第1章彼方から(2)
それから3日後のことだ。ケイトがそのメールを受け取ったのは。
『Fアベニューのスターバックス・カフェに、木曜の6時。
目印として、百合の花を。 M』
その素っ気無い事務的なメールに、ケイトは狂喜した。
この3日というもの、日に何度もメールをチェックし、外出先から帰る度に郵便物を見、留守番電話にメッセージが残されていないか調べ、そわそわと落ち着かない心地で過ごしたのだ。
ルイは、最後には必ずケイトが『M』と会えるよう取り計らうと約束してくれたけれど、ひょっとしたら後で気が変わったかもしれない。結局望みは伝えられないまま、ケイトは空しくただ待ち続けているだけなのかもしれない。そんな疑いも時には沸きあがってきた。
あるいは、ルイが例え誠実に約束を守って『M』に伝えたとして、肝心の『M』自身がケイトと会うことを拒否したとも考えられる。人と会うことを極端に嫌うなかなか変わった人物だというではないか。いくら叔父と知りあいだったとはいえ、一度家族のエンバーミングをしただけの顔も見たことのない相手にわざわざ会おうという気持ちにはならないかもしれない。
そんな不安を抱えつづけた末のこの嬉しいメールだったものだから、ケイトは舞い上がって喜んだ。そうして、そのままの勢いで電話に直行し、ルイのオフィスに連絡を入れた。
「はい、グリーンヒル・モーチュアリ社です」
聞き覚えのある声が電話に出るや、ケイトは喜びを押さえきれずに一気に話し出した。
「ルイさん、あたしです、ケイトです。今日、メールが届きました、『M』からです。あたしと会ってくれるんですって! ありがとう、あなたのおかげです。あたし…ごめんなさい、あなたのことをちょっと疑っていたけれど、ちゃんと約束を守ってくれたんですねっ…本当にありがとうございます」
勝利を告げるラッパのように嬉しげに、放っておけばそのままいつまでもしゃべりつづけそうなケイトを、ルイの戸惑い気味の声が遮った。
「ちょっ…ちょっと、待ちなさい、ケイトさん…ああ、なるほどあの方からメールが届いたんですね。それはよかった。では、少なくともあなたの顔を見てやろうという気にはなってくれたんですよ。運がよかったですね、機嫌の悪い時は、それさえも邪魔くさいとはねつけられますからね」
「ええ、あなたのおかげです」
「だから、待ちなさいって…実際メールには、何と書かれていたんですか?」
「ええ…あさっての夕方6時にスターバックスで待つようにって。そうそう、百合の花を目印として持ってくるように書かれていました」
「ああ、そういうことですか。分かりましたよ。いいですか、ケイト、ぬか喜びをさせるようですが、今の状況ではあなたが『M』と会えるかどうかは五分五分ですよ」
「どういうこと?」
「あの方は、自分があなたをそれと認識できるように目印に百合の花をと注文をつけてきた。あの方のいつものやり方なんですよ。あまり気の進まない初めてのクライアントに会わなければならない時の。大通りに面したいつも混み合っているカフェで目印を持って待つクライアントを、あの方は相手からは知られずに観察することができる。そうやってしばらく眺めた後、これは会ってもいいかと思えば声をかけ、気に入られなければそのまま相手を置き去りにして帰ってしまう」
「帰っちゃうのっ?!」
「…いつものことなんですよ。あなたの喜びに水をさすようで申し訳ありませんが」
「そんな…」
とたんにしおしおと打ち萎れて、受話器を握り締めたままケイトは壁に背中をもたせかけた。
受話器を通しても彼女の落胆ぶりが伝わったのだろう、心配そうなルイの声が付け加えた。
「絶対帰ってしまうと決まったわけじゃないんですから…とにかく指示通りに百合の花を持って…確かカフェの近くに花屋があったでしょう。そうして目立つ所に席を取って、待つことですよ。まあ30分待って来なければ、あきらめた方がいいでしょうね」
ケイトは壁にもたれかかったまま深い溜め息をついた。
人嫌いとは聞いたけれど、どうやら本当に相当な偏屈らしい。叔父の友人ならば、おそらく50代半ばくらいの気難しい研究者タイプ。もしかしたら恐い人かもしれない。何とか会えたものの、迷惑そうな顔をされたり突き放されたりしたらどうしよう。
『M』に会えたら、彼が本当にケイトの求めるような人であったら、ぜひ彼に頼みたいことがあるのだが。
「ミス・ハヤマ…? ケイトさん…?」
受話器からは、まだルイの気遣わしげな声が響いていた。
それへ、初めに電話をした時とは打って変わって力の抜けた声で短い受けこたえをして、ケイトは受話器を下ろした。
こうなっては、もう取り敢えず言われたとおりにして、『M』の出方を覗うしかなかった。
どうか声をかけてくれますように。一目見ただけで嫌になって帰られるほど見かけは悪くないつもりだが、好印象を持たれるよういつもよりちょっとよそ行きの格好をしていこう。
それから、百合の花。綺麗な大きな花束を用意したら気にいって、人嫌いの『M』はケイトの前に姿を現してくれるのだろうか。しかし、女性であるケイトが男性のために花束をというのも妙なシチュエーションだ。
それにしても、どうして百合の花なのだろう。
(ううん、理由なんてどうでもいい。とにかく彼があたしに会ってさえくれるなら…)
そう気持ちを切り替えて、後は期待と不安のない交ぜになった心を抱えて、ケイトはひたすら待ちつづけた。
そうして迎えた、その日―。
約束の木曜日は雪になった。
朝のうちは小雪が舞う程度だったのだが、昼過ぎになってもまだ雪はやまなかった。それどころか激しさを増して次第に降り積もるようになり、夕方には交通機関に支障が出てくることを恐れていつもより早めに帰宅する人々が白く塗りかえられた往来を急ぎ歩いていた。
そんなおちつかなげな人々で溢れる街のメインストリート、Fアベニューに面したスターバックス・カフェ。
隣の花屋で買った、薄いパープルの紗になった紙と青いリボンで飾られた百合の花を手に、ケイトは、『M』との待ち合わせ場所に指定された、そのカフェに足を踏み入れた。いつも若者やビジネスマン達で混み合っているカフェは、この時も外の寒さから束の間の避難場所を求めてきた客達でいっぱいだった。
ミドルサイズのカプチーノを注文したケイトは、空いている席を探してトレイを片手に店の中をしばらく歩き回った。丁度うまいタイミングで通りに面した窓際の2人がけテーブルから立ちあがって帰る客がいて、そこに落ちつくことができた。ここならドアが開いたらすぐに分かるし、店の中もよく見渡せる。腕時計を確認すると6時5分前だ。店の中を見渡した限りそれらしい人物は見当たらないようだが、まだ『M』は来ていないのだろうか。
ケイトは百合の花をテーブルの上に目立つように置いて、カプチーノを一口すすった。
ああ、寒かった。こうやって温かいものを飲むと生きかえる心地がする。
それから手元に置かれた百合の花をしげしげと見下ろした。結局買ったのは1本だけだが、それでも充分に目立つ、見事な大輪の真っ白い百合。
(百合って結構香りがきついんだ)
そんなことをふと思い、ケイトは別に読むつもりもないのにバッグから半分読みかけのペーパーパックの小説本を取り出し、テーブルの上に置いた。
腕時計をもう一度確かめると、針は丁度6時を指していた。そっと肩で息をつく。
すると店のドアが大きく開いた。ケイトはびくりとなって、そちらを振り返った。仕事帰りらしい若い女性の二人連れだった。落胆の溜め息をついて椅子に座りなおし、カプチーノを両手で包むように持ったまま、ケイトは何気なしに目を外に向けた。
日はほとんど落ちていたが、道沿いに立ち並ぶ店の灯りとオレンジがかった街灯の光で街は明るく照らされている。光の中を静かに降りしきる雪は、とても綺麗だ。またあの中に出ていって帰らなければならないという事実を思い起こさなければ、うっとりとあきることなく眺めていられる。しかし、窓の外を背中を幾分丸めるようにして足元に気をつけながら必死に歩いている人々の様子を見ていると、嫌でも現実を思いださずにはいられない。
この分だと、一晩中降りつづけるかもしれない。明日の朝の大変さを今から想像してケイトはうんざりした。
テーブルの上に置いた小説の上に手を置いて、ケイトはちょっと考えこんだ。
読むふりだけでもしてみようか。何もせずにぼうっと待っているのも、何だか辛い。
店の中をまた見渡してみた。案外、知らない間にもう来ていたりして。客達の中に潜んで落ちつかなげなケイトの様子を、彼は密かに観察しているのかもしれない。
カフェの中では、客達はそれぞれ連れとの会話に熱中し、あるいは1人雑誌を読みながらコーヒーを飲み、誰ひとりケイトに注意を払う者はいないように見える。
早くも疲れたような気分で、ケイトは再び視線を外に向けた。
天からの白く音のない洪水は、いつ果てるとも知れない様相を呈している。
もしかしたら、この雪のせいで『M』は来る気をなくしたのかもしれない。
ケイトの家は街の中心にあり、すぐ傍に地下鉄の駅もあってこのまま雪が積もってもそれほど困ることはないと思うが、車やバスしか足のない郊外に住んでいたりしたら、こんな天気の日にわざわざ外出しようとは思わないだろう。だが、それならそれで『M』から断りのメールか電話くらいあってもいいものだが。
ケイトは、この雪がどこから来るのか見極めようとするかのように視線をずっと上に動かしてみたが、道路の向こう側に立ち並ぶ高い建物の上に覗く僅かな空は街の灯りと雪でぼんやりと霞んで、定かには見えなかった。すぐにあきらめて、また目を前の大通りに向け、何気に行き交う人々を眺め始めた、
その時、ふと彼女の注意を引くものがあった。
車道を挟んで、このカフェの向かい側に高級婦人服店のウインドーがきらびやかに輝いている。その前の歩道の端に、黒いロングコートの人物がこちらに体を向けて立っていたのだ。
他の人々は皆、車道のこちら側でも向こうでも、それぞれ目指す方向に顔を向けて必死で歩いている。この寒さのせいで店のウインドーを覗いていく余裕もない様子なのに、その人だけは違っていた。この雪も身を切るような寒さも、己の周りを急ぎ通りすぎていく人々も全く気にならないといった風情で、コートのポケットに両手をさり気なく突っ込み、1人、このカフェの方に体を向けて何かを見ているのだ。後ろの店の灯りとすぐ傍らにある背の高い街灯が、その人の姿を淡く照らしている。長く伸ばしたほとんど白と見紛うばかりの銀髪が印象的だ。
(綺麗な人)
ケイトはテーブルの上に肘をつき手の上に軽く顎を乗せるようにしながら、ぼんやりと思った。
長い髪のせいで一瞬女性かと思ったけれど、どうやら男性のようだ。それならば尚のこと、その浮世ばなれした美しさは驚きだった。しんしんと降りしきる雪の中に立つその姿は、人というより雪の精か何かのようで、人間らしい生々しさや実在感を欠いている。ケイトの視線を一瞬でくぎ付けにしてしまったのも、そんな異質な雰囲気のせいだった。全く、その人は、彼の傍をただ行き過ぎて行くだけの他の人間達と何と異なっていたことだろう。
そう、その人の周囲だけ、明らかに他とは空気が違う。
ケイトは束の間自分がここに来た目的も忘れて、頬杖をついたまま、通りの向こう側に立つその人をうっとりと見つめつづけた。しかし、やがて自分が見ず知らずの他人をそんなふうにじろじろと見ていることに恥ずかしさを覚えて、意識して視線を反らした。
ケイトはテーブルの上の百合の花を思い出したように見つめ、取り上げた。弄ぶように目の前でぶらぶらさせ、顔に近づけて匂いをかいだ。甘く濃厚な香りに一瞬むせるかと思った。腕時計を見下ろすと、もうすぐ6時30分になる。この百合の花はどうやら無駄になりそうだと、哀しい気分でケイトは考えた。
何かに引き付けられるように、ケイトはまた窓の外を見た。はっと息を飲んだ。
さっきのあの人物は、変わらぬ姿勢のままやはりこちらを見ている。
一体、何をしているのだろう、何を見ているのだろう。
百合の花を手に持ったまま、ケイトは、その人の姿に魅せられたようにうっとりと見入った。初めは素直にただ見ほれていただけなのだが、そのうち奇妙な胸騒ぎを覚えて落ち着かなくなってきた。
ケイトはさっと後ろを振りかえった。そこに誰か、窓の外に向かって合図でも送っている者がいないか確かめるように。恐る恐る窓の方に身を乗り出して左右を覗い、そこに何か人の興味を引くようなものがあるか調べてもみた。それから、再び正面を見た。
やはり見ている。ケイトを見ている。
そう思った瞬間、ケイトは居たたまれなくなって、テーブルの上に眼を落とし、読む気など全くなかった小説を取り上げてページを開いた。しばらくページの上に書かれた字を睨みつけていたが、内容など少しも頭に入ってこなかった。
やがて我慢できなくなったかのように、ケイトはそうっと顔を上げて、窓の外を見た。思わず落胆の溜め息が出てしまった。歩道の上から、あの人物の姿がなくなっていたのだ。
(あぁ…)
何をそんなに残念がっているのか自分でも奇妙に思いながら、まだ少しカップに残っている、冷めたカプチーノに口をつけてすすった。
今日は本当についていない。結局『M』は来なかったし、それに…。
瞬間、ケイトの視界の端で何かが揺れた。
まさかという思いで、ケイトは勢いよく窓の方を振り返った。とっさに小さな声をあげていた。
窓のすぐ外に、あの長い髪の青年が立っていたのだ。ぽかんと口をあけて唖然と彼を見るばかりのケイトを、微笑みもなく、何の身振りもなく、ただ佇んで彼は見下ろしていた。その瞳ははっとするような透き通ったブルーだった。
(ど、どうして…)
心臓がドキドキと鳴り響いているのをケイトは呆然と意識した。自分が真っ赤になっているのが分かったが、こんなふうに見られては隠しようがない。ひどくうろたえながら、ケイトが何か手がかりを求めるようにテーブルの上に手を這わせると百合の花に触った。
百合の花。ケイトの頭の中で何かが弾けた。ぱちぱちと瞬きをした。改めて窓の外の冷たい美貌に向き直った。
するとケイトを無表情に見つめるばかりだった白い顔に、僅かな表情がうかんだ。薄い唇がほんの少しつりあがって微笑みの形を作るのを、ケイトは呆然と見守った。
「あ……」
ケイトは喘いだ。まさか。
信じられない思いで外の歩道に立つ彼に目を当てたまま、ケイトはゆっくりと椅子から立ちあがり窓の方に身を乗り出した。
「あの…あなた…が…?」
外からの騒音を遮断するカフェの分厚いガラス窓御しにケイトの声が届くとは思えなかった。青年は、何を考えているのか全く読めない無表情のまま、数瞬の間値踏みでもするかのようにケイトを眺めたかと思うと唐突に窓から離れた。
「あっ ま、待って!」
ケイトは慌てた。バッグと百合の花を引っつかみ、急いでトレイを返却場所に戻すと店の中から外へ駆け出した。
「お願い、帰らないで!」
飛び出したとたんそう叫び辺りをきょろきょろと探すと、何のことはない、エントランスから数メートル離れた所で、相変わらずコートのポケットに手を入れたまま、ケイトを待ちうけるかのごとく立っている青年を見つけた。
黒いコートの肩にかかる、さらさらと長い銀の髪。背は高く、痩せている。
ケイトは必死に追いすがるかのように彼に駆け寄った。手には百合の花。
「あの…あの……」
緊張と興奮の為に舌がうまく回らない。頬を紅潮させ言葉もなくただ見入るばかりのケイトに青年はそっと手を伸ばし、彼女が大事そうに抱えていた百合の花を無言で取り上げた。
「あ…」
ケイトが戸惑いながら見守る中、青年は百合の花に顔を近づけ、その甘い匂いを楽しむかのごとく目を閉じる。白い頬にほのかな影を落とす長い睫毛はまるで雪の結晶でできているかのようだ。
間近で見る青年の繊細な美しさにケイトは一瞬言葉を失った。こんなふうな男の人がいるなど信じられない。一応女である自分がよほどがさつな生き物に思えてくるほどだ。
年齢は20代後半くらいだろうかとケイトはふんだが、もっと若くも、逆にずっと年を経ているようにも見える。
「あなたが…『M』なんですか?」
やっとの思いで、ケイトは尋ねた。青年はチラリと彼女に目を向け、素っ気なく頷く。
「嘘ぉ…こんなに若いなんて思わなかった。あ、ごめんなさい、叔父さんの知り合いって聞いてたから、てっきり50代くらいの人かと思ってて…」
「それは、ひどい」
全く面白くもなさそうにつぶやく青年に、ケイトはちょっと身をちぢこめた。
「あの…よかったら、カフェに戻りませんか? ここは寒いし、あたし、あなたとゆっくり話をしたい…」
「あそこは、いつも混み合っているでしょう? 苦手なんですよ、人が多い所は。目眩がしてくる」と、青年は言った。
その声は耳に心地よく響く柔らかなテノールだが、およそ感情というものを欠いていた。冬の木々の梢を微かに揺らす風の音のようだ。
「ここからそう遠くない所にもっと落ちついた店を知っているので、そこに行きませんか? 食事はまだでしょう?」
「は、はい」
ケイトの返事も待たずにすたすたと先に立って歩き出す青年の後を、慌てて彼女は追いかけた。
「あの…あなたのことは、やっぱり『M』と呼んだ方がいいですか?」
ケイトはおずおずと尋ねる。
「マリエルと呼んでください。マリエル・コクトー。別に偽名じゃありませんよ」
マリエル。ケイトは、口の中で小さくその名を繰り返した。
本当に、こんなに若い人とは夢にも思っていなかった。
雪が舞い落ちる中、手を伸ばせば届く所に揺れている長い白銀の髪に見入ったまま、ケイトは胸のうちで呟いた。
それに、こんな綺麗な人だとも想像していなかった。