第2章真昼の月(1)
月が恐いくらいに綺麗な夜だった。
林檎の白い花が美しい初夏のころだったが、深夜ともなると空気はひんやりと冷たい。
いつもと同じように、祖父達が寝静まった頃、私達は母子二人で家を脱け出した。
結婚後しばらくは夫と共にニューヨークに移り住んだ彼女だったが、都会暮らしに馴染めず、出産後間もなく精神に変調をきたし、数多くの病院やセラピストを渡り歩いた末に郊外にある実家に戻ってきていたのだ。
幼い頃から慣れ親しんだ家、どこまでも広がるかに思える緑の丘陵地ののどかな風景、家から歩いてすぐ行ける所にある広大な共同墓地。
自分が属する世界に戻ってきてからは随分落ち着いたようだったが、いつの頃からか始まっていた幻想は彼女を捕らえて離さなかった。私が生まれる以前から夢見がちな女性ではあったらしいが、この頃は現実からの遊離がはなはだしくなっていた。
彼女の父親は鷹揚な人で、娘に辛い思いをさせて知ったかぶりのセラピストの得体の知れない治療を受けさせるよりは、自由気ままに暮らさせてやりたいと思っていた。
少しくらい言動が奇妙でも夢見るようにいつも心ここにあらずでも、それで誰かに迷惑をかけるわけでもなし、彼女が幸せならある程度祖父は容認するつもりだったのだ。
だから、彼女が真夜中に一人息子である私を連れての散歩に出かけることにも気づいてはいたのだが祖父は黙っていた。
昼間はいつも憂鬱で辛そうな彼女がせめて夜には安らぎを見出せるよう、少しでも母子の触れ合いを持てるよう、それによって病んだ心が癒されるようにとの祈るような親心だったのだろう。
その時、私は10才だった。
月明かりに薄ぼんやりとうかびあがる夜道を母親に手を引かれて早足で歩きながら、昼間の太陽のもとで見るのとはまるで違う世界に私は胸をときめかせていた。
家から墓地まで続く舗装された道路脇に植えられた林檎の木の白い花はほの白く輝いて見え、都会と違って深く濃い闇がその背後に広がり、暗がりに潜む不思議な夜の生き物の存在を信じることを容易にさせた。
幼い息子の足に合わせることなど全く考えてもいない母親に引っ張られように歩きながらも、私はきょろきょろと辺りをうかがって、そこに何かを見つけられまいかと目を凝らしていた。
道は共同墓地の手前で終っており、そこから奥は踏み固められた土と芝生でできた墓所が続いていた。
大きなアーチ型の門は閉じていたが鍵はもう何年も壊れたまま放置されており、私達は難無く忍び込むことができた。
この墓地は鬱蒼と木立ちの生い茂る広々とした公園並みの規模を誇っていて、整然と区画された土地は宗教、人種、あるいは社会階層毎に分けられていた。門からほど近い比較的新しい墓が並ぶ一帯では近年主流になりつつあるシンプルな青銅製の墓碑版がはめ込まれているだけだが、奥に歩き進むうちに、大小様々な立碑、ごつごつした古めかしい十字架の群れに変わっていき、天使や聖母マリア、子供の像が加わる。そうして、所々見られる豪壮な霊廟やギリシャ風の丸い円中に囲まれた巨大な納骨堂。
私達は人気のない墓地を月の明かりを頼りにふらふらとさ迷い歩いた。
2人で墓標に刻まれた銘文を1つ1つ声に出して読み、どの文がおもしろいか詩的で美しいか語り合い、ヨーロッパ風の天使や子供の像の陰に隠れる遊びをした。
『天国に入る者は、年老いたる僧侶、老いたる足萎え、また手足を切りたる者ならむ』
その夜の母はいつもよりずっと気分がよさそうで、上機嫌で、私にも優しかった。
彼女の唇から虫の鳴くような細い声が漏れるのに、私は息をつめてじっと聞き入っていた。
彼女は歌ように詩を吟じながら、猫のような身のこなしでくるりと体を回転させる。
『この者達は、日がな一日、また夜も徹して祭壇の前にて咳ぶき続ける者なり。かかる者達に余はかかわりを持たぬ』
どこかの墓石に刻まれていた碑文を気に入って、繰り返し唱えるうちに彼女は覚えてしまったのだ。
『されど、余は地獄をこそ訪なはめ』
ちょっと離れて歩きながら、私はゆるやかに舞い踊る母の姿にうっとりと見惚れていた。夜の生き物のように月の下で蠢く母からは昼間の倦怠感はぬぐいさられ、子供心にもその際だった美しさが誇らしく、賛美をこめた眼差しを私はひたすらに注いでいた。
あなたが動くにつれ、長い銀の髪が揺れる。
月明かりに白く浮かびあがって、揺れる。
とても綺麗。
私達母子の夜の散策は、更に続いた。
墓地の間を細く伸びる砂利の敷かれた小道を微かな足音をさせながら歩き、やがて私達は生い茂る羊歯に囲まれた池にたどりついた
池の岸に佇んだ母の傍に私は駆けよって、その手をぎゅっとつかんだ。
まさか飛びこんでしまうのではないかとちょっと心配になったのだ。私は母を恐る恐る見上げた。
母の顔には少女めいた無邪気な笑みがうかんでいた。素晴らしく興味を引かれる何か素敵なものを見つけた童女の顔だ。
その白い手が持ちあがりほっそりと長い指が水面を指すのを私は目で追った。
『綺麗ね』
彼女は夢見るように呟いた。
池の丁度真ん中辺りに上空にうかぶ満月の影が映っている。銀色に輝く鏡でも池の中に沈んでいるかのようだ。
『ねえ、お願い』
彼女は言った。
『あれを取ってきてちょうだい』
私は目をしばたたいた。
『無理だよ』
私は母親を見上げながら困ったように囁いた。
『あれは月の影だもの。取ることなんて、できないよ』
しかし、私の弱々しい反論など彼女の耳には届いていないようだった。
『お願い。どうしても、欲しいの』
私は再び口を開きかけたが、月を見つめたまま僅かに見開かれた母の青い目に強烈な畏怖を覚えて黙りこんでしまった。
母の命令に私はいつも逆らえなかった。
私は池の縁に膝をつき、中心に輝く月の手を伸ばした。
届かない。
訴えるような眼差しを傍らで佇む母に向けるが、彼女はうっとり月に見入るばかり。息子の存在など忘れ果てたかのようなその様子に、私はあきらめの溜め息をついて、池のほとりをぐるりと移動し、月に一番近く思える場所からもう一度身を乗り出してみた。どうしたところで月が捕まえられるわけではなかったが、母に見せるためだけのポーズだけでもしないと彼女はあきらめないだろう。
もう少し。届きそうで、届かない。
岸に生えた草をつかみしめて体を支えながら、私は更に池の中央へと手を伸ばした。
『あっ』
次の瞬間、私の口から小さな悲鳴があがった。
私がつかんでいた草が根ごと地面からぬけてしまったのだ。私の体は水飛沫をあげて冷たい池の中に落ちた。
『た、助けて!』
さほど大きくはない池だったが、思ったよりも深さがあった。
水の冷たさに私は震えあがり、必死になって助けを求めもがいた。
だが、母は私の叫びにも無関心のまま、茫洋たる眼差しを彼方に向けている。
私の小さな手は何度か岸に生えた草をつかみかけては滑って離れ、そうこうしているうちに這いあがるだけの力もつきた。
私の体は水の中に引きこまれるように沈んだ。
『お母さん…』
水中に沈む瞬間に私が目にしたものは、岸にゆったりと佇む母の少女めいた白い姿。目の前で息子が溺れているというのに己の夢想にふけるのみで気にもとめない、狂った女だった。
私は最後の力を振り絞って母に向かって手を伸ばしたが、それをつかみ引っ張りあげてくれる手はなかった。
どんなに傍にあるようでも決して捕まえられない、その点では、水面に映る月と酷似している母だった。
両腕を上に向かって広げるようにしてゆっくりと水底に向かって落ちていきながら、私はきらきらしたあぶくが舞い上がっていく様を、その上方で水面に踊る月の光を見つめていた。
私の意識は次第に朦朧としてきた。恐怖はもはや感じなかった。
それどころか、眠気にも似た安心感と幸福感が私を包みこんでいた。
ひどく体がだるく鉛のように重く、私は指先一つ動かすことができなかった。
そうして、またしても母のあの声が聞こえてきた。
『美しく優雅なる婦人は行かん。何となれば、かのみめかたち美しき聖職者ども、眉目秀麗なる騎士どもこそ、地獄に落ちる者なればなり…』
だしぬけに、私は体が自由になったのを感じた。
すべての縛めがほどかれ、解き放たれて空気のように軽くなった私の体はぐんぐん上昇していき水から飛び出した。
そうして、気がつけば私は池の上方にうかんでいて、岸辺に一人取り残された母親を見下ろしているのだった。
とても奇妙な光景だった。
何もかもがまばゆいほどの光に包まれている。真夜中の墓場がこんなに明るいはずがない。
しかし、私の下にある池の水面は青白い光を乱反射する大きな鏡と化し、その池を取り囲むようにして茂る銀の羊歯は光を弾きながら風にそよいでいる。そのただ中に佇む母は、いまや身の内から発する鮮やかな輝きに包まれた光の柱だった。
月の光のごとく冷たく純粋な白い炎。さながら母の命そのものが燃えているかのようだ。
その不思議な光景をうっとりと眺めながら私が空中をふわふわと漂い見守るうち、母は幸福な酩酊状態に陥ったかのように天を仰ぎ、両腕を広げ、ゆるやかなリズムで円舞を踊り始めたのだ。半ば開いた唇からはやはり細い唄が流れている。
『美しく優雅なる婦人もまた地獄に行かん』
青みを帯びた光を全身から発しながら、彼女が回る速度はどんどん速くなっていく。白い巨大な花さながら長い髪がスカートがたなびき、見守る私は催眠術にでもかけられたかのような妖しい目眩を覚えつつひたすら彼女を眺めていた。
こちらを見上げる母の美しい顔。私を見ているようで何も見ていない僅かに見開かれた青い瞳。
それらすべてが、輝きを増していく光の中に呑み込まれ、溶かされていく。
光。光。この凄い輝きの源は、何?
私は頭上を振り仰いだ。思わず悲鳴をあげていた。
私がそこに見たものは、天から落ちかかる巨大な光の渦と化した化け物じみた月。この世のものならぬ月。
月の怪物が放射する強烈な光が私の目を貫き、体を焼いた。
熱のない炎に包まれ自らも燃えながら、私はこれまでに覚えたことのない不思議な力が魂の底から沸きあがり、おそらくその時死に掛けていただろう私自身を奮い立たせ全身を満たしていくのを覚えた。
私はいきなり自分の心臓の鼓動を意識した。これまで注意を払ったことなどない、その事実に初めて気がついた。
そう、私は生きていたのだ―。