1-09『夜の色』
その夜。ぼくと玄架は、並んで揃って家を出た。
深夜一時を回る頃だった。
連日の夜更かしでさすがに身体が疲れてきたが、事情が事情ゆえ、いかんともしがたい部分が大きい。
ぼくだって別に毎晩徘徊しているというわけではないし、玄架も好き好んで睡眠時間を削りたいとは思わないだろうが、今はそうも言っていられない。
少なくとも、玄架に守られている現状では。
「――さて、とりあえずじゃあ、適当に歩きましょうか」
玄架が言う。
その言葉通りの適当さに、思わずぼくは突っ込まされた。
「えっと。何かアテがあるわけじゃないの?」
「あるわけないじゃない。あったらもうとっくに行ってるわよ」
「……なるほど、正論だ」
ぼくは肩を竦める。どうしても、受け身に回らざるを得ないらしい。
だが玄架は軽く微笑むと、
「まあでも、案外どうにかなるかも、って期待はあるのよ?」
「というと?」
「だって、今回はアンタがいるから」
しれっと投下された言葉の意味が、ぼくにはいまいちわからない。
だから、そのまま繰り返すように訊ねる。
「ぼくがいることに、なんの意味が? 足手纏いにはなったとしても、正直、何かに役立てるとは思えないんだけど」
「随分と自己評価が低いわね」
「別に卑下してるつもりはないよ。ただ――」
――魔術師。
などという存在に、いったいどう抗えばいいものなのか。それがぼくにはわからない。むしろわかろうはずがない。
そんな超常的な存在を前にして、ぼくに何ができるとも思えなかった。
「まあ、その判断は至極真っ当ね」玄架はあっさりと言う。「私としても、こうして仕方なく連れ回しているとはいえ――これは苦肉の策でしかないのだから。本当なら、どこかに引き籠っていてもらえるのがいちばんなんだけど」
「それもできないわけだ」
「生憎と、魔術師の探知を避けられるような結界を、私は張ることができないのよ」
そう語る玄架の表情には、明確な苦みが感じられた。
そんな彼女に対し、どんな対応をするのが正解なのか――それが、ぼくにわかればよかったのだけれど。
こちらにも生憎と、そういった能力は欠けている。
だから、いっそ、端的に問うてみた。
「なら玄架は――黒魔術師ってのは、いったいどういうことができるんだ?」
「呪詛と、破壊と、召喚かな」
「じゅ……何?」
「呪いのこと。……そうね」と、隣を歩く玄架が、こちらの顔を見上げて言う。「どうせだからこの際、ちょっと魔術師についても説明しておきましょうか」
「……いいの? そういうこと教えちゃって」
「別にいいのよ。無暗に吹聴されればそりゃ困るけど、やらないでしょ」
「案外、信用されてるんだね」
「え、いや。単に言う相手がいないかな、と思って」
「……」
「冗談よ」愉快そうに笑われる。「でもま、苑樹には、知っといてもらったほうがいいと思って」
「……なら、お願いするよ」
ぼくは小さく息をつき、降参の合図を送るのだった。
「――魔術師という人種はね、そのものずばり、魔術を扱う人間のことを言う」
玄架の講座が始まった。
これで案外、他者に物を教えるのが嫌いではないらしい。玄架は左手を右の肘にやり、右手の人差し指をピンと立てた格好を取った。
女教師然とした振る舞いだが、それを背の低い玄架がやっているのが、ぼくにはどうにも微笑ましい。
もっとも、それを察されては話がとまるので、もちろん何も言わなかったが。
「魔術ってのは、これも言葉の通り。魔力を燃料に、術式を動力にして現世の法則を一時的に変更、改竄すること――それが魔術」
「……はあ、なるほど」
ぼくの適当な返答に、玄架は苦笑。
「わかってないでしょ」
「正直」
「まあ詳しい理屈を理解する必要もないわ。魔力という架空のエネルギーを用いて、現実の物理法則を無視した行為ができる者、というところだけ覚えておけばいい」
「魔力ってのは」
「言葉通り。MPよMP」
言わんとせんことはわかるが、その表現を、よりにもよって本物の魔術師が使うのはどうだろうと、ぼくですら思った。
誤魔化すように別のことを訊く。
「その魔力というものは、誰にでもあるものなのか?」
「イエスとも、ノーとも言いにくいわね」
「ん……?」
「まあ、普通の人間では、それを意識して取り出し、使うことはできないと思っていい。才能とか血筋とか、そういうことも関係してくるし」
「誰でも魔術師になれるわけではない、と」
「うーん……。不可能、というわけではないけれどね。普通の人間に魔力はないけれど、それはイコール魔力を持つことができない、という意味ではないのよ。最初は眠っているだけで。きちんとした魔術師に指示すれば、一般人が魔術になることも不可能ではないわ。もっとも、大した能力は発揮できないでしょうけれど」
「玄架は、じゃあ、師匠がいたわけなんだ」
「や、私はまあ、ちょっと事情が特殊なんだけどねー……」
なぜか玄架は、微妙に表情を引き攣らせながら零す。
その意味を問う前に、かぶりを振って玄架は話を再開させる。
「たとえるなら、魔力はインクよ」
「うん?」
「で、世界にはもちろん予め定まった法則がある。それを魔力で書き換えて、普通ではあり得ない状態に持っていくのが魔術師というわけ」
「なるほど。データを改竄する、ハッカーみたいな感じかな」
「似てるといえば似てるわね。でもどちらかと言うとウィルスなのかも」自虐するように玄架は吐き捨てる。「世界からすれば、魔力は、魔術師は異物なのよ。だから当然、生じたその歪みは、世界によってすぐに均されてしまう。さっきのインクのたとえで言うなら、書き換えた矢先から、元の記述に戻そうとする力が働くのよ。これが魔術効果の終わりというわけ。魔術とは、基本的には永続しないものなの」
「なるほど。ちょっとわかったような気はする」
「そう。ならよかった」
本当はあんまりわかっていないが。
それでも、イメージの片鱗のようなものは掴めた気がする。
ならばよしとしよう。
「で、魔術師にもいろいろと種類があるわけだけど」と、玄架。「その中でも、私はいわゆる黒魔術を専門に修めているわけ」
「だから、黒魔術師と」
「うん。まあ正確には、黒魔術を専門にしているというよりも、黒魔術しか使えない、って言ったほうが事実に近いんだけれどね」
「……そうなの?」
「うん」
玄架は頷く。
その表情に宿った色合いを、語る言葉がぼくにはなかった。
寂しげなのとは違う。悲しげだとも思わない。切なげだとも言い切れないだろう。
彼女のことを――ぼくは、何も知らないのだ。
「私、才能ないんだよ」
「才能……」
「そう。落ち零れなんだ、魔術師としては」
淡々と語る玄架の声音からは、先程感じたなんらかの色合いがすでに消えている。
今はもう、そこに秘められた感情を、推し量ることさえできなくなっていた。
「《色堕ち》、っていってね」
それが蔑称であることは、言われなくとも察せられた。
玄架はただ語る。
「本来、魔術師に求められるものってのは、何をおいても万能さなんだよ」
「万能さ……」
「全能性、って言い換えてもいいかな。魔術師は、ただ全能だけを目指している。何もできない人間が、何もかもを可能にする絶対的な存在に進化する――そんな傲慢な思想を持った人間の集まりが、魔術師の社会なんだよ」
「……」そういうものを指して。
人は、《神》と呼ぶのではなかったか。
「でも、《色堕ち》した人間には、それができない」
「…………」
「万能であるべき人間の魂を、たったひとつの色に固定してしまっているのだから。それは魔術師にとって、最上級の侮蔑に値するほどの無恥、ってことになるんだよ」
それは魔術師にとって、魔術が持つ無限の可能性を、否定されたに等しいから。
玄架は――語る。
虹色であるべきモノは、たとえ一色であったとしても、そんなものはもう無職と大差ない。
魔術という神への道標を、地にまで堕した愚か者。
「それを指して、《色堕ち》」
「……」
「私の魂は、根源まで黒に染まっている。だから、黒魔術と呼ばれる類の魔術しか、どうやっても使うことができないんだよ」
「……まあ、ぼくからすれば、何を贅沢なって感じだけど」
「そうかもね」玄架は小さく苦笑した。「実際、この辺の感覚は、生粋の魔術師にしかわからないモノなんだよ思うよ。それに別に、《色堕ち》も何も悪いことだけじゃないしね」
「利点もあるんだ?」
「私で言えば、まあ黒魔術しか使えないっていう大きなディスアドバンテージがあるわけだけど、その代わりに、黒魔術だったら誰よりも上手く扱える自信があるよ」
「一点特化、って感じなのかな」
「そうだね。その表現は素敵だと思う」彼女の笑みに愉快そうな色が混じる。「黒魔術は、破壊とか戦闘には向いているからさ。その辺りは心配しなくてもいいよ」
「そこは別に心配してないよ」
「あ、可愛くないなあ」
信頼していると伝えたつもりだが、なぜか不満げになる玄架。
その辺りの機微が、ぼくにはまったくわからない。
「私、これでも結構強いのよ?」
「へえ。どのくらい?」
「自衛隊の一個師団くらいなら、フル装備でも正面から叩き潰せる」
「……冗談だよね?」
「解釈はご自由に」
じゃあ冗談ということにしておこう。
ぼくは玄架の発言を忘れた。
そんな会話を挟みながら、およそ一時間ほど、僕たちは夜を練り歩いた。
それは、どこまでも唐突な展開だった。
「結構遠くまで来たわね」と、玄架がふと立ち止まって言う。
言葉の通りぼくたちは、都心のほうまで歩みを進めてきていた。
県下最大のターミナル駅を擁する、市内最繁の街だ。
「……苑樹」
と、玄架が言う。
ぼくは答えた
「何?」
「……たぶん、そろそろ出くわすと思う」
「――――」
その言葉に、ぼくの緊張は一瞬で最高潮まで沸騰した。
しかし玄架は、そんなぼくを妙な表情で見上げては、
「やっぱりアンタ、おかしいわ」
そんなことを宣ってくれた。
「……何が?」
「まさかとは思ったけど、こうも簡単にアタリ引くとは思ってなかった」
「どういう意味、それ?」
「苑樹はさ、昨日、ふらっと結界の中に入ってきたわけだけど」
「うん?」
「――そんなことは、普通あり得ないんだよ」
「は――?」
あり得ない、と言われても。
現にぼくは入ったわけらしい。というかそもそも、結界なんてものの存在にすら気づいていなかったわけだけれど。
疑問が顔に出ていたのか、玄架が口角を歪める。
「苑樹。アンタ、なんでこっちのほうに来たわけ?」
「……え?」そんなことを問われても。「別になんとなくだけど」
「そう。アンタはなんとなくで魔術師に行き遭った。昨日も、そして今日も」
「――……」
「そんなこと、普通は絶対にあり得ないんだよ」
玄架が言う。
ぼくを見据えるその顔には、どこか――憐れみに似た色合いがあった、気がした。
いつか見慣れた、その色合いが。
「苑樹。アンタは、相当やばい」
「やばいって……」
「その体質で、むしろよくこれまで普通に生きて来られたね。むしろそのほうが奇跡だよ」
「……、」
「苑樹は、魔と惹き合う特異体質なんだと思う」
「――なるほど」
と言ったのはぼくじゃない。もちろん玄架でもない。
その、聞くだに軽薄そうな男の声は、ぼくたちの正面から聞こえてきた。
「“彼”の結界をいとも簡単に潜り抜けたのは、その特異体質のせいみたいだね。――いや、それはもう《異能》と呼ぶべき異常だろう。確かに、よく今まで、それで生きて来られたものだ」
「……突然現れてぺらぺらと。アンタが犯人?」
現れた謎の男に対し、玄架は至極端的に問うた。
そのまっすぐさに、相手の男が苦笑する。
「はは……いや、どちらとも言い難いね。まあ少なくとも、いわゆる黒幕ではないよ、黒の魔術師殿。私はただ雇われただけだ。君たちの敵ではあっても、この町の敵ではない」
「雇われた……? なんのために」
「それには答えられない。当然の話だが」
「それもそうね」
と、玄架は溜息をつく。
代わりに、
「――――っ!」
ぞっ、とした。彼女の身体の周囲に、いつの間にか、昨日見たあの黒い影が纏わりついている。
それが放つ、濃密で、馥郁たる甘い香気が、ぼくの身体を不快に貫いたのだ。
「……苑樹。下がって」
有無を言わせない玄架の言葉。
ぼくは言われた通り、玄架の背後に回っていく。
それを確認すると、玄架は次いで、目の前の男に声を掛けた。
「一応訊いてあげる。名前は?」
「答えない――。そう思っての質問なんだろうけど、生憎と私は答える者だよ」
そう言って。
男は――酷薄に笑って。
「――綴生透理。しがない雇われ戦闘屋だ」
そう、答えた。