第6章遠雷(2)
ベッド脇にぶら下がる点滴の薬液が半分ほど残ったビニールパックをぼんやりと見上げながら、ケイトは苦笑した。
(ああ、また逆戻りかぁ…)
呼吸は楽になっている。
昨夜、突然呼吸困難の発作を起こした時には胸が潰れるかと思うくらい苦しかったのが、かなり楽になっていた。しかし、あの苦痛にいつまた襲われるか分からないと思うと、ケイトは恐怖に身がすくんだ。
その時、誰かが病室のドアを開いた。
「あら、ケイト、目を覚ましたのね?」
そちらにケイトが首をねじると、彼女の訪問看護をしてくれているケースワーカー、ミセス・スミスのふっくらと優しい姿があった。
「今朝早くに連絡があった時は心臓が縮み上がったわ。クラブになんか行ったんですって? 無理をするにも程があるわよ、あなた」
「ごめんなさい…でも、あたしがクラブで倒れたなんて、誰から…?」
言いかけて、ケイトはとっさに口をつぐんだ。ミセス・スミスの後ろに続いて病室に入ってきた人の姿に、彼女の青ざめた顔に衝撃が走る。
「マ、マリエル…」
ケイトはベッドの上に横たわったまま、喘ぐように息をした。また呼吸困難を起こしそうな程、動転していた。
「ええ、この人が連絡をくれたのよ。あなたが携帯している、緊急連絡先の私の電話番号を見つけたんですって」
ケイトはミセス・スミスの言うことなどろくに聞かずに、いつもよりも一層青ざめて見えるマリエルの顔にひたすら見入っていた。
「ミセス・スミス」
感情を欠いた声で、マリエルは言った。
「ケイトと少しの間話をしたいんです。申し訳ありませんが、席を外してもらえませんか」
ひんやりと霜の下りたようなマリエルの声に、彼をよく知らないミセス・スミスは少々たじろいだようだ。
「え、ええ…それは構いませんわ。ですが、病人をあまり興奮させないでくださいね。それでは、私はドクター・ブリルにケイトが目を覚ましたと伝えに行きますから、ドクターが来るまでの間、どうぞお話なさってください」
ミセス・スミスは一瞬マリエルに胡乱そうな視線を向けた後、病室を出て行った。
そして、淡いクリーム色の壁に囲まれた個室の中で、マリエルとケイトは2人きりになった。
ドアの前から動こうとしないマリエルを、ケイトは顔を背けたくなる衝動と必死で戦いながら、息を詰めて見守った。
やがて、ケイトは小さな溜め息を1つついた。
「ばれちゃった」
ケイトは、隠れ場所を探そうとするかのごとく殺風景な病室の空間に視線をさ迷わせた。絶望的な気分で瞑目し、それから再び目を開けて、マリエルに話しかけた。
「昨夜はごめんなさい。色々迷惑かけたでしょう。突然のことで、すごくびっくりもしたわよね」
マリエルの痩せた肩が微かに震えるのに、ケイトは悲しげに眉を寄せた。
「ドクター・ブリルから、もう聞いたんでしょ?」
わざと明るい調子を装って、ケイトは言った。
「あたしの病気。神経芽腫って神経組織にできるガンなんだって。叔父さんの診断を受けるまで、全然聞いたことがなかった…子供に多い病気らしいんだけれど、18にもなって、そんな病気にかかるなんてね」
ケイトは冗談っぽく笑い飛ばそうとしたが、マリエルが苦しげに顔を歪めるのに、とても笑えなくなった。
「ごめんなさい」
ケイトは唇を震わせ、黙り込んだ。昂ぶってくる気持ちを静めようと、何度も深呼吸をした。
「こんなになるまで、ずっと黙ってて…マリエルが知った時にどんなにショックを受けるか考えたら、あたしはもっと早くに全てを話しておくべきだった」
「どうして、黙っていたんです?」
ここに入ってきてからずっと沈黙を保っていたマリエルが、ついに堪えきれなくなったかのように口を開いた。
「知っていたなら、夕べのようにクラブでずっと踊り続けるような、あんな無茶はさせなかった…私はあなたに対してもっと気遣うことができたでしょう」
老人のようにしわがれた声で、マリエルはささやいた。ケイトに近づく勇気が持てないかのように、彼は病室のドアの前で立ち尽くしている。
「どうして?」
そんなマリエルの声を聞いた途端、ケイトは自分を抑えきれなくなった。
「初めから本当のことを打ち明けていたら、あなたはきっとあたしを雇ってなどくれなかった。あたしをあなたの傍にいさせて、一緒に仕事をさせてなどくれなかった。あなたが見ている世界の秘密を語ってくれることもなければ、あたしに心を開いて、同じ時間を共有することなど許してはくれなかったでしょ!」
突然、ケイトは何かにむせたように激しく咳込んだ。
「ケイト!」
血相を変えてマリエルが駆け寄ってくるのを、ケイトは手で制した。
「大丈夫よ、これはただ少しむせただけで、あの発作とは違うから…あれは、本当に苦しいの…今度こそ死んでしまうって、起こす度に思うほど…本当に恐い…」
伸ばした手をそっと包みこまれる感触に、ケイトは顔を上げた。
「マリエル…」
マリエルがケイトの傍らに立って、彼女の手を優しく握りしめていた。その思いつめた表情に、ケイトの胸は震えた。
「どこまで、ドクターから聞いたの?」
ケイトは恐々尋ねた。
「ドクター・ブリルとは、私はかつてここで一緒に働いたことがあるんです。その時の縁があるからという訳ではありませんが、私も医者の端くれだということもあって、彼は全てを話してくれました。だから、ケイト、あなたはこれ以上私に対して何も隠したり嘘をついたりする必要はないんですよ」
ケイトはしばし呆然となり、それから、今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。
「それじゃ、あたしが…もう助からないってことも知ってるんだ」
マリエルは慄いたように眼差しを逸らした。
「心臓の傍のすごく厄介なところに腫瘍ができていて、手術もできないって…他のリンパ節や臓器にも転移している…放射線治療ももう無理…薬で進行を抑え苦痛を和らげるだけしかもうできない…何も起こらなくても、よくもって後3ケ月くらい…ひどい発作が起きたら、それきりかもしれない…」
ケイトの見開いた大きな目に涙が盛り上がった。
「叔父さんは、それでもあたしを助けるために必死になってくれたの…外科医なのに、このまま手をこまねいてあたしを死なせることはできないって…自分には無理でも他に誰か手術のできる医者がいるはずだって寝る間も惜しんで一生懸命探してくれて…叔父さんが急死したのって、あたしのために無理をしたからよ…だから、叔父さんがああなった後、あたし、もういいやって、ホスピスを受けることに決めたの」
「ケイト…」
「今では、在宅でも通院しながらケアを受けられるから。ぎりぎりまであたしも自分のやりたいことをやっておきたいと思って…」
ケイトは両目から流れ出す涙を押さえようともせず、しばし遠くに思いを飛ばした。
「あたしは、ずっとあなたに会いたいと思ってた…父さんのエンバーミングをしてもらった時からあなたのことはずっと心の片隅に残ってた。母さんが死に…あたしがこんな病気になって…叔父さんまで亡くして、そんな時再びあなたの存在を思い出させるカードを見つけた。ほんの偶然からあなたの連絡先を突き止めた…ねえ、マリエル、あたしがどうしてあんなに熱心にあなたを探していたんだと思う?」
怪訝そうに眉をひそめるマリエルに向けて、ケイトは力なく微笑んだ。
「あたしは、あなたに弟子入りなんてことを初めから考えていたわけじゃないの。本当は…あたしが死んだ時はあなたにエンバーミングを頼みたいと思って、それであなたを探していたのよ」
ケイトの手を握りしめていたマリエルの手が、電流にでも触れたかのように震えた。
「なっ…」
マリエルはケイトの手を離し、よろめくように後じさりした。
「私に…あなたのエンバーミングを…?」
強張った彼の顔には、信じがたいことを聞いた衝撃と恐怖がありありと浮かんでいる。
ケイトは今更ながら罪悪感に胸が痛んだ。
「ね、覚えている? 初めて会った夜のこと。あなたと一緒に食事をして、その後、外に出たら辺り一面雪で覆われて真っ白で…あの時、あたし、あなたに本当のことを打ち明けようとしたのよ。あたしが死んだら、エンバーミングをして欲しいと依頼するつもりだったの。でも―どうしてかしら、急にあなたの傍で仕事がしたい、あなたをもっと知りたいって思って、とっさにあんなことを言っちゃった。憧れのあなたと会って話ができて、それだけで満足するはずだったのに、つい欲張りになって…」
マリエルは今ケイトの正気を疑っているかもしれない。
己の死期を悟った人間が自ら葬儀の手配やエンバーミングを依頼する。ありえないことではないが、マリエルにとってもきっと初めての話だろう。その依頼者がよりによって、傍で一緒に仕事をしてきた、彼に好意を抱いているケイトであるなどと、どうして理解することができるだろう。
死んだケイトに、マリエルが防腐処置を施す。
マリエルはその考えに怖気をふるったようだ。両手でひしと我が身をかき抱いた。
「そんなこと…そんなことを…よくも…言えたものですね、ケイト…!」
マリエルの声は込み上げてくる深い悲しみと怒りのあまり震えている。
「自分勝手な頼みよね。今となっては、あたしもそう思うわ。マリエル、あなたとまさかこんなに親しくなれるなんて、初めは夢にも思ってもいなかったから。あたしが死ぬからといって、あなたが苦しむことになるなんて考えなかったの…ごめんなさい。でも、安心してよ、あたしもあなたにエンバーミングをだなんて無理な頼みをするつもりはもうないのよ。それに―」
ケイトは寂しげに笑った。
「エンバーミングっていうのは、結局死んだ本人のためじゃなくて、残された遺族のためのものだもの…あたしが死んでも心から悼んでくれる肉親はもう残っていない…友達はいるけれど…自分が死ぬって分かった時から何だか距離を置いちゃったし…。だって、自分が死ぬなんて話、どんなふうに打ち明けたらいいのか分からなかったんだもの。夏休みの旅行計画? 残念だけれど、あたしは一緒には行けないわ。たぶんそれまであたし生きてないもの、なんてね。結局、恐かったのよね。打ち明けた時にどんな反応が返ってくるか見る勇気がなかった…友達は多いつもりだったんだけれど、意外と本当に心を開ける相手はいなかったのかしら…? そう、つまり誰も必要としていないのに、エンバーミングなんて意味ないの…なのに、どうして、あたし…あんなにあなたに会いたかったのかしら…?」
自嘲するように、ケイトはぽつりぽつりと語った。そして、ふいに黙り込んだ。
「帰って」
「えっ?」
唐突なケイトの言葉に、マリエルは戸惑うよう聞き返した。
「マリエル、もういいから、帰ってよ。あなたを傷つけることをしてしまって、ごめんなさい…あたしは、もう二度とあなたを困らせないわ。もう、あなたに迷惑かけたりしない…。今まで本当にありがとう。短い間だったけれど、あなたの傍にいられて、あたし、幸せだった。あなたの不思議な話を聞いている時は、あたしは自分に迫ってくる死の恐怖を忘れられた」
「ケイト、私は…」
「あたしは、あなたのそんな苦しそうな顔を見たくない!」
ケイトは両手で頭をかきむしるように抱え込むと、マリエルの言葉を遮って叫んだ。
「あなたにはあたしの健康な姿…生き生きと笑って、一生懸命仕事をして、毎日が楽しくて仕方がなかった時のあたしを覚えていて欲しいの。あたしが…段々弱っていって、笑うこともできなくなって、苦しみ怯えながら死んでいく姿を見られたくない…あなたにだけは見せたくない!」
マリエルは鞭打たれたように震え上がった。
それに向かって、ケイトは精一杯の意志の力で取り繕った笑顔で囁いた。
「さよなら、マリエル」
そして、一方的に会話を打ち切るように、ケイトは天井を仰いだ。
マリエルは凍りついたように立ち尽くしている。
「ケイト…」
マリエルが何か言いかけた、その時、病室のドアがノックされた。
「ケイト、マリエル、入ってもいいかな」
診察に訪れたドクター・ブリルだった。
マリエルは狂おしげにケイトを見やった。
しかし、ドアが開いて看護婦とミセス・スミスを従えてブリルが入ってくるのに、マリエルはついに耐えきれなくなったかのように背中を向け、病室から出て行った。
強情に天井を睨みつけていたケイトは去っていく時のマリエルの顔は見なかったが、マリエルがどれほど傷ついたかは理解していた。
(ああ、あたしって、最低ね…大好きな人を騙して、最後の最後で裏切って、あんなに傷つけて…だから、せめてマリエルをこれ以上振り回すのはやめよう。マリエルの同情を引いたり彼にすがったりしちゃ駄目…そう、マリエルが本当に好きなら、このまま別れてしまうのが一番いい…)
ケイトは静かに目を閉じた。熱く熱を持って痛む瞼のあわいから、天井の明かりがぼんやりと透けて見える。
ふと、マリエルが時々見ると言う、この世の果てから差してくる光とはどんなふうなのだろうと、ケイトは思った。