第7章せめてダンスを(1)
今年は例年よりも涼しいせいか、リンゴの花の開花も遅れそうだと聞いていた。
「ああ、でも蕾はもうたくさんついているわ」
「来週辺りから気温が上がると天気予報では言っていましたから、そうなると咲く時は一斉に花開きそうですね。きっと見事な眺めになると思いますよ」
春の盛りのこの季節、手入れの行き届いた庭で綺麗に咲いた花々の世話をしていたケイトとマリエルは、じきに花を咲かせそうな大きなリンゴの樹の下で一休みをしている。
「この庭もだけれど、家の敷地の外の街路樹やリンゴ畑の花も咲きそろったら、マリエルがよく言っているように、きっとすごく綺麗でしょうね。よかったわ、あたし、この分だとちゃんと見ることができそう―」
うっかり口から滑り出た言葉に、ケイトは一瞬顔を曇らせたが、すぐに明るい表情を取り戻した。
「ね、約束よ、マリエル。花が咲いたら、一緒にピクニックしましょうね」
マリエルは何事もなかったかのようにケイトを見下ろして、穏やかに微笑みながら頷き返す。
「ええ。必ず」
時間はさらさらと優しく流れていく。
ケイトがここで暮らすようになって数週間が経っていたが、彼女にとっては、もっと前からずっとそうしていたようにも、同時に瞬く間に日々が過ぎ去ったようにも感じられた。
「ここでの暮らしは快適ですか? 何か欲しいものがあれば遠慮せずに言ってくださいね。私は、仕事以外では、あまり細かいことにまで気が回りませんから」
「あら、すごく満足しているわよ、マリエル。そんなにあたしを甘やかせると、うんと我が侭を言って、あなたを困らせるかもしれないから」
「いいんですよ、甘えても」
その柔らかな声にこもった親しみ。
マリエルがケイトの上に置いた目を愛しげに細めるのに、彼女はつい胸をときめかせた。
恋人でなくてもいい。マリエルがケイトを愛していてくれるならば。
「ううん…そうね…特に欲しいものといってももう思いうかばないけれど…こんな幸せな時間がずっと続いてくれたらいいのにと思うだけで…」
ケイトはふと遠い目になって、ぼんやりとリンゴの樹についた蕾を見るともなく見やった。
ここでの生活を始めた最初の夜のことをケイトは思い出していた。
真っ暗な夜の闇の中、急に絶望と恐怖の発作に襲われて泣きじゃくるケイトをマリエルはしっかりと抱きしめて、その静謐とした優しさで慰めてくれた。
意外に温かな胸、その優しい腕に抱かれる心地よさに浸りながら、ケイトは、その時、己の最後の願いをはっきりと自覚したのだ。
(マリエル、お願いよ、もしもあたしが死んだら、その時は―)
常軌を逸した願い事を、しかし、ケイトはマリエルに打ち明けることができないでいた。勇気が持てなかった。
断られれば、それきりだ。そんな恐ろしい頼みごとをするケイトをマリエルがどう思うかも気になる。
(ううん、たぶん、叶えられなくてもいいの。ただ、あたしは夢を見ていたいだけ)
そう、もしも、この幸せな瞬間を氷結させて永遠に保たせることができたなら―。
(マリエル、あなたの傍で、とこしえに)
まだ堅いリンゴの花の蕾を見上げながら、ケイトはこぼれんばかりに咲き誇る白い花々を、雪のように舞い落ちる花びらの幻を追っていた。
花びらの乱舞の中には、ゆったりとした動きで円を描くように踊るマリエルがいる。
マリエルの死んだ母、あるいはサンドラ・リーブスを相手に踊るマリエルの姿をケイトは夢で見たことがあったが、この夢想の中で彼が腕に抱いているパートナーはケイト自身だ。
くるくると2人が回る度に翻る、ケイトの白いドレスの裾とマリエルの長い銀の髪。
踊る2人を見下ろすのは、マリエルが語った、この世のものならぬ巨大な月で―世界はその蒼白い月の光に満ちている。
(あたしは夢を見る)
明るい陽光が降り注ぐ昼の最中にありながらも、ケイトの黒い瞳は彼方から差す別の光をはっきりと映し出していた。
ある日、ケイトが作業所を掃除していた時に偶然見つけたのは、グリーンヒル・モチュアリー社が用いるエンバーミングの依頼書だった。
思いつくままに、ケイトはその依頼書一式をマリエルには内緒でもらっておいた。
体調に問題がない限り大学の講義にも出、後はマリエルと2人きり、この郊外にぽつんと建つ家で過ごすケイトを訪ねてくるのは、もっぱらポールだった。ルイも週末毎には様子を見にきたが、仕事が忙しいのとケイトがここにいることに内心では複雑な思いを抱いているからか、めったにケイトと個人的な話をすることはなかった。
だから、ケイトの相談相手となると、やはりポールしかいなかった。
「遺言書?」
マリエルが傍にいない時を見計らって、ケイトはポールに一通の封筒を手渡したのだ。
「そんな大げさなものじゃないんだけれど。あたしの親が遺してくれた財産とか不動産っていうの、そんなものの処分については、ルイさんが紹介してくれた弁護士さんと相談して、あたしがいなくなった後はその人に任せようと思うの。ただ…あたしのごく個人的な細かい希望は誰か信頼できる人に頼みたいなと思って…」
いつもは冷静なポールも、ケイトの思わぬ申し出には少し戸惑ったようだが、それを表に出すことはなかった。
「そうか。いざという時に備えて、これを俺に預かってもらいたいということなんだな。しかし、俺を信頼してくれるのはありがたいが、ケイト、いいのか…? おまえさんがこれを託すべきなのは、おそらくマリエルではないかと思うのだが」
ポールの理性的な態度にほっとしながら、ケイトは素直に答えた。
「そうね…ただ、マリエルには、あたし、どうせなら自分の口からちゃんと話しておきたいの。いきなり遺言書なんて突きつけられたら、彼は彼で動揺すると思うもの。あんまり感情を出さない人だけれど、本当はとても繊細でしょ、マリエルって。…あたしのために、今でもとても無理をしていると思うの。だから、様子を見て、こうして欲しいんだけれど任せてもいいかしらってあたしから彼に頼むようにするわ」
マリエルには自分から話すとポールに言ったものの、ふいにケイトは怖気づいて、言葉を切った。
「ただ、そのタイミングが…ううん、マリエルにこんな頼みごとをすること自体、あたしにも勇気がいることなの…。たぶん、直接話そうが後で遺言という形で知ろうが、マリエルにとってはショックな内容よ。…ううん、やっぱりあたしが言わなきゃ…黙ったまま逝ってしまうなんて卑怯よ。ね、ポール、その手紙はもしもあたしがマリエルに打ち明ける機会を得られないまま突然死んでしまった場合を考えての保険のようなものなの。そこには、マリエルにあたしが頼みたいことが書いてある。でも、それをマリエルに無理強いしちゃ駄目。彼ができなければ、できないでもいいの。あたしは、ただ、あたしの夢を伝えることで安心したいだけなんだから」
ここで初めて、落ち着き払ったポールの顔にも、不吉な予感にも似た疑念と不安がうかびあがった。
「ケイト、お前さんは一体何をあいつに頼もうというんだ? まさかと思うが―」
ケイトは、数瞬の間困ったように黙り込むと、曖昧な笑顔をポールに向けた。
「だから、言ったでしょ、これはただの夢想なの。叶えられなくても、別にいいのよ」
ケイトは何か言いたげなポールから顔をそむけるようにして、微かに震える指で己の腕を強く掴みしめた。
痛い。
(痛みを感じるということは、あたしはまだ生きているんだ。でも、じきにそれも感じなくなるのよね。あたしの心はなくなって、体もすぐに朽ちるでしょう。今でも…もう半分くらいあちらの世界に行っているようなものかしら…? この現し世にも属せず向こうにあるわけでもない…)
奥深いところからこみ上げてくる本能的な恐怖から逃げようと懸命に足掻きながら、ケイトは、大きく見開いた瞳でひたすらこの世のものではない夢を追っていた。
この夢想の中にまでは、近づきつつある死の影も入り込んでこない。
(ああ、マリエルが感じている気分って、もしかしたらこんなふうなのかしら。この世の果てをふわふわと漂っているかのような…)
ふと、2つの世界の狭間に立っているマリエルと今の自分の距離は案外とても近いのかもしれないと、ケイトは思った。以前は手を伸ばしても届かない月のように遠く感じられたマリエルなのに、今は傍にいる。
だからこそ、マリエルもケイトに同胞に対するような親しみを示し、愛情を注いでくれるのかもしれない。
(恋人でなくてもいい。結ばれなくてもいい。死が2人を分かつまでしかもたない愛なら、あたしはいらないの。マリエルは、そんな愛し方はしない人だから―好きになった…)
ケイトが今切実に求めるのは、結局、死を乗り越えたところにある、永続する『何か』なのかもしれなかった。
目を閉じると、ほら、今はとても近い場所に立つあの人が誘うようにケイトに向かって手を差し伸べている。
どこからともなく降り注ぐ青白い光、舞い散る白い花びら、甘酸っぱい花の香り―2つの世界の狭間から呼ぶ、あの不思議な声が聞こえる。
(月の下で、踊ったことはありますか?)