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この世の果て  作者: 葉月香
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第6章遠雷(3)

 死体しか愛せない男と、恋する相手に己のエンバーミングをして欲しいなどと頼む娘と、一体どちらが、より常軌を逸しているのだろう。





「自分のエンバーミングをあなたに頼むつもりだったなんて、そんなことがよくも言えたものですよ!」

 マリエルの家のリビングである。

 ぐったりとソファに沈み込んでいるマリエルに、ルイがコーヒーを煎れて持ってきた。

「病気のことを黙って騙すようにしてここで働いていたことだけでも、裏切られた気分なのに、この上またあなたを苦しめるようなことを頼みごとなんて…身勝手にも程があります…いくら、自分の命が残り少ないからって、他人を巻き込んで傷つけてもいいはずがない…」

 マリエルの気持ちを慮りケイトに対して憤慨していたルイだったが、それでも、一瞬込み上げてきた感情を抑えかねたように黙り込んだ。

「本当に、一体どうしてあんなに若い人がこんな目に―」

 ルイは暗鬱な面持ちになって、ぎゅっと唇を噛み締めた。絡みついてくる嫌なものを振り払うかのごとく頭を振ると、マリエルの前のソファに腰を下ろした。

「マリエル、大丈夫ですか?」

 マリエルは眼差しを伏せたまま、じっと口を閉ざしていた。

「もちろん、大丈夫なはずがありませんよね。ケイトのことは、あなたはとても気に入って…もしかしたら、生きた人間であなたが初めて心を開いた相手かもしれなかったのに…」

 マリエルは眉間にしわを寄せた。そっと持ち上げた手でこめかみを押さえ、苦く笑った。

「私は、本当に死に取り付かれているのかもしれない」

「マリエル?」

「私に関わった人、私が少しでも好ましいと思った人は、皆、私を残して死んでいく人達ばかり…そういう巡り合わせなのでしょうか」

「まさか、マリエル、それは考えすぎですよ」

 ルイは慌てて否定しようとするが、実際その通りであるものを、慰めようもなかった。

「私は、ケイトから逃げるようにして帰ってきてしまいました…彼女を支えてあげたい、一緒に彼女の病に立ち向かいたいと思っていたのに…ドクター・ブリルから予めケイトの病状を知らされた時に覚悟を決めたはずなのに…ケイトのあんな痛々しい姿を目の当たりにして…私には何もできなかった。自分自身のエンバーミングをなんて、あんな哀しい頼みごとを聞いて…私は動揺するばかりで…彼女を慰める言葉の1つさえ、どうしても言えなかった」

「あなたのせいではありませんよ、マリエル。あなたが動転したのは、それだけ、あなたがケイトに感情移入をしていたからです。身内や親しい友人や恋人のように…あなたの中にそんな人間らしい感情を呼び起こしてくれたケイトなのに…それを思うとわたしも残念でなりませんが…でも、これ以上ケイトに関わろうとはしないでください、マリエル」

 マリエルははっとなって顔を上げた。

「だって、こうなってはケイトがここで働くことなど無理ですし、あなたがケイトのことをどれほど案じていても、あなたが個人としてできることなど、もうないでしょう。あなたは死者と接することには慣れていても、これから死んでいく人にどう接すればいいのかなど分からない。ましてや、好意を抱いている相手ならば尚のこと、ただ辛くて、自分の無力さに打ちひしがれるだけですよ。わたしには、あなたが傷つくと分かっていながら、ケイトのもとに行かせることなどできません」

「でも、ルイ、ケイトは私の―」

 マリエルの反論を、ルイは強い口調で遮った。

「恋人などとは、どうか言わないでくださいよ、マリエル。それでは、あまりに悲惨すぎる。確かにわたしも一時はケイトと付き合うことがあなたのためになると思って、彼女を後押したりもしましたが、こうなってしまっては…」

 マリエルは何か言いたげに唇を震わせるが、結局諦めたようにルイから顔を背けた。

「どうか、もうケイトに会いにいこうなどとしないで下さい」

 ルイはマリエルの肩にそっと手を置き、慰めるよう囁いた。

「取り敢えず明日にでも、わたしがあなたの代わりに病院に行ってケイトの様子を見てきますから…あなたの気持ちが静まるまでは、エンバーミングの仕事も入れないようにしすので、ゆっくり休養を取ってください」

 マリエルは何も応えず、疲れたようにソファに身を預けたまま目をつむった。

 ルイは、マリエルが心配だったからか、しばらくそこに残ったまま事務所に電話をして指示を与えたりしていたが、午後も遅くなって、どうしても社に戻らなければならなくなったからと出て行った。

 それでも、夜には再びルイは電話をかけてきて、マリエルの様子を尋ね、もし必要なら今夜はそちらに泊まりにいこうかなどと言っていた。

 しかし、そんなルイの気遣いも今のマリエルにとってはわずらわしいだけだったので、素っ気無く断った。

 実際、ルイや他の誰かが傍にいてくれても、マリエルを捕らえこんだ懊悩も惑乱も少しも和らぎはしないだろう。

(私の周りは死者ばかり…)

 いつも通り、マリエル1人きりの静かな夜は更けていく。

 マリエルは、熱い湯をいっぱいに張ったバスタブに愛用の香料を落とし、その中に身を沈めた。

今日は別にエンバーミングをしたわけでもないのに、ひどい疲れが澱のように体の芯にたまって、手も足も重くだるい。

自分のものだというのにその実感のない腕を、マリエルは湯の中でゆっくりとマッサージしてみる。その腕が、ふと、ベッドの上に投げ出され点滴のチューブにつながれたケイトの力ない腕と重なった。

 マリエルは慄いたように目を閉じ、激しく頭を振った。

(なぜ…?)

 バスタブの傍らに置いたシャンパンのグラスを取り上げて、マリエルは一気に飲み干した。よく冷えたシャンパンが喉を流れ落ちていく感触に、一瞬生き返ったような心地がした。

マリエルはすぐに新たなシャンパンをグラスに注いで、それも同じように一息に飲んだ。とっさにむせて咳き込んだ。

「こんな悪い飲み方をしては、いつか本当にここで酔いつぶれて溺死するかも…」

 ルイに言われた小言を思い出して、マリエルは苦笑する。

(ケイト)

 またしても、ケイトの青ざめた小さな、泣きたいのを懸命に堪えて無理に微笑もうとしていた顔が脳裏にうかびあがった。

(なぜ、あの人が…あの人までも…)

 振り払っても振り払っても追いついてくる陰鬱たる考えに、マリエルは項垂れた。

 マリエルが愛した数少ない者達は、皆、もうこの世にいない人間ばかりだった。そんな運命を、マリエルは今までそういうものなのだと淡々と受け入れてきた。そのことを特別不幸だとも思わず、寂しいとも意識しなかった。

 生きた人間達の間では、マリエルはいつも孤立して、1人でいる時よりも余計に疎外感と孤独を覚えるだけだった。

 生きている者達とは縁が薄いが、その代わり、マリエルには死者達がいた。例え共にいられる時間は短く、すぐにマリエルの傍から連れ去られていく存在ではあっても、彼らと共有した一時、彼らの発する輝きはマリエルの心にいつまでも残り、この世とあちら側の世界の狭間に立つ彼を支えてくれた。

 そんなマリエルでも、時には、この世で当たり前に生きる人間達の生活に憧れた。

 しっかりと地に足のついた、あの人達のいる世界とはどんなふうなのだろう。しかし、その世界は、マリエルにとっては太陽のようにまぶしすぎて長く見つめることはできないものだった。

 もう1つの世界。マリエルがかつて幻の中で見た、巨大な月の支配する、不思議な光に包まれた場所に彼の一部はつながれていた。その世界からの呼び声が、マリエルをいつも死者の世界に引き戻すのだ。

(ケイトは…いつもお日様のように明るくて、前向きで、心から生きることを楽しんでいるようで…私はてっきり彼女は陽のあたる現し世に属する人だと思っていた。私もケイトのように生きられればいいのにと、もしかしたらうらやんだこともあったかもしれない。私は、彼女のそんな当たり前の部分、私とは違う健康な生命の輝きに惹かれたのだと思っていた。けれど…)

 マリエルはグラスを床に転がすと、ぐったりとバスタブの中に横たわった。

(ケイトは時折、普段とは全く異なる空気を漂わせる。あの明るく輝く無邪気な瞳の奥底に、ふとした折に覗く影のようなもの…私にとっては、どこかで見たことのあるような馴染み深さで…でも、全くケイトには似つかわしくないものだから、あれを見る度いつも不安を覚えた。今なら、あの陰りが何なのか私には分かる。あれは、私が長いずっと付き合い続けたもの…死の影だったのだ)

 マリエルは両手で顔を覆い、胸の奥から搾り出すような深い吐息をついた。

(もしかしたら、私がケイトに惹きつけられたのも、彼女の中に見出した『死』の匂いゆえだったのだろうか) 

 瞑った瞼の裏側に、マリエルと一緒に仕事をしていた時のケイトの人懐っこい笑顔が浮かび上がる。あんなにも生き生きと輝いて、今この時を精一杯ひたむきに楽しんでいたのは、その命がじきに燃え尽きるものであったからだ。ケイト自身がそのことを知っていたからだ。

(何ということだろう…ではケイトまでも行ってしまうのだ…私の行かれない向こう側に…あの笑顔ももう見ることはできず、あのうるさいおしゃべりも二度と聞かれなくなる…そんなこと…そんなこと私には想像もできない…)

 ルイの言うとおり、死者と付き合うことには慣れていても、これから死にいこうという者に向き合うことになど、やはりマリエルは耐えられないのかもしれなかった。死に対する恐怖を感じたことはこれまでなかったが、ケイトが自分の手の届かない世界に行ってしまうということに、彼は激しい抵抗を覚えている。

 死を味方につけているはずの男が、この瞬間、ただの人になってしまったかのようだ。

(駄目だ、やはり私には…耐えられない…ケイトが死んでいく姿を見るなど、とても…)

 マリエルは胸の上に手を置いた。痛い。哀しみに押しつぶされそうな心臓が悲鳴をあげている。

だが、ケイトが発作の時に覚えた痛みはこんな生易しいものではなかったのだろう。死の恐怖からくる不安感も、こんな甘いものではないのだろう。

 マリエルはバスタブの縁に手を置くと、ゆっくりと全身を湯の中に沈めていった。水中でじっと息を止め、瞼にうっすらと透けてくる仄かな光を見続ける。幼い頃に垣間見た死者の世界を包む光を再び呼び戻そうとする、彼にとっておなじみの儀式だった。

 初めはルームライトが瞼を通して差し込んでくるだけの淡い光に過ぎなかったものが、やがて不思議な拍動を帯びた光の渦に変わっていく。マリエルが焦がれ続ける、この世のものならぬ光、生き物が死ぬ時に爆発したエネルギーかもしれない、まさに命の輝きそのものだ。

(お母さん…あなたも他の人たちも皆、今はそこにいるんですか…? 私が束の間出合い、愛し、別れた人達…誰も彼も皆、私を取り残してそこに行ってしまう…私は1人ここに残される。この世にも属せず、向こう側に行くこともできない、この狭間で1人…)

 マリエルの瞼の裏側に、ケイトの面影が弾けた。

(ああ、そして、あなたまでも…行ってしまうのだ)

 引きとめようとするかのごとく、マリエルは腕を伸ばした。

(駄目だ、行かないでください…私をもう1人にしないでください…それができないのなら、私もそこに一緒に連れて行って欲しい…これ以上の孤独にはもう耐えられない…)

 マリエルの肺がついに限界を超えた。口から水泡が吐き出され、ほとんど反射的に動いた腕が、彼を水中から引き上げた。

「あ…あ…あぁ…」

 マリエルはバスタブにしがみ付いたまま、しばし咳き込み、激しく喘いだ。目からは、知らぬ間に熱い涙が迸っていた。

 マリエルが愛した者達は、皆、既にこの世を去っていた。ケイトはまだかろうじて生きてはいるが、後どのくらい彼女の命はもつものなのだろうか。

(あたしが死んだ時は、あなたにエンバーミングを頼みたいと思って、それであなたを探していたのよ) 

 ケイトの悲痛な声が、マリエルに囁く。マリエルは聞くまいとするように耳を押さえ、頭を振った。できるはずがない。

 マリエルはバスタブから立ち上がった。

 壁にかけてあったバスローブを濡れた素肌にまとい、別に寒い訳でもないのに強烈な震えに見舞われたかのように我が身をかき抱いた。

「こんなにも無力な私が…彼女のため、他に何ができると…?」

 ケイトのエンバーミングなど、マリエルにとっては論外だった。

 例え、それがケイトのたっての頼みであったとしてもだ。

 ケイトを救えるものなら救いたい。だが、迫りつつある死の影に怯えるケイトのために、マリエルにできることなど果たしてあるのだろうか。

(私は死を生業とするもの…普通の人にとってはぞっとするだけの私の仕事をあの人は認めてくれた。私が見ている向こう側の世界のことも、死者への傾倒も理解してくれた…それどころか、私の話を聞いている間は、死の恐怖を忘れられたと言ってくれた…)

 マリエルは濡れた長い髪から滴る雫が床に落ちるのに任せたまま、じっと立ち尽くしていた。

 ふと傍らの洗面台に目を向けた。大きな鏡に写った己の姿に息を飲む。一瞬、母の亡霊かと思った。


 愛する者は、皆、墓の中。


 ふいに抑えようのない激情が胸の奥からせり上がってきた。マリエルは洗面台に近づき手をかけると、鏡に向けて悲痛な声で囁いた。

「なぜ…なぜなんです…?!」

 無論、鏡に映るのはマリエルの青ざめた顔であり、それを通じて死者が彼に語りかけることなどない。時折、そんな気がすることはあるが、ただの錯覚だ。

 激しい音と共に、鏡が叩き割られた。

 マリエルは呆然と、それをした、自分の拳を見下ろした。

「違う…」 

 マリエルは濡れて乱れた長い髪をかきむしり、千々にばらけていってしまいそうな自分を必死につなぎとめようとした。

 違う違う違う…。

 マリエルは血がにじむほどきつく唇を噛み締めた。

 ひび割れた鏡の残骸から彼を見つめる顔。ひび割れ、歪んで映る、それは他の誰のものでもない、マリエル自身の鏡像だ。亡霊など、どこにも潜んではいない。

 マリエルは突き放すように鏡から離れ、背を向けた。何かしら憑き物が落ちたような顔をして、肩でほっと息をついた。 

 死者は、所詮死者。向こう側の世界に渡ってしまった者達。

「ケイト…」

 だが、ケイトは死者ではない。だからこそ、苦しみ、傷つき、死の恐怖に怯えもする。

「そう、あなたは違う…まだ、この世界に存在している。生きている」

 マリエルが話しかければ、それに応えてもくれる。嬉しい、哀しい、辛い…。

 マリエルがケイトのためにできることは、何もエンバーミングだけではないのだ。

 視界を閉ざしていた暗く濃い霧が突然晴れたような気分がした。

「そう、今なら間に合う…遅すぎることなどない…」

 かつて、母が死んでいるのを見つけた時、幼いマリエルは1人で彼女の体を洗い清め、綺麗に装わせてやった。それが、愛する者のために、あの時の彼ができる唯一のことだったからだ。

 だが、ケイトの場合は違う。彼女の時間は僅かとはいえまだ残されているのだから、マリエルが彼女にしてやれることも、ずっとたくさんあるはずだ。

「私が、あなたのためにできること…」

 マリエルは今、不思議な高揚を覚えていた。痛みが完全に過ぎ去った訳ではないが、少なくとも先程までの絶望的な気分からは浮上することができたようだ。

 何故なら、ケイトはまだ生きているから―。

 ケイトにもう二度と会えないと悲嘆にくれるのはまだ早すぎると、マリエルにも分かったのだ。

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