事の分別もつかない、無知で無邪気な小学生だった。
今だってあまり賢くなったという気はしないけれど。そういう意味ではなく、ただ純粋に世界を疑わないでいられた――そんな、どこにでもいる子どもだった。
そう、思っていた。
薬師、というのはもともと母方の姓だった。ぼくの父は、薬師家へ婿養子に入ったのだ。
と言うとちょっと語弊があるというか、実際のところ、ぼくは母の親戚になど今になっても一度として会ったことがない。
父方は父方で、雅彦以外の親戚とは繋がりがないに等しい。
ぼくの両親はそれぞれがそれぞれに、自らの実家から出奔する形で一緒になったらしかった。
父は優しかった。物事の道理を重んじる、その意味では厳格な人物でもあったし、またそういうところが雅彦にも少し似ていたのだが、性格的にはとにかく温厚な人だった。
ぼくは父に叱られたとか、怒鳴られたという記憶がない。
その代わりに、父はいつもぼくと話をした。言って聞かせて、返事を訊いて。とにかく父は言葉によるコミュニケーションというものを重んじる性格だったと記憶している。
――どうしたんだい。それはこういうことだよ。その意味が、苑樹、君にはわかっているのかい――。
父はよく、ぼくにそう質問をした。
大方の子どもという存在にとって、大人とは決して対等な相手ではない。対等な対応をしてくれていると、そう判断できることが少ないのだ。当然の話ではあるし、当然であるからこそ、絶対に超えられない壁であるとも言える。
そんな中、父はぼくにとってほぼ唯一、自分の話を聞いてくれる大人だったのだ。
一方の母は、これが決して、優しいと表現できる人格ではなかった。
だが、かといって厳しいというわけでもない。怒りや苛烈さといった要素が、あるいは父以上に、母の中には存在していなかったように思う。どことなく醒めたような、どこか世間における一般からはずれたような――そんな母だったことを覚えている。
母は、基本的には放任主義だった。いや、話はした。あるいは働いている父以上に、ぼくと母とはよく会話をした。
ただ母の語る言葉はどれも、子どものぼくには難しく、理解できないものだった。
母はそれを、あえて噛み砕いてぼくに教え込もうとはしなかった。自身の語る言葉が、正しいものだとさえ主張しなかった。
――いずれわかる。それが正しいのか間違っているのかは、そのときに自分で判断しなさい。自分の頭で、考えなさい――。
母はよく、ぼくにそう言って聞かせた。あるいは今思えば、自分の考え方を、息子であるぼくに受け入れてほしくなかったのではないかとも思えるほどに。
そして――ぼくには妹がいた。
ふたつ下の妹だ。生きていればちょうど、玄架と同じ年齢になるのだろうか。
その性格は、しかしこれが似ても似つかない。素直で、純粋で、その当時のぼくにとってさえ眩しく思えるほど、妹は強く輝いていた。
白く、白い、そんな光の中にいた。
ぼくとって妹は、これも唯一と言っていいだろう、守るべき、庇護すべき存在だった。兄とは妹を守るものだと。そんな理屈を、ぼくは心から信仰していたし、実際守れているつもりでもあった。
兄妹仲は、たぶん良好だったと思う。ぼくは妹をいつも見守っているつもりだったし、妹のほうも、そんなぼくをきっと慕っていてくれたと思う。
――そして。
ぼくが、この世で最後に会話を交わした家族が。
その――妹だった。
※
けたたましいアラーム音に、浅い眠りを妨害されてぼくは目覚めた。
さすがに疲労が溜まっていたのか、今日ばかりは時計に先んじて起床することができなかったらしい。
妙に重たい腕を持ち上げ、目覚ましの上空まで運ぶ。
そのまま重力に任せて腕を落とし、べちん、とアラーム音を止める。
手首の辺りに金具が当たって、微妙に痛い思いをした。
「……何をやってるんだ、ぼくは」
頭の悪い行為に自分で苦笑しつつ、ぼくはゆっくりとベッドから身体を持ち上げる。
カーテンは、昨夜から開けっ放しのままだ。窓から射し込む陽光が、ぼくの全身に少しずつエネルギーを回していく。
まるで植物にでもなった気分だ。
薄ぼんやりとした微睡みを、徐々に覚醒へと導いていく。
自室の扉がいきなり開いたのは、ちょうど、そんなときだった。
「おっはよーう、苑樹くん。朝なんだぜっ!」
「……おはよう、ノエミちゃん」
ぼくの微妙な苦笑いに、籠められた意味など何もない。
ないったらない。
「朝から元気だね」
「もちろんっ! 元気なのはいいことだよ!!」
「そうだね。まったく同感だ」
おざなりに答えて、ぼくはベッドからフローリングの床に降り立つ。
寝癖のついた髪を掻き回すようにするぼくを、ノエミちゃんは太陽のような笑顔――陳腐な形容だが、まさにぴったりだと思う――で迎えてくれる。
プラチナブロンド、と言うのだろうか。およそ完璧な美しさを、彼女の髪は持っていた。
理想的な黒髪を持つのが玄架ならば、理想的な金髪を持つのはノエミちゃんと言っていいだろう。
ぼくの美的感覚なんて一般人レベルか下手したらそれ以下だが、そんなぼくから見れば、非の付けどころなんてどこにもない。
その彼女にぼくは訊ねた。
「玄架は?」
「ん、気になるかい? 彼女の様子が気になるかい?」
「……。そうだね。怪我もしてるし」
「うわー、つまんない反応だなあ、それー」
唇を尖らせ、露骨にぶーたれるノエミちゃん。
意図はわかるが、そんなからかいに付き合う義理もないため、ぼくは返事をせずに部屋から出ようとする。
ノエミちゃんはわずかに慌てて、
「あー、ごめんごめん! 玄ちゃんなら元気だよ。そこまで酷い傷でもないし、わたしからも、肉体活性の魔術を掛けておいたからね。完治までそう時間は掛からないよ」
「……そっか。ならよかった」
「うん。元気すぎるくらいだよね。結局今も、朝ごはんを作ってるわけだし」
随分と早起きなことだ、とぼくは思う。
昨夜あれだけのことがあったのに、翌日に響かせない部分はさすが魔術師と言ったところなのだろうか。
……何か違う気もするが。
「ノエミちゃんは? 結局、昨夜はウチに泊まってったんだ」
「んー、そうさせてもらったよ。ありがとねー」
「いや、むしろ助かったよ。ぼくじゃあ、玄架の治療なんてできないから」
昨夜――あの戦闘と邂逅ののち。
ぼくと玄架と、そこにノエミちゃんを加えた三人は、連れ立ってぼくの家まで帰還した。
そこで玄架の負傷を魔術で補填すると言うノエミちゃんに、ぼくは後を任せて先に寝たのだ。
無責任、ではあるのかもしれない。
だが実際のところ、魔術での治療を手伝うことなどぼくにはできない。
役立たずが無暗に働こうとするよりはと、ぼくは素直にさぼることを選択した。
「ま、わたしも本職じゃないからさ。基本的に、治癒魔術なんて使えないし」
ノエミちゃんは言う。
その言葉に、考えるところがないではないが。
結局ぼくは何も言わずに、繰り返して礼だけを告げる。
「ありがとう」
ノエミちゃんは照れたように、
「いやいや、そんなそんな。わたしには肉体活性の応用で、自然治癒力を高めるくらいがせいぜいだよ。ミコならちゃんとした治癒魔術も使えるとは思うけど。今日辺り、見せに行ったほうがいいかもしれないね」
ミコ……巫女のことだろうか。
発音のアクセントに違和感があるが、彼女は海外出身のようだから、そのせいかもしれない。
その割には、普通に話す日本語は完璧だったが。
それはともかく、
「昨日は、助けてくれてありがとう。危うく殺されるところだった」
「いやいや、それこそ構わないんだよ」
今度、彼女は笑って答えた。
ふくよかな胸の上を、握った右手でどんと叩いて彼女は言う。
「なんてったって、わたしは正義の味方だからね。困っている人を助けるのは、当然のことでしかないのだよっ!」
正義の、味方。
それは昨晩、彼女がぼくたちに向けて名乗っていた肩書きだ。
その意味するところが、そこに仮託された意志がぼくにはわからないが。
それでも、彼女がその肩書きに、誇りを抱いているらしいことだけはわかる。
「実際、君も大変だったね。苑樹くん」
彼女の言葉に、ぼくは苦笑して答える。
「そうかな……そうかもしれないけど、でも、本職の魔術師さんたちよりは、ずっと楽させてもらってるよ」
「それは違うよ。魔術師たちは自分の勝手だから、苦労も危険も、全部自分から背負ったことなんだ。でも、君は違う。君は純然たる被害者なんだ」
聞いたよ、とノエミちゃん。
「君、なんでだかわからないけれど、結界を抜けてきちゃったんでしょ? それで、犯人に目をつけられちゃった」
「その辺り、どうなんだろうね」ぼくは首を傾げて言う。「犯人の……、少なくとも主犯の姿を見たってわけでもないのに。そんなことで目をつけられるものなのかな」
実際、昨日のあの男――綴生は、ぼくを見逃してもいいという風のことを言っていた。
それは玄架との交渉で棄却されたわけだが、どうなのだろう、ぼく自身の命を、犯人が潰すメリットが特にあるとは思えないのだ。
「あー、それは考え違い」と、ノエミちゃんが首を振った。「その考え方はまずいよ」
「そうなの、かな」
「うん。まあ魔術師じゃない苑樹くんや、昨日のあの人には理解しづらい感覚かもしれないけどね」
そう前置いて、ノエミちゃんはぴんと人差し指を立てた。
その様子が玄架に似ていて、ぼくは二人が友人なのだと実感する。
「一般人が結界を抜ける――なんてことはね、魔術的には、ほとんどあっちゃいけないコトなんだよ。本当に、あり得ないくらいあり得ないレアケースなんだ」
「…………」それはまた、なんというか。
何も言えない。
「だって、それって掛けられた魔術を、生身のまま無効化したってことに等しいんだから。魔術ってのは、決められたことしかできないものだけど。それは逆を言えば、定められた術の内容は、特別な抵抗がない限り絶対に成就するってことでもあるんだよ」
実際のところ、ぼくにはやはり、玄架やノエミちゃんが危惧するほどの実感が、どうしても湧かなかったのだが。
それでもこうして、そんなぼくへ律儀に説明してくれる彼女の態度を見れば、コトの重大さは理屈として理解することができる。
それは昨日、あの男が言っていた通りに。
つまりは、
「苑樹くんには、何かしらの異常な能力が、おそらくは生まれつきで備わっているんだと思うよ。いや、これはもう絶対と言ってもいい」
ノエミちゃんは語る。
魔術師という人種と、異能者という人種。
前者ならば玄架やノエミちゃんで、後者ならば綴生。
そんな存在が、この世にどれほど隠れているのかをぼくは知らない。
知らないが――それでもきっと、そう多くはないのだろう。
「それがどんな能力なのかは、私にはわからない。ただでさえ天然の、突然変異の異能者は珍しいものだし、まして生まれてから身に着けるものである魔術と違って、生まれる前から身に憑いている異能ってのは、基本的に《異常な何か》なのが前提みたいなところあるから」
――まあ、それをこの年齢まで自覚せずに育ってきたっていうのが、もうこの上なくレアケースなんだけどさ。
そんな風に言って肩を竦め、ノエミちゃんはさらに付け加えて、宣言する。
「そんな《わからないもの》にさ、犯人側としては、万が一にも自分たちの目的を邪魔されるわけにはいかないっていう理屈――それはわかるよね」
「……そうだね。だから、邪魔されるくらいなら――」
「――殺してしまえばいい」
立てていた指を下ろして、ノエミちゃんは嘆息する。
ぼくもまた同じように溜息を零して、
「って、犯人は考えるってことか。なるほど、理解したよ」
「そういうこと」
「まったく……困っちゃうよね。ぼくも、死ぬのはさすがに嫌だ」
そう言ってぼくは肩を竦めた。
下手に気取るよりも、正直に弱音を吐いたほうが、むしろこの優しい魔術師に、気を使わせないと思ったからだ。
ノエミちゃんは、しかし「安心して」と、透き通るような笑顔で言う。
「苑樹くんに手は出させないよ。私と玄ちゃんが、――必ず守り通す」
――だって、正義の味方だからね。
そんな風に言って、玄架の友人であるという彼女は微笑む。
玄架とは、およそ正反対のことを言って。
だからこそ。
彼女のその好意に、ぼくはこう言って返すのだ。
「じゃあ、下に降りようか。朝食、食べていくだろう?」
「うん、御馳走になっちゃう。いやー、わたしもフランスから帰って来たばっかりだから、家に食べ物とかほとんどないんだよね。玄ちゃんと違って料理も下手だし」
「この辺りに住んでるの?」
「そうだよー。わたし、これでも日本国籍だしね」
「そうなんだ。どうりで日本語が上手だと思った」
「というか、フランス語のほうがむしろ苦手かなー。生まれも育ちも、日本だから。納豆とか超好きだぜ」
「ぼくは普通かな」
「そこは好きって答えるとこだろー! ……あ、ていうかちょっと思ったんだけど、別にちゃん付けじゃなくてもいいんだよー? むしろフランクに! ノエミって呼んでちょー。わたしも苑樹って呼ぶし」
「まあ、別にいいけど。フランクだね本当に」
「玄ちゃんのパートナーなら、わたしにとっても大事な人だよ」
「別にパートナーってわけじゃないけど」
「……いや、その割には、仲良過ぎじゃない?」
そんな雑談を話していたところで。
――さっさと降りて来い!
なんて言葉が階下から響いてきて、ぼくたちは、思わず顔を見合わせて苦笑した。
ノエミと、ともだちになった。