第5章愛でなく(5)
これは、恋ではない。
ケイトも別に恋人にしてくれと頼みはしなかったし、マリエルに至っては、好き嫌いの問題以前に生きている人間が恋の対象とならないのだ。
しかし、だからと言って、彼らがお互いの秘密を知り合う前の仕事上のパートナーや師弟のような関係に戻った訳でもなく、それは、彼ら自身にもよく分からない不思議な、微妙な関係だった。
ただ1つ言えることは、2人は共に過ごす時間を楽しんでいた。
ケイトはマリエルの傍にいる一秒一秒がとてもかけがえのない貴重なものであるかのように、何かにつけ、嬉しいとか幸せとか、マリエルが戸惑うくらいの喜びを素直に表した。
そうは言っても、自分の感情をケイトがマリエルに押しつけることはなく、飼い主の足元に坐ってひたむきな瞳で語りかけてくる子犬のように、振りかえるといつもそこにマリエルに笑いかけてくる彼女がいる、そんなふうだった。
マリエルも、そこまで慕ってもらえて悪い気はしないどころか、今まで知らなかった胸の奥が暖かくなるような幸福感と安らぎをケイトと過ごす一時に覚えていた。
物言わぬ死者達といることが自然で当たり前のマリエルではあったが、もしかしたら、やはり人並みの寂しさを覚えていたのかもしれない。
ケイトの時々うるさいくらいのおしゃべり。くるくる変わる表情や感情豊かな身振り手振り。それらを傍近くで見たり聞いたりすることを楽しんでいる自分に、マリエルは何かしら信じられない思いだった。
ケイトの話をただ聞いているだけではなく、マリエルも時には笑って冗談らしいことも交えて言い返した。彼が他人と自然にコミュニケーションが取れたことなど、これまでほとんどなかったというのにだ。
そう、ケイトに対しては、いつも他の人間達と一緒にいる時に覚える違和感、自分と彼らは違うのだという疎外感をマリエルが覚えることはない。
マリエルに近い部分など皆無に見える、陽だまりのように明るいケイトなのに奇妙なことだった。
「ちっとも奇妙じゃないわよ。それは、あたしがあなたのことが好きでたまらないから、一緒にいて本当に幸せだから、あなたに対して心を開いているからよ」と、ケイトは何でもないことのように答えるのだが。
いじらしい。だが、愛しいと思うのとは、たぶん違う。
マリエルが束の間愛し、すぐにいなくなってしまう死せる恋人達の姿は、それでも、マリエルの胸に鮮やかに刻みこまれている。
例え今は朽ち果てて土に返っていようとも、誰一人として忘れてはいない。目を瞑れば、そこに、まばゆいばかりの光に包まれた彼らがいる。1人、この世の果てに立ち続けるマリエルを、炎と燃える命の光で照らし、引き寄せる。
今生きて傍らにいてくれるケイトの存在をマリエルがどれほど好ましく思おうと、それには魂ごと引きつけられ呪縛されるような狂おしい熱情は伴っていない。
それにたぶん、そんな狂気じみた思いを生きた人間には向けるべきではないのだ。生きている人間同士の普通の愛情というのは、もっと健やかで、世俗的で、将来にわたって紡がれていく前向きなものであるべきだろう。少なくともケイトにふさわしいのは、そういう幸福な未来を約束するものなのだと思う。
(それを考えると、やはりケイトは、いつか私から離れていってしまう人なのだろう。今は恋に夢中になって目がくらんでいるけれど、そのうち頭が冷えてくれば、私などといても楽しくないばかりか、暗いぞっとすることばかりで、これ以上はついていかれないと、当たり前の友人達と過ごす生活に戻っていくに決まっている…。寂しくないわけではないけれど、その覚悟だけはしておかないと…あなたがいついなくなっても平気なように、私も覚悟しておかないと)
自分にそう言い聞かせることに、マリエルは思いの他抵抗を覚えていた。
何時の間にかケイトに情が移ってしまったらしい。1人きりの寒々しい生活に戻ることなど、今は考えたくない。
「マリエルって、もしかしてクラブに来るのは初めてでしょう?」
クラブ脇の駐車場にマリエルが車を止めると、助手席でうきうきと落ち着かないケイトがにこやかに話し掛けてきた。
「ええ」
物思いに捕らわれてまだ少し現実に返りきっていないまま、マリエルはぼんやりと答えた。
「あなたは、こういう所にはよく来るんですか?」
「最近はそうでもないわよ。以前は時々、友達と一緒に他のクラブやライブハウスに通ったこともあるけれど、ここは知らないわ」
ケイトはバックをまさぐり、ルイからもらったチケットを取り出して、確認した。
「パフォーマンスの開演にはまだ時間があるから、中のバーで軽く何か食べましょうよ」
「食事も…できるようになっているんですか…」
「うん、小さなバーかラウンジはどこも併設されてるし、大きな所だったら、ちゃんとした食事もできるレストランや最近流行りのワインバーまであるわよ。ここもキャパは大きい方だし、そういう施設も充実してるんじゃないかしら」
「はぁ…」
マリエルは、何だかケイトが急に自分の知らない国の言葉で話しだしたかのように当惑して、不安げに口許を押さえた。
「そんな心配そうな顔、しないでよ。音楽を聴いたり、気が向いたらちょっと踊ったり、お酒を飲んだりするだけよ。ええっと…このグループは知らないわ…ルイさんは人気のあるバンドだって言ってたけれど、ただで券もらったんだから文句は言えないわよね。まあ、マリエルは社会見学をするくらいの軽い気持ちでいればいいってば」
マリエルは不満気に顔をしかめ、唇をちょっとすぼめた。仕事場ではいつもケイトより遥かに優位に立っているマリエルなのに、今夜は気を抜くとケイトにリードされてしまいそうだ。
「別に心配なんかしてないですよ。ただ、本当に私が楽しめる程いいものか、疑っただけです」
冷たく言って、マリエルはドアを開け、先に車から降りた。
怯んでいるなどとこれ以上ケイトに思われるのは、マリエルも抵抗があった。
(確かに、大勢人の集まる、こんな場所に来るのは、私にはほとんど経験がないかもしれない…いや、それでも、学生時代にダンス・パーティーだとかに無理矢理引っ張られていったことはあったし、もっと落ち着いた店で音楽を聞きながら食事をしたことくらい私だってある。そう、たかがクラブくらい…少しも恐くなどない。ちょっとした異文化体験のようなものではないか)
そう思う心とは裏腹に、どきどきと鳴り始めている心臓を静めるのに、マリエルは相変わらずのポーカーフェイスの下で密かに苦労していた。
いつもと違っておめかししたケイトがスカートの裾を気にしながら助手席から出てくるのに手を差し出しながらも、マリエルの心は半分他所に行っていた。
「マリエル、もしかして緊張している?」
じっと押し黙ってケイトと目を合わせようとしないマリエルの様子に、ケイトはピンと来たらしい、励ますような声をかけてきた。
「大丈夫、すぐに雰囲気に慣れて楽しめるようになるわよ。それに、今夜のマリエルって、すごく素敵。初めてのクラブだからって、絶対浮いたりしないから、安心して」
年下の女の子になだめられたり力づけられたり、我ながら実に情けないとマリエルは嘆息してしまった。
「…行きましょうか」
気遣わしげなケイトに苦笑混じり頷きかけて、マリエルは先に立って歩き始めた。
大丈夫、大丈夫と、ひたすら自分に言い聞かせながら―。
ステージ上のバンドのボーカルが煽るのに応えるかのごとく熱狂した人々があげる歓声に、クラブ全体が揺れたかと思われた。
パフォーマンス開演直後、マリエルは早くもここに来たことを後悔した。
『レッド・ケイブ』は規模の大きな、どちらかと言えば高級なクラブで、入り口では黒服のガードマンがしっかり警備も担当してガラの悪い客は入れない雰囲気だったが、それでも、今夜の客層はどちらかというと大学生や20代前半の若い客が多い。中には常連らしい背広姿のビジネンマンやその連れの着飾った女性達も混じっているが、今夜演奏するらしいバンドのロゴの入ったティーシャツを着て耳に幾つもピアスをあけた若者達の中、マリエルはやっぱり自分は場違いだと痛感した。
「今夜はロックンロール・ナイト」というようなことを、ケイトと一緒にカクテルを傾けていたバーでふと耳に挟んだ時に、早々にここを立ち去ればよかったのかもしれない。
しかし、目の前で楽しげに笑いかけてくるケイトを見ていると、マリエルはどうしても「帰る」の一言が言えなかった。
ズシンズシンと腹の底に響くドラム。空気を切り裂くギター。客達の熱気や体臭で蒸せかえるようなステージ前のフロアーに呆然と立ち尽くしながら、マリエルは逃げだしたい衝動と必死で戦っていた。
おそらく、ロックと言っても一般的にはそれほどハードなものではなかったのだろうが、静謐とした作業所しか知らないマリエルには刺激が強すぎた。
ロン毛のボーカルが最前列の客達に向かって挑発するような仕草をしたり、マイクを引っつかんでシャウトしたりする度に、マリエルは銃口でもつきつけられたかのようにびくっと震えあがってしまった。
(ルイ…あなたという人は、一体なんてことをしてくれたんです…!)
ケイトからチケットの出所は聞いていた。半ば魂を飛ばしながら、マリエルは胸の内でうかつな幼馴染を呪い責めたてていた。つきあいが長いだけあって、ルイの考えそうなことならマリエルにもよく分かる。
普段からマリエルに向かって外に出ろとうるさいルイは、ケイトを使ってマリエルの生活を改めさせようとしたのだろうが、『小さな親切、大きなお世話』とはまさにこのことだ。どうせパフォーマンスの内容をろくに確かめもせず、有名なクラブのプレミアチケットだというだけで手に入れたに決まっている。
(う…本当に気分が悪くなってきた…)
せっかくだからフロアーに出ようと誘うケイトに引っ張られて来たのだが、これ以上ここにいたら頭が爆発して倒れそうだ。先程まで坐っていた2階のバーの方にマリエルは追い詰められた目を上げたが、1人で、リズムに乗って体を揺らす客達でいっぱいのこの1階フロアーから、人波をかき分けかき分け、あそこまで到達するのは至難の業に思われた。
「ケ…ケイト…!」
すがるような思いで隣を振りかえると、ケイトは頬を紅潮させ、ステージの方を見つめたまま、リズムに乗って楽しげに体を揺らしている。
アンプから響く大音響にマリエルの弱々しい声はかき消され、彼女の耳には届かなかったようだ。
やっぱりケイトも今時の若い娘なのだなと今更ながらマリエルはしみじみ思った。
(私は、とてもついていかれそうにない…などと言うと、年寄りくさいとケイトに思われるだろうか。し、しかし…駄目だ、この状況は私にとってもはや拷問に等しい)
マリエルはそれでもしばし逡巡したが、興奮した後ろの若者が振り上げた手が硬直したまま身動きできない彼の頭にぶつかったのをとどめとばかり、プライドを捨てた。
「ケイト!」
今度は、力を込めて叫んだ。すると、やっと通じたらしい、ケイトは微笑みながらマリエルを見た。
「何、マリエル?」
ステージからフロアーを照らすライトを受けて、ケイトの黒い瞳はキラキラと輝いている。 早いテンポの曲にあわせて踊っていたせいで頬には血の色が上り、滑らかな肌はじっとりと汗ばんでいた。とても生き生きとして、楽しげだ。
「あ…」
舌の先まで出かかった「助けて」という情けない一言を、マリエルはぐっと飲み込んだ。
ケイトはマリエルに火照った顔を向け、息を弾ませながらも、伸びやかな手足でリズムを取っている。
マリエルはとっさに言いよどんだ。
「楽しい…ですか…?」
マリエルは青ざめた顔に幾分引きつった微笑をこしらえて、ケイトに問いかけた。
「ええ、最高!」
マリエルの苦悩など知らぬげに、ケイトは耳を聾するドラムの音に負けじとばかり叫ぶように言い返す。
「マリエルは?」
マリエルは応えに窮した。
「え、私…私は…」
青い瞳を落ち着きなく泳がせながら、マリエルは、ケイトの溌剌とした表情や伸び伸びした動きについ魅せられてしまっていた。
「悪くは…ないですよ…」
すると、ケイトは気分よさげに頭を振りたてた。
「そう? よかった、あなたが楽しんでくれて!」
楽しいなどと全く大嘘だったが、こんなに嬉しげなケイトを見ていられるのなら、マリエルは少しくらい我慢してもいいような気がした。
マリエルと一緒にいることが幸せなのだと言ってくれたケイト。彼女が少しでも幸福であってくれたらいい。
実際、あれほどうるさくて仕方がなかった音楽も、その後はそれほど気にならなくなった。
マリエルは何となく酒に酔ったような幸福な気分で、ステージではなく、活き活きとした動きで踊っているケイトばかり眺めていた。鮮やかな生命力に満ちた彼女は、ステージ上でライトを受けて演奏するバンドの連中よりも周りにいる客達の誰よりも輝いて見えた。この瞬間に生きていること、ここに存在することの喜びを全身で味わっているかのような不思議な魅力を、彼女は周り中に放射していた。
(ケイト、私といる時…そう言えば、特にこの頃のあなたは、いつも楽しげに笑った顔しかしない。時々不思議に思うのは、どうして、そんなにも全てに対してひたむきかということ。仕事をする時は無論、一緒にお茶や食事をしながら話し込んでいる時も、今夜のようなちょっとした楽しみを2人で見つけた時も、あなたは何かしらとても真剣で…そう、まるで時間を惜しがっている…貴重な瞬間瞬間をなくす前に精一杯楽しんでいるようだと思ってしまう私は、間違っているのでしょうか…?)
マリエルは愕然とした。ケイトと親しくつきあうようになってすぐにマリエルに取りついた訳もない違和感は、つまり、こういうことだったのだ。
別に根暗のマリエルでなくても、常にこれほど高いテンションを保っていられる人間など、たぶんいない。いくらケイトが楽天的で社交家だからといっても、時には疲れて不機嫌な顔をし、気持ちが沈んで話す気にもなれないことだって、あるはずだ。
そう、マリエルの懸念は、間違ってなどいない。
「ああ、おもしろかったわね。ライブも踊ったりするのもすごく久しぶりだったけれど、こんなに楽しいなら、また時々来てみたいな」
演奏が終わると、ホールに詰め掛けていた客達は四方にばらばらに散って行った。その中に混じってマリエルと一緒にバーに戻ると、ケイトはさすがに胸を押さえて革張りのゆったりとした席に腰を下ろし、乱れた息を整えようとした。
「はしゃぎすぎじゃないんですか、ケイト。そんなに汗をかいて…喉が渇いたでしょう、ジュースでも…」
マリエルはぐったりとしているケイトを横目に近くを通りかかったウエイターに声をかけて、適当に飲み物を注文した。
ケイトがいきなり激しく咳き込んだのに、マリエルはぎょっとして振り返った。
「あ、ごめんなさい、ちょっと…お手洗い…」
立ち上がりかけるマリエルの肩を押しとどめ、ケイトは咳き込む口元を手で覆いながら、席から離れた。
「ケイト…」
店の奥へと足早に消えていくケイトをマリエルは微かな疑念に揺れる眼差しで追った。
ケイトはマリエルから顔を背けるようにしていたので定かではなかったが、ちらっと見えた横顔は妙に青ざめていなかったか。紙のように色を失った額に浮かぶ汗は普通ではなかったような気がする。
マリエルが内心突き上げてくる焦燥感と戦いながらも深沈とした態度を崩さずに待っているうちに、やがてオーダーした飲み物が運ばれてきた。それでも、まだケイトは帰ってこなかった。
(遅い…まさか気分が悪くなったのだろうか…。お酒は飲んでいなかったけれど、彼女は随分興奮して激しく動いていたから…)
マリエルが腕時計で時間を確認しケイトの様子を見に行こうか迷っていると、傍らから馴染みのない若い娘の声がかけられた。
「ねえ、おにいさん、1人なの?」
マリエルが怪訝に思いつつ顔を上げると、黒いレースとレザーで着飾った女の子が2人、マリエルを興味津々覗き混んでいる。ケイトと同じくらいの年のようだが、かなり濃い目の化粧のせいで、よく分からなかった。
「あ、近くで見ると、やっぱりすごい美形」
「もしかしてモデルか何か?」
マリエルが戸惑ううちに、娘達は勝手に彼の左右の席に腰を下ろし親しげに話しかけてきた。
「私達2人共、今夜はボーイフレンドに約束をすっぽかされて退屈してたんだ。よかったら、一緒に飲まない?」
「それよりも下のホールで踊りましょうよ」
少女達の積極的な態度にしばらく呆気に取られていたマリエルだが、期待感も露に甘えかかる素振りの彼女らに別に他意はないと分かって、ふと表情を緩めた。
「生憎ですが、連れを待っているんですよ」
穏やかに言い含めるマリエルの口調には、しかし、付け入る隙はなかった。娘達は心底残念だと言わんばかりに唇を尖らせた。
「なんだ、やっぱり彼女連れだったんだ。いいなー」
マリエルが不思議そうに首をかしげた、その時、今度は彼にとっても誰のものかすぐに分かる、張りのある澄んだ声が頭上に投げかけられた。
「ちょっと、何やってるのよ、あんた達!」
マリエルが視線を上げると、やはり、テーブルの前に腕を組んで佇んでいるのはケイトだった。
「そこはあたしの席なんだから、どいてよね」
何を怒っているのだろう、ケイトは見知らぬ少女たちを睨みつけながら、不機嫌そうに頬を膨らませてイライラと小さな足を踏み鳴らした。だが、マリエルはいつまで経っても帰ってこない彼女を心配していただけに、ほっとしていた。
「ふうん」
マリエルの左右に陣取った女の子達は鼻白んだようにケイトを眺め、マリエルと見比べると、素っ気無く立ち上がった。
「何だ、もっと素敵な彼女かと思ってたのに、がっかりね」
「そうそう、全然似合わなーい」
脇を通り過ぎざまそんなことを言い残す彼女らを、ケイトは凄い目で振り返った。
「ケイト、大丈夫ですか? 気分が悪くなったんじゃないかと心配していたんですよ」
その場の剣呑な空気も意に介さず、マリエルは安堵の表情を浮かべて、ケイトに微笑みかけた。
「気分なら、悪いわよ」
マリエルの気遣いを一蹴して、ケイトはソファに腰を下ろすと、氷が大分解けてしまったオレンジジュースを一口飲んだ。
「お化粧直して帰ってみたら、マリエルが見知らぬ女の子達と楽しそうに話していたんだもの。もう、一応これでもデートなんだから、他の人にナンパされるのはやめてよね。あーあ、マリエルを1人にできないって過保護なルイさんの気持ちが今はあたしにもよく分かるわ。ほんの少し目を離しただけで、これだもの」
「ナンパ…だったんですか、今の…」
思わず確認するよう、肩越しに後ろを振り返るマリエルの耳に、ケイトの大げさな溜め息が聞こえた。
「マリエルって、意外と軽い」
「そ…そんなことはないでしょう…?」
オレンジジュースのグラスの底をストローの先でつつきながら、マリエルにとってはとんだ言いがかりのようなことを不機嫌そうに呟くケイトに、彼は困惑した。
「結構、綺麗な子達だったじゃない。声かけられて、悪い気はしなかったでしょ」
「綺麗…かどうかは、よく分かりませんでしたよ。化粧が濃すぎたんですね。私は、あなたのようなあっさりした顔の方が好きです」
「悪かったわね、あっさりしてて」
マリエルは一応褒めておだてたつもりだったのだが、ケイトがむうっと膨れてしまったので、どうやら不適切な表現だったらしいと気がついた。
「すみません…」
本当に、女の子の気持ちは難しい。異常死体を相手に困難な処置をしている方が気分的には遥かに楽かもしれないと、マリエルは指先でこめかみをそっと押さえた。
「いいのよ」
ようやく気持ちが静まったのだろう、ケイトは軽く肩を竦めて、マリエルに向かって笑いかけた。
「だって、この頃のマリエルって、以前と比べると随分雰囲気が柔らかくなってきたから…世界を拒絶しているような近寄りがたさが薄れてきたっていうのかな…だから、まあ、あの子達が声をかけたくなるのも当然って言うか、仕方がないって言うか…」
「はぁ…」
「気がつかないなんて、マリエルって、やっぱり鈍感。このクラブに入ってきてから、色んな人がマリエルのことを気にしてちらちら眺めたり、綺麗な人がいるって囁き交わしたり、声をかけたそうな素振りをしていたわよ。それはもう、女の人も男の人も…」
「それは、また…物好きな…」
何とコメントすればいいのか分からなくて、口の中でもごもご呟きながら、マリエルは用心深く周囲を窺い見た。ケイトがおかしなことを言うものだから、急に他の人間を意識してしまい、マリエルは居心地悪げに身じろぎをした。
「ケイト、もし、よかったら、店を変えて…今度はもっと静かな場所で飲みませんか?」
マリエルはとっさに思い出したようにケイトを誘った。別にここに居づらくなったから逃げ出そうというつもりではない。
先程、踊るケイトを眺めるうちに覚えた疑念を晴らしたかったのだ。
考えれば考えるほどやはり何かと不自然なケイトの明るさに、いまやマリエルの胸の奥には不安が澱のように溜まっていた。この引っかかりを晴らすために、今夜はケイトとじっくり話し合おうと、マリエルは決心していた。
「他の店? うん、いいわよ。あたしも、実はそう提案しようかと思ってたところなの。マリエルと2人きり、せっかくの素敵な夜なのに、このまま帰ってしまうなんてもったいないもの」
ケイトはマリエルが誘ってくれたことに機嫌をよくして、大きな瞳を星のように瞬かせながら、はしゃいだ声をあげた。
「でも、疲れていませんか? あなた、パフォーマンスの間ほとんどずっと動いていたようだし…」
ケイトは潤んだ瞳でマリエルを見つめたまま微笑している。
またしても、この熱に浮かされたような笑顔。今まではそれなりに自然に見えていたものが、ここに至って、マリエルにはひどく作り物めいて感じられた。
ひどく危うく、ひどく脆く。マリエルはとっさに両手を差し伸べてケイトの紅潮した頬を挟み、何故そんな顔をするのかと追求したくなった。
「全然、平気よ。あたし、そんなに体力ないように見える? マリエルよりはまだ若いし、元気なつもりよ」
心配しているのを笑い飛ばされて、マリエルは少し腹が立って、相変わらずにこにこ笑っているケイトの頭を軽く小突いてやった。
「年の差を持ち出すのはなしですよ。アンティークでもいいと言ったのは、あなたでしょう?」
「え、それって、マリエルの冗談?」
目を真ん丸くして絶句したかと思うと身をよじって笑い出すケイトに溜め息を漏らし、マリエルはボーイを呼んで支払いを済ませ、席を立った。
「あ、待ってよ、マリエル」
先に立って歩き出すマリエルをケイトは慌てて追いかけた。
「あのね、アンティークって言うほど年はとっていないわよ、マリエル。若く見えるから、安心してよ」
そういう問題を気にしているのではないとまた少し頭痛を覚えながら、マリエルは歩調を緩めることなく扉をくぐり、クラブの入り口の前にある階段を下りていった。
「ねえ、マリエル、怒ったの?」
ケイトの呼びかけを背中に聞きながら、マリエルは取り合えず無視して、そのまま階段を降りきり、道路に降り立った所でおもむろに振りかえった。
「ケイト?」
すぐに駆け寄ってくると思ったのに、ケイトの姿が後ろにないことに不審を覚えつつマリエルが階段の上を見上げると、そこに凍りついたように立ち尽くす少女の姿が目に飛びこんで来た。
「ケイト…?」
2度目に呼びかけるマリエルの声は掠れた。
その瞬間、冷たい手で鷲づかみにされたかのように胸の奥で心臓がぎゅっと縮んだような気がした。
マリエルの大きく見開かれた青い瞳は、クラブの入り口の前で、両手で胸を押さえるようにして身を2つに折り、全身で震えているケイトの姿を映し出していた。
マリエルはほとんど無意識にふらふらと階段に近づき、ケイトに向かって手を差し伸べた。
ああ、というような低い苦鳴がマリエルの耳にも届いた。とっさに、マリエルは呪縛されたかのように、その場から動けなくなった。
「ど、どうしたんだ、大丈夫か?!」
ケイトの身に突然起こった異変に、ドアの傍にいた黒服のガードマンが駆けよって来たが、男の腕が支える前に、ケイトは胸を掴みしめたままその場に崩れ落ちた。
「だ、誰か、救急車を呼んでくれっ!」
黒服のガードマンが後ろを振りかえって、そう叫んでいる。
クラブの中から出てきた客達も何が起こったのかとざわめき、苦しげに呻きながらのた打ち回っている小柄な少女を遠巻きにして、不安そうに眺めている。
マリエルはまだ動くことができなった。目の前で突然に起こった、この出来事が何なのか、彼は認識できなかった。
(違う…こんなことは、現実じゃない)
意識をなくしたのだろう、ぐったりとして動かなくなったケイトの脇に跪いた黒服の男が、人工呼吸と心臓マッサージを始めている。
マリエルの視界はぐらぐらと揺れ出した。
(あれは、誰? あそこに倒れているのは、一体、誰?)
そう叫んでいるのは自分であったのか、それとも、かつてたった1人の肉親が血の海で横たわっているのを見つけた少年のものであったのか。
(お母さん? 自分が流した血だまりの中で眠るように死んでいた、お母さん?)
マリエルはがんがんと鳴り響く頭を震える手で押さえた。
(これは、夢に違いない)
何もかもが現実感のない、分厚いガラス越しに光景を眺めているような遊離した感覚を覚えながら、マリエルは声もなく凍りついたように階段の下に立ち尽していた。
「ケイト…」
掠れた声が、血の気を失ったマリエルの唇から漏れた。
彼は、機械仕掛けの人形めいたぎこちない動きで階段を上っていった。
ゆっくりと、一歩一歩、そこに力なく横たわるケイトのもとへと―。