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この世の果て  作者: 葉月香
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第2章真昼の月(4)

 休憩室でコーヒーとサンドイッチをもらって食べた後、ケイトがどきどきしながら待っていると外に車の音がした。遺体の搬送車が到着したのだ。

 ポールが出ていって遺体の引渡し手続きをしている間に、ケイトはマリエルと共に2階に上がっていった。処置室の隣の狭いロッカールームで手術着に着替え、二重のゴム手袋を手にはめて処置室に入ると、丁度ポールが遺体を乗せたストレッチャーを運んで来る所だった。

 ポールもマリエルも何も言葉をかけあわず視線を交わすことすらなかった。お互いの職能を敬いその範囲をよくわきまえている、そんな感じだった。

 ストレッチャーの上の保冷袋をポールが全開にすると、中から壮年の男性の遺体が現れた。司法解剖が行なわれており喉もとから恥骨までを切り開かれた跡がある。

「死因はバルビツール系薬剤の大量摂取による薬物中毒…2年近く精神科にかかかり抗精神薬の投与を受けていた…」

 ポールが慎重な手つきで遺体を処置台の上に移動させている、一方でマリエルは手渡された死体検案書とエンバーミング依頼書に目を通しながら遺体に注入する防腐固定液の配合を考えている。

 ケイトといえば、青い顔をして呆然と処置台の傍に立ち尽くしていた。

 実習用のリアルな人形相手に処置をしたことなら何度もあるし、実際に葬儀屋でエンバーミングの見学をしたことだってある。しかし、ばっさりと胸も腹も切り裂かれた明らかに死体と分かる相手をこんなに間近で見下ろすことは、ほとんど初めてと言ってもよかったのだ。

 そんなケイトをポールが心配そうに振りかえった。

「大丈夫か?」

「あ…ああ…はい…」

 血の気の引いた顔で、それでもケイトは健気らしく微笑むうとするが、その口元はやはり引きつっていた。

「さて…始めますか」

 助手の状態など全く気にも止めない冷淡さで、マリエルはマスクと防護用眼鏡を着用した。そうやって遠まわしにポールに退出を求めるのに、彼はもう一度ケイトをじっと見つめなおし、その肩を励ますように軽く叩いた。

「がんばれ。終るまで、俺は下の部屋で待っていてやる。家までちゃんと送ってやるから、安心して今は仕事をやりこなすことに専念しろ」

 いい人だぁとぼんやりと思いながら、ケイトは彼の広い背中が扉の外に出ていくのを見送った。しかし、幾分痺れを切らしたようなマリエルの冷たい声に、我に返った。

「何をぼうっとしているんです? そんなにゆっくりしていては、いつまでたっても仕事は終りませんよ?」

「は、はい」

 姿勢を正して返事をし、マリエルに倣ってマスクと眼鏡をつけると、ケイトは彼の傍に慌てて駆け寄る。

「大体の手順は学校でも習っていますよね。まずは遺体の洗浄と消毒から始めます。今回の遺体は検死解剖こそなされているけれど、病気で亡くなったわけでも事故で破損したものでもないし、割合簡単にできるものだから、あなたにとってはよかったと思いますよ。通常私の所に運ばれる遺体は損傷が激しかったり遺族が特別の処置を望んだりと、いわくつきのものであることが多いのです。死因になったバルビツール系薬剤の他に種類は不明ですが何種類かの薬剤の使用歴があるということで、防腐固定液の配合は通常とは少し変えてあります。そこのメモを後で書き写すなりすれば参考になるでしょう」

 淡々と事務的な口調ではあるが、その言葉はケイトのためになるようにとの意外な気遣いにあふれていた。

 ケイトは急に嬉しくなった。ポールはああ言ったけれど、親切ないい人じゃない。

 しかし実際作業に取り掛かると、ケイトの抱いた温かな気持ちはたちまちどこかに消し飛んでしまった。

 仕事についての初日、まだ仕事の内容もよく飲みこめてない時からいきなり死体に触ることになるとはさすがに思っていなかった。そこまでの心がまえができていなかったと言えば全く甘い考えだという他ないのだろうが、本当に自分のような素人がこんなことまでさせてもらっていいのだろうか。

 戸惑いながら、ケイトはおっかなびっくり、マリエルと2人、洗浄液をまんべんなくかけられた遺体を柔らかなスポンジを使って丁寧に洗い、給水バルブから引っ張ってきたビニールホースで綺麗に洗い流した。

 死後15時間たっている死体は死後硬直が進み、保冷剤と共に運ばれてきたため冷え切っている。

 どこから見ても完璧な死体。

 ケイトは努めて遺体の顔と胴体を無残に縦に走る傷跡は見ないようにしながら、黙々と作業を進めた。おしゃべり好きなケイトでも、さすがにこんな状況で無駄口を叩く余裕はなかった。 

 洗浄の後、口腔は直接殺菌スプレーで消毒し、鼻腔、耳、肛門は消毒薬を染みこませた綿をピンセットで詰める。これは、マリエルが手際よくやってくれた。

 次に、遺体保存のための血液交換に先だって、遺体のマッサージにとりかかった。体の硬直を取り薬液が隅々に至るよう、できる限り血管を広げる為だ。

 マリエルと2人、処置台の左右にそれぞれ立って、肩から腕、指先へと順番にマッサージを施しながら、ケイトの額にはじっとりと汗がうかんできた。人形相手の実習でやった手順を考えると、この後にポンプを使った血液交換になるのだろう。

 案の定、マリエルは、腕のマッサージが終ると脚はケイトにまかせて注入液の調合に取りかかった。

 硬直した遺体の脚を一生懸命に曲げ伸ばしさせながら、ケイトの緊張は次第に高まってきた。

 どうしよう、どうしよう。ケイトの頭の中はその思いでいっぱいだった。

 血液交換は、遺体の動脈と静脈にそれぞれチューブを繋ぎ、ポンプの力で血液を排出し代わりに薬液を注入するものである。

「頚動脈の確保にとりかかります」

 マリエルの冷静な声がした。ケイトはためらいがちに顔を上げる。

「マッサージはちょっと休んで、ここに来て私の手際を見てなさい」

 マリエルはもちろん親切心で言ってくれたのだろうが、初めての死体との濃厚な触れ合いに神経がいいかげん参ってきているケイトには少々酷な話だった。

「え、ええ」

 しかし、自分から進んで、それもあれだけ無理を言って頼みこんだ助手の仕事を、恐くて気持ち悪いからなどという情けない理由で拒むことはできない。

 ケイトは勇気を奮い起こしてマリエルの傍に行った。

「大丈夫ですか?」

 訝しげに尋ねるマリエルに、ケイトは気持ちを奮い立たせながら頷いた。

 マリエルはその言葉に納得したのか、すぐさま作業を再開した。メスを手に取って遺体の右鎖骨を小さく切開し、2本の結紮鉤を器用に使って頚動脈を探り引っ張り出す。更に、確保した血管が切開部から中に戻ってしまわないよう、結紮鉤を下に差し入れて支えた。今度は、同じ手順で静脈を確保する。

 緻密な作業だが、マリエルは特に困難を覚えてはいないらしく、結紮鉤の先にまで神経が通っていかるのような実に見事な手際でやってのけた。それから、それぞれの血管をハサミで切りこみを入れ、血液交換のための注入チューブと排出チューブを取り付ける。

「マシーンを作動させてください」

 ケイトはびくりと震えた。緊張し気持ち悪さと戦いながらも、マリエルの手際にすっかり見惚れていたのだ。

「は、はい」

 ケイトはぎこちない動きで注入用ポンプに近づきスイッチをオンにする。

 中にはあらかじめマリエルがセットしておいた前処理液が入っている。これは動脈液を注入する前に血管の通りをよくするためのもので、血管の中で凝固しているカルシウムなどの成分を溶かすために、クエン酸塩、シュウ酸塩、フッ化物、カリシュウム隔離剤等が配合されている。

 微かな機械音と共にマシーンが動き出すと、一瞬遺体が微かに動き、静脈チューブから血液が排出され始める。

 心臓とほぼ同じリズムで動くポンプが薬液を体内に注入しつづける傍ら、マリエルは遺体の体に更にマッサージを施した。実に丁寧で遺体を傷つけぬよう細心の注意をこめた手つきで、薬液が全身に行き渡るよう丹念にさすり続けるその様子から、彼が死者を全く恐れてはおらず、触れることにも何の抵抗も覚えてはいないことは明らかだった。それどころか、むしろ愛情さえ感じさせる程に優しく慕わしげだ。生きている人間よりも死者の方が身近に感じられるというのも、どうやら本当らしい。

「注入速度は、1分間に300mlで保たれていますか?」

「えっと…大丈夫です」

 初めは赤かった血液も、交換が進むにつれ次第に薄い色になっていく。交換がほぼ終わったところで、マリエルはマシーンを一端とめさせ、次いで防腐固定液の注入を行なった。これは細胞組織が保存されるようにする為のもので、ホルムアルデヒドと凝固剤、遺体の肌に健康な赤みを取り戻させる為の赤い色素も加えられる。 

 通常は頚部からの注入排出だけですむのだが、この遺体のように検死解剖のなされたものは血管が分断されている為、下半身も別に血管を確保し処置をしなければならない。

 マリエルは大腿部から血管経由の防腐処置を先程と同じ手順で黙々と行なった。

「では、次に内臓の処理を行ないます。トロカーを下さい」

 来た、とケイトは思った。エンバーミングの作業でケイトが最も苦手なのが、この部分だ。

 人間の胃や腸は、独自の消化酵素によって死後も消化活動を続け、最後には己自身も溶かしてしまう。遺体の部分で最も腐りやすいのは、この体腔内なのだ。

 体腔内の防腐処置はトロカーと呼ばれる特殊な器具を使って行なわれる。これはステンレス性の円筒を斜めに切ったような形で、その先端を臍の気持ち右上から差し込み、吸引機の力で各臓器の体液や流動物を外部に排出するものだ。膀胱、盲腸、肝臓、右ろく膜、左ろく膜、胃、そして結腸という順序で通常は行なうのだが、司法解剖された遺体は臓器がもとに位置にちゃんと戻されていないことも多く、トロカーの針の方向を何度も変えて探しまわることになる。

 ポンプの力で700から900gもの流動物を排出した後は、同じトロカーを使って腹部や胸部への防腐薬液の注入を行なう。

 今回、マリエルは通常よりも小型の検死用のトロカーを使った。彼は遺体の腹部を指で探り、ためらいのない動きで先端を腹部に滑らかに突き通す。

 ケイトは一瞬顔を背けてしまった。

「マシーンを作動させてください」

 マリエルの冷静な声に従って、ケイトは震える指でスイッチを押した。

 独特の機械音が壁のタイルや天井にあたって不思議なエコーを作り出す。それと共に遺体の体内から吸い出された残留物が管を通って床の排水口へと流れていく。天井に設置された大きな通風口のおかげでこれまでほとんど無臭だった処置室内に、たちまち何ともいえない腐臭が漂い始める。土に返りつつある肉体の放つ強烈な死の臭い。死後体内で発生したガスや腹水、糞尿が入り混じった臭いが鼻について、吐き気を催すほどだ。

 ケイトは涙目になっていた。この臭いにも平気な顔をして、刺し込んだトロカーの先端で遺体の体内をあちこち方向を変えながらつついているマリエルを信じられないものを見るかのような目で呆然と見守るしかなかった。防護マスクと眼鏡の下に隠されたケイトの顔からは完全に血の気は失せていた。

(もう、駄目)

 ここに至って、ケイトはついに音をあげた。

 これ以上はとてもじゃないけれど、ついていかれない。この臭いにも耐えられない。お願いだから、もう許して。

 そう思った瞬間、ケイトの視界はいきなりふっと暗くなった。

 どすん。

「?」

 鈍い物音がしたのに作業を中断してそちらを見やったマリエルは、防護眼鏡の下に隠れた眉をひそめた。そこにいたはずの助手の姿が消えた、と思いきや視線を下に動かすと床の上に長々と伸びている。

 数瞬の間、マリエルはトロカーを遺体の腹に突っ込んだまま固まってしまった。やがて、はあっと深い溜め息をくと、口の中で小さく「失礼」と遺体に向かって断ってから、処置台から離れた。

 彼はぴくりとも動かないケイトをまじまじと見下ろした。

「ケイト、ケイト…?」

 呼びかけても何の反応もなし。完全に失神している。またしても溜め息。

 助手というのは『仕事の手伝いをする人』の意ではなかったか。マリエルは首を傾げた。

「ケイト」

 床に膝をついてもう一度呼びかけると、ケイトはううんと呟いて身じろぎした。マリエルは苦笑しながらも、少しほっとした。

 マリエルは立ち上がって壁のインターフォンの所に行き、階下で待機しているポールを呼び出した。

「ポール、私です。すみませんがちょっと上に来てください。今、ケイトが気を失って床に倒れているんです。やっぱり? ええ、トロカーのくだりで…仕方がないでしょう、素人なんですから。とにかくすぐに彼女を引きとりに来てくれせんか。今のケイトにとってこれが限界のようですし、いずれにせよこんな所に寝転がられては私の仕事の邪魔になりますから」

 ケイトが聞いていなくて幸いだったろう、冷淡なマリエルの言葉だった。

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