第2章真昼の月(5)
初めに気がついたのは、どこかで嗅いだことのある芳しい香りだった。
ケイトがゆっくりと重たい瞼を上げると、暗がりの中にぼうっとうかびあがる大輪の百合の花が見えた。先程から鼻腔をくすぐる心地よい香りはこの花だったのだ。
死者の花。
ケイトはぱちぱちと目をしばたたいた。それから慌てて体を起こし、辺りをきょろきょろとうかがった。
窓から差しこむごく淡い光以外はほとんど真っ暗な部屋は細部までは定かではないが、やはり見覚えがある。この細長いソファ。何より窓辺に飾られた百合の花。
すると突然部屋の扉が開き、天井の灯りがつけられた。
まぶしさに一瞬ケイトの目がくらむ。
「気がついたようだな」
ほっとしたような低い男の声がするのへ振り向くと、ケイトに向かって優しく頷きかけるポールとその斜め後ろに無表情で立つマリエルの姿があった。
マリエルはいつの間にか着替えをすませて、初めにケイトが見たのと同じ黒いセーターとズボン姿になっている。長い髪は自然な感じに垂らされていた。
「あたし…倒れちゃったの?」
ようやく事態を飲みこめたケイトが恥ずかしさに顔を赤らめながら尋ねるのに、ポールとマリエルは何と答えるべきか迷うかのように顔を見合わせた。
「その…あまり気にするな。初心者にはよくあることだ。皆そうやって、困難を乗り越え、少しずつプロになっていくんだ」
しゅんとうなだれるケイトをポールはそう慰めるが、マリエルは仏頂面のまま部屋の中に茫洋と視線をさまよわせている。彼にどう思われたかが、ケイトが一番心配なことなのだが。
「あの…この部屋って、昼間見せてもらった霊安所よね?」
再び思い出して、自分が寝かされていた長椅子を恐る恐る見下ろしながらケイトは確認する。
「そうですよ」
マリエルがやっと口を開いた。
「寝心地はよかったでしょう?」
「あ…う…何て言うの…ちょっと死んだ人になったような気分だけれど」
ケイトが居心地悪そうにぶるっと身震いするのに、マリエルは幾分たしなめるような口調でそっと付け加えた。
「気持ち悪がることはありませんよ。エンバーミング後の遺体は完全に殺菌消毒されて、生きている時よりも綺麗なくらいなんですから。抱きしめたりキスをしたりしても、何の問題もないくらい」
そういう問題ではないんじゃないととっさに言いかけて、ケイトはあきらめたように肩を落とした。
マリエルに一般常識は通じない。彼と付き合うことの難しさをケイトも何となく飲み込めてきた。
深刻な顔で考えこんでいるケイトの傍に近づいてきたポールが軽くその肩を叩いて耳打ちをした。
「奴の言うことをあまり真剣に受け取るな」
「ええ…」
「よし、ではちょっとそこを退いてもらうぞ。上からお客さんを下ろして来なくては.ならんからな」
そう促されて、ケイトは椅子から飛びのくように立ちあがった。
「あの遺体の処理は、あの後全部あなたが…?」
ポールが処理済みの遺体をここに運び入れる為に階上に向かうのを見送った後、マリエルと2人きりで霊安所に取り残されたケイトは、初めはとても自分から口を開く勇気はなかったのだが、ついに沈黙に耐えかねてぎこちなく声をかけた。
放っておけば、マリエルは永遠にだって黙っていそうだったからだ。
「いつもしていることですから…」
マリエルは相変わらずどこを見ているのかよく分からない放心したような目で、目の前に立つケイトの背後の空間をぼんやりと眺めている。
「その…すみません、あたし、こんなはずじゃなかったのに…」
そう謝ると、ケイトは真っ赤になってうつむいた。
「エンバーミングを見るのは全く初めてという訳ではなかったのでしょう?」
「う…その…葬儀社での見学実習で一応は…でもやっぱり、その時も途中で気持ちが悪くなって部屋を出ていくしかなくって…」
恐る恐る顔を上げると、今度はマリエルはちゃんとケイトを見ていた。
青い瞳にうかぶ表情はどこか呆れたような冷たい軽侮で、ケイトをますます居たたまれなくさせるものではあったけれど。
「で、でもそのうち慣れるから…今度は、今日みたいに無様に気を失ったりしないから…」
「ケイト」
静かではあるが、ある種、人の反抗心を失わせる凄みのきいた声が呼ぶのに、ケイトは口をつぐんだ。
「人間には適性というものがあります。エンバーマーを志すあなたの気持ちや姿勢は立派ですが、これはとてもあなたに向いた仕事とは思えません。悪いことは言いませんから、まだ間に合う今のうちに他の道を探すことですよ」
「そ、そんな…」
ケイトはちょっと泣きそうな顔になった。
「あなたのためを思って言っているんですよ。というのは、この私がかつて向いてもいない医者などを無理して勤めて、そのおかげで神経をやられたことがあるからです」
「そういえば、そんなこと、言ってたわね」
「セラピストにかかっても一向に気分は楽にならず、ひどい不眠症に2年も悩まされました。自分に正直になって病院勤めを辞め、こうして天職についている今は毎晩健康的にぐっすり眠れています」
「でも…あたし…」
ケイトはまたしても意外に強情な所を見せて食い下がった。
「そんなに簡単にあきらめたくない。それに…まだ初日なのよ。1回の失敗くらい、見逃してくれてもいいじゃない? 次はきっと、もっとうまくやるから…お願い…」
恥ずかしさの為ではなく、熱意のこもるあまりに紅潮したケイトの真剣そのものの顔をマリエルは訝しげに眺めた。どうして彼女がこんなにもこの仕事に執着するのか不審に思っているのだろう。
マリエルはケイトからそっと視線を反らした。
「本当におかしな人ですね。別に死体と一緒にいるのが好きなわけでもないくせに…」
苦笑ともつかぬ淡い笑みを口許にうかべ、マリエルは淡々と言った。
「いいでしょう。もうしばらく様子を見ることにします」
「あ、ありがとう、マリエル…!」
ぱっと顔を輝かせて、嬉しさのあまり躍り上がらんばかりのケイトに、マリエルは冷たい声音で釘を刺した.
「ただし、今日のようにみっともなく倒れることが再びあれば、その時は即クビにしますからね」
「は、はいっ」
思わずケイトが姿勢を正した、その瞬間、霊安室の扉が開き、先程の遺体を載せたストレッチャーを押したポールが入ってきた。
「すまんが、そこを退いてくれ」
処置室での出来事を思い出しはっと緊張した顔でそちらを見るケイトに、ポールが言った。
「あ、ごめんなさい」
脇に飛びのき、目の前を通りすぎるストレッチャーをケイトはまじまじと見下ろした。その顔が何かしらはっとなった。
「マ、マリエル」
微かにうろたえながらケイトは傍らを見るが、マリエルは答えず、まっすぐにストレッチャーに近づき、ポールが慎重な手つきで遺体を長椅子の上に下ろすのを見下ろしている。
ケイトは用心深くゆっくりとそちらに近づいていった。
「ポール、そこの櫛を取ってもらえませんか?」
椅子の上に横たえた遺体のポーズをつけ服や髪の乱れを直しているマリエルの肩越しに、ケイトは改めて、自らも処置に関わった、その遺体を見下ろした。
数瞬の間息をすることすら忘れてじっと見入り、ケイトは深い溜め息をついた。
「この人…さっきと同じ人…?」
ケイトは処置の途中までしか知らない。
口の縫合や眼球の処理、肌の仕上げ、処置後の着付けや化粧まで、後は全てマリエルが1人でこなしたのだ。
そうして今、ケイトは信じがたい思いで彼の『作品』を見つめていた。
処置室でケイトが見た、必死になって処理の手伝いをした、あれはどう見ても完全な死体だった。その冷たい肌に触れることにケイトがためらいを覚えたのも無理はない、生命力の抜け落ちた残骸だった。
しかし、一体これはどういう奇跡なのだろうか。今ここに深い眠りを装って横たえられている者は、再び新たな命を与えられたかのように生き生きとしていたのだ。
「まるで…生きているみたい…」
震える声で、ケイトはもらした。
『眠っているようにしか見えない』『安らかないいお顔です』
いずれも告別式の時に集まった弔問客らが遺族に向かって告げる儀礼的な言葉だが、この時のケイトは心底からの驚きをこめて、そう言った。
痩せて骨ばって見えた体は、一回り大きく、ふっくらしたように感じられる。その肌にはほんのりと血の色がさし、硬直の取れた体は柔らかくしなやかそうだ。
何より、その顔の表情にケイトは感嘆した。
初めにチラッと見たこの遺体の顔には表情などなかった。あたかも死と共にあらゆる感情も個性も死に絶え、ただのものになってしまったかのようだった。
だが今、『彼』には穏かな顔で思索にふけっているかのような人間味が戻っていた。どちらかと言えば厳しい哲学者めいた顔だが笑うと微かに下がる目尻がその印象を和らげ、口許の微笑みは少し哀しげだ。
「この人の名前、何ていうんです?」
ここに至って、この遺体に名前があること、愛する家族や他の大勢の人達と共に歩いてきた歴史が刻まれていることに、初めてケイトは気づいた。
そんなケイトを肩越しにチラリと見上げると、マリエルは静かに立ちあがった。
「マイク・スティーブンソン。大学の教授だったそうですね」
ポールが処置室から一緒に持って来た大きな封筒を手渡す。
ケイトが中を確かめてみると、それは遺族から提供された故人に関する詳細な情報、資料、また遺族の希望が記載された書類だった。そして何枚かの故人の生前の写真。その中では、たぶん仕事場である大学の研究室で撮られたものなのだろう、寛いだ様子で穏かに微笑んでいるスティーブンソン氏が写っている。今ここに静かに横になっている遺体に顔にうかぶのと同じ笑みだった。
「どうです?」
落ちついた吐息のような声に尋ねられて、ケイトは書類からはっと目をあげた。マリエルの不思議な青い瞳が、彼女を覗き込んでいる。
「私の仕事は、喜んでもらえるものでしょうか?」
「もちろんよ! この人の家族は、きっとどんなにか喜ぶと思うわ。こんなに…何もかも元通りにして返してもらえるなんて…すごく感動するに違いないわ」
感動に頬を紅潮させて叫ぶケイトを、マリエルは目を僅かに細めて見つめ返し、すっと視線を反らした。
その瞬間、ケイトはマリエルの質問の意味を自分が取り違えたことに気がついた。
マリエルが聞いたのは、遺族にではなく、スティーブンソン氏その人に喜んでもらえるかということだったのだ。
ケイトは、驚くべきものを見るかのような目で、マリエルの怜悧な横顔をつくづくと眺めた。
ケイトには何と答えたらいいのか分からなかった。
別の視線を感じ、ケイトがそちらを振り向くと難しい顔をしたポールと目があった。
彼の言った言葉がふいにはっきりとケイトの頭の中にうかびあがる。
(俺達が死者にしてやれることは何もないし、死者は何も必要とはしていない。エンバーミングを仕事にする気なら、ましてやあのマリエルのもとで働こうというなら、その点を忘れるな)
ひどくうろたえながら、ケイトは顔を伏せた。頭の中が混乱していた。
「…では、納棺は明日の朝でいいな。取り寄せの棺が社に届き次第、俺が届ける。その後、斎場の方に運ぶ…式は11時の予定だ」
ポールの低い声は、そんなケイトの脇を通りすぎた。
「ご遺族はしばらく彼と一緒にいたいと望まれるかもしれません。その時は、充分なお別れができるように取り計らってあげてください」
ポールはちょっと苦笑したようだ。
「おまえが遺体を処理すると、遺族が別れがたくなって、どうしてもしばらく家に安置したいと言い出す場合が多いというのが、唯一の難点だな。後の段取りが狂うと、ルイがまたこぼすぞ」
ポールは1人じっと何事か考えこんでいるケイトに近づいて、気さくに声をかけた。
「おい、どうした。今日の仕事は、もう終わりだぞ。初日からこれでは疲れただろう。家に帰ったら、今夜は何もせず熱いシャワーでも浴びて、すぐにベッドに行くことだ」
「そうね…そうするわ」
ケイトは目をぱちぱちさせ、それからまた少し考え込んだ。
「でも、寝るのはいいけど…何だかすごい夢を見そう…」
「夢か。そうだな…確かに今夜はちょっとばかりうなされるかもな。初心者だから、仕方がない。そのうち慣れれば平気になるのだろうが」
ポールも首を傾げて考えこんだ。
何か思いついたように頭を巡らせ、このやり取りを冷めた目で見守っているマリエルに向かってポールは聞いた。
「マリエル、おまえは悪夢にうなされるようなことはあるか?」
「ありませんよ」
無表情のまま、マリエルは軽く肩をすくめた。
「普段はとてもぐっすり眠れるんです。夢と言っても、死体の夢を時々見るくらいですからね」
冗談か? 本気か?
凍りつくケイトとポールから離れ、マリエルはスティーブンソン氏の傍に戻って、何か不満はないかと彼に確認するかのように優しく見下ろしている。
ケイトは、この先マリエルとうまくやっていけるかどうか、また少し自信をなくしそうになった。