第2章真昼の月(3)
春が間近に迫っていることを感じさせる天気のいい午後の郊外へのドライブは快適だった。昨日の雪が全く嘘のようだ。
エンバーミング用の薬品や特殊なガラス器具やチューブなどを積んだバンにポールと共に乗りこんだケイトは、これから行く場所についての期待に胸を弾ませながら窓の外をすごい早さで通りすぎて行く景色を眺めていた。
ポールはあまりおしゃべりな方ではなかったが人懐っこいケイトはすぐに打ち解けて、彼女の無邪気な質問に答える形でポールとの会話もそれなりに弾んだものになった。
ポールはルイやマリエルの幼馴染で、やはりと言おうか高校時代はフットボール部の花形だったそうだ。大学リーグでも結構名をはせたそうだが、結局プロになることは断念した。そうして母校のフットボール部のコーチを10年勤めた後現在はグリーンヒル・モーチュアリ社で働きながら大学の夜間クラスで心理学の勉強をしているとか。
市街地を離れると次第に風景は喉かな丘陵地にぽつんぽつんと現れる小さな町といったものに変わっていった。そうかと思うといきなり巨大なショッピングセンターや真新しく綺麗なゴルフ場が現れる。
やがて広大な墓地のアーチ型の門の前を車が通りすぎると黒っぽい糸杉の林の間に埋もれるように一軒の古い家が見えてきた。
道路をはずれてそこにたどりつくまでの砂利道をゆるやかに走っていくと、道の端に『グリーヒル・モーチュアリ社』と書かれた古びた木の看板が半ば打ち捨てられたように傾いた格好で立っている。
「ここだ」
家の玄関前でポールは車を止めた
ケイトは緊張を解きほぐそうとするように肩を大きく上下させて深呼吸をした。車の窓越しにその家を凝視する。この辺りで進む再開発から取り残されたような古めかしい家。乾いた薔薇のような色をした壁に這う蔦はこの季節のことだから色あせて、余計にこの建物を年経たものに見せていた。
「マリエルって、こんな寂しい所で1人で暮らしているの?」
ぼんやりとしたケイトの問いかけに、ポールが淡々と答えた。
「そうだ。唯一の身内とも言える奴の面倒を見てくれていた祖父さんが亡くなってからはな。父親とはずっと絶縁状態だから、本当に天蓋孤独の身というわけだ」
車がここに乗り入れた音に気づいたのだろう、2人が降りるとほとんど同時に家の扉が開いた。
「マリエル!」
ケイトはそちらに向かって手を振りながら、弾んだ声で呼びかけた。しかし、ケイトのはしゃぎように唖然としたのか背後で黙り込んでいるポールを意識してすぐに口をつぐんだ。そのまま慎重な足取りで玄関まで歩いて行くと、ケイトは、扉の前でゆるく腕を組んで待ちうけるマリエルに控えめに微笑みかけた。
「こんにちは。いい天気ね」
マリエルは場違いなものでも見るかのような眼差しでケイトをしげしげと見つめ返した。黒いタートルネックの薄でのセーターに黒っぽいパンツ。長い髪は今日は後ろで縛って一つにまとめてある。
「髪、今日はほどいてないんだ」
「…家の掃除をしていたので」
掃除機をかけているマリエルというのはちょっと想像しがたくて、ケイトはしばし絶句してしまった。
そんな彼女から目を離し、マリエルはその背後のポールに目配せをした。
「発注したものは、全部ありますか?」
「ホルマリンが在庫切れで1ケース足りない。入り次第、すぐ届ける」
仏頂面のポールから渡されたリストをマリエルが受け取り、さっと目を通す。
「いいでしょう。では、作業所の方に運んでください」
素っ気無く言って、マリエルは扉から離れ家の裏手に向かってぶらぶらと歩き始めた。
ケイトはポールを手伝って車からダンボール箱に詰められた薬品類を下ろした。
「こちらの荷物か軽いぞ」
ケイトが重たいダンボール箱を両手でよろよろと抱えあげようとするのをポールはひょいと取り上げて、代わりにもっと軽い箱を持たせる。
「すみません」
「今度からはもっと荷物は小分けするか、カートを一緒に持ってくることにしよう」
2人はマリエルの後を追った。
煉瓦壁にそって家の裏に回りこむと、もう1つの建物が繋がっているのが分かった。母屋とは別に、中庭を挟んで仕事用のなかなか立派な離れがあるようだ。表からはそんな建物があるとは分かりにくい、背後もすぐ傍にまで迫った暗い林に覆われて、ほとんど人目につくことはないような環境だ。
マリエルは仕事場の扉を開け体で支えるようにして立ち、ケイト達が来るのを待っていた。
「ありがとう」
ダンボール箱を抱えたケイトとポールを通すと、マリエルは黙って扉を閉じた。
「地下が倉庫になっています。こちらに搬送用のエレベーターがありますから」
がらんとした1階は接客用の小さな応接室と更に幾つかの小部屋に分かれている。階段を通り過ぎて廊下の突き当たりにあるエレベーターは、遺体の搬送にも使われるのだろう、広々としたスペースを取ってあった。
地下の保管室は剥き出しのコンクリート壁のガレージといった印象のスペースに壁に沿って金属性の薬品棚が据えつけられており、大小様々な薬品瓶、缶、ガラス器具が並んでいる。ホルマリン、エチルアルコール、ポリエチレングリコール等など、学校でも習ったエンバーミング処理にお馴染みの薬品が整然と並んでいる様を興味津々ケイトが眺めている間に、マリエルとポールの方は発注表と照らし合わせながら運びこんだ品の薬品名と数量をチェックし薬品棚の所定の位置に並べていく。
「あ、あたしも手伝います」
気がついたケイトが慌てて駆けよってきたが、間違えたら困るからとマリエルにやんわり断られた。
「今日は初日だから、仕事の手順だけ見ておけ。慣れたら、そのうちに俺の代わりに運搬の仕事をしてもらうようになるだろう」
ポールがさり気なくフォローをいれる。しゅんとなっていたケイトはたちまちほっとした顔になった。
ものの5分もあればすむ確認作業中、2人は無駄口は一切叩かない。そう言えば、ここに着いてから、事務的なこと以外、この2人会話らしい会話をかわししていないことに、ケイトは気がついた。
もしかして仲が悪いのだろうか。
気になったので後でマリエルが席を外した隙に、そのことをケイトはポールに聞いてみた。
「奴に対して仲がいいも悪いもない。人とコミュニケーションを取る気の全くない相手に気を使っても仕方がないから仕事をこなすことに徹しているんだ。さもなくては、一緒にいてあんなに居心地の悪い奴とはつきあえん」
ポールは軽く肩をすくめながら答えた。
「好き嫌いという問題ではない、これが俺の仕事だ。マリエルにとっても俺のように割り切った相手の方がおそらく付き合いやすいと思うぞ」
実際ポール以外の社員達はマリエルと直接関わるこの仕事をしたがらないという。
マリエルも沈黙に耐えかねて聞きたくもない下らない世間話をぺちゃくちゃとしゃべっていく相手よりは寡黙で信頼できる仕事をするポールを確かに好みそうだ。
「そうねぇ…マリエルは話好きとは言えないけれど、そんなに人に嫌われるほどだんまりという訳でもないと思うけれど…初めて会った時、彼と一緒に食事をして、あたしもちょっとは緊張したけれど、話題がなくなって困るというほどでもなかったし…」
ケイトが首を傾げてそう言うと、ポールは微かな衝撃を受けたかのように目を見開いた。
「マリエルと食事に行っただと。ほう…これは驚いたな。俺には想像もつかん、あいつと差し向かいで飯を食っても、死体と一緒にいるかのようで少しもうまいと思わんだろうし、誰もが願い下げだと感じることだろう」
「あ、ひどいこと言うのね、ポール」
ケイトがたしなめるとポールはおおらかに笑った。
「ああ、言いすぎだったかな。確かに死体は飯など食わん」
誘ったのはマリエルでお互いのプライベートにまで触れる会話をしたと聞いて、ますますポールは驚いていた。
「ふむ…よく分からんが、マリエルはおまえさんにちょっと興味を覚えているらしいな。他人にそんな気遣いや関心を見せることは、極めて珍しい男なのだが」
「あたしの叔父さんはマリエルにとっては恩師だったというから、それで気を使ってくれているんじゃないかしら」
さて、地下での作業が済むと彼らはエレベーターで2階に上がり、マリエルはケイトに作業所を案内していった。
2階にはエンバーミング用の処置室と着付けや化粧を行なう部屋、そして、マリエル自身が個人的な研究の為に使う部屋がある。
処置室といっても処置台が1台だけ、淡いベージュのタイルに囲まれた部屋はいささか手狭に感じるくらいだったが、天井の大きな送風口、最新型のエアコンディショナー、廃水処理システム等設備は整っており、備えつけられた機器類もすべて新品同様によく手入れをされ、使い勝手がよいように整然と配置されている。例え急な仕事が入って今ここに遺体が運びこまれてもすぐに処置に取りかかれそうだ。
「ここ、あなたの研究室って…ねえ、どんな研究をしているの?」
無邪気な好奇心を顔に表して、マリエルの研究室に入りたそうな素振りを見せるケイトだったが、マリエルはプライベートな空間だからと見せたがらなかった。
「遺体保存に関してのリサーチや実験的なことを幾つか試みているんですよ…ライフワークのようなものですね。新しい防腐固定液の配合だとか、より自然な感じに死体を見せるテクニックとか、遺体の変質を完全に止める半永久的な保存法、そんなものです」
「ふうん…何だか、すごそうね」
素直に感心したように頷くケイトにマリエルは薄く微笑んだ。再会してからずっとにこりともしないで、もしかして機嫌が悪いのか自分を雇ったことを後悔しているのかと不安に思っていたケイトは、その顔を見て嬉しくなった。初めて会った夜の親密な雰囲気に戻れそうな気がしたのだ。
「1階も見せるのか」
2人の様子を少し離れた所に立って無言で見守っていたポールが、いきなり声をかけた。
「そうですね、一応案内しましょうか。別に見せるほどのものではありませんが、応接室に休憩室…と言ってもほとんど使いませんがね。それとゲストルームがあるだけですから」
「ゲストルームって?」
「処置を済ませたご遺体を『休ませる』ための部屋ですよ。霊安室とも言いますね。棺が届いたら最後にそこで納棺して斎場に出発ということになります」
マリエルいわく『ゲストルーム』を見せてもらうと、それは確かに霊安室というより瀟洒なホテルの一室といった印象の小部屋だった。落ちついた色合いの花柄の壁紙、暖色系の絨毯の敷き詰められた部屋の中心には、背もたれのない更紗張りの長椅子がぽつんと置かれている。中庭に面して広い窓が1つつけられており、その両脇の小卓の上にはガラスの花瓶に大輪の百合の花が活けられていた。
ここにも百合の花。マリエルがもらした『死者の花だから』という言葉が、ふいにケイトにはまざまざと思い出された。
その時だ。階段のすぐ下に置かれている電話がふいにけたたましく鳴り響いた。
マリエルは2人をゲストルームに残して、電話の応対に出る為に出ていった。
「寒々とした死体安置室じゃなくてこんな居心地のよさそうな所で休ませてもらえるんだったら、死んだ人もほっとしそうね」
ケイトが呟くのに、ポールは低い声で何やら忠告めかして言った。
「それは生きている俺達が覚える錯覚にすぎん。俺達が死者にしてやれることは何もないし、死者は何も必要とはしていない。エンバーミングを仕事にする気なら、ましてやあのマリエルのもとで働こうというなら、その点を忘れるな」
ケイトが問いかけるような目で見返すのに、ポールは一瞬黙りこんだ後、重々しい口調で言った。
「奴は死に取りつかれている。この世界でごく当たり前に生きている人間には、奴の情熱を理解することも受け入れることもできはしない。我々にとっては恐ろしくおぞましいことでもマリエルにとってはごく自然なのだと思う。おまえさんが一体なぜ奴に興味を持つのか知らんが、悪いことは言わんからあまり深入りはするな。付き合ってもろくなことにはならん。奴は異形なのだ」
「…ケイト」
それは一体どういう意味なのかと問い返そうとした所に、後ろから別の声に名前を呼ばれて、ケイトは飛びあがりそうになった。焦りながら振りかえると、いつの間に戻ってきたのか、マリエルが開かれたままの扉の所に立っている。
「マ、マリエル…」
ケイトはばつが悪そうにマリエルを見返す。
その白い顔が先程までの無表情ではなく何かしら面白がるような笑いを含んだものになっていることに、ふとケイトはいぶかしくなった。
「何かあったの? さっきの電話?」
するとマリエルは薄い唇を笑みに形に吊り上げて、しかし声に出しては極めて冷淡に言った。
「ルイからの緊急の電話でしたよ。突然ですがエンバーミングの仕事が入りました。予定されていたエンバーマーが急病になり代わりも見つからない為、私にやってくれとのことです。よかったですね、ケイト。早速私の助手ができるんですから。約30分後に遺体が到着し次第、仕事にとりかかります。すべての処置をすませるのに最低3時間はかかるでしょうから、今のうちに軽く何か食べておきますか」




