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この世の果て  作者: 葉月香
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第6章遠雷(5)

「取り敢えず必要なものはこれで全部だな、ケイト?」

 アパートからマリエルの家に荷物を運ぶのを手伝ってくれたポールに、ケイトは感謝の気持ちを込めて言った。

「ええ。ありがとう、ポール、今はこれで充分よ。後で思い出したら、すぐ取りに帰ればいいことだし」

「マリエルはあまり細かいことに気の回らん奴だからな。足りないものがあれば、遠慮などせずに俺なりルイなりに言った方が早いかもしれんぞ」

「あは、そうね。その時は、よろしく」

 マリエルが用意してくれた2階の部屋に、ケイトの私物をつめた段ボール箱を持って上がると、ポールは部屋の快適さをチェックするようにぐるりと見渡した。

「カーテンは新しいものに換えた方がいいな。色あせて擦り切れてきているぞ。だから、こういうところが気がきかんのだ、あの男は」

 でかい図体の割に、ポールは濃やかな性格をしていた。

「そうね…」

 あいまいに頷いて、ケイトは部屋の窓を開いた。下に広がる庭を見下ろした。

「あ、この間植えた花の苗、結構葉がのびてきたみたい」

「おまえさんのおかげで、あの殺風景だった庭の印象が随分変わったな…全く、マリエルには花を育てようという発想がそもそもないからな」

 ポールはケイトの後ろに立って、若々しい緑が広がりつつある花壇を見下ろした。

「そうでもないわよ。あたしと一緒にあの苗や球根を楽しそうに植えてたわよ、彼」

「ほう、それは意外だな」

 ケイトは肩越しにポールを見上げた。穏やかな微笑を浮かべたポールの態度には、以前と変わったところはないように見える。ルイから聞いて全てを知っているはずなのに、思う所は色々あるだろうに、それをおくびにも出さない。今のケイトにとって、ポールの変わらなさはありがたかった。

「ね、ポールって、マリエルの幼馴染なのよね」

 ふと、思いつくままに、ケイトは言った。

「まあ、そういうことになるかな…家の近くに綺麗だが風変わりな子が住んでいると親が言っていたのが小学校の頃だったか…。奴は学校も休みがちで、ほとんど言葉らしい言葉も交わしたことはなかったが、とにかく目立ったから、記憶には残っていた。まさか、自分がこんな形でマリエルの下で働くことになるとは夢にも思わなかったがな。それが、どうかしたのか?」

「ううん、ポールってもしかしてマリエルと仲が悪いんじゃないかと疑ったこともあったけれど、実際そうでもなかったなって。マリエルのことをすごくよく見ているし、気遣っているし…何ていうのか、ちゃんとマリエルのことを気にかけている人がここにもいた、ああ、よかったと思ったの」

 ポールはふと神妙に顔になった。

「俺は、マリエルの考えや感じ方を受け入れることはできない。しかし、奴の仕事が、ある人々を苦悩から救っていることは、身をもって知っている。その点に関しては、俺は確かにマリエルは傑出した人物だと認めている」

 どこか遠い目をして、一言一句噛み締めるように言うポールをケイトは不思議そうに眺めた。

「俺の一人娘のキャシーがな、マリエルのエンバーミングを受けたんだ」

「え、ええっ?」

「あれから、そろそろ2年になるのか…妻が運転中に追突事故に遭った。とっさに妻が車内から出たとたんに車は炎上して…彼女は娘を助けようとしたが火の回りが早すぎてできなかった。幼い娘を自分のせいで死なせてしまったと半狂乱の妻をなだめるために、俺は娘の遺体をマリエルに任せたんだ。後のことは、お前さんにも想像がつくだろう?」

「そう…そんなことがあったの…」

 ポールの妻は、マリエルの手によって生前の姿を取り戻した娘を見、それによって救われる思いがしたのだろう。例え錯覚に過ぎなくても、在りし日の美しい姿のまま、愛娘は彼女の記憶に刻み込まれたのだ。

(ポールは…あたしのあの話も聞いたはずよね、たぶん…あたしが死んだらマリエルにエンバーミングを頼むつもりだったなんて…ポールはどう思ったのかしら…?)

 今となってはマリエルに頼むことなど不可能だし、また、その意味のなさも痛感しているケイトではあったが、身内に起こった悲劇を乗り越えてきた、この穏やかな目をした男ならば、感情的なものではない達観した意見が聞けるのではないかと思った。

 だが、結局、ケイトが胸の底に依然としてわだかまっている思いを口にすることはなかった。

 ポールはふいに窓の外に何かを見つけたのか、微かに身を乗り出すようにした。

「作業所前にもまだ手つかずの花壇があるじゃないか。あそこにも花を植えたら、これから夏にかけて、ぐんと庭が華やかになるぞ」

 ケイトは我に返ったように目をしばたたいた。  

「ええ、実はあたしもそれを考えていたの。今度、マリエルと一緒にホームセンターに行って夏に咲く花の種や苗をいっぱい買ってくるわ」

 ちょっと小首を傾げて、ケイトは考え込んだ。

「バーベキュー・セットも買おうかしら。せっかく季節もよくなったんだし、芝も刈って、庭を綺麗にしたら、ルイさんやポールも一緒にここでパーティーしましょうよ。あ、もちろんマリエルに許可をもらわなきゃいけないけど」

「私になら、構いませんよ」

 後ろでお馴染みの淡々とした声がしたのに、ケイトとポールはぎょっとして同時に振り返った。

「マ、マリエル…」

 開けっ放しにしていたドアの向こうに、マリエルが腕を軽く組んで立っていた。

「あなたがしたいというのなら、バーベキューでもピクニックでもやりましょう。私も、大勢の知らない人間と知らない場所でのパーティーというのは苦手ですが、ルイやポールなら見慣れた顔ですし、たまにはいいでしょう」

「あ、ありがとう…」

 居候として遠慮しつつも嬉しさを隠し切れないケイトに、マリエルは目を細めるようにして仄かな笑みをうかべた。 

「ランチにとスパゲッティを作ったんです。温かいうちに食べませんか? ポール、あなたもまだ時間は大丈夫でしょう?」

「ああ」と、ポールは少し神妙な顔で応えた。

「お前の手料理をご馳走になるとは、夢にも思わなかったな」

「何、不安そうな顔をしてるんですか?」

「そうよ、ポール、こう見えても、マリエルはなかなか腕のいいコックなんだから」

 ケイトは自分の口から自然な笑い声が出ることに驚いていた。

一時は、もう何の希望もなく、最期を迎えるまでの短い日々を不安にさいなまれながら過ごすしかないのだと半ば覚悟していたというのに、今のケイトは笑っている。

明日や数日後、次の週末の楽しい計画を立てている。そうして、傍らにはマリエルがいて、かつてないほどに打ち解けた態度でケイトに接してくれる。

(まるで夢のよう)

 ケイトがマリエルの家に引っ越した、その日―。

 ランチの後は、ポールは事務所に戻っていったので、ケイトはマリエルと2人で自分の部屋をそれらしく整えた。 

 カーテンは後日改めて買いに行こうということになった。殺風景な部屋の壁には、ルイがくれた風景画を飾り、ケイトの持ち物―クローゼットには服を入れ、気に入りのCDや本を本棚に並べ、机の上には亡くなった両親の写真の入ったフォトフレームを置いた。こうすると生活感のなかった部屋が、安心してくつろげる雰囲気に変わった。

「大学はどうする気なんです?」

 段ボール箱の中にケイトが学校で使っていた数冊の専門書を見つけて、マリエルが尋ねた。

「ううん…どうしようかな…。倒れたり入院したりで結構休んじゃったし、レポートも提出期限に間に合わなかったし、単位は無理だと思うの。どうせ、もうすぐ夏休みだし、このまま休学ってことにしようかしら…」

 ふっとケイトの胸に影が差した。休学といってもいつか復帰できる見込みなど、ケイトにはもうない。大体、長い夏休みが明ける頃まで、ケイトの体がもつかすら分からない状態なのだ。

「ううん、もう学校は退学の手続きをするわ。これからのことを考えたら、元気なうちに、そろそろ身辺整理もしておかないといけないし。何となく未練で、教科書なんか持ってきちゃったけれど…考えたら、あたしには必要のないものよね…」

 思わず言葉を切り、ケイトは嘆息をついた。

「あたし、好きだったんだけれどな、大学…卒業して、一人前のエンバーマーになるよう一生懸命修行して…そうして、いつか憧れのエンバーマーのあなたに会うことがあたしの夢だった…」

「それなら、夏休みに入るまでは講義には出たらどうですか? このまま何となく終わらせてしまうのも、あなたにとっては心残りでしょう」

「そうね…」

「そんなうかない顔をしないで下さい。それに、あなたの夢なら一部とはいえもう叶ったでしょう?」

 ケイトはマリエルを振り返った。

「あなたは私を見つけて、そうして、私の傍でエンバーミングの仕事をしてきたじゃないですか。初めの頃は使いものにならなかったけれど、この頃は、まあ合格点を付けてあげてもいいくらいに、助手として役に立ってくれていますよ」

 慰めというよりむしろ事実を淡々と述べているような落ち着いた態度のマリエルを、ケイトはじっと見つめた。

「うん…うん、そうよね」

 ケイトはマリエルに眼差しを当てたまま微笑んだ。

「マリエルの言うとおり、やっぱり、この学期だけはきちんと終わらせるようにするわ。友達とも、できたらちゃんとお別れをしておきたいし…何も言わないままいなくなるっていうのも、考えたら薄情だもの」

「あなたのしたいようにすればいいんですよ、ケイト」

 マリエルの穏やかさは、ケイトの気持ちを和らげてくれる。

 自分の最期を前提にした身辺整理の話などを割と平気な顔でできるのも、そのせいだろうか。

 実際、死を間近としながらも、ケイトの心は以前よりずっと楽になっていた。今までは1人でずっと背負い込んでいたものを打ち明け共有できる人が今は傍にいる。それだけで、今のケイトはある種の幸福感すら感じていた。

 マリエルを巻き込んでしまったことにはすまなさを感じてはいるけれど、それでも、こうしてここにいられることがケイトは嬉しい。

「ケイト、ここで暮らす上で1つだけ約束して欲しいのですが…」

 マリエルが、ふいに真剣な口調で呼びかけるのに、ケイトは注意を引かれた。

「少しでも体に異常を覚えたら、我慢したり隠したりせず、すぐに私に言って下さい。あなたの薬物療法についてはドクター・ブリルから指示を受けてはいますし、できる限り在宅ケアを受けられるようにしてあげますが…もし病院での治療が必要となっても嫌がらないでください。発作の兆候のようなものを少しでも感じたら、私に伝えるんですよ」

 ケイトはとっさに言葉に詰まった。本当は、もう入院などしたくはない。しかし、マリエルのまっすぐに己を見据える青い瞳にこの瞬間揺らめいた、何かしら切迫したものにケイトは胸を突かれた。

「ええ、分かったわ、マリエル。約束する」

 マリエルにしても、本当は平静でいられるはずがない。それなのに、ケイトが安心して暮らせるよう、己の不安感は胸の奥底に秘めている。

「マリエルのおかげで気の進まない入院生活から逃れて、ここで快適に暮らせるんだもの。あなたの言うことはちゃんと守るわ」

 ケイトがにこりと笑って素直に応えるのに、マリエルも安堵したようだ。

「あなたの傍にいられるだけで、あたしは今最高に幸せで、満足しているんだから」

 もちろん、その気持ちは、ケイトにとって嘘ではなかった。

「…病気といっても、あなたの食欲が人並みにちゃんとあるのは、ほっとしますよ」

 夜になり、ローストしたチキンとサラダのディナーの席で、マリエルはケイトがおいしそうに彼の手料理を頬張る様に目を細めた。

「前に入院しながら抗癌剤の投与を受けてた時は、すごく体が辛くて、食欲も落ちて随分痩せたんだけれど。今はあの時みたいな強い薬は使ってないから。うん、このチキンもハーブがきいてて、すごくおいしいわよ。料理をおいしく食べられる間は、あたしもまだまだ大丈夫よね」

 マリエルは応えず、白ワインのグラスを口に持っていった。

「マリエル、ルイさんが、あんまりお酒は飲み過ぎない方がいいって言ってたわよ」

「仕事とこれ以外に楽しみがない私なんですよ?」

 ケイトがちょっとたしなめる口調で言うのに、マリエルは苦笑した。

「大目に見てくださいよ」

 そう言って、マリエルは己のグラスにまた新たなワインを注いだ。

 ケイトは、その様をじっと見守っていた。 

「あたしも、少し飲もうかな…」

 普段はほとんどアルコールは飲まないケイトがそんなことを言うのに、マリエルは少し怪訝な顔をした。

「ここでの新しい生活を始めるお祝いに」

 どことなく甘えた調子のケイトに、マリエルは微笑み、新しいグラスを持ってくると彼女のためにワインを注いだ。

「酔っ払わないでくださいよ」

「やだな、マリエルみたいに大酒飲んだりしないわよ、あたしは」

 マリエルが差し出したグラスにケイトは手を伸ばした。その瞬間、ケイトの手がマリエルの手に触れた。

「あ」

 マリエルのひんやりした滑らかな肌に触った途端、ケイトは何故かうろたえて、手を引っ込めた。

「どうしたんです?」

 不思議そうに首を傾げるマリエルをケイトは困ったように見つめた。

「ううん、何でもない…」

 マリエルの顔を間近で眺めながら、これからはこの人と同じ屋根の下で一緒に暮らすのだということをケイトはふいに意識した。好きな人と同じ家で暮らすなんて、これっていわゆる同棲なのかなぁなどと考えてしまった。

 途端に、ケイトの心臓の鼓動は早くなる。

(今までだって、ちょくちょくこの家には泊めてもらったのに、今更何を意識して…大体、あたしはマリエルのことが好きだけれど、マリエルの方には全くそんなつもりはないんだし…大切だとは言ってくれたけれど、あれはきっと方便みたいなもので、本当はあたしのことは可哀想だから放っておけないくらいにしか、マリエルは思っていない…)

 ケイトの当惑をまるで知らぬげに向かいの席でワインを味わっているマリエルの顔を、ケイトは薄っすらと頬を紅くしながら見つめていた。

(本当にマリエルと一緒にいるんだ、あたし…夢じゃない、一番好きな人がずっと傍にいてくれる…)

 ケイトがマリエルと共同生活を始めた、その夜は何事もなく静かに更けていった。

 それは、ケイトが仕事で遅くなった時にそのままマリエルの家に泊まった、他の夜と取り立てて変わりはなかった。

 食事が終わると2人は隣のリビングに移動し、コーヒーを飲みながらここ数日の計画などについて少し話し合った。それが終わると、丁度ケイトがいつも見ているテレビのクイズ番組があったので、マリエルと一緒に見た。やがてケイトが先にシャワーを浴び、まだリビングにいて雑誌を見ていたマリエルにお休みを告げて、己にあてがわれた部屋に引きこもった。

 まず明日は、マリエルと一緒にホームセンターに買い出しだ。庭に植える花の苗をたくさん買おう。マリエルの好きな花を選びたいが、彼に任せたら、それこそ百合ばかりになってしまいそうだ。

「今日みたいに天気がよければいいな…」

 ベッドの中で、ケイトはわざとのようにそう声に出してみた。

 マリエルはまだリビングにいるのだろうか。そうしているうちにバスルームに人が入っていく物音がした。ケイトはじっと耳を済ませたが、すぐに慌てて頭を振って、布団を首まで引き上げた。

(今ここに、サンドラさんやサミュエル君みたいな魅力的な遺体が安置されていなくてよかった。死んだ人にやきもちを焼きながら、悶々と過ごすのはいくらなんでも辛すぎるもの…)

 その時、ケイトは己がマリエルに向けて叩きつけた恐ろしい願いを改めて思い出した。 

(本当に、どうして、あんなことを言ってしまったのかしら…? 自分のエンバーミングをして欲しいなんて、マリエルを傷つけ、戸惑わせるだけの願いなのに。望んだところで叶えられるはずがないと分かっていた。大体、近しい身内もいないあたしには、エンバーミング自体あまり意味がない。真剣な願いというより、単なる夢想だったのよ。なのに、どうしてかしら、あたしはまだこだわっている…?)

 ケイトは考えにふけりながらとろとろとし始め、いつしか眠り込んでいった。

(どうして…? あたしは…マリエル、あたしはたぶん…あなたに…)

 自覚はしていなくても、引越し作業で疲れていたらしい。発作を起こし、数日間の入院治療を経たおかげで、また少し体力が落ちたのだとは、ケイトは考えたくなった。

(マリエル…あたしは、たぶん…もし許されるのなら、あなたと…)

 ゆっくりと夢の中に滑り落ちていながらも、その思いはずっとケイトにまとわりついていた。





 冷たく重苦しい闇がケイトを押しつぶそうとしていた。

 目覚めている時は気がつかないところまで退いていても、夜、1人になるとたちまち戻ってくる不安感に満ちた悪夢だった。

「あっ…ああぁっ…!」

 ケイトは己の悲鳴で目を覚ました。

「うう…?」

 周囲に垂れ込めた濃い闇を睨みつけるケイトの両目から、涙が零れ落ちた。

 ケイトは汗びっしょりになった体をベッドから起こすと、ここがどこなのか確認するかのようにゆっくりと辺りをうかがった。

 大丈夫。ここはマリエルの家だ。何も恐がることなどない。

 そう自分に言い聞かせても、ケイトは体の奥から込み上げてくる震えを抑えることはできなかった。彼女は己の体に両手を巻きつけ、声を抑えて泣いた。

「あ…あぁ…」

 またしても、あの救いようのない不安が、絶望的な恐怖が甦ってくる。

 ケイトの足元からじわじわと触手を伸ばし、絡み付いて、さっき夢で見た、あの冷たい闇の中に引き込もうとする。

 分かっている。あれはケイトに取り付いた死のイメージだ。ケイトの家族を次々と飲み込んでいった、じきにケイト自身にも訪れる、逃れえぬ運命だ。

「どうして…どうして、あたしばかりが、こんな目に遭うのよ…!」

 言っても仕方のない繰り言だと分かっているのに、どうしても口をついて出てしまう。

「どうして…!」

 悔しい、悔しい、悔しい…。

 その時、部屋の扉が軽く叩かれた。ケイトは嗚咽の漏れかけた口元をとっさに手で押さえ、顔を上げた。

「マリエル…?」

 おずおずと呼びかけると、扉が遠慮がちにそっと開いた。

「大丈夫ですか?」

 半ば開いた扉の向こう、廊下から差し込んでくる明かりを背にしてマリエルがひっそりと佇んでいた。

 白っぽい長い髪を肩からはおった黒いガウンの上に流して、物言わず、人らしい気配もさせずに立つ姿は、いっそ墓場から甦ってきた幽鬼じみていた。それとも死神だろうか。

 それを眺めながら、ケイトはひっそりと笑った。

(もし死神なんてものが存在するなら、こんなふうな姿をしていたらいいのに。そうしたら、たぶんあたしは、死ぬ時も恐いなんて思わないから)

 ケイトは苦笑し、頭を振った。

「マリエル…どうしたの…?」

 じっと沈黙したままのマリエルに、ケイトはやっとの思いで呼びかけた。

「あなたが、1人で泣いているような気がしたんです」

 ケイトは小さく息を吸い込んだ。

 シーツの上に置いた手に起こった震えを、ケイトはぎゅっと握りつぶした。

「あ、あたしは…平気…よ…」

 強がるつもりが、不覚にも語尾が震えてしまった。

 マリエルの手がさっと上がり、部屋の灯りのスイッチを探るのに、ケイトは思わず叫んでいた。

「灯りはつけないで!」

 言われるがまま、マリエルはスイッチに伸ばしかけた手を下ろした。いきなりケイトに感情をぶつけられても、彼は戸惑わなかった。

「そこに行ってもいいですか?」

 ごく低い穏やかな声音で、マリエルは懇願するように囁いた。

 ケイトはあえぐように息をしながら、大きく見開いた目でマリエルをひたと見つめた。

「あ…あた…し…」

 あまりにも複雑な感情と多くの言葉が胸の中でせめぎ合い、先を争ってあふれ出そうとしている。喉の奥がつかえたようになって、ケイトは声を出すことができなかった。

 すると、マリエルは無言のまま動いた。扉は半分開けたままにして、ケイトの部屋の中に入ってきた。

「マリエル…」

 マリエルはほとんど足音もさせずにケイトに近づいてくると、固唾を呑んで見守っている彼女を脅かさぬようベッドの端にそっと腰掛けた。

 ケイトはやっとの思いで声を絞り出した。

「だ…大丈夫よ…恐い夢をちょっと見ただけで……本当にたいしたことじゃないんだから…ごめんなさい、心配させちゃって…」

 マリエルは首をそっと傾げた。

「そんなことを聞きたいわけじゃないんですよ、ケイト」

 マリエルは手を伸ばして、ケイトの頬に触れた。あんまり突然だったので、ケイトは身を引くこともできなかった。

 マリエルはケイトの流した涙を指先でそっとぬぐった。

 ケイトは慌ててマリエルから顔を背け、手の甲で目元をごしごしこすった。

「やめなさい、ケイト」

 むきになったように顔をこすり続けるケイトの手をマリエルが捕らえ、引き剥がした。

「マ、マリエル」

 ケイトは何かしらはっとして、マリエルを見上げた。この暗がりでは、彼の表情ははっきりと見えなかったが、その真摯な気遣いは伝わってきた。

 ケイトは胸の奥底から再び熱いものが込み上げてくるのを覚えた。

「う…っ…」

 ケイトは堪えきれずに低い嗚咽を漏らした。唇を噛み締め、うつむいた。

 そんなケイトの頭をマリエルは引き寄せ、胸にもたれさせた。

 ケイトは、一瞬身を震わせた。信じられない思いでじっと息を殺していたが、すぐにぷつんと抑え続けてきたものが切れたような気がして、ケイトはマリエルの痩せた体にひしとすがりつき、低い声で泣き始めた。

「マリエル、こんなの…嫌……マリエル…あたし…あたしは…まだ…やりたいこともいっぱいあるのに…何もかもこれからなのに…っ…死にたくなんかない!」

 一度形にすると感情はもう抑え切れなくなった。

 こんな赤裸々な告白を、今までケイトは誰にもすることができなかった。打ち明けるべき相手が見つからなかった。

「どうして…どうして、あたしなの! 他の人じゃないの! こんなの嫌よ、嫌、嫌…ああぁっ!」

 まるで己をこの世につなぎとめてくれる唯一の鎖であるかのように、ケイトはマリエルにしがみ付いてその胸に顔を押し付け、泣いた。

 こんなふうに、好きな人に無様に取り乱した姿を見せるなんて、少しも綺麗じゃないどろどろとした思いをぶちまけるなんて、どうかしている。

 今の自分がケイトは信じられなかったが、胸の奥にたまった澱をそうしてかき出していきながら、次第に気持ちが落ち着いていくのを感じた。

 マリエルはそんなケイトを静謐とした忍耐強さで受け止めている。彼はいつも余計なことは何も言わない。

 泣き叫ぶケイトの声は次第に低い嗚咽となり、やがて細い切れ切れの呻吟が半ば開いた震える唇から漏れるだけとなった。

 やがて、それさえも、雨があがるように、やんだ。

 ケイトは涙の溜まった目を薄っすらと開いた。

「…いい匂い」

 マリエルの体には仄かな百合の香りが染み付いている。死者のための手向けの花だと彼は言っていた。

「ケイト?」

 マリエルは、ようやく落ち着いてきたケイトをあやすように抱きしめてくれている。ずっと、このまま彼の優しい腕に抱かれていたいと、ケイトは思った。

「マリエル…好き…」

 ビロードのような柔らかな声が応えた。

「…ええ」

 そう遠くない未来、ケイトはマリエルにさえ手の届かない彼方へと飛び立つだろう。追ってきて欲しいなどと望むわけではない。けれど、この抱擁はあまりに心地よくて、叶うならば、永遠に続いて欲しいとさえケイトは思った。

(あたしをこのまま離さないで、どこにも行かせないで)

 叶わない夢とは知っていたが、もしも、この瞬間を氷結させて永遠に保たせることができたなら―。

 脳裏に閃いた思いに、ケイトは思わず身震いした。

(あたしは、やっぱり、どうかしている。こんなことを考えるなんて、でも―)

 その瞬間、ケイトははっきりと自覚した。

(マリエル、マリエル、あなたの傍にずっといたい…だから、お願い、あたしが死んだら、その時はあなたの手で―)

 死を前にした今、それがケイトに残された唯一の希望だった。 


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