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この世の果て  作者: 葉月香
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第5章愛でなく(2)

 その朝、事務所にかかってきたとんでもない電話に、ルイは朝っぱらから血圧が急上昇するような気分で声を張り上げていた。

「仕事をしたくないだなんて、一体どうしたっていうんです、マリエル?」

 マリエルの我が侭はしょっちゅうだが、それは自分の納得のいく仕事をしたいがためのこだわりからくるもので、決して気まぐれやその日の気分で仕事をしたりしなかったりということはなかった。

 それが、一体どうしたことか、この日に限って予定されていた仕事をいきなりキャンセルだなどと言い出したものだから、ルイは相当面くらい、戸惑いもすれば弱り果ててもいた。

 エンバーマーの手は依然として不足していたし、この日の仕事も腕が立つと評判のマリエルをわざわざ希望してきたものだったのだ。

 体の調子が悪いのかというと、そうでもない。電話では埒があかないので、ルイはわざわざ マリエルの自宅までやってきて、理由を問いただすことにした。

 しかし、顔をつき合わせて話し合っても、マリエルは、理由などないのだ、ただ今はいつもと同じ熱意を持って仕事をすることができそうにないから、そんな中途半端な仕事をするくらいなら初めから手をつけない方がましだから、断るのだとの一点張り。それでは会社の信用に関わると泣きつくルイの懇願に耳を傾ける気配すらない。

 普通単なる従業員ならばこんな勝手を通せば即解雇となってもおかしくないが、名目上とはいえマリエルは経営者だ。それにルイはいつも何となく彼に対しては頭が上がらなかった。

「そんなことを言ったって、ご遺体はもう病院からここに向かって搬送されているところなんですよ。それを、この御に及んでできないと言って突っ返すだなんて、遺族の方々に対してあまりに失礼じゃないですか。あなただってプロなんですから、一度引き受けた仕事は死んでも投げ出したりするべきじゃありませんよ!」

「死んだら、仕事なんてそもそもできませんよ」

 むっつりと言い返すマリエルに、初めは下手に出ていたルイも、さすがに切れそうになった。

「あ、あ、そんなことを憎たらしいことを言う! 我が侭も大概にして下さいよ、マリエル。あなたの気ままな仕事ぶりのおかげで、わたしがいつもどれだけ苦労していると思っているんですか。いくら腕が立つからって、そんな手前勝手なやりようで、1人で仕事が取れるなんて思ったら大間違いですからね。わたしが事務的な仕事を一切合財引き受けているからこそ、我が社は成り立っているんですよ。そのことを忘れてないで下さい」

「私に愛想が尽きたのなら、さっさと見捨てたらいいじゃないですか。あなたに面倒をみて欲しいなんて、私は一度も頼んだ覚えはありませんよ」

 素っ気無くそう言うマリエルにルイは憤激しそうになったが、その時、マリエルが重い溜め息をついて、やるせなさそうな眼差しをリビングの何もない空間にさ迷わせるのを見て、気を変えた。

「マリエル、真面目な話、一体何があったんです? 大好きなはずの仕事にやる気を覚えないなんて、ただ事じゃないですよ。仕事だけが取り柄のあなたなのに、それまでなくしてしまったら、あなたが取り扱っている死人と何ら変わりなくなってしまうじゃないですか」

 マリエルは眉根を僅かに寄せて、不快そうにルイを睨みつけた。しかし、すぐに興味をなくして、再びあの得体の知れない虚脱状態に陥ってしまった。

 ルイは、本気で気味が悪くもなれば、心配にもなった。

 ただでさえ死人のようだと言われているマリエルなのに、仕事に対する情熱まで燃え尽きてしまったら、それこそ社会的には廃人のようなものではないか。

「マリエル…」

 何かしら呆けたようなマリエルの白い横顔を探るように見つめながら、ルイはもう一度、恐々声をかけた。だが、マリエルの様子を見る限り、冷静に考えてもこれは仕事など無理だと考えて、思い切ることにした。

「分かりました。今日の仕事については、代わりのエンバーマーを急遽探してあたらせることにします。あなたの仕事に期待を寄せてくださった先方には申し訳ありませんが、急病にかかったということで納得してもらいます。それで、よろしいですね?」

 最後に念を押してみたが、マリエルはよきにはからえとでもいうように興味なげに手をひらひらさせるばかり、ルイはついに諦めた。

(これは、もしかしたら…鬱病にでもかかったのかもしれない。もともと、そういう気はある人だし…これ以上悪くなる前に、専門のカウンセラーにかからせるべきだろうか。それにしても、はあ…頭が痛い)

 そんなことを思いながら、ルイが事務所に連絡をいれるため懐から携帯電話を取り出した時、この家の下を走る道路から車が近づいてくる音がした。

「おや、まさか、もうご遺体がここに到着してしまったわけじゃないでしょうね?」

 幾分慌てたルイはソファから立ち上がり、窓から外を見てみた。

「ああ、何だ、ケイトですよ。今日は事務所に寄らずに直接ここに来たんですね。もっとも今日の仕事はキャンセルだから、せっかく来てもらっても無駄足になってしまいますがね」

 それまで打ち萎れたようにソファの背にもたれかかっていたマリエルが、いきなりすっくと起き上がったのに、ルイは怯んだように身がまえた。

「ケイトが…? まさか…」

 呆然と呟き、マリエルは窓に駆けよって、そこにいたルイを押しのけるようにして外を見た。

 すると、確かにマリエルの視線の先に、白い車から降りてくるケイトの姿があった。

 マリエルは驚愕に目を見開いて、ケイトがキイをくるくると振り回しながら軽い足取りで家に近づいてくるのを追っていた。

「信じられない」

 うめくように呟いて、マリエルは窓から身を翻し、そのままリビングを飛び出して、玄関へと向かった。

「マ、マリエル?!」

 呆気に取られて、マリエルの奇妙な行動を見守っていたルイも、少し遅れて後に続く。

 玄関の扉が開けられるのを見て、マリエルはいきなり怖気づいたかのように立ち止まった。

 おかげで、ルイは危うくその背中にぶつかりそうになった。

「い、いきなり立ち止まらないでくださいよ。危ないじゃないですか、マリエル」

 ルイはマリエルの横に立って彼の顔を覗き込んだ。途端に息を飲んだ。

 マリエルとの付き合いは誰よりも長いルイも、彼のこんな顔を見たことはなかった。

 人間らしい感情などほとんど顕にしたことのないマリエルが、今、胸の奥底から突き上げてくる激しい思いに頬を僅かに紅潮させている。いつも茫洋と視点の定まらない物憂げな瞳は狂おしげに輝き、扉を開いて中に入ってきた少女をひたと見つめている。

「どうして」

 マリエルのあまり色味のない唇が震えながら開かれるのを、ルイは固唾を飲んで見守っていた。

「どうして、戻ってきたんですか、ケイト…?」

 当のケイトは、扉を開けた所でいきなり神妙な面持ちのマリエルとルイの2人に出迎えられて、一瞬たじろいだようだ。

 ケイトはちらっとルイの顔を見、それからマリエルに向けて屈託なく笑いかけた。

「どうしてって? 今日は仕事が入っている日だもの。この間のようにまた無断欠勤なんかしたら、今度こそ、この仕事をなくしちゃう。それだけは、あたし、嫌だから」

 マリエルはふいに目眩でも覚えたかのように、震える手で額を押さえた。

「あ、もしかして、心配させたのかしら。あたしが二度と戻ってこないと思った?」

 マリエルは耐えかねたかのように胸を押さえて息をした。ケイトを出迎えた一瞬紅潮していた頬は、今度は色をなくして、紙のように白くなっている。

「マリエルこそ、大丈夫?」

 今にもその場にへなへなと崩れ落ちてしまいそうなマリエルを本気で心配したように、ケイトは彼の傍に歩みよって顔を覗き込んだ。

「え…ええ……ただ…少し驚いただけです…」

 ケイトの大きな黒い瞳を覗き込んで、マリエルは慄いたように震え、僅かによろめいた。その手を、とっさにケイトの手が捕まえた。

「ねえ、本当に大丈夫? 仕事はちゃんとできそう?」

 マリエルが答える前に、彼の傍らに立ち尽していたルイが口を開いた。

「それが、今日の仕事はキャンセルしたいなんて、今朝になっていきなり言い出したんですよ。理由を聞いても、何でもないただやる気にならないからと言うばかりで…」

「本当?」

 ケイトにびっくりしたように尋ねられて、マリエルは小さく舌打ちをした。

「マリエルの調子が悪いのなら仕方がないけれど…それじゃあ、あたしの今日の仕事もなくなっちゃった訳よね。何だ、残念」

 マリエルはケイトの手を軽く握りしめた。

「帰るんですか?」

 ケイトの顔を見下ろして彼は不安そうに囁いた。

「そうね…ここにはいたいけれど、仕事もなしに、ただあなたの邪魔をするだけっていうのも、何だか気が引けるから」

 マリエルは何か言いたげに唇を震わせた。ケイトの無邪気そうな笑顔にあてられた、彼の青い瞳は忙しなく動いている。

 やがて、マリエルは諦めたように肩で息をつき、彼らの傍で何となく所在なげなルイを振り返った。

「ルイ」

「は、はい?」

「今日の仕事…キャンセルする必要はありませんよ。やります」

 ルイは目をぱちくりさせた。

「え、で、でも…一体、どうして、急に気を変えられたんです? そりゃ、あなたがやる気を取り戻してくださったのはありがたいですが、ケイトの顔を見るなり気持ちが変わったなんて…」

 ルイは当惑しつつ、マリエルとケイトの顔を見比べた。さっと目配せしあう2人の間には何やら暗黙の了解めいたものが感じられた。

「あ、さては、ケイト…あなたがマリエルの機嫌を損ねるようなへまを何かやらかしたんですか…?」

 はたとなって、質問の矛先をケイトに向けるルイだったが、マリエルにいきなり足を踏まれ、ううっと呻いて黙りこんだ。

 顔を上げると、底光りのする青い目が、何も言うなとルイを鋭く睨みつけている。

「わ、分かりました。それでは、予定通り、ご遺体はここに運ばせます。本当によろしいんですね?」

 じんじん痛む足に顔をしかめながら、ルイは念を押したが、マリエルはもはや彼に全く注意を払っていなかった。

 マリエルは少しでも目を離すとケイトがいなくなってしまうのではないかと疑っているかのように、彼女の顔ばかり見ている。

(あ…ああっと…もしかして、これは…?)

 ここに至ってやっと2人の間に流れる親密な空気に、ルイは気づいた。喫驚のあまり息を飲み、見つめ合う2人をしげしげと眺めた後、こほんと咳払いをした。

「あ…間もなく搬送の車がつくはずです。それでは、わたしはこれで失礼しますので、後のことはよろしくお願いします」

 控えめに付け加えると、ルイはそっとその場を離れ、ケイトの脇を通って外へ出ていった。

 そして、玄関には、お互いの存在を確認しあうかのようにひたむきに相手の顔に見入っている、2人だけが残された。

「どうして?」

 マリエルは、からからに渇いた喉から搾り出すような掠れた声で尋ねた。

「ここに戻って来たんです? 私は、もう二度とあなたに会うことはないだろうと思って、諦めていました」

「会わない方がよかった…?」

「いいえ…」

 マリエルは首を横に振った。数瞬の間言葉を切って考えこんだ後、率直にこう言った。

「いいえ。あんなふうにあなたが帰ってしまったことは、思いの他、私にはこたえましたよ。ただ、あなたの方がきっと私の顔など二度と見たくないのではないかと考えていたものですから…あなたにとっては、やはり夕べのことはショックだったと思いますし、たぶん、私のことを見そこなったと…」

「もちろん、ショックだったわよ」

 ケイトも正直に言った。

「でも、あたし、案外諦めは悪い方だったみたい。昨夜は、あれ以上あなたの傍にいることはできなくて帰ってしまったけれど、家に帰ってずっと考えこんで、そして、すごく後悔した。あのまま二度と会えなくなるのだけは嫌だと思って、あたしが知ってしまったことさえも、取りあえず思いきることにして、ここに来たのよ」

「ケイト」

「だって、やっぱり、あたし、あなたのことが好きだし…そう思える人にやっと出会ったのに、これきりだなんて、嫌。会うことを躊躇っているうちに会えない時間は過ぎていってしまう、それって、すごくもったいないことよ。第一、あたしには、もうあまり時間的な余裕ってないし」

「え?」

 ケイトは何も言わずに、マリエルを、僅かに見開いた、その黒い大きな瞳で見つめた。

 マリエルはふと、ケイトの瞳に吸いこまれそうな錯覚を覚えた。

 時折不思議に思うのは、いつも陽光のように明るいケイトの黒く輝く瞳に覗く、不可思議なこの影。マリエルにとっては、どこかで見たことのある、よく知ったものであるような気もする、抗いがたい力の存在だった。

「…大学のね、勉強がもうすぐ忙しくなるのよ」

 ケイトはマリエルに見つめられていることが心地よいとでもいうかのように、うっすらと笑ったまま目を瞑った。 

「実習とかもたくさん入ってて、そうなると、今までのようにそうしょっちゅうここには来られなくなるから」

「そう…」

 マリエルは何かしら釈然としないものを覚えたのだが、それが何なのか分からなかった。

 ふいに、ケイトが熱のこもった口調でマリエルに語りかけた。

「だから、こうやってあなたに会えるうちは、たくさん会っておきたいの。今まで通り、あなたの傍で仕事をしたいっていうのが、あたしの正直な気持ち。あなたは変わらなくてもいい。あたしは、あなたのすることにもう口だしなんかしない。あなたがそれを必要だと言うのなら…」

「ケイト…」

「気にならないわけじゃないけれど」

 ケイトは可愛らしい顔をちょっとしかめてみせた。

「誰かと結婚している人を好きになったんだと、自分に言い聞かせることにするわ。ねえ、マリエルは…その…どう思っているの…? あたしが傍にいるのは、もう嫌…? 秘密を知っているあたしが傍にいたら居心地悪いかしら…? それに、あなたのことを好きだなんで勢いに任せて言ってしまったし…もちろん、あんなふうな、あなたを困らせることは…あなたが好きだなんてもう二度と言わないから…それでも、駄目?」

 マリエルは呆然となって、ケイトの熱心な囁きに聞き入っていた。

「マリエル…」

 ケイトが尚も言い募ろうとするのを、マリエルは手を上げて制した。

「すいません、ちょっと混乱して…」

 ケイトの不安げな眼差しを避けるように、マリエルは閉ざされた玄関の扉を見るともなく見つめながら、しばし考えを巡らせていた。

「あなたは、自分の言っていることが分かっているんですか?」

 ようやく、マリエルは口を開いた。

「もちろん、分かっているわよ。あなたが好きだから傍にいたいって、言っているのよ」

「私が何をしているか…知ったのでしょう? なのに、どうして、それを許して再び戻ってこようという気になどなれるのです? 信じられない、そんなことができる人など、いるはずがない」

「いるじゃない、ここに」

 ケイトは笑いながら、己を指し示した。

 マリエルは両手で頭を抱えた。

「私のことが好きだと言いましたね。でも、私は…あなたに何もしてあげられないんですよ? あなたの叔父さんとのことは話しましたよね。私には普通の恋なんて、そもそもできないんです」

 マリエルは呻くように言った。

「冷静になりなさい、ケイト。何もよりによって私でなくても、あなたにふさわしい相手がいるはずです。あなたの大学のクラスメートでも探せば、きっと素敵な男の子が見つかるでしょう。少なくとも私よりはましでまともな男は世の中に五万といるはずです」

「でも、マリエルほど個性的な男の子って、絶対いないわよ」

「私は…あなたよりずっと年上です。仕事とワインくらいしか趣味のない、つまらない人間です。あなたを楽しませるような遊び方も知らなければ、気の効いた冗談を言って笑わせることも、私にはできません」

「冗談を言うマリエルって、ちょっと見てみたい気はするわね」

 想像したらしい、ケイトがくすくす笑い出すのを、マリエルは途方に暮れたように見守った。

「ね、そんなことじゃなくて、あたしが知りたいのはマリエルの気持ちなんだけれどな」

 ケイトは幾分不満げに唇を尖らせた。

「それに、あたしは別にあなたの恋人にしてなんて頼んでいる訳じゃないのよ。あたし、あなたと一緒にいる時間が好き。あなたのすごい仕事ぶりを見て、あなたが知っている不思議な世界の話を聞いていたい…」

「ケイト…あなたという人は…本当に…信じられない…」

 マリエルはついに降参したかのように、がくりと肩を落とした。

「夕べ、あなたが帰った後…」

 しばし沈黙した後、マリエルは低い声で囁いた。

「私はずっとあなたのことを考えていました。あなたに二度と会えないかと思うと胸が締め付けられるように苦しくて、仕方のないことだと自分に言い聞かせても一向にその痛みはおさまらず…それが、とても不思議でした。私は、誰とも親しい人間関係を築けたことはなかったんです。肉親とも早くに死別するかうまくいかなくて別居状態でしたし、友人もいませんでした。一時親しくなった人とも何らかの事情ですぐに別れて、でも、それは仕方のないことだといつも受け入れ、すぐに忘れました。誰かのことを思って泣けてきそうになるとか、もう会うことはないのだと絶望的な気分になることもなかった。それが、あなたのことはとても辛くて、朝までずっとリビングのソファで悶々と思い悩んでいたんです。その間少しうとうとしたこともありました…すると、夢の中でまであなたの顔を思い出されて、また目が覚めて…。本当に我ながら不思議でした。死んだ人の夢ならよく見るのですが、生きている人で夢の中まで慕わしく思い出されたというのは、たぶんあなたが初めてだったからです」

 ケイトがマリエルの言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。

 彼女はきょとんとした顔で、照れくさそうに俯いているマリエルを眺めた。

「マリエル…」

 今度はケイトが頬を赤らめ、絶句する番だった。

 急におとなしくなってしまったケイトをマリエルは見、手を伸ばして、ほんのりピンク色に染まった彼女の頬を両手で優しくはさんだ。

「死者に対する恋とはたぶん違うのでしょうが…私は、あなたのことが好きですよ、ケイト。それに、あなたの言うとおり、あの人達は決して私のもとに留まってはくれません、私はいつも1人です。あなたに対しては半ば強がりで平気だなどと言ったけれど、本当は少し…寂しい…。あなたは私のもとにいてくれますか? ずっとなんて無理は言いません…せめて、あなたがそうしたいと思ってくれる間だけ…」

 思いも寄らないマリエルの言葉が心に染み渡ったのだろう、ケイトの黒い瞳がふいに潤んだ。

「ええ…」

 ケイトは頬に添えられたマリエルの手にそっと指を絡め、うわごとのように囁いた。

「あなたと一緒にいさせて、ずっと…あたしが…ううん、あなたがそうしてもいいと思ってくれる限り、永遠に…」

 永遠?

 マリエルは、ケイトの感じやすそうな大きな目から零れ落ちた涙を指先でそっと受けとめた。

「ケイト…?」

 何故そんなふうに哀しげに泣くのかとマリエルはケイトに問いかけようとしたのだが、その時、外に車の音がした。

 例の遺体が到着したのだろう。

「思ったよりも、早く着きましたね」

 マリエルはケイトから身を離した。

 さりげなく胸の上に手を置き、マリエルは我にもあらず高鳴った心臓の鼓動を静めようと試みた。

「仕事ですよ、ケイト。大丈夫ですか?」

 ケイトは手の甲で目の辺りをごしごしこすり、顔をあげて、大丈夫だというようににっこり笑ってみせた。

「平気よ、マリエル。ああ、でも、あなたとこうやってまた一緒に仕事ができるなんて、あたし、すごく嬉しい…」

 そう語ったケイトの、目の縁に涙の残った、どこか切なげな笑顔の意味を、マリエルはこの時問い詰めるべきだったのかもしれない。

 だが、何故か追及することが怖くなって、マリエルは黙り込んでしまった。

 再び会うことはあるまいと諦めていた、ケイトが戻って来てくれた。

 そのことが嬉しくてたまらないはずなのに、何故か、いわく言い難い不安な胸騒ぎがマリエルの胸に去来していた。

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