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この世の果て  作者: 葉月香
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第1章彼方から(3)

 そこは、メインストリートから離れた細い通りにあるさびれたビルの地下のこじんまりとしたイタリアン・レストランだった。

 こんな場所に店があるとは外からではすぐには分からない。ごく限られた者だけが知る穴場のような場所なのだろう。

 あまり多くないテーブル、やや暗めの落ちついた照明、確かにここでなら人嫌いの『M』でも寛げそうだ。

「好きなものを注文してください」

 マリエルの言葉に甘えて、もうかなりお腹がすいていたケイトは、メニューと真剣ににらめっこした末おいしそうな料理を幾つも選んだ。

 料理を注文した後、マリエルはむっつりとした年配の店の主人と相談しておすすめの南アフリカ産のワインをボトルで頼んだ。

「あの…寒くなかったですか? 雪の中をあんなふうに立ちつづけて…?」

 ウエイターがグラスにワインをついでテーブルから下がるや、ケイトは待ちかねたようにマリエルに話しかけた。緊張はしていたが、それよりもようやく目当ての相手とこうしてじかに会って話せることが嬉しく、相当に舞い上がっていた。 

「私はあまり寒さは身にこたえないんです」

 マリエルは濃厚な果実味ある赤ワインを一口飲んで、満足したように軽く頷いた。

「あたしは寒いのは全然駄目。あなたとの約束がなかったら、今日みたいな日は絶対外に出たくないです」

「寒がりなのに、こんな天気の日に手袋を忘れたんですか? うっかりしていますね」

 結構目ざとい人らしい。ケイトは外の冷たさを思い出したように両手を軽くこすり合わせた。

「ワインを飲めば血の巡りがよくなって、だんだん暖かくなってきますよ」

「ええ…」

 勧められるがままグラスを持ち上げて、普段はあまり飲まないワインをケイトは一口飲んだ。

 もっと飲みにくいかと思ったけれど、このワインはそれほど嫌な渋味がなくて結構おいしい。

 また一口、二口と飲むと、ケイトは胸を押さえて小さな溜め息をついた。

「…だからと言って、あまり飲み過ぎないように」

 軽くたしなめるマリエルに、ケイトはちょっと恥ずかしそうに笑い返した。

「ねえ、どうして百合の花だったんです?」

 空いた椅子の上に置かれた百合の花にふと目をとめて、ケイトは尋ねた。

「死者の花だから」

 テーブルの上にそっと肘をつき両手の指をピラミッドのように組み合わせて、マリエルは淡々とした口調で答えた。

「え?」

 ケイトは問いかえすように小首を傾げてマリエルを見たが、彼は相変わらず何を考えているか分からない無表情のまま、ケイトの方を見るともなく見ている。

 透き通ったガラスめいた青い瞳は微妙に焦点があっておらず、人を何となく不安にさせるものだった。

 ケイトはひしひしと身に迫ってくる緊張感を払いのけようとするかのごとく、わざと明るい口調で言った。  

「あっ、そういえば、あなたの会社、グリーンヒル・モーチュアリのマークも百合の花がモチーフでしたね。事務所に行った時、パンフレットをもらったんです。あの人、ルイさん、ちょっと口うるさそうだけれどいい人ですね。葬儀屋さんにしては、愛想いいし…副社長って言ってたけれど、それじゃあ社長は別の人なんですよね」

「私のことですよ、それ」

「えっ、あなたが社長?」

 意外そうにケイトが聞き返すと、マリエルは素っ気無く説明した。

「あの会社はもともと私の母方の祖父が設立したんです。ルイの父がその下で働いていました」

「ああ、それじゃあ、あなたはお祖父さんの後をついだっていうわけなんですか?」

「経営者と言っても名のみですよ。実務的なことは全てルイがやってくれています。実際私には経営なんて無理な話で…彼が社長になってくれてもかまわないくらいなんですが、若いくせに昔かたぎというか義理堅いというか、お飾りでも私を社長にすえてくれているんですよ」

 人事のように冷めた口調で言って、マリエルは手もとのワイングラスに手を伸ばしその縁を指先で軽くなぞった。

 その手の美しさにケイトは密かに感嘆した。

 しなやかで長い指。絹のように滑らかな肌には強い薬品を扱うこの業種につきものの染みの一つもない。

 葬儀屋にもエンバーマーにも、マリエルは全く見えなかった。それどころか、普通に労働している姿そのものが想像しにくいくらい生活臭がしない。

 ケイトがマリエルの仕草に息をつめて見入っているうちに、料理が運ばれて来た。最初は前菜の盛り合わせだ。

「あの…叔父とは、一体どういう知り合いだったんですか?」

 おなかがすいていた所にやっとちゃんとした食事を入れてほっとしたのか、ワインの力も借りたのか、少し大胆になったケイトはおもむろにそう切り出した。

「あなたが父にしてくれた仕事は本当にすごいものでしたけれど、そのためにあなたに迷惑をかけたのかもしれないと、あたし、心配していたんです。叔父は何も言わなかったけれど、色々噂をする人達はいて、あたしの耳にも入って来たから…」

 マリエルの答えは意外なものだった。

「実はこの仕事を始める以前、私はN州立大学病院にいたんです。形成外科医としてドクター・ジョーンズのもとで2年間勤めました」

「あなた、医者だったんですか?」

 ますます想像ができなくて、ケイトは目をぐるっと回した。 

「別になりたかったわけではなかったんですが。医者だった父の意向で、ほとんど無理矢理医学部に入れられたんです。けれど、仕事を選ぶ時には適性というものを考えるべきですね。資格を得るだけの頭はあっても、私には生理的に生身の人間相手の仕事は向かないようで…麻酔のかかった相手なら何とかなるかとも思ったんですが、医療というとやはり患者とのコミュニケーションとチームワークですから。職場での人間関係に心底疲れて、僅か2年でドロップアウトしてしまいました。その間ドクター・ジョーンズには大変お世話になったんです。孤立しがちな私を気遣って、色々助けていただきました。私の形成外科医としての将来性を大変期待してくださって…結局その思いにこたえられなかったことは、今でも残念に思っています」

「あの…叔父の葬儀の時、カードを送ってくれましたよね。詩篇の一節が書かれていた…」

「葬儀に出席することは控えさせてもらいました。ドクター・ジョーンズは社会的地位のある方でしたから、私のような人間が見送るのはふさわしくないと思ったんです」

「そんな…」と言いかけて、ケイトは口をつぐんだ。頭の片隅にずっとわだかまっていた疑惑を思い出していた。

 マリエルの仕事について最後まで沈黙を守り通した叔父は、違法行為だったという父のエンバーミングに関してマリエルに何か便宜でもはかったのかもしれない。自分の職権を利用して彼に手を貸したのかもしれない。

 急に深刻な顔になって考えこむケイトを静かに観察して、マリエルはふいに語りかけた。

「あなたのお父さんのエンバーミングを私が引きうけたのは、ドクター・ジョーンズへの恩返しのようなものでした。彼は妹、つまりあなたのお母さんを大変気遣っていたんですね。末期のガンだったとうかがいました」

 ケイトは微かに息を吸いこんだ。

「そうです」

 少し沈んだ声でケイトは言った。手もとのワイングラスを見下ろし、そこにぼんやりと映る自分の影を眺めた。

「そこまでご存知だったんですね。あの時、あたしと叔父が一番心配したのは母のことで…父という支えを亡くしただけでも痛手だったのに…あんな形で死なれて…。あんな父の姿を見てしまったら、己の死に毎日を怯えて過ごす母はもう心がもたないかもしれない。かといって見せないままに埋葬すれば、どんなにか惨い姿だったのだろうという想像が死ぬまで母を苦しめることになる。どうしても安らかな父の死に顔を作る必要があったんです」

「あなたのお母さんは、満足されましたか?」

 ケイトは瞼の裏が微かに熱くなるのを覚えた。

「はい」

 父が死んで3カ月経たないうちに後を追うように亡くなった母親を思い、ケイトの胸には熱いものがこみ上げて来た。

 どう取り繕ってみた所で父が突然に死んでしまったという事実を消し去ることはできなかったが、できる限りのことはしたのだという思いがケイトにとっても救いになった。

「そう、それはよかった」

 短くそうとだけ言って、マリエルは瞑目した。密かな祈りを捧げるかのごとく見えた。

 マリエルが目を閉じているうちに、ケイトは紙のナプキンで目元をぬぐった。天上のライトをじっと見上げ、何度も息をついた。ようやく気分が落ちついた彼女は思い出したようにグラスのワインを持ち上げ、一口すすった。

「ケイト」

 初めてマリエルが自分の名前を呼んでくれたことにはっとなって、ケイトは顔を上げた。 

「私があの仕事を手がけたのはかつての恩師のたっての頼みであったからでしたが、もう1つには何の制約もない所で自分の技術でどれだけのことができるか試してみたいとの気持ちもあったんですよ。何もあなたがたの依頼が私を窮地に追い込んだとか、そんなふうに考える必要はないんです。確かにあの仕事が原因で私はエンバーマーとしての免許は剥奪されましたが、だからといって引き受けたことを後悔もしていなければ、自分の判断が過ちだったとも思ってはいないんです。その点だけは、誤解のないように言っておきますよ」

 薄い唇を花のようにほころばせて、マリエルは笑った。出会ってから初めて彼が見せる人間らしい表情に、ケイトは息を飲んだ。

 冷たくとっつきにくい印象だった顔が僅かな表情の変化でまるで違ったものになる。透きとおるような綺麗な微笑みだった。

「全く物好きな人ですよ。父親の葬儀に関わったエンバーマーを苦労して探し出し、わざわざ会って話をしたがるなんて。ルイから聞きましたが、あなた自身もエンバーマーになるつもりで勉強をしているそうですね。私の影響という訳ですか? だとすれば、多少責任を感じないでもないですよ」

「あの…」

 ウエイターが第二の皿を運んで来た。目の前に置かれたおいしそうな湯気をたてている料理にケイトはちょっと気を引かれて、マリエルに対して言いかけた言葉をつい忘れた。

 その様子にマリエルは目を細めた。

「温かいうちに食べなさい」

 子供に言うような優しい口調で彼はケイトを促した。

 素直に頷いて、ケイトはほんのり甘みのあるジャガイモのニョッキに取りかかった。

 おいしい。本当にいい店に連れて来てもらった。

 ケイトがチラリと目を上げると、マリエルは手長エビのパスタを食べている。食べにくそうな甲殻類相手にひるむことなく、華奢なフォークといかにも器用そうな細い指先で易々と殻から身をはがし口に運ぶ、その綺麗な仕草にケイトは感心した。

「あの、ここの店すごくおいしいです。よく来るんですか?」

「それ程度々という訳ではないですよ。いつだったかクライアントに連れて来てもらったのですが、一人でも気軽に入れる雰囲気とあまり席数が多くなくて静かに食事ができる所が気にいっています」

「本当に人が苦手なんですね」

 ケイトは人懐っこく笑いかけながら言った。程よくワインもまわって、ぽかぽかと暖かく気持ちがいい。 

「あの…1つ、聞いてもいいですか?」

 マリエルの雰囲気が少し打ち解けたものになったことに気をよくして、ケイトも次第に積極的になってきたようだ。

「あなたが手がけてくれた父の遺体を見た時からずっと不思議だったんです…一体どんな魔法を使ったらこんなことができるんだろうって。今は学校に通って少しは専門的な知識もあるから理解できてもいいはずなのに、むしろますます分からなくなって…。マリエル、あなたは一体どんな手段を使ったんですか?」

 ケイトの素直な問いかけに、マリエルの顔から再びあらゆる表情が消えた。

「そういう所が物好きだというんですよ。魔法の裏にどんな種明かしがあるのか知らない方がいいし、ましてや遺族ならば普通は聞かないものです」

「でも、あたしはそれを専門にしようと思ってるから、どうしても興味が沸き上がってくるのを抑えられない。あなたが父に何をしたのかあたしは知りたいんです、マリエル」

 ケイトはマリエルを正面から見据え、熱っぽく囁いた。

「実に好奇心旺盛ですね、ケイト」

 マリエルの整った顔に一瞬冷たいものがよぎった。

「では、話しましょう。確かにあなたには知る権利がある。あなたのお父さんに私がしたことは…」

 マリエルは一瞬言葉を切った。目線を落として何事か考えこんだ後、じっと待ちうけているケイトの若いひたむきな顔に冷めた眼差しを向け、極めて冷静な口調で語った。

「あれは違法行為だったんです。それがもとで私のエンバーマーの資格が剥奪されたのも当然でした。ケイト、実際、あなたのお父さんの遺体の損傷は通常の方法ではとても修復しきれないものでした。一目でも見たあなたなら分かるでしょう? それでも、私は何とかしようとしました。生前の姿そのままの『父』が戻ってきたという錯覚を遺族の目に与えようとしたんです。そう、錯覚です。そのためにならなりふり構わない私が取った手段は、あなたのお父さんによく似た背格好の東洋系の男性を身元不明で引き取り手のない遺体の中から探しだし、それを部分的に使うことでした。つまり私は、1つの遺体を修復するために別の遺体を使ったんです」

 ケイトの手からフォークが滑り落ち、皿にあたって、ガチャンと音をたてた。

「あ…ごめんなさい…」

 ケイトは慌ててフォークを取り上げ、半ば呆然とした態でそれに見入った。

 そんなケイトからそっと視線をはずし、マリエルはワインを一口飲み、じっとグラスを見下ろした。仕方がないとでも思っているかのようだ。

 こんな忌まわしい秘密を打ち明けられて、ケイトの受けた衝撃はいかばかりだったろう。だが、知りたいと望んだのはケイト自身なのだし、知る権利を行使したことで彼女が傷ついたとしても、マリエルにはそこまで責任は持てない。

 どこか突き放したような風情で、次に取り乱したケイトが己に向けてくるだろう非難や嫌悪の言葉を、マリエルはじっと待ち受けていた。他人のそんな反応にはおよそ慣れっこであるかのように。

「そうなんだ…」

 ケイトがぽつりともらしたその声に、マリエルは微かに眉根を寄せた。

「よく考えたら、分かることだったのかもしれない。…何だか、これですべて納得できました。叔父があなたの仕事について決して何も語ろうとしなかったことも、あなたが危うく警察に捕まりそうになったことも…ありがとう、話してくれて。おかげで胸のつかえが下りました」

 マリエルは疑わしげな眼差しでケイトをしげしげと見つめた。

「あんな話を聞かされて、嫌じゃなかったんですか?」

「どうして?」

 ケイトは不思議そうに首を傾げた。そのまっすぐな瞳に嘘はなかった。

「あたしは、ずっと本当のことが知りたかったんだもの。それに、もしかしたら遺体をすり替えたんじゃないかしらとはあたしも疑ってた…まさかパーツとして使ったとまでは想像していなかったけれど。だから、あなたが正直に話してくれて本当に感謝しているの。もしも父さんが死んだばかりの時に知ったら、それなりにショックだったろうと思うけれど、あれからもう3年も経ってるんだし、それに、あたし自身今は…」

 ケイトは一瞬心をどこかにさまよい出させ、黙りこんだ。

 マリエルはふと何か問いかけたい衝動にかられたように僅かに身を前に乗り出した。

 しかし丁度その時、また先ほどと同じウエイターがメインディッシュを手に戻ってきた。ケイトは煮込んだ子羊を、マリエルはローストしたキジを頼んでいた。

 2人は黙ってそれぞれの料理を口に運んだ。急に静かになってしまった。どちもが、それぞれの物思いに沈んでいた。

 メインも終り、まだぼんやりと黙りこんでいる2人にウエイターがデザートの注文を取りに来る。

 ちょっと元気を取り戻してケイトがチョコレートのケーキをオーダーするのを、マリエルは隣のテーブルに顔を向ける素振りをしながら密かに観察していた。

「ねえ…」

 デザートも終るころ、砂糖をたっぷり入れたカプチーノを飲みながら、ケイトは思いつくがまま唐突に言った。

「マリエル、あなたがエンバーマーになろうと思ったのは、どういうきっかけからだったの? ただ単にお母さんの実家が葬儀社だったから、それが身近な世界だったから?」

 いつの間にか、ケイトはマリエルに対しずいぶん打ち解けた口調になっていた。ずっと気にかかっていた父のエンバーミングについての秘密をマリエルから聞き出せてほっとしたせいかもしれない。

「どうして、そんなことを聞きたがるんです?」

 マリエルはエスプレッソのカップを口に運びかけた所でとめ、探るように聞いた。

「だって、ただ知りたいと思うからよ。何だかあなたはあたしの知らない別の世界のことをたくさん知ってるみたいなんだもの」

 マリエルはくすりと笑った。

「そんなふうに得体の知れない他人の詮索をするものではありませんよ、好奇心の強いお嬢さん。私は『青髭』かもしれないのに」

 恐れ気のない黒い澄んだ瞳と、この世ならぬ夢を見ている不思議な透明な光をたたえた青い瞳が、ふと重なり合った。

「昔…」

 言葉は、自然にマリエルの唇から滑り出たように思われた。

「子供のころ、私は猫を飼っていたんです。銀色の毛皮のロシアンブルーでした。私は体が弱く、家庭の事情もあって、学校にもほとんど行くことはなかったので、その猫はほとんど唯一の友達のようなものでした。その猫が死んだ時、私は離れがたくてどうしても傍に置いておきたがったのですが、父親は許してくれませんでした。私から取り上げて庭の片隅に埋めたんです。私はまだ気持ちとして彼にお別れを言えてなかったのに。だからその夜、皆が寝静まったころを見計らって私は庭に出ました。とても綺麗な月夜だったことを覚えています。綺麗に刈られたばかりの芝生の上に映る自分の影を見ながら、月の光がこんなに明るいものだとは知らなかったと驚きました。幻想なのかもしれませんが…この情景はよく夢にも見たので、今ではどこまでが夢でどこまでが現実にあったことなのか自分でも分からないんです」

「それで、あなたはどうしたの?」

「猫の埋められた所に行って、彼を掘り返しました。まだ埋められて間もなかったので、子供の手でもそう難しいことではありませんでした。可哀想に、私の猫は土の中にそのまま埋められていました。彼のための小さな棺におさめるか、せめて綺麗な布がくるんでくれればよかったのにと、父を恨みましたよ。そうして土で汚れてしまった毛皮を綺麗な銀色を取り戻すまで慎重にふいてやり、腕の中に抱きしめ頬ずりをしながら、ゆっくりと円を描くように踊りました。月の下で」

「月の下で…」

 ケイトがひっそりと繰り返した。

「猫はひんやりと冷たく、とても静かでした。そして、生きている時とはまた違った匂いがしました。たぶん他の人にとってはそのいずれもぞっとするものでしかないのでしょうが、私は嫌ではなかった。むしろ、とても慕わしく感じられたんです」

 マリエルの白い顔にうかぶ不思議な透明な表情に、ケイトは魅せられていた。その穏やかな声で語られる話にも引きこまれていた。神経を集中して聞き入っているうちに、ここが街のレストランの中だということも忘れ、空から降り注ぐ青い月の光に包まれているような気がしてきた。 

「月の下で踊ったことがありますか?」

 前触れもなくいきなり問いかけられて、ケイトはどきりとした。

 だが、マリエルは別にケイトに向かって答えを求めている訳ではなかった。静かに目を閉じて、他人には窺い知れない遠い想念に浸っている。

 ケイトはマリエルの夢想を妨げぬよう、沈黙を守った。

「私の中には、月にまつわる数多くの思い出があります。本当に小さかったころから私には太陽が輝く昼に遊んだ覚えはほとんどなく、記憶にあるのは夜ばかり。皆が寝静まってから母に連れられて外に出かけるのが何よりの楽しみでした。私の母は無邪気な夢見がちな人で…私がもの心ついたころには、誰にも理解できない自分の作り出した幻想の中で生きていました。彼女は、自分のことを夜に属する生き物で昼の光は体に毒なのだと思いこんでいたんです。それで、昼間は分厚いカーテンで締め切った部屋で眠り、日が沈んでからようやく起き出す生活を送っていました。私もその母に付き合っていたせいだからでしょうか、今でもどちらかというと夜の方が好きですよ。母の実家は郊外の共同墓地からほど近い場所にあって、2人でよくそこまで遊びに出かけたんです。墓場を遊び場にすることを私は恐いとは思いませんでした。あの場所の静謐さ、月明かりに白く浮かびあがる墓標の群れ…傍らには夜になると生き生きとよみがえる母、それに時々気まぐれな猫も加わって、私にとっては楽しいピクニックのようなものでした。機嫌のいい時、母はよく歌を口ずさみながら草地の上を裸足になって踊ったんです。時には私の手を取って、一緒に踊ることもありました。母がそこまで私に優しいことはめったにありませんでしたが、だからこそとても嬉しかった…子供というのは、どうしても親の関心を引きたがるものですからね。私は母の幻想を共有することで彼女の気を引こうとしていたんです」

 マリエルは椅子の背にそっと背中をもたせかけ、天井の方をふと見上げた。あまり明るすぎない暖色系のライトを茫洋と眺めながら、古い記憶を紐解いているようだった。

「母が亡くなった時は…」

 じっと耳をそばだてていないと全ては聞き取れない低い声でマリエルは言った。

「私は、祖父の家で彼女と2人きりでいました。母は長く心を病んでいて、病気と治療の両方に苦しんだ末の自殺でした。首の頚動脈をナイフで綺麗に切り裂いて…私がキッチンで血まみれになって横たわっている母を見つけた時には、もうこときれていました。その夜は家の者もいつも彼女の世話をしてくれていたヘルパーもおらず、私は1人きりで母の遺体と向きあわなければなりませんでした。母はとても綺麗な人でしたが、病気の悪化と強い薬の副作用のせいで最後の数年は見る影もなくなっていました。その時私がしたことは、警察や救急に助けを求めることでも、もうずっとニューヨークにいて別居状態だった父親や、通夜の仕事で家をあけていた祖父に連絡することでもなく、母の遺体をバスルームに引きずっていって、血で汚れた体を綺麗に洗ってあげることでした。血を洗い流して彼女が好きだった白いドレスを着せてやり、髪を綺麗にとかしつけ、そうして薄く化粧を施したんです。母は綺麗でした。生きている間に覚えたあらゆる苦痛から解放された母はとても安らかで、生前よりも美しいくらいでしたよ。その母をベッドに寝かしつけて、私はその傍らで朝が来るまでじっとうずくまり家族が帰って来るのを待ちました。一番に私を見つけた祖父はパニックに陥って、恐かったろう辛かったろうと泣きましたが、私は実際少しも恐ろしくも辛くも哀しくもありませんでしたよ。病気が悪化してもう私が誰かも分からなくなっていた母よりも、死んだ母のほうがまだずっと近しく感じられたし、それに母が今は幸せなのだと分かっていましたから。…私が12才の時です」

 夢見るような捕らえ所のない微笑を白面にうっすらとうかべて、マリエルは再び瞼を閉じた。

「死がとても身近なものに感じられるんです」

 マリエルは囁いた。

「私はまだちゃんと生きているはずなのに…奇妙なことですが、生者よりも死者達と一緒にいる方が私の心は安らぐ。彼らの静寂、その冷たさに触れる時、逆に私は自分が生きていること、己の存在を実感できるんです。それに比べればここにこうしている私は影のようなもの…現実だとは思えない。普通に生活をし、人と会話をし、ものを食べるという当たり前の行為に、何というか分厚いガラスを通して接しているような遠い感じをいつも覚えるんです。たぶん私の心は2つの世界の狭間に属しているんでしょうね。この世の果て、どちらにも行けない場所をふらふらとさまよっている、そんな気分なんですよ」

「向こうの世界はどんな所か、分かる?」

 ケイトの問いかけにマリエルはすうっと目を開いた。今初めて気がついたかのように少女を凝然と眺め、ちょっと苦笑めいた顔をして言った。

「いいえ。言ったでしょう、私はどちらにも行かれないんです」

「でも、感じている?」

「幻想ですよ、たぶん…」

 それから何とも奇妙な当惑したような顔をして、マリエルはケイトをつくづくと見つめた。

 うつろで捕らえ所のなかった青い瞳が今はまっすぐに己を見ていることに、ケイトの心臓は慄いたように激しく鼓動した。

「どうして」

 抑えた声音でマリエルは問うた。ナプキンの端を神経質な指先できつくつかんだ。

「どうして、そんなことを尋ねるんです? こんな話をあなたは本当に聞きたかったんですか?」

 ケイトはハッと小さく息を飲んだ。

「ええ」

 何の衒いもなくケイトは言った。濡れたように黒い瞳は微かに見開かれたまま、ひたむきにマリエルの目を追っている。

「あなたは」と、ケイトは言った。

「その話、他の人にもしたの?」

 マリエルの超然とした美貌に不安がよぎった。戸惑いつつ上げた手で己の頭を押さえ、しばし考えをめぐらせた後ぽつりともらした。

「いいえ」

 マリエルは呆然としているように見えた。

「いいえ…こんな話、今まで誰にもしたことはありませんでした。そう、あなたが初めてです」

 視線を落としテーブルの上の空になったエスプレッソのカップをマリエルはしばし睨んだ。

「そろそろ出ましょうか」

 平静な声でマリエルは言った。だがそれは本物の無感動から出る声というのではなく、意識して感情を消そうとしている、そんな声だった。

「ええ。…今日はありがとう、マリエル。あなたの話をたくさん聞けて、あたし、嬉しかった」

 マリエルは答えなかった。

 ウエイターを呼んでカードで支払を済ませると、マリエルは無言で席を立ちあがった。慌てて後からついてくるケイトを彼は振り向きもしなかった。 

 レストランを出て地上に出る階段を途中まで上がりかけた所で、ケイトは一瞬足を止めた。先に階段を上がっていったマリエルが何かに気を取られたように外の歩道でじっと立ち尽くしている。

「どうかしたの?」

 黒いコートの背中に声をかけ、ケイトは階段を上りきってその横に立った。

「雪…やんだんだ」

 マリエルと並んで雪に塗り込められた夜の街の片隅にたたずみながら、ケイトは小さく感嘆の息をもらした。

 つい2時間ほど前までの吹雪が嘘のように空は晴れ渡り、濃い藍色の天蓋には冴え冴えとした満月がかかっている。こんなにクリアーな月を都会で見られることはめったにない。朝から振り続いた雪が空気を綺麗に浄化してくれたのだろう。

 そして地上には、真っ白な雪で覆われた街。

 人も車もあまり来ないさびれた裏通りであることもあって、その純白の化粧はまだほとんど汚されてはいない。その風景は見知らぬ不思議な別世界のようだった。静かに降り注ぐ月の光を浴びてほんのりと青みを帯び、どこまでも静謐で、冷たい。

「綺麗ね」

 夜空に映える月を見上げながら、夢見るようにケイトは呟く。

「確かに」

 ケイトは横目でチラリと傍らを見やった。

「あなたがいつも心に抱いている月は、こんな感じ?」

 マリエルは押し黙った。

「ねえ、マリエル」

 ケイトはうつむいて一瞬躊躇するように唇を噛み締めた。ふいに思いきったようにマリエルの前に回りこみ、その顔を正面から見た。

「あたし…あたし、あなたに頼みたいことがあるの」

 マリエルは虚をつかれたように目しばたたいた。

 思いつめたような緊迫感の漂うケイトの顔を、マリエルは当惑の面持ちで見つめ返した。

 月灯りのせいか、若々しい生気にあふれていたケイトの顔は死者のように青ざめている。

「あたし…」

 大きく見開かれたケイトの黒い目、寒さのせいか微かに震える口元…。

 マリエルはとっさに手を上げ彼女の頬に軽く触れた。なだめるように彼女の頭を優しく撫でた。

 ケイトは大きく息を吸いこみ、体を一瞬震わせた。

「あたし―」

 マリエルは無言のままケイトの言葉を静かに待ち受けている。

 一瞬何もかも打ち明けたい衝動に駆られたが、ケイトはマリエルから身を引き離し背中を向けた。

「ケイト?」

 ケイトは肩を落としてうなだれ、ゆるゆるとかぶりを振った。

「私に何を頼みたいんです? いいんですよ、言っても?」

 マリエルは優しい口調で辛抱強く促した。人間嫌いのマリエルだが、今は真実ケイトを気遣っているようだ。

 それはケイトにとっても嬉しいのだが、彼女にもまだマリエルに全てを話す心の準備はできていなかった。

 今は別の願いがケイトの胸の奥から急に湧き上がっていた。唐突で、ほとんど衝動的な強い希望だった。それに突き動かされるように、ケイトはくるりと後ろを振りかえった。

 気持ちを切り替えて、明るくはっきりとした声でケイトは言った。

「あのね…マリエル、あたしをあなたの助手として雇ってくれないかな? あたし、あなたの仕事を傍で見たい」

 途端にマリエルの目が冷たく情のないものになった。せっかく心配したのに損をしたとでも言いたげだ。

「私は助手は使わないんです。作業中余計なことを話す他人が傍にいると神経が集中できなくて困るし、自分の仕事を誰かに見られるのも嫌です。アルバイトを探すつもりなら、ルイに言いなさい。人事は私のあずかり知らぬことです」

 つけつけとした口調で言い放って、マリエルは歩道を歩き出した。

「お願い、待って!」

 必死の声でそう叫んで、ケイトはマリエルの腕をつかんだ。

「お願い…駄目だなんて言わないで…あたし、あなたの邪魔にならないように気をつけるから、しゃべるなって言うなら一日中でも我慢して黙っているから…」

 もともと人懐っこくて話好きなケイトにとって黙っているなどと拷問だが、マリエルに拒否されまいと彼女は必死だった。

 彼女の思いも寄らぬ熱心さに気おされたのか、マリエルは言葉をなくしてケイトの一途な顔をただ見入るのみだった。

 捨てられまいと必死ですがり付いてくる小さな子供を相手にしているかのような戸惑いがマリエルの青い瞳に揺れている。もしかしたら、いつも心ここにあらずの母親を必死になって追っていた幼い日の彼自身をそこに見出していたのかもしれない。

「…そんな目で見るのはやめなさい」

 たまりかねたようにマリエルは呟き、ケイトから顔を背けた。

 ケイトはびくっと震えて、彼の腕から手を離した。

「ご、ごめんなさい」

 ケイトは恥じ入って俯いた。

「やっぱり…無理?」

 うなだれたままケイトは哀しそうに言った。

 無礼で非常識だというとは、ケイトにも分かっている。いきなり事務所まで押しかけて会う約束を取り付けただけでも十分なのに、その上こんな厚かましい頼みごとをするなどと―。

「…アルバイト料は、あまりあげられませんよ?」

 溜め息混じりのマリエルのその言葉にケイトは耳を疑った。はっと顔を上げた。

 マリエルはそっぽを向いたまま、淡々とした事務的な口調で付け足した。

「そう言えばルイが葬儀の際人手が足りなくて困るとこぼしていましたし、私の助手兼臨時の社員としてしばらく雇いましょう。ただし使いものにならないようなら、すぐに解雇しますからね」

「あたしを雇ってくれるの…?」

 ケイトは頬を紅潮させて、興奮のあまり口ごもりながら礼を言った。

「あ、ありがとう…あたし、あんなに無茶で厚かましい頼みをしたのに…あなたに迷惑かけたのに…」

「余計なことはもう言わなくて結構。ルイには私から伝えておきますから、明日の午後履歴書を持って事務所にいらっしゃい」

「はいっ」

 さっと姿勢を正し真面目な顔で答えるケイトに、マリエルは苦笑した。

「さあ、もう帰りなさい、ケイト。大通りに出ればタクシー乗り場は近くにありますよ。そこまで送りましょうか?」

 マリエルは彼にしては温かい口調で言った。

「いいえ、1人で大丈夫です。大通りはすぐそこだし、地下鉄の駅もあるから、それで帰ります。その方があたしの家に帰るには便利なんです。あの、あなたは?」

 おずおずと尋ねるケイトに背中を向けてマリエルは白い歩道を歩き始めた。

「私はこの辺りを少し歩いてから帰りますよ。どうぞお構いなく」

 ケイトに示すように手をひらひらさせて黒いコートのポケットに突っ込むと、マリエルは都会の雪景色の散策を楽しむかのようにゆったりと歩いていった。

 遠ざかっていくその後ろ姿をしばし立ち尽くして見送った後、ケイトも逆方向に歩き出した。

 が、ふいに離れがたいような気分にかられて、ケイトは立ち止まって後ろを振りかえった。息を飲んだ。

 マリエルもまた何かに引き寄せられてそうしたかのごとくケイトを振りかえっていたのだ。

 数瞬の間、2人はそこに立ち尽くしたまま視線を絡ませ合った。

 上空には青白く輝く月。月の光に濡れた2人がそこに立っている。

 先に動いたのはマリエルで、黒いコートの裾を翻して彼は再び歩きだした。その様子をしばらく眺めた後ケイトもそこを立ち去った。

 何だか、頭がぼうっとしていた。

 手袋もしていない両手を持ち上げて、そっと頬に触れてみた。子犬にでも対するかのように マリエルに撫でられたことを急に思い出した。

 かっかと火照っている。おかしい。こんなに寒いのに、もうあまり寒さを感じない。

 空を見上げて、ケイトは輝く月に見入った。

「月の下で踊ったこと…」

 両手を広げ、歩道の上を1人ぐるぐると回るように踊ってみた。

 自分でもおかしなくらい、ケイトははしゃいでいた。

 他人が見たら、酔っ払っていると思われそうだ。でも、かまわない。

 明日からマリエルと一緒に仕事ができる。それを思うと嬉しくて嬉しくて…。

 明日。そう、明日また彼に会える。

 次の日が来ることがこんなに楽しみなのは、父が母がそして叔父が立て続けに亡くなったここ数年なかったことのように思われた。

 それに、こんな高揚感は全く初めてだった。その人のことを思い出すだけで胸が頬が体中がかっと熱くなる。何だかふわふわしてちゃんと歩いているという気がしない。

 ケイトは急に我にかえって、立ち止まった。

「あ…?」

 怪訝な顔で一瞬考え込んだ後、ケイトはクスリと笑った。

 馬鹿な考えをたしなめるよう軽く自分の頭を小突いて、ケイトは今度はしゃんとした足取りでまっすぐ大通り目指して歩いて行った。

 まるでこれって恋でもしているみたいと、ケイトは思ったのだ。

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