第6章遠雷(4)
ケイトは病室の窓から外をぼんやりと見ていた。
この部屋は4階で、外の景色といっても隣の病棟が見えるくらいだったが、本を読んだりテレビを見たりする気にもならなかったので、そうやって1人空しく時間を費やしていた。
容態は安定しているので、ケイトが頼めば、ドクター・ブリルは彼女が自宅に帰るのを許してくれただろう。
しかし本当は、これ以上の1人暮らしなどさせたくないというのが、ドクターにとってもケースワーカーのミセス・スミスにとっても本心だとケイトは知っている。
今回のように突然発作を起こしてまた倒れたら、どうする。誰かが傍についていてくれればいいが、もし自宅で1人きりの時にひどい発作に襲われたら、ケイトの命はおそらく失われるだろう。
(これ以上の我侭は言えないわよね…入院して、ホスピスを受けるようにしたら、皆安心する…やっぱり、そうしよう…これ以上意地を張っても仕方ないもの。在宅治療って言ったって、一緒に暮らしている家族があって初めて成り立つものだし、それに今更どうしてもやり遂げたい心残りなこともあたしにはないし…)
ここまで考えて、ケイトは暗くなった。
(もう、いいじゃない。少しの間でも、憧れのマリエルの傍で働いて、あの人の不思議な世界を垣間見ることができた。それに、ほとんど片思いに近いものだったけれど、恋もできた…最後の最後でマリエルにあんな苦しい顔をさせてしまったことが心残りといえばそうだけれど、もう、あたしにはどうすることもできないから…マリエルに会うことはもうできないから…)
ケイトの胸の奥がきりきりと痛んだ。これは病気によるものではない。
(ああ、あたしって、自分で思っていたより、ずっと欲張りみたい)
ケイトが胸を押さえて苦笑した、その時、病室のドアを叩く音がした。
「はい。どうぞ入って来て下さい」
てっきり、それはケースワーカーのミセス・スミスかと思ったのだが、ケイトの予想は外れた。
「ル、ルイさん?」
ドアが開き、ドクター・ブリルと一緒に入ってきたのは、仏頂面をしたルイだったのだ。一瞬目を真ん丸く見開いた後、ケイトは、ばつが悪そうな顔になった。
「ご、ごめんなさい…あたし…」
てっきり非難されると思って、ケイトはベッドの中で身を縮めるが、ルイは苦笑しながらかぶりを振った。
「そんなに緊張しなくていいですよ、ケイト。あなたに言いたい文句がないわけではありませんが…わたしもさすがに病気の女の子をいたぶる気にはなれませんからね。それに―」
ルイは意味ありげに肩越しに後ろを振り返った。その視線を追ったケイトは、次の瞬間、あっと叫んでいた。
「マ、マリエル?!」
自分が見ているものを、ケイトはとっさに信じることができなかった。ぽかんと口を開けて、ルイとドクター・ブリルの後ろではにかんだような微笑を浮かべているマリエルを見つめることしかできないでいた。
「今後の治療方針について、この人達も交えて相談したいと思ってね」と、ドクター・ブリルが口を挟んだ。
「ケイト、私は君に今度こそ入院を勧めるつもりだったんだが、マリエルから意外な申し出があってね。彼は自分が保護者となって君が在宅治療を受けられるようにする用意があると言っているんだ」
「えっ…えっ…?」
ドクター・ブリルは一体何を言っているのだろう。あまりに突然の展開についていけず、ケイトは布団の端を神経質に引っ張りながら、ドクター・ブリルとマリエルの顔をおろおろと見比べた。
ブリルはマリエルとルイに入ってくるよう促すと、ケイトのベッドの脇に立った。彼はケイトが理解できるよう、もう一度、ゆっくりとした口調で噛んでふくめるように説明した。
「私は主治医としてできるかぎり君が望む形の治療を受けさせてあげたいと思っている。しかし、昨夜のような事態が今後も起きるだろうことを考えると、とても君に1人暮らしなどさせられないんだ。だから入院させるしかもうないと考えていた…だが、今朝マリエル達が私のもとを訪れて、今後は君を保護下におき在宅のホスピスを継続させたいと申し出てくれたんだ。君のことは家族のように大切に思っている、だから君が穏やかに暮らせるようにできる限りの協力をしたいとマリエルは言っている。幸い彼は医師でもある。もし君が希望するなら、私はこの際マリエルに君を任せてもいいかもしれないと思っているが…どうだろうか?」
ケイトは全身を耳と化してブリルの言うことに聞き入り、しばしじっと考えをめぐらせていた。ようやく理解できたのか、その青ざめていた顔がゆっくりと紅潮し、暗く沈んでいた瞳がきらきらと輝きだした。
「マリエル…」
ケイトは肩を何度も上下させて、ブリルの後ろに静かに控えているマリエルに向かって震える声で囁きかけた。
「ほ、本当なの…あ、あたしを…あなたの傍にいさせてくれるって…」
ふいに苦しげに顔を歪め、ケイトは混乱する頭をかきむしった。
「ああ、でも、そんなこと駄目…あたしはあなたに嘘をついて、あんなにあなたを傷つけたのに…一緒に暮らしたりなんかしたら、ますますあなたに迷惑をかけて、辛い思いをさせてしまう…やっぱり、そんなことは無理よ…」
ケイトにはこの突然の申し出をただ素直に喜んで受け入れることはできなかった。混乱するばかりの彼女の様子をしばし気遣わしげに見守った後、ブリルはマリエルに向き直った。
「どうやら、少しの間君達だけで話しあった方がいいようだ。私は席を外すから、ケイトが納得するまでじっくり相談してくれ」
そう言い残してブリルは部屋を出て行き、少しの間逡巡したルイもその後に続いた。
そして、部屋にはマリエルとケイトだけが残された。
「マリエル…」
ケイトは頼りなげな幼女のような顔で、マリエルを見上げた。
そんな彼女に、マリエルは無言のまま近づいた。櫛の通っていない、ピンとはねたケイトの髪に触れ、優しく撫でた。
「寝癖がついてしまっていますよ…」
ふっと微笑んで、頭を撫でていた手を滑りおろし、マリエルはケイトの頬に触れた。
優しい気遣いのこもった手つきで、マリエルはケイトの頬を撫でた。
マリエルがこんな親愛の情を示すのは死者だけだと、ケイトはずっと思っていた。死者に嫉妬してしまうことさえあったケイトだが、今は、マリエルの愛情は彼女のものだった。
「あなたの肌は温かい…」
マリエルはしみじみとそう言った。
「私はこうやって触れて、確かめることができる。あなたが生きていてくれることに、私は今幸せを感じています。絶望するのは、まだ少し早いんです。ケイト、あなたがこの世にいるかぎり、ずっと…私はこうしてあなたの存在を感じたい…」
マリエルは不意に身を屈めた。ケイトの額に軽く唇を押し当てた。蝶の羽がかすめるような優しいキスに、ケイトの心臓は震えた。
「私の傍にいてください、ケイト」
応えることもできないでいるケイトの体をマリエルはそっと引き寄せた。彼女が苦しくならないよう慎重に、しかし、ありったけの想いを込めて彼はケイトを抱きしめた。
「マリエル…」
マリエルの腕の中で、ケイトはほっと息をついた。体を捕らえこんでいた緊張が解けていく。心をがんじがらめにしていた絶望が、躊躇いが、恐怖が、潮が引くようにケイトから遠のいていく。
この腕はケイトを守り、支えてくれる砦のようだ。
「あたし、あたしも…あなたと一緒にいたい…もしも許されるのなら、あたしの時間が終わるまで、あなたの傍で過ごしたい…でも…マリエル、本当にいいの…?」
どうしたところでケイトが死ぬ運命は避けられない。分かっていながら、マリエルに自分の介護をさせ、最期を看取らせる。そんな重荷を彼に背負わせることなどとてもできないとケイトは思った。
しかし、マリエルはケイトのためらいを思いのほかはっきりした口調で退けた。
「この私がそうしたいと思っているんです、ケイト。私があなたのためにできることがあるのなら、その全てをあなたにしてあげたい。このままあなたを1人で逝かせてしまったら、私は死ぬまでずっと後悔し続けるでしょう。あなたは私にとって、大切な人なんです。だから、お願いです、あなたに残された時間を私にくれませんか?」
ケイトの両目に涙が盛り上がった。
こんなことが本当に起こるなんて、ケイトには信じられなかった。マリエルがこんなふうにケイトを抱きしめ、こんな優しい言葉を語りかけてくれるなんて―。
「夢みたい」
ケイトはマリエルの胸に頭を預け、うっとりと目を閉じた。風に吹き弄られる紙のように震える瞼の間から、きらきらと光る涙が頬に向かって流れ落ちていった。
「このまま…ずっと覚めないで欲しい…あたしが生きていられる、ほんの僅かな時間でいいから―」
「ケイト…」
ケイトは細い腕を伸ばすとマリエルの体にひしとしがみついた。今にも滑り落ちてしまいそうな断崖にかろうじて取り付いている人のように。一瞬でも力を抜いて手を離してしまえば、遥か下方でぱっくりと黒い口を開けている深淵にケイトは転がり落ちていってしまうだろう。
ケイトの不安をなだめるようとするかのごとく、マリエルは指先で彼女の髪をすいてくれている。
彼の温かい胸に濡れた頬を押し付け、ケイトは心の底から懇願した。
「うん…うん…マリエル、お願いよ…あたしをここから連れ出して…最後まであなたと一緒に、あたし、生きたいの…」