1-10『暗い紅』
「……綴生、ですって……?」
男の名乗りを受けて、玄架の瞳が驚愕に揺らめく。
男はただ淡々と、
「聞き取れなかったか? ならば今一度名乗るが」
「……その必要はないわ」
苦々しげに玄架が言う。
それだけで、目の前の男が尋常の存在でないと悟るには充分だ。
「綴生――ね。その名前を、こんなところで聞くとは、正直思ってなかったわ。七姓の第三座ともあろう血統の人間が、こんな田舎になんの用?」
「綴生とて別段、幻というわけではない。いるところにはいるし、出るところには出る」
「……まるで幽霊みたいな言い種ね」
「魔術師の口から、幽霊となどと聞くとぞっとするな」
数メートル先に立つ男――綴生が、にこりともせずそう宣う。
背の高い男だった。たぶん一九〇は超えているだろう。筋骨も隆々として、いかにも骨身の堅そうな男といった風情だ。黒の乱髪を無造作に伸ばしていて、それが腰にも届いている。身長との比率を考えれば、その長さは玄架よりも上だろう。
服装は、黒のパンツに、白のシャツ。明らかに気を使っておらず、それが持ち前の長髪と相俟って、体格を裏切る外見のイメージを形作っている。
有り体に言って。
とても、不気味な男だった。
話について行けず、しかし目の前の男から目を逸らすこともできず。
ぼくはただ、言葉だけで隣の玄架に訊ねる。
「……なあ。よくわからないんだが、つまりはあの男が、今回の殺人の犯人なのか?」
「違う」
と。
答えたのは、玄架ではなかった。
「俺はただ金で雇われただけだ。少なくとも、主犯というわけではない」
綴生が言う。
あくまで淡々と、まるで原稿を読み上げているかのように。
「……そうね」と、玄架も頷く。「奴は魔術師じゃない。それはイコール、今回の事件の首謀者でもないという意味よ」
――もっとも。首謀者ではない、ってだけだけどね。
そう、付け加えるように玄架は呟いた。
「ところで、青年」
と、綴生の視線がこちらへと向く。
まっすぐと、ぼくの瞳を射抜くように。やはりぼくは、なぜだか視線を逸らすことができない。
「こちらも答えのだから、そちらもひとつ質問に答えてはくれないか」
「……答えられることなら」
「ならば問おうか。――貴様は何者だ」
「――――」
瞬間、ぼくは押し黙った。
気圧されたとか、そういうわけじゃない。単純に質問の意味がわからなかっただけ。
その様子をどう受け取ったのか、綴生はさらに言葉を続ける。
「普通の人間では、魔術師が張った結界の内側に侵入することなど不可能だ。だが貴様は昨日、あの場所にあった結界を、まるで何事もなかったかのように通り抜けてみせた。――何をした」
「……そう言われてもね」ぼくは言う。「歩いていたら、たまたま迷い込んでしまったというだけだ。ぼくだって別に、好き好んで殺人現場に――」
あんな風に、全てが終わりきった夜色の世界に。
「――入っていったわけじゃない」
「……なるほど。嘘ではないようだ」
何を以て判断したのか、綴生はそんな風に言う。
相変わらずの無表情を保ったまま、静かに片手を顎に向かわせ、
「貴様が素人なのは、どうやら間違いがないようだ。ならばさしづめ、天然の異能者といったところか」
「……ぼくのことを、ヘンテコ人間の仲間みたいに言うのはやめてほしいな」
茶化すようにぼくは言った。
だがその発言でぼくを睨んだのはむしろ玄架のほうで、綴生はといえば、やはり表情をまったく動かしたりしない。
ただ淡々と、何かを納得したように首肯を繰り返した。
「気にするな。今のはただの、興味本位での質問だ。どうせやることは変わらない」
そう、宣言するように呟いて。
綴生は、
「――邪魔者の排除。それが今回、俺に与えられた仕事でな。悪く思うな、とは言わん。諦めてここで終わっていけ」
「無茶苦茶言うよ……」
ぼくは思わず、苦笑交じりにそう零した。
もちろん、笑っていられるような状況でないことは理解している。綴生の宣言の意味は、言葉以上に感覚として、ぼくにも伝わってきていたのだから。
それは要するに殺害宣告。
かかわった人間は殺すだけだと、綴生はこちらへ告げている。
「とはいえ、けれど、お前は別だ――魔術師」
綴生の視線が、ぼくから玄架へと戻る。
下げられた腕を、だらりと力なく揺らしながら綴生は言った。
「一応、言うだけは言っておこう。魔術師、お前との争いは、俺としても可能ならば避けたいところだ」
「あらそう、奇遇ね。無意味な争いは、私も実は、好きじゃないの。益がないからね」
――嘘を吐け。直観的にぼくは思った。
その証拠に、玄架の口調がだんだんと棘を増している。
有り体に言えば――たぶん、爆発寸前。
「手を引け。そして、この街で起きている事件を最後まで無視していろ。そうすれば、俺たちが争う理由はなくなる」
「盗人猛々しい――なんて表現を、本当に使う日が来るとは思わなかったわ。見逃すわけ、ないでしょうが」
「見逃すなら、その男にも手を出さん。そう言ってもか」
「悪いけど」
と、その言葉を口にするときだけ、玄架の視線がこちらに向いた。
ぼくに言った、ということなのだろう。
確かにぼくからしてみれば、ここで手を命の危険がなくなるのであれば、それ以上に願うことはない。
けれど、僕は何も言わなかった。
ぼくとしては、そもそも意見などないのだ。玄架に守ってもらっているだけの身分で、彼女の方針に口を出すような真似はしない。
それ以前。目の前の男が、そんな約束を守るかどうかも、疑わしいところではある。
「私の管理する土地で、好き勝手されるわけにはいかないのよね。《魔術戒段》にも目をつけられかねないし。……本当、ひとつ隣の地域でやってくれるんなら、何をしようと私の知ったことじゃないんだけれどね」
「残念だが、それはできない」綴生は、諦めたように首を振った。「魔術に明るくない私は詳しいところを知らないが、この昏咲の土地でなければ、できないことがあるのだろう」
「……なら、交渉は」
「決裂、というわけだな。仕方がない――」
――残念だ、と綴生は呟く。
相変わらず感情の読めない、どこまでも平淡な声音で。
彼は、す――、と姿勢を低くした。
そして、
「――――殺されてもらう」
とんっ、という微かな音は、ぼくが正面から押された音だった。
綴生に、ではない。ぼくを弾き飛ばしたのは玄架だった。
正確には、彼女が操る、あの帯のような黒い影が。
――七条の黒影。それは夜闇をひた走る、黒魔術師が破壊の魔道。
その内の一条がぼくを後ろに押し飛ばし、残りの六条は――
「ふん。なるほど――斬る影か」
「…………」
全て、綴生が片手に掴んでいた。
夜の闇の中、高速で、かつ縦横無尽に宙を走る影。手に捕らえるどころか、ぼくでは目に捉えることさえできない。
それを、綴生は、ただ一本の腕で押さえ尽くしていた。
彼我の距離は、もう目と鼻の先と言っていいほどに接近している。
数メートルあった間合いを、綴生は一瞬で詰めてきたのだ。
その身体能力は――、
「……わかっちゃいたけど。本当にバケモノだわ、アンタ」
人外だと、そう表現するより他にない。
だが、抑えきらえれた玄架のほうにも、別段の動揺は見られなかった。
突き飛ばされ、ぼくはコンクリートの上に尻餅をついている。
そんな間抜けな状態から、ぼくはただ、対峙し合う二対の逸脱を見上げていた。
「私の攻性魔術を、こうも容易く素手で止められちゃうとね。まったく、黒魔術師だなんて肩書き、もう名乗らないほうがいい気がするわ」
「それができるから、俺は《綴生》なんだ」
答える綴生にもまた、傍から見るほどの余裕があるというわけではないようだ。
そうとわかる理由は単純で。
もしも余裕があるのなら、奴は玄架を殺しているはずだからだ。
綴生は、殺し合いの最中に余計な台詞を挟むような性格ではないだろう。確証はないがそう思う。
それができないということは――綴生もまた、下手に動くことはできないようだった。
ぱきり、という破砕音が響く。
それと同時、綴生の掌の中で、玄架の黒影が硝子のように砕けて散った。
身を守るものを失くす玄架。
けれど綴生は追撃をせず、むしろ後ろ向きに跳躍することで玄架から距離を取った。
「……、」
黒影を砕き潰した右手を、綴生は二、三度開閉する。
その瞳に、初めて何か、感情らしきものが浮かんでいるようぼくには見えた。
「挙動が悪いな。……なるほど、これが黒魔術の呪いか。物理的な切断性能だけではなく、接触による呪詛術式の移植までを同時に行うとは畏れ入った。大した処理能力だ」
「その呪いに、生身でそこまで抵抗されちゃあ私の立つ瀬がないわ。本当なら、それだけで少なくとも、右腕くらいは殺せたんだけど」吐き捨てるように玄架は言う。「ああもう、まったく。これだから嫌なのよ、異能者とやり合うのは」
「生憎、生まれついての異常でな。こればかりは如何ともしがたい」
「ま、それくらいの不条理は、《綴生》にかかれば当たり前なのかしらね。さすがは一応、《七姓》の第三座といったところかしら」
「それでも、《不見》はともかく、《螢守》を相手にするよりはマシだろう。――俺も、奴らとは可能なら、会いたくはない」
「《七姓七座》なんて、一座も三座も大差ないでしょう」
「かもしれん。が、もともと俺には大した能力などない。俺は綴生の中でも異端なのでな。《綴生》としての能力は、あまり上手く扱えんのだ」
「……よく言うわ」
会話の中身に、けれどさしたる意味はないのだろう。
二人は、お互いに出方を探っているに過ぎない。どう動けば相手を突破――殺害できるのか。それ以外のことは考えていないはずだ。
口火を切ったのは――綴生だった。
「上手く扱えんとは言ったが、魔術師、貴様が相手とあらば致し方ないだろう。《綴生》の力、使わせてもらう」
その宣言の、途中くらいからだろうか。
どこからともなく、にわかに風が吹き始めたことをぼくは感じ取っていた。
明らかに自然の風ではない。それは意志を持つように渦を巻き、うねりとなって徐々に勢いを増していく。
「風――」と、聞こえた声は玄架のそれだ。「それが、アンタの本当の能力というわけかしら」
返答は、突風だった。
「飛べ」
綴生の声と同時、突如として強烈な勢いを持つ空気の塊が、前方からぼくらへと飛び掛かってくる。
ほとんど同時、玄架の声が夜に響く。
「――佰堂伽藍!」
瞬間、ぼくの正面に、まるでバリケードを築いたかのように黒の影が落ちる。
コンクリートに突き立った黒影が、重なるようにして壁に変わる。どうやら、玄架がぼくを守ってくれたらしい。
そうでもなければ、ぼくは綴生が起こした風の余波だけで、全身が木っ端微塵に千切れ飛んでいたことだろう。
ぼくに向けられた攻撃でさえないというのに。
その風は、もはや暴力であった。
「行け――……っ!」
玄架の声。姿は見えないが、彼女が攻撃に転じたのだとわかる。
ぼくは影のバリケードに守られながら、それでもどうにか正面の様子を窺おうと、壁の脇から顔を覗かせた。
果たして。そこにも、影があった。
玄架の腕から、背から、足元から――幾条にも重なった黒の線が、踊り狂うようにして奔っているのが見える。その数は、三ケタに迫ろうかというほどだ。
綴生のそれが突風ならば、玄架の影は暴風だ。
ふたつの風が――正面からお互いを削り合っていく。
玄架の攻撃は、防御の全てを棄てていた。
無形の風に対し、隙間のある影の攻撃では、その全てをいなすことができない。
ならば――先に刺す他ないという判断なのだろう。
影の槍が、綴生の身体に降り注ぐ。
苛烈なまでの槍の雨を、けれど綴生は、風を操るその能力と、持ち前の超人的な身体能力を併せて躱し続けている。
だが。
「――っ、」
降り続く影の一条が、綴生の肌を僅かに掠めた。
その一撃を皮切りにして、綴生の肌が次々に削れ、穿たれ、鮮血を辺りに滲ませていく。
処理しきれる限界を、玄架の攻撃が上回っていたらしい。
そして――蛇のようにうねる一条が、とうとう綴生の鳩尾を捉えた。
「が――ぐ」
急所に魔術の一撃を喰らい、綴生はもんどり打って吹き飛ばされた。
切断ではなく、打撃を受けた反応だ。
綴生が生身で持つ異常な防御力と、玄架への反撃の苛烈さが合わさって、綴生は即死を免れたらしい。
だが、確かにダメージは受けているようだ。綴生の口端から、わずかに血液が流れ出ている。衝撃で、内臓をどこか痛めたのだろう。
「ふ――」と。
綴生は、そこで初めて、表情に薄い笑いを作った。
愉しげに――そう、どこかわずかな悦びが、綴生の様子には見て取れる。
「見事だ」
綴生が言った。まるで正義の味方に斬られた、物語の悪役のように。
もっとも、
「身体に傷をつけられたのは、数年振りだったよ、魔術師」
それは――観念の台詞ではなかったのだが。
「――誇っていい」
その言葉と同時。
血が、まるで噴水のように舞って、黒い夜を紅に染めた。
「は――?」
僕は思わず目を疑った。
なぜなら、
その、鮮やかで美しい暗紅の出どころが――玄架の肉体であったから。