第7章せめてダンスを(2)
大学の講義を受けて夕方遅く家に帰ってきたケイトを、思いもかけぬ出来事が待っていた。
「サプライズ!」
いつものように静まり返った家に何の不審の念も覚えずに入ったケイトは、突然のクラッカーの音と人の声によって出迎えられたのだ。
「えっ?」
クラッカーの中から飛び出した色とりどりのテープや紙切れを頭から被ったケイトが目をぱちくりさせたまま硬直していると、彼女を待ち受けていた3人―マリエル、ポール、ルイが、薔薇の花束や綺麗にラッピングされた箱、美しいカードを恭しく差し出した。
「誕生日おめでとう、ケイト」
戸惑うばかりのケイトに、三人組の中から進み出たマリエルが優しく呼びかけた。
「あ…今日って、そういえば、あたしの…すっかり忘れてた…」
ケイトは押し付けられた花束と大きな箱を落とさぬよう慎重に抱えながら、喘ぐように呟いた。
「驚きましたか?」
マリエルの顔には、何やら悪戯っぽい笑みがうかんでいる。彼でもこんな子供のような顔をするのだと、ケイトは意外に思った。
「ものすごく『サプライズ』だったわよ…この出迎えもだけれど…マリエル、あなたがあたしのバースデーを知ってて、こんな企画を計画するなんて信じられないわ」
マリエルはちょっと心外そうな顔をした。
「まあ…実際、今日があなたのバースデーだということを教えてくれたのはルイでしたよ。あなたの履歴書に書いてあったんですね…それで、せっかくだから何かしようという相談になって…ポールにも協力してもらって…」
ケイトは、マリエルの後ろで満足そうな笑みをうかべているポールと少し照れくさそうに眼鏡のブリッジを指で押し上げているルイを見た。
「あ…ありがとう…ルイさんもポールも…あたしのために、こんな…。そう言えば、ちゃんとバースデーのお祝いをしたことなんて、ここ数年なかったわ…。今になって誰かに祝ってもらえるとも考えてなかったし…ありがとう、すごく嬉しい…」
ようやく事情を飲み込んで、落ち着いて考えると、ケイトは胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを覚えた。
「さあさあ、いつまでも玄関先で突っ立ってないで、ケイト」
ルイがやれやれというように促すのにケイトは泣き笑いのような顔を向け、素直に頷いた。
「ええ、そうね」
リビングに入って、皆が見守る中、ケイトがもらったプレゼントの箱を開けると、細かな花柄とレースが美しい白いドレスと可愛い靴が出てきた。
「綺麗」
思わず小さな溜息をついて、ケイトは取り出したドレスを体に押し当ててみた。
「着替えてらっしゃい」
ソファにゆったりと腰掛けながらその様子に目を細めていたマリエルが穏やかに促した。
「パーティーの準備はもうできていますよ。後は、主役のあなたが綺麗に装って現れるのを私たちは待つだけです」
ケイトは喜びと興奮に頬を紅潮させて頷くと、素敵なプレゼントを箱ごと抱え上げ、急ぎ2階の部屋に駆け上がった。
(どうしよう、胸がどきどきする)
実に久しぶりにケイトははしゃいだ気分になっていた。
この所マリエルとの穏やかな生活の中に心の慰めを覚えながら、ぼんやりと夢を見ているような日々をケイトは過ごしていたのだが、今の驚きで眠っていた心が一気に花開いたようだ。
ケイトは素早くTシャツとジーンズを脱ぐと、今度は慎重な手つきで皆からプレゼントされた綺麗なドレスを取り上げ、おずおずと身に着けた。ほっそりと繊細なサンダルも履いてみた。
サイズはぴったりだ。これもまさかルイが知っていたということはないだろうが…。
着替えると気がせくままにすぐにそのまま階下に駆け戻りそうになったケイトは、ふと思い直して、鏡の前に座った。めったに使わない化粧品を取り出して、淡いピンクのルージュを唇に引き、頬にも薄くチークを入れた。
(うん、これで顔色もよくなったわ)
鏡の中の自分に向かって微笑みかけると、ケイトは立ち上がった。
白いドレスを着た華奢な女の子は、いつもの自分とは違って見える。
(マリエルは…綺麗だと思ってくれるかしら…?)
ほのかな期待に胸を高鳴らせながら、ケイトは部屋を出て行った。
リビングで食事前のカクテルを傾けていた男達はケイトが再び現れると談笑をふとやめて、微かに目を見開いたり、にこやかに頷きかけたりした。
マリエルは―表情の少ない彼だが、ケイトにこのドレスは似合っているとは思ってくれているようだった。
ダイニングのテーブルには、ケータリングをしたのだろう、高級レストランのようなご馳走が美しい食器に盛られ、きらめくクリスタルのグラスや銀のカトラリーが並べられている。
ケイトがもらったピンクの薔薇も白い陶器の花瓶に活けられてテーブルの中央に飾られていた。
この家の中で白い百合以外の花が見られるのは珍しいことだ。
「ワインも今日はとっておきのものを開けますからね」
マリエルが丁寧な手つきでコルクを抜いて、ゲスト達のグラスにワインを注いで回る。
「モンラッシェか。こんな機会でもないと、おまえのことだから、ずっとセラーに寝かせてそのまま忘れてしまうところだったんじゃないか」
ポールが揶揄するのに、マリエルは軽く片方の眉を跳ね上げた。
「忘れはしませんが…確かに、墓場まで持っていくことになったかもしれませんね」
共通点のなさそうなマリエルとポールだが、ワインについてだけはそれぞれ持論があるようで、2人はしばし熱心にワイン談義に花を咲かせていた。
ケイトにはさっぱり分からない話だったが、マリエルのとっておきのワインは本当においしく、マリエルがポールと親しげに話している様子を見ているだけで何となく嬉しかった。
実際今夜のマリエルは、彼にしては珍しいほど気分が高揚して上機嫌のようで、普段よりもよく話し、冗談めいたことも言った。
「ケイト、あなたに1つ感謝したいのは、やっぱりマリエルが以前よりもずっと人当たりがよくなってまともな会話ができるようになったことですねぇ」
隣に座ったルイがケイトにそっと耳打ちをする。
ケイトの存在を心の底では厄介に思っているらしいルイも、今夜は親しみのこもった態度で接してくれた。
供された料理はどれも素晴らしく、この頃ではさすがに食欲が落ちてきていたケイトも楽しむことが出来た。ワインの酔いも手伝って、明るい表情でおしゃべりをし、はしゃいだ笑い声をたてる彼女に、この企画を立てた3人はほっとしたことだろう。
(今だけは不安も悩みもみんな忘れてしまおう…ああ、生きていて、まだこんなに楽しいことがあったんだ…ありがとう、マリエル、ルイさん、ポール…)
誕生日のパーティーなどとありきたりかもしれないが、こんな当たり前のささやかな喜びが、今のケイトにはとても大きい。
楽しい時間は瞬く間に流れていった。
食事が終わると4人はリビングに戻り、コーヒーやブランデーを飲みながらたわいもないおしゃべりを続けたりゲームなどをしたりして、夜が更けるまで過ごした。
そうして、やっとパーティーがお開きになると、少々お酒の回ったルイをポールが励ますようにして、2人はタクシーで帰っていった。
パーティーの終わったリビングには、ケイトとマリエルの2人だけが残された。
リビングの片隅のステレオにかけられた古いレコードからはスローなジャズが流れている。
ケイトはソファにぼんやりと座って、熱っぽく潤んだ瞳でパーティーの終わった部屋に残る夢の跡を眺め回した。
「疲れましたか?」
しばしどこかに消えていたマリエルが戻ってきて、物思いに浸っているケイトに気遣わしげな声で尋ねた。
「ううん。ちっとも」
ケイトは胸に溜めていた息を吐き、うっとりと目を閉じた。
「本当に、今夜は楽しかったわ。あたしのためにこんな素敵な企画を立ててくれた皆にはとても感謝してる…それに花やドレスや靴、あたしのためのたくさんの贈り物もすごく嬉しくて…ああ、あたしって、マリエル達からいつもたくさんのものをもらってばかりね。何か返せるものがあればいいんだけれど―」
「あなたが、その笑顔を返してくれただけで充分ですよ」
ケイトは目を開けて、マリエルを振り返った。
「このパーティーも、むしろ私があなたを笑わせたいがためにルイやポールを引き込んで計画したようなものですね」
マリエルは手を後ろで組むようにしてソファの前に立ったまま、ケイトを穏やかに見下ろしている。
「やっぱり、マリエルって、あたしを甘やかしすぎ」
ケイトは赤い顔をして、それをごまかすようにそっぽを向いた。
「だから―いいんですよ、甘えても…」
マリエルは音もなく滑らかに動いてケイトに歩み寄ると、その前にそっと膝を着いて、彼女の顔を覗き込んだ。
「マ、マリエル、何…?」
ケイトは当惑し、微かに上ずった声で問い返した。
「実は、もう1つあなたに贈り物があるんです。これは…私個人から、あなたに」
マリエルは柔らかな光をたたえた青い瞳をケイトにあてたまま、後ろに隠していた何かをケイトに差し出した。
手の平に乗るくらいの小さな白い箱にはピンクの可愛いリボンがついている。ものすごくマリエルらしくないと言ってしまえば、その通りだ。
「開けてみてください」
マリエルが優しく促すのに、ケイトはどきどきしながらリボンを解き、箱を開けた。花弁をモチーフにした半透明のケースの中には、淡い薔薇色を宿したピンクダイヤモンドのリングがきらめいていた。
ケイトははっと息を吸い込んだ。
「小さいけれど本物ですよ」
マリエルはちょっと照れたように咳払いをした。
「このデザインなら、あなたくらいの年の人がつけても嫌味じゃないし…その…一目見て、似合いそうだなと思って…」
「マリエル、宝飾店なんか、行ったんだ…」
ほっそりとしたプラチナの台の上で輝いている可憐な宝石に目を奪われたまま、ケイトはぼんやりと言った。
「初めはネットで探したんですけれど、やっぱり、こういうものは実際目で見て買った方がいいと思ったので。あんな店に足を踏み入れるのは生まれて初めてでしたよ。あなたに連れられていったクラブの次に緊張しましたね。おかげで、気がつけば、愛想のいい店員に言われるがままローンを組んでいました」
想像したケイトは思わず吹き出した。
「やだ、もう…せっかくうっとりしてたのに、マリエルってば、おかしなこと言うから…」
「私がこんな贈り物をするのが、それほど変ですか?」
口元を押さえてくすくす笑っているケイトにマリエルは当惑顔を向けている。
「ううん…そうじゃないの…びっくりはしたけれど…。すごく素敵よ、このリング…あたし、とてもとても気に入ったわ。あ…でも、こういう宝石って高いんでしょう? いいの、あたしなんかがもらって…?」
「他の誰にもあげません。あなたのためにわざわざ選んだんですよ」
ケイトはまたしても頬が赤らむのを覚えた。問いかけるようにマリエルを見つめると、彼はケイトを促すかのように頷く。
ケイトは躊躇いがちにケースからそっとリングをつまみ上げた。
「あたしの指のサイズなんて、分かったの?」
「大体は。私は割合正確に目算ができるんですよ。試して御覧なさい」
すると、あのドレスや靴を選んだのもマリエルだろうか。
「え、ええ…」
応えたものの、ケイトは迷った。
指輪と己の手の指を戸惑いながら見比べる。
どの指に?
「貸してみなさい」
じっと固まったままのケイトの様子にじれったくなったのだろうか、マリエルは笑いを含んだ声で言って、ケイトの手からリングを取り上げた。
「サイズは合っているはずですよ」
マリエルはケイトの左手を取り上げちらっと彼女の顔に目をやると、薬指に指輪をはめた。
「ほら…」
ケイトは息を詰めて、己の指を飾るリングを見つめた。
ステディ・リングとかエンゲージ・リングとか。指輪にも色々種類はあるけれど、鈍感かつ非常識なマリエルのことだから、わざわざこの指にはめる意味が分かっているのかどうか、微妙だ。
しかし―。
「素敵」
ケイトは己の左手を目の前に持ってきて、うっとりと呟いた。
「ありがとう、マリエル、でも―」
女の子をぬか喜びさせるのは反則よとたしなめかけて、マリエルが自分に向けている瞳に浮かぶ真剣さにケイトは出掛かった言葉を飲み込んだ。
「嫌なら、外してもいいんですよ、ケイト…」
そっと首を傾げて囁くマリエルにとっさに応えることができず、ケイトは胸の前でぎゅっと両手を握り締めた。
無表情の下に隠されたマリエルの本当の気持ちを読み取るのは、ケイトにはいつも難しかった。
自分の運命にばかりつい気を取られていたからというのは、しかし、言い訳に過ぎない。
もっと意識して、一番傍にいて自分を守ってくれている人の心を汲み取ろうとすれば、もう少し早く気がつくことができただろうか。
ずっとケイトの片思いとばかり思い込んでいた、マリエルが示してくれた優しさ、気遣いや慈しみ―彼自身の気持ちもそこにはこめられていたのだ。
「い…嫌じゃない…」
ケイトの長い沈黙を誤解したのかマリエルが悲しげに目を伏せるのに、ケイトは慌てて頭を左右に振った。
「嫌じゃないから、絶対」
訴える声は動揺のあまり震えた。
マリエルの顔をまともに見ることもケイトはしばらくできなかった。
「それは、よかった」
マリエルがほっとしたように呟く。
ケイトは心を静めようと目を閉じた。思わず、確かめるように左手のリングに触れてみた。
夢じゃない。
マリエルが静かに立ち上がる気配がした。
顔を俯けたままケイトが様子を窺っていると、マリエルはステレオに近づいていった。
いつの間にかレコードは終わっていた。たぶんマリエルは別のレコードを選んでいるのだろう。
ケイトが耳を澄ませていると、やがて新しい曲が鳴り始めた。
この曲はケイトにも馴染みがある。
「ムーン・リバー…とても広い河…いつの日か、私は胸を張って渡ってみせる…」
ふと口ずさみ、ケイトは目を上げた。
「確か昔の映画の主題歌だったわね」
ステレオの傍に立っているマリエルはケイトの方に顔を向けて頷き返すと、彼女の後を引き取って、しばらく歌を口ずさんだ。
「ケイト」
マリエルが呼びかけるのに、ケイトは微かな期待感が胸の奥からこみ上げてくるのを感じながら微笑み返した。
「何、マリエル?」
すると、マリエルは誘うようにケイトに手を差し伸べた。
「踊りませんか?」
ケイトは瞬きをした。
マリエルは穏やかな表情で佇んだまま、ケイトをじっと待ち受けている。
どこかで見たような情景に、ケイトの心臓の鼓動はいきなり速くなった。
「え…ええ、マリエル」
ケイトはソファからぎこちなく立ち上がった。
マリエルの青い瞳に浮かぶ微笑は深くなり、それに引き寄せられるようにケイトが近づくと、彼は優しい仕草で彼女の手を取った。
ひんやりと、月の表面のように冷たく滑らかなマリエルの指先―。
「緊張しないで」
梢を微かにそよがせる風の音めいた柔らかなテノールが耳に心地よく響く。
「ちゃんとリードしますよ」
こんな情景ならば、おそらく、ケイトは夢の中で何度も見た。
決してケイトが太刀打ちできない、この世のものではない恋人達を腕に抱いて、マリエルが踊る。ゆったりと流れるように、踊る…。
(でも、これは…夢じゃない)
しっとりとした曲に合わせて、2人は踊り始めた。
ケイトはまばたきすることも忘れて、己を見下ろすマリエルの瞳をひたむきに追った。不思議な輝きに満たされた、どこまでも透明な青は、ケイトにふとこの世界の彼方にある別の場所から差してくる光を思い起こさせた。
『向こうの世界はどんな所か、分かる?』
かつて、ケイトはそう尋ねた。
『いいえ。言ったでしょう、私はどちらにも行かれないんです』
マリエルはそう答えた。
『ただ私は知りたいんです…感じたいんです、この生の先にあるものが何なのか、一線を越えた時に何が見つかるのか』
マリエルが訴えた切望を、今なら、ケイトも理解できる。
(私はもうじき、あの世界に行くのよ。あなたもまだ知らない、向こう側には何があるの…? そこを照らし出すのは、明るい陽の光ではなく、あのまばゆい巨大な月の光なのかしら―子供の頃死にかけたマリエルが垣間見たという…。ねえ、生命は皆最後には光となって、あの世界に戻っていくの…?)
いつの間にか、ケイトは自分が今マリエルと一緒に踊っているのは、見慣れたいつものリビングではないような気がしてきた。
部屋を照らす暖色のルームライトは消え、まるで深い水の底にでもいるかのような青白い光がどこからか差し込んでくる。
光。光。この不思議な輝きの源は、何?
窓の方に何気に目をやると、昼間でもないのに光が溢れ返っていた。太陽のように眩しすぎるものではなく、いつまでもじっと見つめていられそうな、青白い光。
そうして、窓の外にはやはり、熱のない炎の渦のような化け物じみた月がかかっている。
眺めているうちにケイトは我と我が身が引き寄せられるのを覚え、憧憬と不安の入り混じった感情を掻き立てられたが、マリエルの手が彼女をしっかりと捕まえていてくれた。
あそこに向かって旅立つのは、まだ少し早い。
2人は今、現し世と彼方にある別の世界の狭間、この世の果てで踊っている。
死期の近づいた今だからこそ、ケイトは、こうしてマリエルに追いつき、彼と共に刹那の幸福におぼれることができる。
しかし―。
(今だけ?)
ふいに、ケイトは焦燥感にも似た激しい感情をかきたてられた。
(いいえ、あたしは、あそこに行きたくない。マリエル、叶うなら、あなたと一緒にここでずっと踊っていたい…そう、2つの世界の狭間で、永遠に)
マリエルの確かな手が、ケイトが迷わぬように導く、ともすれば恐慌に変じそうな不安に足元から崩れ落ちてしまいそうな体を支えてくれる。
(もしも一線を越えて旅立つなら、あなたと一緒がいい…ううん、あなたを道連れにしたいわけじゃないの…)
ケイトはふいに足を躓かせた。
「あっ」
マリエルが素早く彼女を抱きとめる。
「大丈夫ですか?」
ケイトはマリエルの腕の中で小さく喘いだ。
レコードからはまだ音楽が流れている。胸の中に染み渡り、この世界を隅々に至るまで満たし、やがて、潮が引くように遠く小さくなって消えていく。
(あたしを離さないで欲しい…例え死が2人を分かとうとしても、渡さないで。そう、マリエル、あなたなら―できる)
ケイトはすがりつくようにマリエルの腕をぎゅっと掴んだ。
指先が震えた。
マリエルが己をじっと見ているのが分かる。
(永遠に)
ケイトはいつの間にか泣いていた。その自覚もないのに、熱い涙が呆然と見開いた目から溢れ出し、張り詰めた頬を伝って落ちていく。
思わずマリエルの視線を避けるように目を閉じてうつむこうとするケイトの頬に、マリエルのひんやりとした手が当てられた。
「マリエル…?」
問いかけようとするケイトの唇を、素早く身を屈めたマリエルが唇で塞いだ。
ほんの一瞬の触れ合い。
もっとひんやりとしているかとか思われた、彼の唇は意外に温かだった。
羽のように微かに触れただけの口付けが、静かな衝撃となってケイトの胸の奥深くに伝わっていく。
(マリエルは、死んだ人としか、こういうことはしないのかと思ってたわ…)
あまやかに痺れた頭の片隅でケイトは思った。
「ねえ、マリエル、あたし…あなたにお願いしたいことがあるの」
あまやかに震える胸の奥からこみ上げてきた言葉を、ケイトはマリエルに向かって囁いた。
「あたしが死んだら、その時は―お願いよ、マリエル、あなたの手であたしにエンバーミングをして」
マリエルはケイトの肩を優しく抱いてくれている。
マリエルの胸に顔を押し付けたケイトは、その表情を見ることはなかった。
マリエルの心臓の鼓動は? その瞬間、凍りついて止まっただろうか。
「そうして、もしもあなたが…そうしてもいいと望んでくれるのなら、どうかあたしを―」
ケイトを抱くマリエルの手は? その時、慄きのあまり痙攣しただろうか。
「お願い…」
ケイトの懇願は、最後は不明瞭に掠れ、消えた。
沈黙が下りた。
音楽は死に絶え、外からの物音も一切聞こえず、耳を澄ませば互いの体を流れる血の音さえ聞こえそうな静寂の中、マリエルの手がケイトの頭にのせられる。
相変わらずの静謐とした優しさで、マリエルはケイトの髪をいたわるように指先ですいた。
マリエルの変わらなさは、秘めてきた希望をついに打ち明けたことに呆然となっているケイトにとっては、ある意味ありがたかった。彼が普通の人のように取り乱したり、ケイトの正気を疑うような言葉を投げかけてきたりしたら、ケイトはきっともう彼の傍にはいられないだろう。
だが、結局、マリエルは、ケイトの望みに対する答えをすぐには与えてくれなかったのだ。