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この世の果て  作者: 葉月香
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エピローグ eternity

 葬儀会社社長、自宅にて変死体となって発見される―。




 それだけならば、この死亡記事もありふれた死の1つとして、誰もこのように注目することはなかっただろう。

 今、オフィスの応接室で、どことなく居心地悪げな刑事2人の応対をしながら、ルイはぼんやりと考えた。

 マリエルを失った悲しみはもちろん大きいが、それよりも後の対応にすっかり忙殺されて、ルイは疲れきってしまった。いや、その方がむしろ気が紛れていいのかもしれないが―。

(あれから、もう10年も経っていたのか…ケイトがあんなことになって、マリエルがエンバーミングをした。そう、後の葬儀は私が取り仕切って埋葬までちゃんとすませた…そのはずだった)

 刑事の1人がこほんと咳払いをしたのに、ルイは我に返った。

「ああ、申し訳ありません。つい呆然としてしまって…いや、まさか、こんなことになるなんて、わたしも夢にも思っておりませんで―」

 1週間前に発覚したマリエルの変死とそれと共に明らかになった彼の秘密―初めの頃は猟奇殺人では疑われたその事件は、じきに犯罪ではないということは分かった。だが、事実は、ある意味一層不気味なものであった。

 それは、こうしてルイの話を聞きにやってきた刑事達の表情を見ても分かる。

 嫌悪と恐れ。

 マリエルが、生前よく他人から向けられていた感情だ。もっとも彼自身は世間からどう思われるかなどもはや頓着していなかった。

 そう、10年前のあの日から、彼の心はもはや現世ここにはなかったのだから―。

「つまり、マリエル・コクトー氏と近い関係にあった、あなたすら何もご存じなかったということなんですね。その…つまり―」

 既にルイが何度も話したはずのことを確認するように問う途中で、その若い刑事は言葉を詰まらせた。

「ええ、ここ10年、わたしを含め社の者は誰一人、マリエルのプライベートには踏み込んでいませんでした」

 刑事の後を引き取って、ルイは滑らかに応えた。

「マリエルがケイトを大切に思い、その死が彼にとって大きな衝撃だったことは理解していましたが、まさか、あの人がそこまで深くケイトを想っていたとは、わたしにもさすがに想像はできませんでした」

「それは…そうでしょうなぁ」

 今度は中年の刑事が苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

「こんなことを言っては何ですが、いっそ、これが普通の殺人事件でもあれば、私たちも容易に理解でき、対応もしやすいんですが…こんな事件は初めてで…何と言えばいいのかうまい言葉が出てこないくらいですよ。男が1人、入浴中に突然死した。その自宅で彼以外もう1人の死体が発見された。それがね、あなた、10年も前に既に死んでいた男の恋人の遺体だったなんて…そんな話、とても信じられない」

 鋭いナイフで突かれたような痛みを胸に覚え、ルイは瞑目した。

 刑事達には見えないところで、彼はぎゅっと手を握り締めた。

(マリエル)

 ルイにとっては、既に死んだも同然の幼馴染ではあった。

 彼を『正常な』暮らしに立ち戻らせることなど、ルイはとっくに諦めていた。だが、マリエルが身も心もついにルイの手の届かない彼方に旅立ってしまったことを受け入れるのは辛かった。

 ルイの脳裏に、最後にマリエルと会って言葉を交わした時の記憶が蘇る。あれは、まだついひと月ほど前のことだ。

『久しぶりですね、ルイ。どういう風の吹き回しです? この頃は私の家にも寄り付かなくなったあなたなのに、いきなり一緒に食事をしようなんて―』

 今から思えば、あれは一種の虫の知らせのようなものだったのだろうか。あるできごとがあってから、もう1年近くマリエルの家を訪ねていなかったルイが、ふいに言い知れぬ胸騒ぎを覚えて、彼に電話を入れて食事に誘ったのは―。

(1年ぶりに見るマリエルは、とても元気そうだった。わたしのことを少し老けたんじゃないかとからかって…仕事ばかりしていないで他の楽しみを見つけたらどうだとか、恋人の1人くらい作れとか…そう、自分のように…そうすれば、随分と生活が楽しくなると…。しばらく連絡をしていなかったわたしの不義理にもこだわらず、相変わらずの穏やかさで、わたしとたわいのない世間話をして過ごした。マリエルと話していると、何だかわたしはいつも、今がいつのなのか忘れそうになった。10年前から何も変わっていないような錯覚に捕らわれそうになった。わたしはそれなりに老けたけれど、そう言えば、マリエルはほとんど年を取ったように見えなかった…。最後まで心ここにあらずの…浮世離れした美しさで…ケイトのエンバーミングをした、あの時から彼自身の時も凍結されたかのようだと言うのも、何だか当てはまりすぎて怖いような気がするくらいだった)

 マリエル・コクトーは自宅で入浴中に死亡した。初めは酒に酔って溺死したのかと思われた。故人が飲酒を習慣にしていることは知られていたのでそう考えられたのだが、解剖の結果、肺に水は溜まっておらず、死因は溺死ではなく心臓麻痺ということに落ち着いた。

(わたしには、マリエルが、この10年、実際のところ何を見、何を感じて暮らしいたのかは理解できないけれど、それでも、1つだけ確かなのは、彼が最後まで幸福だったということだ)

 その事実をこんな形で正面から突きつけられると、ルイでさえ胸の奥からこみ上げる慄きを抑えることができない。

(そう、マリエルは孤独でも不幸でもなかった。彼の傍には、常に恋人がいたから―)

 マリエルの奇妙な死よりもずっと世間を驚かせたのは、自宅からもう一体、少女の遺体が見つかったことだった。

 彼女はリビングの揺り椅子に眠るように腰掛けていたという。

 発見した救急隊員は、少女は死後数時間しか経っていないように見えたと証言したらしい。

 だが、実際、彼女―ケイトは10年も前に死んでいたのだ。

「ケイトには家族はいませんでした。ですから、葬儀もごく小さな、彼女の大学の友人達や彼女が世話になった病院関係者が参加したくらいのもので、実務的なことを一切合財取り仕切ったのはわたしでした。マリエルはといえば…ほとんど放心状態でしたね。わたしが話しかけても何も答えず、葬儀の間も心ここにあらずで…それが、まさか、あんな大胆なことをしていたなんて―。そう、ケイトの遺体は埋葬までのしばらくの間マリエルの自宅に安置されていましたから、おそらくその隙にマリエルはケイトの遺体を盗み出したのだと思います。この点については、うかつだと責められても仕方がないかもしれません。まさか空の棺を埋葬していたなんてね」

 ルイは古い記憶を追いながら、疲れたように嘆息した。

「しかし、ファレルさん、生前のマリエル・コクトーの評判を聞く限り、稀有な天才だったという声もありますが、むしろ非常に特殊な人物であり、言動の不審さはかなり以前からあったことが窺われます。故人と親しかったあなたなのに、一度も、コクトー氏を…その…つまり専門の医師にかからせようとは思わなかったのですか? 彼の異常さにあなたが全く気づかなかったというのも少々不自然と言いますか」

 若い刑事の無神経な発言に、ルイは一瞬かっとなったが、爆発しそうになる感情をかろうじて封じ込んだ。

「マリエルには、確かに現実を正しく認識できていない部分がありました。ですが、それはケイトの死という一点についてだけだったんです。彼は、あたかもケイトが今でも生きているかのように振る舞っていましたが、他は至って普通で、生活にも仕事にも何の支障もなかったんです。それを無理に医者にかからせるのもマリエルにとっては苦痛でしかなかったでしょう。若くして死んだ恋人が今も生きていると信じることで彼か救われるのならば、例えそれが錯覚に過ぎなくとも、そっとしておいてあげたかったんです。マリエルの不幸な母親がどんな悲惨な最期を遂げたのか、わたしも覚えていますからね。彼には、そんな苦しみは味わわせたくなかった」

 これ以上ポーカー・フェイスを保ち続けるのが難しくなったルイは、部屋の窓の方を何気なく見やるふりをして、己を鋭く観察している刑事達から顔を背けた。

『ねえ、ルイ、何を幸せと思うかは人それぞれでしょう…私の心がどこにあるにせよ―この世の摂理を離れた彼方に飛び去ったきり戻れなくても、私なりの安らぎをそこで見出せるのなら―それもまた1つの幸福な完結には違いない』

 もう10年も前のことなのに、つい昨日聞いたようにはっきりと思い出せる、マリエルの声にルイは耳を傾けた。

(マリエル、マリエル、あなたは本当に幸福だったんですよね? あなたを静かに見守ることに徹した、わたしの判断は正しかったんですよね?)

 思わず、ルイは心の中でマリエルに向かって呼びかけた。

 返事など返ってくるはずがないし、おそらくマリエルならば、ルイのそんな自信のなさを呆れたように笑い飛ばすだけだろう。

『全く、あなたときたら、心配性ですね。私のことなど放っておいてくれてかまわないといつも言っているでしょう』

 そう素っ気無く突き放されるのがおちだ。

(自分には構うなと言いながら、結局死んでまでわたしにこんなしんどい後始末を押し付けていくんですから―恨みますよ、マリエル)

 ふっと苦笑するルイに、刑事達は当惑したようだ。

「わたしからお話できるのは、このくらいですよ」

 ルイは刑事達に再び向き直った。

「念のためにもう一度申し上げますが、マリエル・コクトーのプライベートに我が社は一切関知しておりません。万が一、マスコミに対し事実に反する情報が警察から流れることがあれば、法的な手段に訴えるつもりですので、その点、くれぐれも、よろしくお願いしますよ」

 絡み付いてくる悲しみを振り払い、やり手の経営者らしい毅然とした態度で釘を刺すと、ルイは、こちらも半分はこの場から逃げ出したい気分らしい刑事達に向かって、話は終わりだというような手振りをした。

 




「やっぱり、あの男は嘘をついていると思いますよ。マリエル・コクトーと親しく付き合っていて、そのマリエルの精神状態も分かっていて、何も知らなかった、気づかなかったはずがない」

 グリーンヒル・モーチュアリ社―この州でも有数の葬祭会社が現在の本社ビルに移る前に使っていた、今はルイ・ファレルが個人的用いているオフィスを後にした刑事2人は、まるで執拗に追いかけてくる何かから逃げるような早足で、近くに路上停車している車の方へ向かっていた。

「もう何も言うな」

 ルイに対する不審をあらわにして訴える若い部下に、中年の刑事は苛立たしげに命じた。

「この事件の捜査は、これで終了だ。俺達がこれ以上係わり合いになる必要もなければ義務もない」

「しかし、何だかすっきりしませんね」

「いいか、これは別に事件じゃないんだ。まあ、突き詰めると、何らかの法律には触れていそうだが、いずれにせよ、マリエル・コクトーは亡くなっている。訴える者も訴えられる者もいない以上、裁判も何も起こしえない」

 中年刑事はふと立ち止まって後ろを振り返ると強烈な寒気を覚えたように身震いした。

「正直言って…これ以上この事件を扱いたくも、それに関わった人間に会いたくもないものだ」

「ああ、それは同感ですね」

 別に信心深くもないだろうに胸の前で十字を切る部下を刑事はじろりと睨み付ける。

「おい、分かっているだろうが、万が一にもおかしげな記者などに事件の詳細を漏らすんじゃないぞ」

「もちろん、そんなつもりはありませんが…どうしたんです、警部、まさかあの葬儀屋の脅しを気にしているんですか?」

「触らぬ神に祟りなしって奴さ」

 刑事は溜息をついて、懐からタバコを取り出した。

「気づいていないのか? この事件が発覚した当初こそ大騒ぎしたマスコミだが、この頃ではごく一部のタブロイド紙を除いておとなしいものだろう。テレビでも、この件についてはほとんど取り上げられていない。この手の猟奇事件にしては、随分と控えめな報道じゃなかったか?」

「そう言えば…その通りですね…はて…?」

 首を傾げる若い刑事に、中年警部は辛抱強く説明した。

「マリエル・コクトーの顧客名簿を捜査中に見たんだが、大したものさ。表の世界では政財界の大物から裏では大物マフィアまでが名前を連ねてある」

「顧客って、つまりマリエル・コクトーがエンバーミングの仕事を請け負った連中ですね…無免許で、違法な手段も時には使ったというもぐりの技術者にそこまで依頼者があったというのも驚きですね」

「それぞれ事情があって、どうしてもマリエルの技術に頼らなければならなかった遺族達だ。そうした手合いは、決まってマリエル・コクトーに大変な恩義を感じるようになったらしい。社会的な地位も名誉も金もありながら、死に対しては自分達の無力を思い知らされて、かの凄腕のエンバーマーにすがったんだ。子供を誘拐された挙句惨殺された政治家、美貌で知られた愛妻を不慮の事故で亡くした新聞王、激化した抗争の中で多くの死者を身内から出したマフィアのボス…。マリエル・コクトーはいかれた男だが、ある種の天才ではあったんだろうさ。生きている時から、半ば伝説の人物のように扱われていた。彼の作り出す錯覚は、それを切実に求める者にとっては唯一の真実となると―」

「錯覚は所詮ただの錯覚でしょう。大体葬式が終わってしまえばすぐに埋められてしまう遺体じゃないですか。いくら態よく整えたところで、結局は誰にも必要とされなくなってじきに土に返っていく…」

「マリエルの家で発見された、あの子の遺体を見なかったのか?」

 若い刑事は神妙な面持ちで黙り込んだ。

「全く、ぞっとする話さ」

 例えどれほど愛し、別れを惜しんだ相手でも、埋葬されてしまえば、それを取り戻して手元におきたいと遺族が望むことめったにない。

 だが、マリエルは違った。死んだ恋人を手放さなかった。

 どのような処置がケイト・ハヤマに施されていたかは結局明らかにはならなかったが、あの狂える天才は持てる技術の全てを注いで、死せる恋人の肉体をこの世に留め置いたのだろう。あたかも、そうすることで自分達を引き裂こうとする死を出しぬこうとするかのごとく。

 彼の行為は、自然に逆らうことであるがゆえに、本能的な嫌悪と言い知れぬ恐怖を人に覚えさせるのだ。

「それで…この事件の報道が控えめだったのは、結局どういう訳だったんです?」

 気を取り直したように、若い部下が話をもとに戻した。

「ああ」

 中年刑事はやっとたどり着いた車の傍で足を止めると、火をつけたタバコをしきりとふかした。

「色んな方面から圧力がかかったんだよ。表からも、裏の世界からも…マスコミに騒がれて、自分達が彼の顧客だということを知られたくないという気持ちもむろんあったんだろうが、やはり死者の世界の王にそれなりの敬意を払ったんだ。死を味方につけていたマリエル・コクトーの魂よ、安らかに眠れ、と」

「やっぱり…俺にはよく分かりません、分かりたくもない…」

 呆然と呟く若い部下に刑事はふとやわらいだ眼差しを向けた。

「それが、普通の反応さ。理解しようなんて思わんことだ…あのルイ・ファレル辺りは、もしかしたら半分くらいマリエルの世界に引っ張り込まれているのかもしれないが、俺達には、全く関係のない別の世界の話さ。そう、少なくとも今のうちはな」

 何となく不安そうな顔を向ける部下の肩を叩くと、刑事は車のドアを開いた。

「さあ、署に戻って、報告書をしあげちまおう。それが終われば、今度こそ、この忌々しい事件から完全に手を引けるぞ。そうしたら祝いに一杯やろうじゃないか」





(もう誰もここにいない) 

 刑事達の最後の訪問を受けた日の夜、ルイは、急に矢も楯もたまらなくなって、マリエルの家を訪れた。

 秋も深まるこの季節、家の周りの木々の多くは葉を落としている。かさかさと鳴る枯葉を踏みしめながら、ルイは明かりもなくひっそりと静まり返ったマリエルの家に近づいていった。くすんだ薔薇色の壁にからまる蔦は今ではこの古い建物を半ば飲み込んでいる。

 ルイはしばしためらうように外から母屋を眺めた後、合鍵を使って中に入った。

 この家の扉をくぐるのは、マリエルの訃報を聞いて駆けつけた時を除けば、それこそ約1年ぶりだ。

 警察の人間達が大勢訪れて、隅々まで調べ回り、証拠となるようなものを持ち出したりした、嵐のようなひと月が過ぎた後、ここには永遠に静謐のみが残されている。

「マリエル」

 玄関先で立ち尽くしていたルイは、思わず、圧倒的な静けさの中からかの人が現れるのではないかと期待するかのように呼びかけてみた。

 もちろん、彼の声に応える者はなかった。

 ルイは、苦笑しながら首を振った。

(ああ、本当に、あなたは逝ってしまったのだ。もう二度と会えなくなると分かっていたら、あんなものを見てしまったからと言って怯まずに、もっと足繁くあなたのもとに通っていただろうか)

 廊下の明かりをつけて、ルイは家の奥に入っていった。リビングの前を通りかかったところで足を止め、扉を開いた。 

 暗い部屋は、窓の辺りだけ、外から差し込んでくる淡い光にうかびあがっている。

 ルイは何かに引き寄せられるように明かりの消えたリビングに足を踏み入れ、中庭に面した窓の前に立った。

 晴れ渡った濃紺の夜空には磨かれた銀貨のような月が輝いている。

(そう、あの夜も、今夜のような明るい月夜だった)

 冴え返った月を見上げながら、ルイはふと思い返した。

(錯覚ではない。わたしは、確かに見たのだ)

 あれは、1年ほど前の出来事だ。仕事の帰りに、ふと思いつくままにここに立ち寄った。マリエルと顔を合わせるのはもっぱら作業所の方ばかりで、この母屋には招かれなくなって久しかったが、柔らかな光が灯っているのにマリエルの存在を感じ、ルイは扉を叩いた。

 扉には鍵がかかっておらず、ルイが押すのに簡単に開いた。

 ルイはマリエルを呼ばわったが、家の主は応えなかった。

 もしかして鍵もかけずにどこかに出かけたのだろうかといぶかりながら、ルイは廊下を奥に進み、リビングの前で立ち止まった。

 淡いルームライトが廊下にもれていた。

 マリエルの姿を求めてルイはリビングに入ったが、そこには誰もいなかった。しかし、中庭に面する窓は開いていて、外から吹き込んでくる風にカーテンが微かに動いていた。

 マリエル?

 ルイは、この窓の前に立った。丁度今、こうしているように。

 そして、窓の外に、求める者の姿を見出したのだ。

(一瞬、目の迷いかとわたしは思った。もしかしたら、夢でも見ているのかと疑った。だって、そこにいたのはマリエルだけじゃなかった…彼女が一緒だったから…)

 ルイは小さく身震いした。心もとなげに、体に腕を回した。

(わたしは、警察に全てを話したわけじゃない。あえて話さなかった…あんな無神経な奴らにマリエルをこれ以上あしざまに言わせたくない。わたしが見た光景は、この胸の中にだけしまっておこう。そう、一生誰にも言うものか…墓場にまで持っていってやる)

 ルイは頭を垂れ、しばし瞑目した。

(マリエル、他人が何と言おうとも、あなたが…いえ、あなた方がここで、2人だけの閉ざされた夢の世界で幸福だったことは…確かなのだ)

 妄想か? いいや、ルイも今ではそう信じている。

『ねえ、ケイト、寒くはないですか?』

 あの夜、穏やかな声が囁くのをルイは聞いた。

 マリエルが車椅子に座った小柄な少女の肩にそっとショールをかけてやるのを見た。

 声もなく、呆然と立ち尽くしながらルイが見守っているうちに、マリエルは車椅子を押して庭に大きく枝を張り伸ばした林檎の木の下に彼女を連れて行った。

『ああ、林檎の花が…綺麗ですね』

 マリエルは頭上の枝の方に手をさし伸べると、車椅子の少女に向けて優しく微笑みかけた。

 しばらく止まっていたルイの心臓は瞬間、激しく打ち震えた。

 林檎の花など咲いていない。その季節はとうに終わっている。

 だが、マリエルには舞い散る白い花びらが見えていた。

 ケイトが死んだ時爛漫と咲いていた白い花々は、彼の心の中で永遠に咲き続けていたのだ。

(わたしは、そのまま何も言わずに、この家を後にした。マリエルの夢を壊したくなかったから…彼がやっと見出した心の平安をかき乱すことを恐れたから)

 正しい判断だったのか? 今となっては、そう信じたい。

(マリエル、マリエル…あなたの幸せをこの10年わたしは切実に願い続けた)

 今は亡き、大切な人のために祈った後、ルイは顔を上げた。

 刹那、ルイは息を飲んだ。

(マリエル…ケイト―)

 愕然と見開かれたルイの瞳は、はらはらと舞い散る白い花びらを映し出していた。

 白い花。舞い散る林檎の白い花びらの只中に、陽炎めいた人影が揺れていた。

 白いドレスを着た黒髪の少女と淡く輝く髪をのばした痩身の青年は、ゆったりと流れるような身のこなしでダンスを踊る。

 互いの瞳をひたむきに求める2人の顔には、この上もなく幸福な、満ち足りた微笑。

 この世の果てで、あなたと2人、永久に―。

 無数の蝶がたてる羽音めいた笑い声が遠く近くに聞こえる、妖しい惑乱と眩暈の中、ルイは耐え切れずに目を閉じた。

 夢?

 ルイは衝撃が我が身から去るのを待った後、再び用心深く外を窺い見た。

 誰もいない。

 ルイは肩で大きく息をした。

(錯覚か…まるで、私が切実に求める願望が見せたかのような…)

 ルイは額に浮かんだ汗を手の甲でぬぐうと、絡み付いてくる何かを振り払おうとするかのごとく頭を振りたてた。

(いずれにせよ、マリエル、あなたは求めるものを既に見出していた。確かに、わたしがこれ上心配するのも余計なお世話というものですね。だから、もう行きますよ。この建物はじきに取り壊すつもりです。あなたの思い出だけを、私の胸にしまっておきましょう)

 ルイはようやく窓から離れた。

 そのままリビングを出て行こうとしたが、ルイはふと扉の前で足を止めて、最後にもう一度中庭の方を振り返った。

 窓の外では青みをおびた不思議な光が踊っている。

 その彼方から、あの懐かしい、誘うような声が聞こえた気がした―。





(月の下で、踊ったことはありますか…?)


これまでこの話に付き合ってくださった方々、ありがとうございました。

いろんな意味で問題作だったと思いますし、とっつきにくかったことでしょう。

それでも読みきってくださった方には感謝です。


それにしても、男女カップルを珍しく書いてみたら、ネクロフィリアものだったというのも、何だかなぁ…^^;。



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