第5章愛でなく(3)
ルイの、何やら意味ありげな微笑をうかべた顔を見た途端、ケイトは、事務所に呼び出された用件が何なのか、ピンときた。
案の定、それはマリエルとの関係のことだった。数日前に2人がただならぬ雰囲気にあるのを見て、ルイはなるほどそういうことなのかと分かったのだと言う。
「そ、そういうことって、何…?」
ケイトは幾分顔を赤くし困惑しながら問い返したが、ルイは意味ありげな訳知り顔で頷くばかり。
「ああ、もう、隠さなくっても分かってるんですから」
「ル、ルイさん、あなたってば何か誤解してる…」
ケイトは半ばむきになって否定しかかるが、ルイは聞く耳を持とうとさえしない。もともと思い込みの激しい性格なのだろうか。
「あ、別にあなた方の恋愛に反対しているわけじゃないんですよ。むしろ大いに賛成して、応援しているんです」
「恋愛」
ケイトは息を飲んだ。
確かにケイトはマリエルに恋をしている。マリエルも彼女のことを好きだと言ってくれた。だが、やはり、それは恋愛と呼ぶにはあまりにも淡く他愛のないものだ。
こんなふうに他人から恋人などと決め付けられると、妙に気恥ずかしい。
真っ赤な顔で黙り込んでしまったケイトを、上機嫌のままのルイは来客用の大きなソファに坐らせると、手ずからコーヒーやクッキーなど持ってきてくれた。
「いえね、正直言って、まだ信じられないんですよ。あの方が、まさか生きている人に興味を持つなんて、いまだかつてなかった驚天動地の出来事で…」
「そ、そう…?」
「マリエルが関心を持つのは、いつも死者ばかりでした。死を扱うプロとして、仕事に没頭するのはいいんですが、人間的な生活というには、あまりにも味気もなければ寒々しいもので、わたしはいつも、何か奇跡でも起こって、あの方が普通の人のような生活をする気になってくれないものかと願っていたんです。無理強いできるものではないのは分かっていましたから、私も、そんなに強くあの方に生活を改めろなどと言ったことはありませんが、あのまま一生を孤独に、一度も人間らしく生きたことのないまま送るのでは、あまりにも不幸です。マリエルはまだ若く、才能もあり、それにまあ確かにめったにいないほどの美形すし…もっと人生の喜びや楽しみを知ってもらいたいんです。だから、あなたとの恋愛というのは、まさにわたしが待ち望んでいたような奇跡でして…」
ルイはコーヒーを一口飲んで息をつくと、再び熱のこもった口調で話し出した。
「そう、昔、あなたの叔父さんのドクター・ジョーンズと交際しているらしいと知った時も、わたしは、この際、同性だろうと構わないと思ったものでした。それが、今度はあなたのような、いい娘さんが相手となれば、わたしには反対する理由などありません。むしろ、大歓迎です。まあ、実際、本当にあんな変わり者でいいんですかとあなたに対しては気遣いたくはなりますがね。そう、あなたのような健康的で明るい人と付き合うことで、マリエルが死者で一杯なこの世の墓場のようなあの場所から這い出てきて、少しでも他の世界に目を向けて欲しい。なんぼなんでも、あの根暗の性格が180度変わるとは思いませんし、いきなり人付き合いがよくなって、ディスコやパーティーに行きまくり、あるいは健康的にスポーツなんぞを始めて日に焼けてにっこりさわやかに笑ったり…ううっ、自分で言ってぞっとしましたよ―そんな別人なみたいなマリエルを望むわけじゃないんです。ただ、人並みに好きな人と街を歩いたり、夜遊びをしたり、何でもいいから、とにかく世間並みの幸せを掴んで欲しいんです」
ルイはふいに何か熱いものが込み上げて来たらしく、デスクの上からティッシュの箱を取り目許を拭った。そして、再びソファに戻って来ると、やにわに、ケイトの手を両手で強く握り締めた。
「どうかマリエルのことをお願いします、ケイト。あの方が社会復帰できるかどうかは、あなたにかかっているんですよ」
社会復帰とはまた大げさな。だが、ルイは真剣そのものだ。
時々事務所の人間がルイはマリエルに対してちょっと怪しいなどと噂をしていることがあるが、これでは誤解されても無理はない。
さすがに呆気に取られてしばし返す言葉も見つからなかったケイトだが、やがて、しみじみと感じ入ったように言った。
「ルイさんって、本当にマリエルのこと大事にしているのね」
すると、ルイは照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「ええ、ポールなんかにもよくからかわれるんですが、これはわたしの病気みたいなものですね。本当に、マリエルに構いすぎるあまりに、もしかしたら婚期を逃すんじゃなかろうかと思うこともありますよ」
ルイはふと神妙な面持ちになってしゃれにならないとひとりごちた後、苦笑しながら頭を振った。
「何ていうのか、どうもわたしはあの方に尽くすよう、すりこまれているみたいなんですよ。祖父も父もずっと前社長、つまりマリエルの祖父にお世話になっていましたし、わたしは小さい頃から『かわいそうな坊ちゃま』を大事にして守ってあげるようにと祖父から言い聞かされてきて…友人とも家族とも違うんですが、大切な人なんです。マリエルの我が侭も、だから、つい甘い顔をしてきいてしまう訳で…けれど、わたしにはマリエルを救ってあげることはできない。せいぜい生活能力皆無のあの方が路頭に迷わないように、社をしっかり切り盛りするくらいしか…」
「マリエルは、ルイさんの気持ちをちゃんと分かっていると思うわよ」
「もちろん、そうでしょうとも。分かっているから、あんな我が侭を言うんです。結局、甘えてるんですよね」
困ったものだというように肩をすくめるルイに、ケイトは笑った。それから、思い出したように真面目な顔になった。
「あ、でもね、本当に、あたし達、別にルイさんが思っているような付き合いじゃないのよ」
「何ですって?」
ルイは、訝しげに眉を寄せた。
「あたしはマリエルが好きだけれど、あの人は、そんな目ではあたしのこと見れないみたい。でも、あたしは、それでいいの。傍にいてもいいって、マリエルは言ってくれたから…」
ケイトの屈託のない顔をルイはまじまじと凝視したかと思うと、いきなり声を張り上げた。
「今時の若い女の子が何を弱気なことを言ってるんですか!」
「ル、ルイさん…?」
ルイはケイトの言葉を途中で遮り、半ば椅子から腰をうかせて、じれったげに叫んだ。
「もっと積極的になりなさい、ケイト。好きな人の傍にただいるだけで満足なんて、はやらないですよ。とにかく、マリエルがあなたに好意を抱いていること確かなんですから、後は、ひたすら押しまくるんですよ。マリエルだって木石じゃないんですから、あなたのような可愛い人に好きだと言ってもらって情が移らないはずがありません。とにかく、あなたには、がんばってもらわなければならないんです」
ルイははたとなったように手を打つと、デスクに戻って引出しの中から何やら取りだした。
「ライブのチケットです」
ケイトは、ルイの思いもよらない熱心さと強引さに圧倒され、拒否できない気分で、胸の前に突き出された白い封筒をおっかなびっくり受け取った。
「ライブ…?」
ケイトは首をかしげ、おずおずと問い返した。
「わたしもよくは知らないんですが、結構人気のあるグループなんだそうです。プレミアもののチケットですが、あなた方の為に知人を通して入手しておきました。Nアベニューにある、ええっと…何とかの洞穴っていう名前の大きなクラブだそうですが、分かりますか?」
「ほら穴…『レッド・ケイブ』のことかしら」
「ああ、そうですよ、確か。まあ、そのチケットに名前は書いているでしょうから、後で確かめておいてください」
「つまり、マリエルと一緒にそのライブに行ってこいってこと?」
「ええ、デートに誘う、いい口実になるでしょう?『友達からもらったライブのチケットが丁度2枚あるんだけれど、一緒に行かない?』って、誘えばいいんですよ」
ルイは名案だろうとばかりに得意げにウィンクをしてみせた。
「至れり尽せり…ねぇ」
ケイトは、チケットの入った封筒を、神妙な面持ちで睨みつけた。
「でも…そうね、ルイさんの言うとおり、これって、いい口実よね。せっかくだから、マリエルをデートに誘ってみるわ」
「また、何か困ったことがあれば、いつでも遠慮せずに言って下さい。わたしもマリエルとの付き合いだけは長いですから、彼に関することなら何なりと相談にのりますよ」
神父のような理解と愛情に満ちた顔で両手を広げてみせるルイに、ケイトはちょっと困ったようなあいまいな笑顔を向けた。
「え、ええ…」
自分達の関係は恋愛未満だと言っているのに、ルイは一向に意に介さない。
(ルイさんって、マリエルのことが好きなあまりに盲目になっている親馬鹿みたいね)
その点ルイは困った人だと思ったが、それでも、マリエルに対する彼の真摯な愛情は充分伝わって来て、初めは戸惑っていたケイトだが、次第に微笑ましい気分になってきた。
それに、肉親とは縁が薄く友人にも恵まれずずっと孤独だったというマリエルだが、少なくともここに1人は彼のことを誠実に考えてくれる人がいるのだと思うと、ケイトも安心できた。
「ありがとう、ルイさん」
「え?」
「マリエルのことを愛してくれて。あたしなんかよりもずっとあなたの方がマリエルにとっては必要な人だと思うわ。そう、これから先何があっても、あなたがいれば、きっと彼は大丈夫ね」
ケイトが真顔になって感謝の言葉を述べると、ルイは不意を突かれたように瞬きし、それからちょっと照れたような顔になった。
「あ、ああ…いや、別にそんな礼なんていいんですよ…はは…どうしたんです、ケイト、いきなりそんなことを真面目に言われると戸惑うじゃないですか」
指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら照れ隠しのようなことをごにょごにょと言っているルイから眼差しを逸らせ、持ち上げたコーヒー・カップの中を覗き込むと、そこにぼんやりと映る影に向かって、ケイトは密かにごめんなさいと呟いた。