プロローグ
夜は泡沫の夢だった。
黒く深く闇は輝き、暗く塞ぐように底を見せない。蔓延る夜の先は遥か遠く、目に映らない以上、それは無限と等しかった。
視覚で捉え得るモノだけが真実だと錯覚しているわけじゃない。むしろ目の前の光景は明らかに荒唐無稽で、呆れるほどに現実味がない。世界を疑えないならば、自らの眼球か脳髄の不具合を疑ってかかるべきだろう。常軌を逸しているのは世界かぼくか、果たしてどちらなのか。
少なくとも、今の自分には判断できない。
――その夜、ぼくは死体に襲われた。
言うなれば《生ける死体》だ。ぼくはその手のホラーに造詣が深いわけではないから判らないのだけれど、動いているその肉塊が果たして死亡しているのか否か、その判断をつけるのは本来なら難しいのではないだろうか、なんて考えてしまう。
自分の隣にいる誰かが、本当に生きている人間なのか、それともただ動くだけの死体なのか。それを見極めるすべなんて、実のところは少ないんじゃないかと思う。
幸いにして。
という表現は使いたくないのだけれど、それでも幸いにして。
ぼくの目の前で動く人体は、間違いなく死亡していた。そう断言できる。
理由は至極単純なもので――なぜなら心臓がないからだ。
死んでいる。紛うことなく死亡している。
いや、動いているということは生きているということなのかもしれないけれど、脳髄が欠損し、血流が止まってなお生存しているモノを、少なくともぼくは人間とは呼ばない。
そして、その肉塊がかつて人類のモノであった以上、目の前のそれは間違いなく死んでいると見做すべきだ。それ以外の認識は許されない。
そんな何かに、ぼくは襲われた。
明らかに死亡しているはずの、死亡していなければいけないはずのモノが、動いて、狂って、ぼくを殺しに襲い来る。
仲間が欲しいのか――いや、そんな殊勝な思考回路は持つまい。目の前の死体は、ただ自身の保全のためだけにぼくの命を狙っていた。
まるで渇きを癒すように。
砂漠の真ん中に見つけたオアシスへと手を伸ばすようにして、死体は生命を求めている。
――けれど、届かない。
ぼくの目の前、僅か数センチほどの距離まで進んだところで、死体の動きは阻まれた。
障害となったのは、黒い影のような帯だった。
この世のものとは思えないような速さで、闇を迸る黒色の帯。
譬えるならば蛇だ。鎌首をもたげて獲物を狙う蛇。ただ殺すためだけに宙を踊る。
目掛けるは肉。黒の切先が胎を裂き、臓物を抉って血を啜る。
動きは似通えど、その本質は蛇とは異なっていた。
斬殺による惨殺。
毒殺でも圧殺でもなく、斬り抉ることで存在を殺し尽くす。
ぼくは、守られた。
斬影の根元にはひとりの少女。
外見的には中学生か、ともすれば小学生にも見える。けれどその見目に反し、月夜に映える艶やかな黒髪は、見る者を震わせるほどの魔性を確かに湛えていた。
少女が腕を振るうたび、夜の真中を黒が駆ける。
――黒。
彼女が指揮する黒いナニカは、まるで鞭のようにしなやかでありながら、鋭利に刻む刃物のようでもある。定形を持たない黒い影のような帯が、少女の振るう腕の軌跡に沿って走る。
魔性。
魔の性。
そう、それは魔としか言えない《何か》だった。
力の差は歴然だ。
宙を奔る黒い何かは、圧倒的な速度でもって死体の身体を粉々に切り刻んでいく。動く死体という魔性が、それ以上の魔によって滅ぼされていった。
ぼくはそれを、ただ、眺めていた。
恐怖は感じない。むしろ心地いいとさえぼくは思う。
なぜならば――それがきっと、慈悲であったからだろう。
聖母の抱擁にも似た、救いの禊。死ぬことさえ赦されなかった救われぬ魂を、さらなる殺戮によって救済しようとする意志がそこには見えた。
やがて肉塊は肉片へ、肉片は不純物に侵された血液へと変わる。
個体から液体へと変化するほどの蹂躙。
それほどの殺戮を行使した存在が、目の前の小さな少女だなんて、実際に現場を目の当たりにしなければ到底信じられまい。
「――君は、いったい」
と、ぼくは問うた。
他の疑問は必要ない。動く死体の秘密にも、それを作った誰かにも興味がなかった。
ぼくはただ、その少女のことだけを知りたいと思った。
そんなぼくの問いに、
少女は薄く、しかし凄然と笑った。
そして、答える。
「私はね、――黒魔術師だよ」
「……違う」
反射的に、そんなことを言っていた。
そうだ、そんなことを聞きたいわけじゃない。魔術師でも奇術師でも、そんな些末、ぼくにとってはどうでもよかった。
「ぼくが訊きたいのは――」
ぼくが訊きたいことは。
そう、それは。
「――名前だ。君の名前を教えてくれ」
その言葉に。
少女はきょとんと、丸い水晶のような目を見開いた。
初めて外見相応に見える表情。魔性を湛えた不可思議な女性ではなく、愛らしくいたいけな、それは少女の素顔だった。
そして、黒魔術師は。
夜を呑むような凄絶な笑みではなく、花の咲くように美しく柔らかな微笑みで、
「――玄架」
と。
「……くろか?」
「そう。私は七河玄架だよ」
誇らしそうに、そう宣った。
※
その黒き夜の邂逅を、ぼくは恐らく、死ぬそのときまでまで忘れない。
いや、たとえこの肉体が滅び、精神が活動を終え、魂魄が地獄に招聘されたとしても。ぼくは阿鼻の奥底で、この日のことを思い出すと思う。
なぜなら、きっと。
ぼくが本当の意味で始まったのは、その瞬間からなのだと思うから――。