第5章愛でなく(4)
「そんなにたくさんの花、祖母が亡くなってからは、もうこの庭で見ることはないだろうと思っていましたよ」
天気のいい日曜の午前、仕事でもないのにやってきたケイトは、途中で寄ったホームセンターで買ったという花の苗や球根や種をマリエルの家の庭にまた運びこんだ。
「だって、この庭、芝生だけはきれいに刈っていても殺風景だったでしょ。せっかく春になったんだから、もっと華やかにしてもいいじゃない」
はしゃいだ調子でケイトは言って、色とりどりのパンジーやビオラを何も植えられていなかった、がらんとした作業所前の花壇に植えつけていき、母屋の前にはダリアの球根を、玄関前の階段にはプリムラやデージーの鉢を並べていった。
「庭仕事なんて、よくするんですか?」
軍手と帽子を着用して楽しげにスィートピーの種を蒔いているケイトの後ろに立って、マリエルは感心したように尋ねた。
「そういう訳じゃないけど。あたし、今はアパートメント暮らしだもの。でも、マリエルの家にはこんなに広い立派な庭があって、このまま荒れさせておくのももったいないなぁって。それにね、環境が変わったら、気持ちも変わると思うの。マリエルは死んだ人の為にはいっぱい花を飾って綺麗にしてあげるのに、自分の周りのことにはほとんど気持ちを向けないわよね。でも、あたしは、あなたの周りこそもっと花で飾ってあげたいと思う。それを見て綺麗だと思って、いい気持ちになって欲しい」
ケイトの言葉にマリエルは意外そうに瞬きをした。
「私のため…に……?」
「マリエルの部屋から見下ろせるこの場所には、あなたの好きな百合を植えるわね」
ケイトはマリエルを振りかえってにこりと笑いかけると、また手元の作業に戻った。
そんなケイトの後ろに突っ立ったまま、しばらくその作業を興味深げに眺めていたマリエルだが、やがて、ぽつりと言った。
「私も手伝います」
マリエルはケイトの隣にしゃがみこんで、掌にすっぽりおさまる大きな百合の球根を1つ取り上げ、見よう見真似で植付け始めた。
「服が汚れるわよ、マリエル」
「それはあなたも同じでしょう? 服どころか、泥のついた手で触ったんでしょう、顔ももう汚れていますよ」
「えっ、嘘」
とっさにまた顔に手を持っていきそうになるのを、マリエルが押さえた。
「私もあなたも、後で洗えばすむことです。それに、あなたってば、無計画にまたこんなにたくさんの苗や球根を買ってきて…1人でこれを全て植えようと思ったら、今日中には終わりませんよ」
穏やかにケイトをたしなめて、マリエルはスコップでさくさく土を掘り、30cmくらいの間隔で球根を植える作業に没頭し出した。
何だか世にも珍しいものを見る気分で、しばらくケイトはガーデニングをするマリエルの姿に見入ってしまった。
「どうしたんですか?」
「似合わない…ううん、マリエルがこれで日に焼けたりなんかしたら、ルイさんに、一体何をさせたんだって怒られそうだなぁと思って」
そうやって、後は、2人でせっせと庭仕事に精を出した。
ケイトはともかく、マリエルにしては実に珍しくも健康的な休日だ。
遅い目のランチには、マリエルがトマトソースのスパゲッティを用意した。
労働の後の食事は格別おいしいものだ。ケイトはなかなかの食欲を発揮して熱々のスパゲッティを頬張り、マリエルも普段は食の細い彼にしては、よく食べた。その手には辛口のロゼのワイングラス。どんな時でも、アルコールは手離せないらしい。
「ねえ、あの隅っこにある樹、この家の前の砂利道や道路沿いの畑にずっと植えられている樹と同じみたいね。何の樹なの?」
作業所の脇にある大きな樹を指差しながら、ケイトは尋ねる。お腹がくちくなって、すっかり寛いだ様子だ。
「ああ、あれはリンゴの樹ですよ」
これまでの労働のおかげで結構疲れてきた肩を揉み解しながら、マリエルは目を細めるよう、若々しい葉に覆われた樹を見やった。
「後、一月もたてば、そろそろ花が咲き始めるでしょうね。この庭も、リンゴの花の時期だけは少し明るくなります。家から出た道では、一斉に白い花が咲きそろった様がそれは見事なものですよ。風が吹くと花びらが雪のようにひらひらと舞って…。そう、毎年その季節に見られる花だけは、私が子供の頃からずっと変わらない…散っていくリンゴの白い花びらと微かに甘酸っぱい香り…その中を歩いていくのは、元気だった頃の母の姿で…」
「マリエルの大切な思い出なのね」
マリエルは懐かしげな、夢見るような表情を束の間うかべたが、いつものようにそのまま己の思索に捕らわれてしまうことはなく、すぐにケイトに注意を戻した。
「あなたも、もうすぐ見られますよ」
マリエルはにっこりと笑った。ケイトは、その透き通るような美しさに見惚れた。
「そうしたら、一緒に花の下を歩きましょう。私が母と出かけるのはいつも夜だけでした。だから、私のあの花のイメージも夜のものなのですが、あなたが望むなら、昼でもかまわない。この庭から外に出ていき、下の道路沿いにずっと林檎畑まで…私と一緒に、あの白い花が雪のように舞い散る様を見に行きましょうね」
「一緒に…うん…うん…」
ケイトはうっとりと頷いた。
その脳裏には、まるで実際に見たことがあるかのように、満開の花の下を長い髪を揺らしながらゆったりと歩いているマリエルの姿が描かれていた。
ふと足をとめてケイトを振りかえり、優しい微笑みをうかべて、マリエルは手を差し伸べる。本来ならば死者に対してのみ伸ばされる彼の手は、今はケイトを誘っている。夢のようだ。
こんなふうにマリエルと一緒にいられる優しい時間が、ずっと続けばいいのに。
ルイはそれだけで満足することはないなどと急きたてるけれど、今のままでも充分だと、ケイトは思っていた。
ただ、少しでも長く続いてくれたら、それでいい。そう、文字通りの永遠は不可能でも、この一時をできる限り長く引き伸ばしたい。
「ケイト?」
ケイトの顔にうかんだ奇妙な表情に気づいたのだろう、マリエルは訝しげに呼びかけた。
「どうしたんですか? 私は、何か変なことを言いましたか? どうして、いきなり、そんな…泣きだしそうな顔をして…」
ケイトは首を横に振った。
「違うわよ、マリエル。あなたが言ってくれたことが、嬉しかっただけ。マリエルがあたしにそんな風に優しいことが、胸にじんときたの」
ふっと遠い目をして、ケイトは呟いた。
「花が咲くまで1ヶ月かぁ…何だか待ち遠しいわね。花びら洪水の下、歩くあなたを見てみたいな、あたし。それはとても綺麗でしょうね。何だかとても…夢のよう…」
「夢じゃないですよ」
不思議と動揺しつつ、マリエルはケイトに言い聞かせた。
「ひと月後には、あなたは、ちゃんとその目で見ることができますよ」
マリエルの言葉に、ケイトは素直に頷いた。
「そうね」
まるで、マリエルの不安を打ち消すためのような応えだった。
結局庭仕事が片付いたのはぎりぎり日が暮れ始める前で、その頃には、長い時間普段しない姿勢でいたために、脚はがくがくになり、腕も力が入らなくなっていた。
2人は交代でシャワーを浴び、新しい服に着替えると、さっぱりした気分で夕食の席についた。
「念の為、着替えを持って来て正解だったわ」
「あなたにしては、準備がよかったですね」
ほとんど1日中外で働いたことなどマリエルにはあまり心当たりがなかったが、疲れた気はせず、それにいつになく気分がよかった。
「たまには、外で汗を流すことをするのも気持ちいいでしょう」
嬉しげにケイトが言うのに、マリエルも頷いた。
「そうですね。あなたがいなければ、庭仕事なんて自分からは決してしなかったようなことですが、思ったよりも楽しかったですよ。それに、外の空気を吸うのも、案外気持ちがいいものですね」
「そうよ。せっかく、こんな綺麗な郊外に住んでいるのに、たまにしか外に出ないなんて、もったいないわよ」
ローストした子羊がメインの食事を前に、とりとめのないあれやこれやを2人は話し合った。
それから、ケイトはルイからもらったというチケットのことを持ち出した。
ルイの思惑は何となく分かったが、機嫌がよかったマリエルは別に気にならず、珍しい申し出を喜んで受け入れた。ケイトを喜ばせたいという思いもあった。
「よかったぁ」
マリエルがあっさり誘いに応えたのに、ケイトは幸せそうに笑った。
「あなたとデートできるなんて、最高。…あ、恋人としてじゃなくてもね、一緒に出かけられるのが、嬉しい」
「大げさですねぇ」
幾分呆れて、それでも、どこかあまやかな顔でマリエルは言った。
「私などと一緒にいて、そんなに嬉しいものなんですかね」
すると、ケイトは少しも迷わず素直に頷いた。
「とても、幸せ」
うっとりと目を細めた満足そうなケイトの笑顔を、マリエルは不思議そうに見つめていた。
どうして、こんな熱っぽい表情をするのだろう。少しでも目を離すことが惜しいというような、眼差しの強さで捕らえこもうとするかのような、こんな見つめ方をするのだろう。ケイトのひたむきな眼差しに半ば溺れながら、マリエルはふと息苦しいような気持ちにさえなった。
ケイトはマリエルに恋をしているのだと言う。だから、このままでもいいのだと言う。
だが、本当に、このまま何も与えずに、ただもらうだけでいていいものだろうか。もちろん重荷になるというわけではないが、果たして自分は彼女の気持ちに値する存在か。
(私も、こんなふうにケイトを見つめてあげることができれば、いいのだけれど―)
だが、そんなことは不可能だった。死者達の、彼方から呼ぶ声が聞こえる限り、こちら側の世界に生きている誰かを愛することなど、マリエルにはできない。2つの世界に同時に属することが不可能なのと同じくらい無理な話だと、マリエルは思っていた。
だから、この日、夕食が終わってリビングでしばらく寛いでいた時、思いがけず出会った、その光景にマリエルは心を乱された。
ケイトは結局その夜泊まっていくことにした。
2人で暖かい色のルームライトを1つつけ、後はテレビの灯りだけという、影に満ちた部屋の中で長い夜がふけるまで過ごしていたのだ。
疲れが眠気に変わってきたケイトはうとうとし始めたが、そろそろ眠ったらどうかとマリエルが勧めるのにも首を横に振って、起きていたがった。
まるで眠ってしまう時間が惜しいとでもいうかのようだと、マリエルはふと思った。
そうして、マリエルはキッチンに行き、ケイトの為にコーヒーを自分にはブランデーのグラスを手に戻ってきたのだが、見出したのはソファに身を沈めて眠りこんでいるケイトだった。
「ケイト」
だから2階に上がって寝なさいと言ったのにと、思わず微笑を誘われながら、テーブルの上に用意した飲み物を置いて、マリエルはケイトの寝顔を覗き込んだ。
「ケイト、そんな所で眠りこんだら風邪を引きますよ。さあ、上の寝室に行って、ベッドで休みなさい…」
マリエルの言葉は、しかし、最後の方は尻すぼみに弱まって、震えながら消えていった。
マリエルの双眸は、何かしらはっとなったように大きく見開かれた。
(何だろう、この既視感)
ソファの上で眠りこんでいるケイトの僅かにあお向けられた顔は、淡いルームライトの光の作り出す影の部分に沈みこんで、昼間見る溌剌とした彼女の顔とは異なって見えた。
マリエルが話しかけてもケイトは身動ぎ一つせず、呼吸もごく低かったので、ほとんど息をしているようには見えない。
マリエルがじっと見入っているうちに、またしても、どこかで見たことのある、いや、日頃よく知っている光景であるような気がしてきた。
軽い目眩と共に体の芯から突き上げてくる慄きに、マリエルは震えた。
死の影。
マリエルは、思わず両腕で己を抱きしめ、ケイトの眠るソファから一歩退いていた。
しかし、その目は、どうしても離れられないかのように、ケイトのあまり血の気を感じさせない、ひんやりとして見える顔の上にあてられている。
(違う。ケイトは、私の死せる恋人達とは違う。ちゃんと、生きている)
マリエルは頭を激しく振りたてた。思いきったように前に進み出、ケイトのピクリとも動かない頬に手を伸ばした。心臓の鼓動が早くなっていた。
「ケイト…?」
その頬に触れると、血の通った人間の温かく柔らかな感触がした。
マリエルは思わず大きな嘆息を漏らしていた。それから、苦笑した。
(そう、ただの錯覚だ)
半ば自分に言い聞かせるよう、マリエルは呟いた。
「ん…?」
己の顔に確かめるように触れる、ひんやりとした手の感触に、ケイトは一瞬顔をしかめて、何やら寝言を言った後、やっと目を覚ました。
「あ、あたし、寝ちゃったんだ…マ、マリエル…?!」
ソファの上から眠そうに目をこすりながら起き上がったケイトは、マリエルが切迫した顔で己をじっと見下ろしていることに気づき、息を飲んだ。
「ど、どうしたの?」
マリエルは、胸に渦巻いて消えてくれない不安感に押し出されるような声で囁いた。
「あなたは、彼らとは違う。どこにも、行きはしない」
ケイトは驚いて小さな悲鳴をあげた。
いきなり、マリエルがケイトを引き寄せて抱きしめたからだ。
「マリエル…?」
動揺しながらも、ケイトは優しく問いかけてきた。
「ね、一体どうしたのかしら…? あたし、何かあなたを不安にさせるようなこと、した?」
マリエルは、ケイトの華奢な体を守ろうとするかのごとく腕の中に囲い込みながら、彼女に肩越しに窓の外の暗闇を睨み据えていた。まるで、そこに潜む恐ろしい影を追い払おうとするかのごとく。
「何でもありません」と、マリエルは言った。
ケイトの手が、なだめるようにマリエルの頭を撫でた。
「何でも…なかったんです」
マリエルは唇を震わせ、黙り込んだ。
不吉な啓示を垣間見てしまった人のように青ざめて、マリエルは祈るような心地でケイトの肩にそっと額を押し当て、目を閉じた。