第6章遠雷(1)
(これは夢…)
白っぽい蛍光灯の明かりに照らし出されたキッチン。マリエルは凍りついたように立ち尽くしている。
足元にはおびただしいほどの血の海。そのただ中で痩せた腕を広げるようにして浮かんでいるのは、マリエルにそっくりな顔をした女。
女の半ば閉ざされた白い瞼から覗く薄青い瞳は、もはや何も映し出してはいない。
死んでいるのだった。
(夢…)
マリエルは夢遊病者のようにぎこちなく動いて母の遺体に近づき、傍らにひざまずいた。
何もかもが現実感を欠いていた。
マリエルはおずおずと手を伸ばし、母の痩せた頬に触れてみた。彼女の肌に触ったことなど何年もなかったものだから、その感触が以前と同じなのかどうかも彼にはよく分からなかった。
まだ温かい。けれど何の反応ももはや返ってくることのない、これは死体。
もうずっと、この世に生きているとはとても言えない状態の母ではあった。ついに完全に違う世界に飛び立ってしまったのだと考えても、マリエルの胸には何の悲しみもうかんではこない。
マリエルはしばし、母の傍らでぼんやりした。
マリエルの方に向いた彼女の顔は、不思議と安らかだった。数年来苦しめられた病魔の影は薄れ、やつれてはいるけれどもかつての美しい面影を取り戻していた。
マリエルはふいに母の白い顔や体についた血の汚れが気になった。首に残るむごたらしい傷跡も、彼女には全く似つかわしくないものだ。
(綺麗にしてあげないと…)
マリエルはいきなり突き上げてきた使命感に動かされてのろのろと身を起こすと、力を失った母の手から血まみれのナイフを取り上げた。細い手首を掴んで、彼女の体をキッチンの扉に向かって引っ張った。
母の遺体を引きずりながら、マリエルはなぜか自分の唇に微笑がうかんでくるのを感じた。
己を顧みなかった母とこうして触れ合えることが、もしかしたら嬉しいのだろうか。
現実の世界では傍にいても遠く手の届かなかった母だが、この夢ともうつつともつかぬ一時、彼女はマリエルのものだった。
死ぬと一層重く感じられるという人の体を運ぶのは少年の手にはあまる仕事だったが、マリエルは懸命に母の遺体をバスルームに連れて行った。
道のりはとても長く感じられた。
遺体を引きずるぞっとするような音。廊下には生々しい血の跡がずっと伸びていく。
それでも、マリエルは幸せだった。
(お母さん、あなたを綺麗にしてあげるよ。安心して、こんな血なんかすぐにみんな洗い流してあげるから。それから、あなたの好きなドレスを着せて、化粧もしてあげる…一番綺麗だった頃のあなたに僕が戻してあげるよ)
母が旅立っていったあちら側の世界に心を漂わせながらも、現実の世界に残ったマリエルの体は、そうやって愛する者のためにできる唯一のことをしようとしていたのだ。
「マリエル!」
聞き覚えのある甲高い声に呼びかけられて、マリエルは両手の上に伏せていた顔を上げた。
「ルイ? どうしてあなたがここに?」
言ってから、こことはどこなのだろうとマリエルは思った。
茫洋とした眼差しを周囲に巡らせる。
どうやらここは病院らしい。何かしら見覚えもある、薄暗い無機質な廊下。処置室前の長椅子にマリエルは座っていた。
「しっかりしてくださいよ、マリエル。あなたが、私に電話をくれたんじゃないですか」
心配顔の幼馴染を、マリエルは不思議そうに見上げた。
「そうでしたか…私があなたに電話を…すみません、覚えていなくて…」
「ケイトが倒れたって、あんなに動転して電話をしてきたじゃないですか。どこの病院かって尋ねたら、N州立病院だと…あなたが昔働いていた病院なんですよね、確か…?」
「ああ、ここはN州立病院なんですね。どおりで見覚えがあると思いました」
マリエルは心許なげに首をかしげた。
「ケイトが…倒れた…? いいえ、あれはケイトではありませんでしたよ。あそこにいたのは、私の…母だ…」
まだ放心状態から抜けきれないマリエルに、ルイは目を見開き、口元を微かに震わせた。
「マリエル…!」
ルイがマリエルの肩を手でつかんで揺さぶろうとした瞬間、処置室のドアが開いた。
ルイが緊張した面持ちで振り返った。
その視線の先に、マリエルもぼんやりと目を向けた。
移動式ベッドに乗せられ腕には点滴のチューブをつながれたまま処置室から運び出されたのは、他の誰でもないケイトだった。固く目を閉ざした、その青ざめた横顔を見た瞬間、マリエルははっと息を吸い込んだ。
「ケイト…!」
掠れた声で呼びかけ、マリエルはよろよろと長椅子から立ち上がった。
「ご家族の方ですか。患者様は落ち着きかれましたので、今から病室に運ばせてもらいます。容態については、どうぞ主治医とお話し下さい」
看護士は手短に言って、2人がかりでケイトのベッドを廊下の奥の搬送用エレベーターに運んでいった。
それを呆然と見送ったマリエルの背中に、その時、処置室の方から意外そうな声がかけられた。
「おや、まさか…マリエル・コクトーじゃないか…?」
マリエルはほとんど機械的にそちらを振り返った。
まだ若い1人の医師が処置室の前に立って、驚愕の表情でマリエルを見ていた。
「トーマス・ブリルだ。覚えていないか…以前君はここの形成外科で働いていただろう…その時から僕も内科にいたんだが…」
マリエルは眉間にしわを寄せて考え込んだ。そう言われてみれば、この医者の顔には見覚えがある。マリエルがドクター・ジョーンズに師事していた頃、何回か話したこともあったはずだ。
「ドクター・ブリル…ああ、今、思い出しました。お久しぶりですね」
何の感慨もなく、マリエルは旧知の医師に挨拶をした。
「人間にはあまり関心のなかった君のことだから、僕のことも忘れているのではないかと一瞬疑ったよ。しかし…」
一瞬微笑を浮かべたブリルは、すぐに真剣な表情に戻った。
「ドクター・ジョーンズが亡くなられた今、私がケイトの主治医なんだが…発作を起こして倒れた彼女に付き添ってここに来たのが君だということは…」
「ケイトは今、私達の葬儀社でアルバイトとして働いているんです」
ルイが、マリエルに代わってドクター・ブリルの質問に答えた。
「そうか、ケイトが働いているのは君の会社だったのか。仕事などやめて治療に専念した方がいいと私は思ったんだが、どうしても彼女は続けたいと言い張った…それが君のもとでだったとは驚くべき偶然だな」
しみじみと言うブリルを、ルイは切迫した面持ちで追及した。
「治療って…ケイトは一体どこが悪いんです、ドクター? ドクター・ジョーンズが亡くなられた後はあなたが彼女の主治医だと言われましたが…その…ケイトはそんなに前からずっとどこかを患っていたんですか?」
ルイの言葉を聞いて、ブリルの顔に微かな衝撃がうかんだ。
「ケイトから何も聞いていないのか、マリエル?」
ブリルの問いかけに、マリエルは当惑して首を横に振った。
「何てことだ…アルバイト先にもちゃんと事情を話して納得してもらっていると、私はケイトから聞いていたんだが…だからこそ、彼女が働きながら通院治療をすることにしぶしぶながら同意したんだが…」
「ドクター・ブリル」
マリエルは、やっと現実に戻ってきたようだ。震える手を体の脇でさり気なく握りしめながらも、意外とはっきりとした口調で尋ねた。
「どうか説明してください。ケイトの身に何が起こっているのか。私は彼の雇用者ですが、それ以上に…ケイトとは個人的に親しい友人でもあります。両親を失い、叔父であるドクター・ジョーンズも亡くなられた今、ケイトには身内は1人も残っていません。私は、彼女の支えになってあげたいんです」
そんなことを熱心に訴えるマリエルをブリルは驚いたように見返したが、ルイはもっと仰天していた。人間にはいつも無関心のマリエルが他人のためにこんなに必死になった様子など、彼との付き合いの長いルイも初めて見たのだ。
「分かった」
一瞬迷った後、ブリルは言った。
「内科の診察室に行こう。君もかつては医者だった人間だ。ケイトの病状については包み隠さずに説明しよう。その上で、彼女を精神的に支えてくれるのならば、私もありがたいと思うよ。可哀想な子だ…あの若さで、守ってくれる肉親は誰もおらず、たった1人で深刻な病魔に向き合わなければならないんだから…」