第7章せめてダンスを(3)
ケイトが普通と変わらぬ生活を続け、明るい笑い声をたてられたのは、あのパーティーの日が最後だった。翌日から、彼女は急に体調を崩し、発熱を繰り返すようになった。
そうした不安な日々がしばらく続いた末、ケイトの主治医のドクター・ブリルから知らされた彼女の検査結果はよくないものだった。
(脳のこの部分に薄っすらと影が写っている…おそらく転移だろう)
ドクター・ブリルがケイトの深刻な病状を告げたのはマリエル1人だった。
ケイト本人は病院へは行きたがらなかった。
ケイトが度々眩暈を訴えるようになったので、心配したマリエルが彼女を説得してCT検査を受けさせたものの、ケイトは今更病状など知っても気分が余計に塞ぐだけだからと聞こうとしなかったのだ。
ケイトの気持ちは分からないでもない。
治る見込みが少しでもあるのならともかく、悪化していくだけの病気の詳細など知る意味があるのか、マリエルにも分からない。
(ケイト君が苦痛をほとんど訴えないのがせめてもの救いだよ。できるなら、このまま君の傍で普通の生活を続けさせてあげることがケイト君には一番いいことだろうと思う。残念だが、もう僕が彼女にしてあげられることはほとんどないんだ)
患者を見捨てるのか。
悲しげに首を振るブリルをとっさに理不尽に罵倒したくなる自分を抑えるのに、マリエルはかなりの努力を要した。
本当は、ブリルは事実を正直に話してくれただけだとはマリエルも分かっている。
(私の傍でこれまでどおりの生活をさせることがケイトのためだとして…けれど、他にはもう何もしてあげられないのか…?)
昼間病院でブリルと交わした会話を思い出しながら、マリエルは1人、照明を暗く落としたリビングでブランデーのグラスを傾けている。
(私がケイトのためにできることは…?)
ケイトは2階の部屋でもう休んでいる。
いつもの就寝時間には少し早かったが、近頃はとにかく眠くてたまらないのだとケイトは言う。
脳に転移があるとの検査結果を聞いたばかりだったので、マリエルにとっては不安をかきたてられる訴えだった。
懊悩するマリエルの脳裏に、2人きりで踊ったあの夜、ケイトが彼に打ち明けた言葉が蘇る。
(あたしが死んだら、その時は―お願いよ、マリエル、あなたの手であたしにエンバーミングをして)
瞬間、グラスを口に運ぶマリエルの手が震えた。
(そうして、もしもあなたが…そうしてもいいと望んでくれるのなら、どうかあたしを―)
マリエルはしばし慄然と凍りつき、何かを払いのけようとするかのごとく頭を振った。
(そんなこと…できるはずがない…)
ケイトにエンバーミングをする。いや、彼女が望んだのはそれ以上のことだ。
(あれは、追い詰められた少女が夢想した非現実的な願望だ。本気に受け止めては、たぶん、いけない)
マリエルがそう自分に言い聞かせたくなるほど、それは恐ろしい願い事だった。
だが、マリエルは、ケイトにまだちゃんと返事をしていない。ずっと保留のままにしている。
(あんな危うい状態のケイトの願いを拒否して、彼女を傷つけてしまうことが怖いのか、それとも―)
己の迷いの正体を突き詰めていくと、マリエルの惑いは余計に深くなった。
(私自身が、ケイトを手放すことに抵抗を覚えているからか…叶うならば、このまま私の傍にいて欲しいと―)
マリエルはふと己の手を広げて見下ろした。
(あの夜、ケイトをこの手に抱いて踊った。彼女とぴったりと寄り添いあいながら、互いの心が通うのを覚え…時間など止まってしまえばいいと私も確かに祈っていた…)
ケイトもあの一時マリエルと同じことを願っていただろう。
ダンスが終わり、音楽も絶え、夢から覚めることを恐れるかのように声も漏らさずに泣いているケイトが切なくて、マリエルは思わず彼女の唇に触れた。
(いずれは彼女も私の手からすり抜けて逝ってしまう…変えられない運命だと分かっていながら、私はこの期に及んで受け入れられないでいる)
生きている人間にマリエルがこれほどの愛着を覚えたのは、ケイトが初めてだ。だが、その彼女の命の火もじきに消え、マリエルの死せる恋人たちと同じように、彼のもとから去っていく。
マリエルは、また1人取り残される。
意識した瞬間、マリエルはほとんど恐怖したかのように身震いし、我が身をかき抱いた。
ケイトを逝かせたくない。我ながら愕然とするほどの強い衝動がマリエルの胸の奥からこみ上げてくる。
(ケイトは…彼女だけは渡したくない…私に、逃れえぬ運命を覆すほどの、死を出し抜くだけの力があれば―)
死神。死を味方につけている男と呼ばれてきたマリエルだったが、その渾名にふさわしいだけの力が本当にあれば、ケイトを易々と向こう側になどやらせはしない。
(あたしにエンバーミングをして…)
またしても、熱に浮かされたようなケイトの囁きが聞こえ、マリエルは息を吸い込んだ。
刹那、マリエルの心に悪魔が囁きかけた。
はかない人間の命。どれほど懸命に生きても最後にはやってくる死の運命。しかし、それを打ち負かし、永遠に続く別の命を作り出すことが、他の誰でもないマリエルにはできるのではないか。
そうしてケイトの夢は現実になる。
「馬鹿なことを…!」
苦々しく吐き捨てて、マリエルは執拗に追いすがってくる何かから逃れようとするかのごとくソファから立ち上がった。己の体に腕を回して窓の前に立ち、暗い空を見上げた。
今夜は、月は見えない。
溜息混じり、視線を目の前の庭に投げかけると、大きく枝を張り伸ばした林檎の樹が見えた。いつの間にか白い花がいっぱいに咲き零れている。
マリエルの薄い唇にほのかに照るような微笑がうかんだ。
そう言えば、あの花をケイトはずっと見たがっていたのだ。
この庭だけでなく、家の傍の街路や林檎畑でも白や淡いピンクの花がいっせいに花開いている。
ここ数日体調が優れず、部屋に引きこもりがちだったケイトは、まだ気がついていないかもしれない。
明日、ケイトが起きられそうであれば、外に連れ出して、久しぶりに散歩をするのもいいかもしれない。
それはマリエルが彼女と交わした約束だった。
「私と一緒に見に行きましょう、ケイト。あの花が爛漫と咲きこぼれ、風に吹かれて舞い散る中を歩いて…それは、きっと夢のような時間になるでしょう」
もしかしたら、あれほど見たがった花の下でなら、ケイトは再び、以前の溢れんばかりの生気を取り戻して生き生きと微笑んでくれるかもしれない。
かつてはあの白い花々を思い描く時、マリエルは元気だった頃の母の姿を結び付けて蘇らせたものだった。
しかし今は、花びらの下を楽しげなステップを踏むように歩いているケイトマリエルは見たがっている。
ケイトと共に過ごす明日の計画に心を和ませながら、マリエルは、あさって、その次の日と、こんな日々がいつまでも続いてくれることを名も知らぬ神に向かって祈っていた。
「花が咲いたんですよ」
マリエルの優しいささやきをケイトは夢うつつに聞いた。
「花?」
うっすらと目を開けると見慣れた寝室の窓から明るい光が差し込んでいる。
「あ…もう朝なんだ…気がつかなかった…」
「もう…昼近くですよ」
「そう…どうしたのかしら、疲れることをした記憶はないけど…よく眠っていたのね」
「ええ…」
マリエルと言葉を交わしながらも、ともすればケイトはうつらうつらしそうになる。
「熱のせいですよ、たぶん…」
あまり感情の篭らないマリエルの声が微かに慄いたように震えたのは気のせいだろうか。
そう言えば、昨日マリエルはケイトの代わりに病院に行って、検査の結果を聞いたのではなかったろうか。
何の検査をしたのだろう。いや、ケイトにはもうどうでもいいことのような気がした。
「脈は安定していますが…やっぱり微熱がありますね。天気がいいので、あなたの調子がよければ今日は散歩に誘おうと思っていたのですが―」
散歩と聞いて、ケイトは一瞬瞳を輝かせた。
「林檎畑まで行くのね…そう、花が咲いたんだわ…あたし、見にいきたい…」
ケイトはとっさに掛布を押しのけてベッドから起き上がろうとしたが、瞬間、自分を取り囲む部屋がぐるぐると回転し始めたのに、気持ち悪くなって頭を押さえた。
「急に動こうとするからですよ」
マリエルは冷静な口調でたしなめると彼女を再びベッドに横にならせた。
「マリエル…」
眩暈がおさまるまでしばらく閉じていた目をケイトが恐る恐る開けると、マリエルの青い瞳が彼女を覗き込んでいた。
いつもは凪いだ湖のように穏やかな双眸は、何かしら切迫した光をたたえてケイトを見守っている。
「どうしたの?」
ケイトがぼんやりと問い返すと彼女の手を取っていたマリエルの指が電流にでも触れたかのようにびくっと震えた。
「いいえ」
しかし、声に出しては、マリエルはケイトを安心させようとするかのごとく平静に応えた。
「ただ、その様子だと今日の散歩は無理だなと思ったんです」
「大丈夫よ、マリエル、あたしゆっくりとなら歩けるわ。林檎畑までなら、何とか行けるわよ…それに、今日はいい天気だけれど、明日はどうなるか分からないでしょう? 雨が降ったら、それで花が散ってしまうかも…」
ケイトが頑強に主張するのに、マリエルは困ったような顔をした。
「あたしと約束したでしょう? 降る花の下を一緒に歩こうって」
マリエルは溜息をついた。
「そうですね…ケイト、私も覚えていますよ…」
マリエルはふと遠い目になって、しばしどこかに想いを飛ばしているようだった。
「かつて母に連れられて歩いた白い花の散る道を、今度はあなたと一緒に行きたい…私も―」
再びケイトに視線を戻すと、マリエルは微笑みながら頷いた。
「では、あなたが落ち着くまでもう少し待ちましょう。どのみち私は、あなたの薬をもらいに病院に行かなければなりませんから―その時に、あなたの眩暈を楽にしてもらう薬も処方してもらいましょう。私が帰ってきたら一緒に出かけるということで、いいですか?」
「ええ」
ケイトの顔に明るい笑みが弾けるのをマリエルは目を細めるようにして眺めた。
「…そうだわ、あたし、あなたが帰ってくるまでリビングのソファで横になっていることにするわ。あそこなら、庭の林檎の樹がよく見えるでしょう? しばらくあの花を見ていたいの…ね、いいでしょう?」
とっさに思いついてそんな頼みごとをするケイトにマリエルは優しく頷くと、彼女を抱き上げて階下のリビングにまで運んでくれた。
(マリエル、あなたがあんまり優しいから…あたしはつい甘えてしまう。ごめんなさい…でも、あなたがあたしにくれた幸せに包まれたまま、ずっと夢を見ていたいと願ってしまう…)
ケイトは、マリエルが外出した後も、リビングのソファに横になったまま夢とうつつの間をゆらりゆらりと漂っていた。
マリエルの言うような、熱のせいだけではないだろう。自分の体がどこかおかしいということはケイトも薄々気づいていた。
(もう、あんまり時間は残っていないのかな…あたし、いつまでこの家にいられるんだろう。マリエルにも手に負えないほど病状が悪化したら、やっぱりあたしは最後には病院に入らなきゃならなくなるだろうし…)
朦朧とかすんだ意識を奮い起こそうと、ケイトは激しくもがいた。
(時間がないのなら…あたしは、マリエルにあたしの望みをちゃんと伝えないと―違う、あたし、もう彼に言ったんだ…。マリエルはあれきり何も言ってくれない…何事もなかったようにあたしに接してくれているけれど、あたしの言葉はきっと彼を悩ませているはずよ。ああ、やっぱり打ち明けるべきじゃなかったのかしら…どうせ叶えられるはずがないものを、とにかく伝えることで自分が安心したいからなんて、あたしの身勝手だったんだ。マリエルを悪戯に動揺させるだけだったのに―)
ケイトは胸の奥に微かな疼きを覚え、目を見開いた。
「あ…」
一瞬後悔と罪悪感からくる痛みかと思ったが、そうではないことにすぐにケイトは気がついた。
不吉な予兆めいた、押さえつけられるような苦しさが胸の奥から発している。
「マリエル」
ケイトは微かに震える手で胸の辺りを押さえ、助けを求めるように周囲を見回した。
マリエルは外出している。
ケイトの青ざめた顔に恐怖がよぎったが、すぐにそれは諦念に変わった。
(罰があたったのかも…あたしの我が侭で、好きな人を振り回して傷つけて…)
ケイトは恐々ながらそっとソファから身を起こし、庭の方を眺めやった。
「綺麗…」
小さく動いた唇から溜息めいた言葉が零れ落ちる。
見開かれたケイトの黒い瞳は、窓の向こう、白い花に覆われた林檎の樹を映し出していた。吹く風に枝がそよぐたび、雪のような白い花びらが舞い散っている。
ケイトは白い花に引き寄せられるかのように動いて、床に下り、窓の傍まで歩いていった。
幸いなことに眩暈はおさまっている。今なら普通に歩いて、外に出掛けることができそうだ。
「マリエル、早く帰ってきて…でないと、あたしとの約束を果たせないわよ」
ケイトは窓の外に降る花を見守りながら、ふっと笑った。
「先に、1人で見に行こうかな…」
ぽつりと呟いて、ケイトはしばし考え込んだ。
(そうよ、マリエルはそろそろ家に戻る頃だと思うし…あたしが今から着替えて外に出かけたら、途中で彼と会えるかも…マリエルを迎えにいくようなものよ。そうして、彼を驚かせてやろうかな…)
またしてもケイトの心臓が不協和音を発したが、彼女は気がつかないふりをした。
いつでも外出できるようにとリビングの椅子の上に用意していた更紗の白いワンピースに着替えると、ケイトは1人、家の外に出た。
「本当にいい天気…こんな日にずっと家で寝ているなんてやっぱりもったいないわ」
青く晴れ渡った空を見上げ屈託のない顔で笑うと、ケイトは家の前の砂利道を下の道路の方へとゆっくりと下りていった。
道の左右には白やピンクの花をつけた樹が並んでいる。
それは遥か向こうに広がる林檎畑まで続いているはずだ。
マリエルが、そう言っていた。
「いい匂い」
ケイトは風に混じった微かな甘酸っぱい香りを深呼吸した。
はらはらと、花の下を歩く彼女の頭上に花びらが振りかかる。
「これがマリエルが話してくれた光景ね…よかった、あたし、生きている間にこの目で見ることができた」
一本の大きな樹の下でケイトは足を止めて、満開の花をつけた枝を振り仰いだ。
「ここにマリエルがいたら、何もかもあたしが夢に描いた情景なのに…」
目を閉じると、梢の間から差し込む光が瞼の裏で揺れていた。
その淡い光の中に、ケイトはマリエルの姿を思い描いた。
満開の白い花の下をマリエルが長い髪を揺らせてゆったりと歩く。
ふと足をとめてケイトを振りかえり、柔らかな微笑みをうかべてマリエルは手を差し伸べる。本来ならば死者に対してのみ伸ばされる彼の手は、今はケイトを誘っている。
(夢のよう…)
マリエルと踊った記憶が脳裏に浮かび上がり、ケイトの白昼夢と混じりあった。
白い花。舞い散る林檎の白い花。
空から降り注ぐのは明るい陽光ではなく、ひんやりと冷たげな月明かり。
月の光に照らさせて、2人は踊る…。
「あっ…」
突然、心臓を鋭い針で突かれたような痛みを覚え、ケイトは胸を押さえて傍らのリンゴの樹の幹に寄りかかった。
どっと額から汗が吹き出る。
(待って…もう少しだけ…マリエルが帰ってくるまで―)
その時、ケイトの耳は近づいてくる車のエンジン音を捕らえた。
ケイトは顔を上げた。
強張った顔に微かな明るい笑みがうかんだ。
「マリエル」
マリエルの車だった。
どうやら向こうも、ケイトが家の前の林檎の樹の下に立ち尽くしていることに気がついたようだ。
砂利道の手前で停車すると、マリエルがドアを開けて車から飛び出してきた。
「ケイト…そんなところで、一体何を…?」
マリエルが呼びかけるのにケイトは手を振ろうとしたが、もうできなかった。
「動かないで」
ケイトの身に起きた異変に、マリエルもすぐに気がついたようだ。
彼の顔に浮かびあがった恐怖を見て、ケイトは悲しくなった。
(マリエル、あなたに辛い思いをさせて、ごめんなさい。でも―あなたが間に合うことができて、それだけはよかった…)
ケイトは林檎の樹に背中をもたせ掛けたまま、マリエルの姿をひたと見つめていた。
ケイトに向かって歩いてくるマリエルの上にも花は降り注ぐ。
(花の下のあなたを、あたし、一目見たかったから…よかった、これで何もかも完璧ね…)
マリエルの手がケイトに差し伸ばされる。
ケイトは求められるがまま、その手を取ろうとし―。
瞬間、ケイトの心臓をこれまでにない痛みが襲い、引き裂いた。
「ケイト!」
真っ白に焼け崩れていく意識の片隅で、ケイトは己を呼ぶマリエルの切迫した声を聞いていた。
教えて。
死してもなお永遠に続く『何か』はあるの?
それとも、そんなものはやっぱり錯覚に過ぎないのかしら…。