第2章真昼の月(2)
「こんにちは」
マリエルと会ったその翌日、彼の指示通りケイトはグリーンヒル・モーチュアリ社を再び訪ねた。
街の中心から少し離れた所にある、住宅街と商業地区の中間あたりにぽつんとある地下1階地上3階建ての斎場をかねるビルには、ケイトが初めて訪れた時とは違って多くの社員達が慌しく出入りしていた。聞けば、今日の夕方から一件通夜の仕事が入っているという。
昨日の大雪のおかげで一時はどうなることかと思われていたが今日は打って変わっていい天気で、気温もぐんぐん上昇し雪掻きのされた道路脇や日陰の路地などではまだ雪は残っているものの交通には全く支障がなく、この分だと彼らの仕事も予定通り順調に行きそうだ。
ケイトが入って来ると社員達は一瞬動きを止めて訝しげに彼女をチラリと見たが、すぐに興味をなくしてそれぞれの仕事に戻った。
奥のデスクから立ちあがって出てきたルイの姿に、ケイトは少し安心する。彼はケイトを来客用の隣の部屋にさしまねいた。
「全く、あの方に弟子入り志願なんて、とんでもないことをやってくれましたよ。そんな目論見があると初めから分かっていたら、絶対紹介などしなかったでしょうに」
部屋に入るなりルイは不機嫌そうに言って、ソファにどさりと腰を下ろした。
「ごめんなさい」
さすがにばつが悪そうな顔になるケイトをちょっと睨みつけた後、ルイは大きな溜め息をついて、ソファに坐るよう彼女を促した。
「いいんですよ、マリエルが決めたことならわたしには反対などできませんから。昔からそうなんですよ。幼馴染に対する甘えというにも度を越している…自分の我が侭をわたしが何でも聞き入れると思っているんですね、マリエルは。それにしたって一体何だってあなたを雇うような酔狂をおこされたのか…あの方はわたしが何度勧めたって助手なんてわずらわしいだけだからと決して誰も自分のテリトリーには入れようとしなかったんですよ。一体どんな手であの方を口説いたんです?」
「口説いたって…ただ、一生懸命頼んだだけです」
ルイの非難がましい口調に少々不満げにケイトは言い返した。
「一生懸命ねぇ」
ルイは疑わしげにケイトを見返す。
「で、あの方とはどんな話をしたんです。私が『大変変わった人』だと言った、意味が分かったでしょう?」
「そうね」
マリエルの常に遠くを見つめているかのような青い瞳を思い出して、ケイトは胸が微かにざわめくのを覚えた。
「何というか、とても不思議な人…想像していた『M』とは随分違っていたわ。現実離れして、とらえどころがなくて…私がいつも見ている日常とはかけ離れた別の何かを見ているみたい。違う世界を知っているみたい。そう、マリエル自身も言ってた…彼の心は2つの世界の狭間に属しているんだって。この世の果てをふらふらとさ迷っているんだって」
ケイトのぼんやりとした呟きをルイは聞きとがめ、ソファから身を乗り出した。
「そんな話をあなたにしたんですか? あのマリエルが?」
素っ頓狂な声をあげるルイをケイトはびっくりして振り返った。
「それがな、何か…?」
つい身構えるケイトをルイは穴が開きそうなほどつくづくと眺め、再びソファに身を沈めた。
「驚いた」
低い声でルイは呟いた。
「ルイさん?」
「ああ、いえ…すみません、あんまり驚いたもので少々ぼうっとしてしまって…わたしが知る限り、マリエルがそんなごく個人的な心情を他人に打ち明けたことは皆無だったので…はぁ、びっくりした。実際マリエルは初対面の他人相手に容易く打ち解ける人じゃないんですよ。だからクライアントにもめったなことでは引き合わせません。マリエルの人を人とも思わない冷淡な態度に大抵の人は神経が参ってしまうか立腹しますから」
「ううん…あれって打ち解けてもらえたのかしら…? 確かに子供の頃の話なんかはしてくれたけれど…亡くなったお母さんのことや飼っていた猫のことや…」
首をかしげながら言うケイトにルイはまた目を剥いたが今度は黙っていた。彼は腕を組んでしばし何やら考え込んだ。
「…分かりました」
ケイトが見ると、ルイは先程までのおざなりでつけつけした様子とは一変、妙に期待に満ちた目をして彼女に向かってにこやかに微笑みかけている。
「そういうことなら、がんばりなさい、ミス・ハヤマ…そうですね、これからはケイトと呼ばせてもらいましょうか。慣れるまでは助手の仕事は大変でしょうが、マリエルにしっかりついて積極的に学びながらあの方をできるかぎり助けてくださいね」
「は、はい…」
いきなり手の平を返すようなルイの態度の変化にケイトは少々薄気味が悪かった。何か含みがありそうだ。
「あの…履歴書を持ってきたんですが…」
ケイトはバッグの中から取り出した書類をおずおずとルイに差し出した。
「ああ、では拝見しましょうか」
それにルイが目を通している間、ケイトは落ちつかなげに身じろぎをして部屋の扉の方にちらちらと目をやった。
「どうかしましたか?」
「あの、マリエル…さんは、今日はここには…?」
ルイは履歴書から顔を上げ眼鏡を指先で上げながら言った。
「マリエルが出社してくることなんてありませんよ。ここの社員達のほとんどが顔を見たことすらないんです。あの方の手がけるような仕事はそう頻繁に入ってくるわけではないですし、どのみち自宅を仕事場にしていますからね」
すぐに感情が顔に出るケイトがたちまち落胆の表情をうかべるのに、ルイはおかしそうに目を細めた。
「だから、あなたの仕事は基本的には社での雑用が中心になるでしょうが…まあ、マリエルが許可を出したのならエンバーミングの仕事もそのうち手伝ってもらうことになると思いますよ。ですから、そう落胆しないで」
マリエルがここにいないと聞いてしゅんとしてしまった少女を数瞬の間眺め、それからトーンの高い違う調子の声でルイは付け加えた。
「実際に助手の仕事をいつからしてもらうかはさておき、今日はあなたを一度仕事場の方に連れてくるようにとあの方からの指示がありましたので、これからちょっと遠出をしてもらいますよ。丁度うちの倉庫から発注のあった薬品を運ぶ便があるんで、あなたも一緒に連れていってもらったらいいでしょう」
この言葉に、ケイトはぱっと顔を輝かせた。
マリエルに会える。
「ポール!」
社員達が動き回るオフィスにケイトを連れて戻ったルイが叫ぶと、伝票のチェックをしていたらしい一人の男がデスクからうっそりと立ちあがった。
男の体の大きさにケイトは目を丸くした。実際彼はプロ・フットボールの選手と言っても充分通りそうなくらいの見事な体格をしていた。葬儀会社よりもむしろ警備会社の社員の方が似合いそうだ。
ルイの呼びかけに軽く頷き返して無言のまま2人のもとにやってきた、その大男は小柄なケイトを興味深げにしげしげと見下ろした。
見事な体格のため一瞬恐ろしそうに思ったが、彼の黄色い目は意外に知的で穏かな微笑さえ湛えていて、ケイトをほっとさせた。年齢はたぶん30半ばくらいだろう。
「この人が、今朝説明したケイト・ハヤマです。仕事が一段落ついたら、マリエルの所に連れていってあげてくれませんか、ポール」
「分かった」
低い声で短く答えた後、ポールと呼ばれた男はケイトに向き直った。
「丁度よかった。今伝票の整理が終わったところだ。すぐにでも出られるぞ」
そのままポールはデスクに戻って伝票の束を取り上げると、ケイトを振り向き手招きした。
「さ、彼についていきなさい、ケイト」
ケイトはルイに向かって礼を述べると、先に立って歩いていく男の広い背中を慌てて追いかけて事務所の扉を飛び出していった。
「地下1階が倉庫になっている」
ポールは、本人はおそらく普通に話しているつもりなのだろうがやたらと重々しく響く低い声で言った。
「さて、まずはマリエルのもとに届ける薬品や器具類を積み込むのを手伝ってくれ」
いよいよ初仕事だ。ケイトは頬を紅潮させて、大きく頷いた。
「あの…ここからマリエルの仕事場までは遠いんですか?」
ケイトがマリエルを親しげに呼び捨てにしたことにポールは気がついたかもしれないが、そんな素振りは見せず、問い返しもしなかった。
「車で1時間もあれば着く。郊外にあるグリーンヒルと呼ばれる場所だ。昔からある共同墓地とゴルフ場以外には何もない所だが、うちの会社の前身である葬儀屋がそこにあったそうだ。今はマリエルが自宅兼仕事場に使っているだけで、社自体はここに移っているがな」